13 Himmlers Hirn heißt Heydrich
ハインリヒ・ヒムラーは国家保安本部と、親衛隊法制局とから提出された報告書の内容に不愉快な渋面を隠すことができないままで、指先で書類の束をめくる。
オズヴァルト・ポールの指揮する経済管理本部が管理する強制収容所、及び強制労働収容所。その看守たちの身分は武装親衛隊として保障されている。
国家保安本部長官のエルンスト・カルテンブルンナーと、親衛隊法制局長官のフランツ・ブライトハウプトから提出された報告書の内容はほぼ同様だ。
ヒムラーの指揮するナチス親衛隊。彼らは心身共に健全でなければならない。
それがどうだ。
今や腐敗も甚だしく、ヒムラーの掲げた理想は見る影もなかった。
そんなことは他の人間に指摘されなくてもわかっていた。
組織が大きくなれば、腐敗もするだろう。それをヒムラーは嫌悪したはずだ。親衛隊長官のヒムラーの理想から大きく乖離しつつある親衛隊の問題は、それだけにとどまらない。
ユットナー率いる武装親衛隊の一部からも不満がではじめていた。
人の口に戸を立てることはできはしない。
強制収容所でどんなことが行われているかはともかくとして、看守たちの安全で豪勢な暮らしぶりは人づてに伝わっていると考えて良いだろう。
同じ武装親衛隊であるというのに。
片やは最前線の激戦に身を投じ、もう片やは強制収容所とは言え、快適な生活を送っている。不満が生じないほうがおかしいだろう。
強制収容所の勤務は民族的闘争の最前線であるという理由から、その勤務も前線と同様であると定義されており、そのため看守たちも東部で戦いを繰り広げた親衛隊の兵士たちと同じく武装親衛隊であるのだが、それらの事情も鑑みて今一度考え直さなければならない時代に入ったのかもしれない。
――民族闘争の最前線。
それが方便でしかないことはヒムラー自信もよく理解している。
かつて突撃隊の下部組織でしかなかった親衛隊は、今や母体組織である突撃隊の権力を大きく越えて権力を拡大した。そして、突撃隊は事実上権力を失い、国防軍のための兵士の訓練を受け持っている。
大きな溜め息をついてから、革張りの椅子に体を埋めたヒムラーは、じっと考え込んだままで目前に視線を上げた。
時代は流れ、それと共に強制収容所の管理についても、方向の転換を迫られているのかもしれない。
数ヶ月前に、チェコスロバキアの不埒者によって暗殺されたラインハルト・ハイドリヒならば見事な変わり身を見せて親衛隊内部の方向転換を実行しただろう。しかし、ヒムラーにはハイドリヒのような決断力はない。
ガラス戸の据え付けられた戸棚を見やって、ヒムラーはその中に立てられている写真立てを見やった。
相変わらず無表情に近い仏頂面で写りこんでいるハイドリヒ。
その写真を処分すべきなのか。
彼はそんな思いに捕らわれた。
かつてのラインハルト・ハイドリヒが生存していなくても、今は国家保安本部には金髪の少女がいるではないか。
華奢で儚げな少女の姿は、とてもラインハルト・ハイドリヒを思わせることなどあり得ないが、それでも彼女の存在は一度崩壊しかけた国家保安本部という強大な組織を維持させて今に至る。
たった数ヶ月足らずで、彼女は瓦解しかけた組織を食い止めた。
提出された二冊の書類の束を前にして、ハインリヒ・ヒムラーはじっと片目を細めたまま決断を迷う。
もしかしたら、ヒムラーの決断によって彼が育てたナチス親衛隊が内部崩壊するのではないかという不安に駆られる。
突撃隊の下部組織に甘んじて、たった数人の親衛隊員という地位から、ドイツ国内にあって恐れられるほどの組織に成長させたこと。それこそが、ヒムラーの誇りだった。
そして、そんなナチス親衛隊の内部に抱えるのは数多くのエリートたちだ。
腹の前で両手の指を組み合わせたヒムラーはとりとめもなく考え込んで、胃の痛みに息を吐く。
時代とは否応なしに流れ、変化していくもの。
自分の弱さも自覚していて、ヒムラーは迷いを振り払えないままに目の前の中空を見据えた。
――冷徹なヒムラーの片腕、ラインハルト・ハイドリヒであれば躊躇なく必要な行動を選択できただろうに。
