15 花と暗闇
一応、と言えばいいのか。マリーにはマリーの思惑がそれなりにあるようだ。
彼女がザクセンハウゼン強制収容所に収監されているヤーコフ・ジュガシヴィリに接触していた理由は不明だが、少なくともその行動に秘密主義的なものは感じられない。
秘密にしたいのであれば、公然と補佐官を伴って行動するということはないだろうし、なによりも情報の扱いにはもっと慎重になるはずだった。
大概の場合、マリーは特に情報の流出に対して気を配っている様子もなく、その行動はいたっておおらかだ。
「内容はわからんな」
ヴェルナー・ベスト親衛隊中将はそう言うと、国外諜報局長の執務机に座っているシェレンベルクを見やった。
「書類上のことや、彼女の行動については把握しているが、マリーが口にしないことまでは知りようもない」
ふわふわとした印象はともかくとして、マリーは意外に思えるほど頑固な一面を持っていた。
マリーがなにを考えているのか。
自分以外の他人がなにを考えているのかなど、理解できることではない。
明るく警戒心が足りないのかと思えば、時にマリーはひどく思慮深い眼差しを放っている。
彼女はいつもそうだ。
どこか底の知れない一面を有している。
性格は天真爛漫で、彼女の笑顔は見ている者に穏やかな安堵感を与えるが、反して理解不能の側面を持っていた。
マリーは普通の人間とは全く反応が異なっていた。彼女のそれはまともな人間が理解できるようなそれではない。
「内容がわからない、というのはどういうことですか?」
シェレンベルクの問いかけにベストはじっと片目を細めた。
「会話は全てロシア語で行われたからな」
つまりそういうことだ。
ベストの説明にシェレンベルクは「なるほど」と相づちを打ってから言葉を続ける。
「しかし意外ですね」
「全くだ」
なにが意外なのか、シェレンベルクの意図をベストは正確に読み取って口元を手で触れると睫毛を揺らした。
「ロシア語も話せたとはな」
淡々としたベストの声音を聞きながら、若い国外諜報局長はじっと沈黙する。
現在、強制収容所と外務省に関する捜査に国家保安本部は総力を結集していた。国外諜報局長であるシェレンベルクは余り関係のない話でもあるのだが、余りにも捜査が長引くと国家保安本部の業務――要するにシェレンベルク自身の業務――にも支障が出てくるというものだ。なによりも強制収容所に関係する捜査は多岐にわたりすぎており、シェレンベルクの指揮下にあるマリーの特別保安諜報部もその情報分析に駆り出されている。
要するに捜査の難航はシェレンベルクの指揮する諜報活動にも大きな問題が生じてくるというものだ。
「あの子は思った以上に頭の回転が早いのかもしれんな」
ぽつりと言ったベストにシェレンベルクが口元だけで微笑してみせた。
「そうでもないと思いますが……」
「マリーは休暇中だから、”そんなこと”はどうでも良いが、親衛隊長官閣下がああいった決定をするとは驚いたな」
自分の所属する部署の部長を「そんなこと」と一蹴したベストは、シェレンベルクから差しだされたファイルを受け取りながら、無表情でページをめくる。
タイプライターで打たれた文字を見つめながらベストは数秒沈黙した。
強制収容所でなにが行われているのか。それを完全には把握していないが、それでもある程度の想像がついた。
なによりもベスト当時の人事局長であり、ラインハルト・ハイドリヒの副官を務めていた。そんな地位にあったわけだからハイドリヒが生前に強制収容所総監を務めたテオドール・アイケと争っていたことも知っている。
それらの事情からヴェルナー・ベストは強制収容所でどんなことが行われているのか、間接的に知っていたのだ。
そんな事情から簡単に想像がついた事情に、不愉快そうに眉をひそめてファイルに視線を落としているベストはフンと鼻を鳴らしてから顔を上げると、ヴァルター・シェレンベルクを流し見る。
「それで、シェレンベルク上級大佐。貴官は随分と”多忙”だったようだが、日本大使館は期待できそうなのか?」
「まぁ、それなりには」
「しかし貴官がゲシュタポに協力してやるとはどういう風の吹き回しだ?」
揶揄するようなベストにシェレンベルクは穏やかにほほえんでから、唇の端に笑みをたたえてからデスクの上で両手を組み合わせて身を乗り出した。
前世代の頭の固い法律家。
それがシェレンベルクのベストに対する評価ではあったが、それでも尚、彼が優秀な法律家であるという現実には変わりない。
ベストやヨスト、そしてメールホルンらは同様にハイドリヒに左遷された過去があるとは言え、国家保安本部のみならずドイツを支える知識人であるということは紛れもない事実だった。
親衛隊上層部の都合であるとは言え、そんな優秀な彼らを左遷させたままで終わらせるには人材の損失だ。シェレンベルクはそう考えていた。そういったシェレンベルクですらもどうすることもできない現実にマリーがひとりだ立ち向かったのだと思うと、それはそれで賞賛すべきことである。
「彼女は大したものですね」