そんなヒムラーの片腕は当に死んだ。
今は、親衛隊全国指導者として自分の足だけで立たなければならないのである。
自分はひどく弱い人間で、ヒムラーが登用した者たちと比較して理想のままでもなければ、才能に溢れているわけでもない。
それでも、彼の今の世界には「ハイドリヒの存在」がある。
彼は死んで尚、可憐な少女に姿を変えてまで「ここへ」帰ってきた。
だからどんな苦難も乗り越えていけるだろう。そうヒムラーは自分に言い聞かせた。
彼――ラインハルト・ハイドリヒは、黄昏に燃えるドイツに降臨した救世の騎士。
「……ラインハルト」
誰よりも強靱な、そしてしなやかさを持つハイドリヒは滅び行こうとしている帝国を救うために再びドイツへと舞い降りたのではないか。
純潔の魂の導き手として。
彼――彼女の湖底のような青い瞳はドイツ、あるいはヨーロッパの未来を見つめている。
「”君”がいれば、我々は大丈夫だ」
ナチス親衛隊にはこれからも数々の困難に襲われることになるだろうが、それでもラインハルト・ハイドリヒのカリスマ性があれば乗り越えていけるだろう。
「”君”の力があれば、大丈夫だ」
ハインリヒ・ヒムラーは弱々しい瞳に強い光をたたえて顔を上げた。
執務机の片隅に置かれた電話の受話器を上げる。
――国家保安本部の主導のもと、強制収容所に関連する摘発、捜査について国家保安本部と親衛隊法制局に全権を委任する。
このハインリヒ・ヒムラーの指令によって、数々の親衛隊内部の圧力と抵抗は封じられることになる。
「だが、ひとつだけ言っておくが、強制収容所に関係する各組織の活動は、ともすれば親衛隊全体にも波及するデリケートな部分が多分にある。それゆえ、強制収容所の管理に章をきたさぬよう、充分に、細心の注意を払いたまえ」
電話口に向かってそう命じたヒムラーは、一息つくと受話器をおろして堂々と椅子から立ち上がった。
肩越しに戸棚の中に立てられたラインハルト・ハイドリヒの写真を眺めやる。
彼は死んだ。
しかしそれでも、頼りない自分の傍には絶大なカリスマ性を持つ少女がいること。マリア・ハイドリヒという名の、彼の血縁の少女はその大きな存在感で国家保安本部を包み込んでいる。
「君は、死んでも尚、恐怖の王なのだ」
独白するようにつぶやいてから、ヒムラーは時計を眺めて顎をひいた。丸い眼鏡を指先で押し上げてからノックの音に顔を上げた。
「失礼します、親衛隊長官閣下」
秘書の女性の声が響いて扉が開いた。
「シェレンベルク上級大佐がお見えです」
「通せ」
「はい」
短いやりとりのあとにヒムラーの執務室へと入ってきた国家保安本部、国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルクは型どおりの敬礼をしてからヒムラーの前に立った。
「それで、先ほど国家保安本部のほうから、外務省に関係する捜査の報告書が届いたが、実際どの程度なのかね?」
どこか曖昧に言葉を選ぶヒムラーに、まだ三二歳の若い国外諜報局長は注意深い表情のままで顔を上げた。長い睫毛が知性的な彼の眼差しに、どこか色気をたたえていてヒムラーはこれでは女性陣に引っ張りだこなことも仕方ないと思う。
知性、地位、さらに美男子とあれば親衛隊にあってもなかなか存在しないだろう。少なくともヒムラーが知る限りナチス親衛隊にあって、シェレンベルクは一、二を争う美青年と言っていいだろう。
「ハイドリヒ少佐を負傷させた男が外務省の情報員であることは間違いないらしいが」
「はい、どうやらそのようです」
「……ふむ」
社交的で人当たりの良いシェレンベルクは多くの組織に友人らしいネットワークを持っている。公にそれをひけらかすことはしないシェレンベルクだが、彼のそんな情報網には前国家保安本部長官のラインハルト・ハイドリヒも一目置いていたほどである。それほどその手腕を買われていたシェレンベルクが、国外諜報局長という立場であるとはいえ、国家保安本部内の事態の経過を知らないはずがない。
ハイドリヒ少佐、と堅苦しく呼んだヒムラーに「どうせならマリーと言えばいいのに」とシェレンベルクは思いながらも、外見上は表情をかけらも変えずに上官を観察した。