感心したようなヴァルター・シェレンベルクに、無言で目を上げたベストに「いえ」と笑ってみせた。
シェレンベルクという男は、もしかしたらミュラーの率いるゲシュタポに恩を売ったのではないのだろうか、とベストは推測した。
「まぁ、いずれにしても手を回しておくことに越したことはありませんので」
「……――日本の連中は随分と昔からポーランドとつながりがある。確かにそれを利用しない手はないな」
報告書では「協力」とあるが、それは言葉の綾であって、どうせシェレンベルクのことだから、相手の弱みにつけ込んで恫喝でもしたのだろう。
ラインハルト・ハイドリヒの右腕と呼ばれたシェレンベルクは、そうした法律家とは思えないようなギャング的な素質を時に見せつけることがままった。そうした性質をシェレンベルクが持っていなければ、涼しげな顔のままでハイドリヒに従うことなどできるわけもない。
「ベスト中将は勘ぐりすぎではありませんか?」
「フン」
皮肉げなシェレンベルクに対してひどく不愉快そうな視線を放った彼は、ファイルを小脇に挟むと腕時計を見やる。
「まぁ、貴官がどう動こうがわたしの知った事ではないが、命取りにならない程度にすることだな」
「お互い様です、中将」
「なるほど」
SDである以上同じだと言外に告げるシェレンベルクに、ベストは鼻白んだ様子で形式的な敬礼をすると、国外諜報局長の執務室を出て行った。
どうにもシェレンベルクとはソリが合わない。
小脇にファイルを挟んだまま歩くベストはそんなことを考えながら渋面をたたえている。もちろん、とは言ってはおかしいが、同じ特別保安諜報部にいるヨーゼフ・マイジンガーやアルフレート・ナウヨックスのことも面白くはない。しかし人間というのは適材適所という側面もある。
もしかしたら、とベストは思った。
マリーに対してマイジンガーやナウヨックスが穏和な態度を取ることは、特別なことでもなんでもないのかもしれない。彼らのように若干思考力の劣る者は、マリーのような子供に影響を受けやすいのだろう。
「ナウヨックスも似たようなものか」
子供という意味ではナウヨックスもマリーも、ベストにとっては大差がなかった。
そうして特別保安諜報部の執務室へと戻ってきたベストが、ファイルを手にしていることに視線を留めてハインツ・ヨストが書類仕事をしていたペンを止めた。
「局長共の間で会議があったという話しだな」
ヨストもベストも共に国家保安本部では局長を務めた高級指導者である。そのため、局長級の人間で会議が行われたということに、自分たちが蚊帳の外に置かれたような孤立感を感じて面白くない。
「シェレンベルク”上級大佐”の話しでは、どうもクリポの強制収容所の件と、ゲシュタポの外務省の件らしいな。特に我々に関係のある話ではなかったようだ」
我々――それは国外諜報局という意図ではない。
なにしろ国家保安本部にあってすら、マリー率いる特別保安諜報部は微妙な立ち位置にある。
国家保安本部の内部組織でありながら、同時に親衛隊全国指導者個人幕僚本部の組織でもある。だが、その命令系統はさらに特殊で、実質的にはハインリヒ・ヒムラーの直接の指揮を受ける部隊だった。
これについては首席補佐官のベストもさっぱり理解できない。
マリーが「ヒムラーの命令だ」と言ってしまえば確かめる術など、国家保安本部長官にも親衛隊全国指導者個人幕僚本部長官にもありはしないのだ。
「ほぅ……。それで、強制収容所となればマリーがグリュックス中将と接触したことにも及んだだろうがそれについては?」
「彼女が捜査に不利益になるような行動をとったわけではないからな。特にお咎めらしいものはなかったようだが」
そこまで言ってからベストは肩をすくめてみせた。
カルテンブルンナーもそうだが、ふたりの警察局長もマリーにはひどく甘い。どうせ親心でも生じたのだろうというのが、ベストの意地の悪い評価だった。
「事の詳細を知ったら、経済管理本部のポール大将がお冠になりそうだな」
喉を鳴らすようにして笑ったヨストを眺めながら自分のデスクについたベストは、ファイルをたててとんとんと音を鳴らすと机上に視線を滑らせる。
マリーはポールの存在を無視して、その下にいるグリュックスと接触した。しかも、武装親衛隊の作戦本部長官ハンス・ユットナーの後ろ盾を得て無理矢理我を通したような形となっているのだ。
「……だろうな」
世間的な順序を考えれば、ポールを無視して良いわけがない。
「しかし、もしもそうなったらおもしろがっているだけではすまないぞ。ヨスト少将」
「もちろんわかってはいるが、そうした場合のことも考慮してマリーの補佐官として我々が任命されたのだろうから、そう考えれば厄介事担当になるのはやむを得まい」
冷静なヨストの言葉を受けて、ベストは長い息を吐き出した。
マリーには考えが足りない。
もう少し慎重に振る舞ってくれれば助かるのだが、高等教育も受けていないマリーにそんなことを要求するのは酷な話しなのだろう。
「厄介事、か」
厄介なことばかりだ。
ベストは機嫌悪そうに眉間にしわを寄せたままで開いたファイルに視線を落とした。
ちなみに相変わらず、ヘルベルト・メールホルンは強制収容所の捜査の情報分析のために執務室で缶詰状態になっている。それはそれで厄介ごとだ。
特別保安諜報部を取り巻く事情は複雑すぎて、百戦錬磨の法律家であるベストも溜め息を隠せなかった。
「なに、ベスト中将。特別保安諜報部はメールホルン上級大佐もいるし、わたしもいる。ひとりで抱え込まなくても良いだろう」
そうしてヨストの穏やかな声が響いた。
*
同じ椅子に並んで座って一冊の本を覗き込んでいる三人の男女に興味深そうな視線を投げかけたのはルートヴィヒ・ベックだった。
少女を真ん中にして、左にクラウス・フォン・シュタウフェンベルク伯爵。右にはその兄であるベルトルト・フォン・シュタウフェンベルク伯爵が腰を下ろしている。
なにやら政治的な小難しい話しでもしているのかと思えば、何のことはない。マリーが疑問に感じたことを他愛もないことを両シュタウフェンベルク伯爵に質問をしているだけだった。
ふたりのシュタウフェンベルク伯爵にとっては、マリーという存在は興味深い少女であるらしい。
というのも、彼女は悪名高い国家保安本部に名前を連ねる情報将校なのだ。
「そういえば、ハルダー上級大将閣下に聞いたが、勉強会をやるらしいな」
しかも陸軍参謀本部のハルダーの執務室で。
「勉強会?」
弟のクラウスの言葉に、疑問で返したのは兄のベルトルトだ。
「なんでも、マリーがあんまり世間の常識というか礼儀に欠けているから、だそうな」
ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクは、本に視線を落としているマリーの視線を追いかけてから陸軍参謀総長のいかつい顔を思い浮かべた。
「はい、ハルダー上級大将がいろいろ教えてくれるって言ってました」
ニコニコと顔を上げてクラウスを見つめたマリーの瞳は明るい空のようだ。
ハルダー主催の勉強会など想像するだに恐ろしいが、一方でマリーはそんなことは考えてもいないようだ。屈託なく笑ってかすかに紙のこすれる音をたてて本のページをめくった。
「もう腕のほうはいいのか?」
「はい、ギプスもとれました」
見ればわかることを言いながら、クラウスの気遣いに少女は左腕を上げた。しかし、未だに少々腫れぼったいのは彼女が負傷してからそれほど日がたっていないことを現している。
「マリー、日が暮れると気温が下がる。カーディガンを着なさい」
書斎で話し込んでいる三人を眺めていたベックが注意をすると、マリーは素直に「はーい」と返事をして立ち上がるとコート掛けにかけてあった薄でのカーディガンを手に取った。
金色の髪がふわりと揺れる。
華奢な彼女になぜだか構いたくなってしまうのは庇護良くもあるのかもしれない。
「面白い子だな、クラウス」
笑顔の絶えない少女。
クラウスが彼女を気に掛けているのは、マリーが可愛らしいからだけではない。参謀本部の人間たちと敵対する国家保安本部に所属する親衛隊員だからという理由もある。しかし、こうして言葉を交わしてみると、そこにいるのは変哲のない少女なのではないかとも思えてくる。
陸軍参謀本部として、国家保安本部に繋がる人間を複数確保しておくことは無駄なことにはならないだろう。
保険はいくつでもあったほうが好ましい。
ベックの言葉通りカーディガンに袖を通した少女は、ソファに戻ってくるとそれからしばらくふたりのシュタウフェンベルク伯爵と話し込んだ。
夜のとばりに辺りが包まれはじめた頃、帰宅の途についたふたりのシュタウフェンベルク伯爵は車の中で互いに言葉を交わし合った。
「……良い子だが、ああいった子が悪い男にひっかかるようなことだけが心配だな」
ベルトルトの言葉にクラウスは頷いて、兄に言葉を返した。
「良い子に見えるか?」
「あぁ。噂では、総統官邸の一斉摘発を強行したらしいが……」
性格は素直で勘も良い。
しかしそんな子供――しかも年頃の少女を狙う男が多いこともまた事実だ。いかに国家保安本部に所属する情報将校とは言え、彼女は華奢な少女でしかない。
「若い連中は、すぐに”盛る”のが厄介だな」
性欲そのものは否定しないが、物事の道理も理解していない少女が被害にあうことだけは責任ある大人として許し難い。
――みんながみんな良い男なわけじゃない。充分気をつけなさい。
教師のような口調でそう言ったベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクにきょとんとして、大きな青い瞳をまたたいたマリーを思い出した。
「そういったことを含めて、ハルダー上級大将閣下が勉強会を開くのだろうから、大丈夫だと思うが」
弟のそんな言葉にベルトルトは言葉を返すこともなくフロントガラスの向こう側を凝視した。
可愛らしい少女に、きっと誰かが恋をする。
その時に男たちの身勝手から彼女が騙されて傷つくようなことがなければ良い。
ベルトルトはそう思った。