「ただ、調査局のデータを再度洗い直しましたところ、どうやらINFⅢには思った以上にスパイが潜り込んでいるのも事実のようです」
もっとも、外務省には親衛隊の管轄外にある。
しかし外務省に国家保安本部に所属する親衛隊将校を襲撃した容疑者が潜んでいるということは重大な問題だ。
――彼女を失うわけにはいかない。
口から飛び出しかけた言葉を飲み込んだヒムラーの不自然さに、訝しげな瞳を返したシェレンベルクは結局発言を自重して上官の言葉を待った。
ハインリヒ・ヒムラーの前で、シェレンベルクに決定権があるわけでもない。
「ハイドリヒ少佐は、その後どうだね?」
わざとらしいヒムラーの台詞にシェレンベルクはちらと視線を頭上に上げてから口を開いた。
彼女の主治医を名乗るのは、ヒムラーとは旧知の中であるカール・ゲープハルトだ。そんな友人から報告はいっているのではなかとうかとも思うが、上官がこう言った以上、シェレンベルクに否やを唱える権利はない。
「ご存じかと思いますが、休暇に入る前に腕のギプスは外されました。ゲープハルト少将がおっしゃるには、思った以上に骨折の治癒が進んでいるそうです」
「……そうか」
「その後、襲撃されるようなことはないそうです」
今のところは。
余分な一言は付け足さずに、シェレンベルクが冷静に告げるとヒムラーは無言で頷いてから小首を傾げた。
マリーに乱暴を働くことなど簡単だ。
そんなことは誰でも計算できる。
もっとも、被害者本人――マリー自身が計算しているかどうかは定かではないが、少なくとも周りの人間たちの誰もが、彼女を負傷させることなど簡単にできると思っているだろう。
弱い人間はいつでも暴力の犠牲者となる可能性を持っている。
マリーも同じだ。
「今は休暇中と聞いたが、また事件に巻き込まれるような環境ではないだろうな?」
「はい、それにつきましては国家保安本部首脳部でも会議が行われまして、休暇中は前陸軍参謀総長を務められましたルートヴィヒ・ベック退役陸軍上級大将のもとに預けるということとなりました。彼女が考えなしに脱走していなければ、ベック上級大将宅に滞在しているはずです」
少なくともマリーが脱走したという話しは聞こえてこない。まがりなりにも大人の責任として「子供でしかない年齢」のマリーの保護をカルテンブルンナーの名で依頼してあるのだ。万が一、マリーが脱走するような事態となれば、ベックかハルダー辺りからすぐに連絡が入るだろう。
大人の責任とはそういうことだ。
「ベック上級大将か。しかし、信頼を置けるのか?」
不審げなヒムラーの眼差しにシェレンベルクは小さく肩をすくめると、わずかに首を振った。ヒムラーが考えるよりも責任ある退役軍人に子供を預けることは充分信頼が置けるはずだ。
おそらくヒムラーは親衛隊の責任感のほうを信頼したいと言ったところなのだろうが、問題の親衛隊の荒くれ者たちの問題行動を熟知している国家保安本部の高官たちにしてみれば、そんな性欲盛んな男たちに年頃の少女を預けるなど言語道断だ。
そう言った意味では枯れており、さらに責任感の強い退役軍人の年寄りに預けたほうがまだましだと、思える程度にはベックのほうが適任でもある。
「なにより、ハルダー上級大将閣下と、ベック閣下とはマリーも顔見知りですから。預けるには丁度良いということで、意見が一致いたしました」
「……そうか」
どこか納得いかんと言った顔のヒムラーだが、発言したのがヴァルター・シェレンベルクとあってそれ以上に野暮な追及はしなかった。
ハインリヒ・ヒムラーは好都合なことに、シェレンベルクに対して絶大な信頼を寄せている。
「まぁ、彼女が無事ならばそれで良い」
一度は失ってしまったハイドリヒを、二度と失うわけにはいかない。
「ゲシュタポのミュラー中将に伝えたまえ。外務省の捜査がスパイ問題も含んでいて慎重を期することは理解していないわけではないが、ハイドリヒ少佐を襲撃した容疑者をいつまでも泳がせておくことは国家にとって大きな損失となるだろう。だから、なるべく早く犯人逮捕の報告を期待する」
「……はい、閣下」
ヒムラーの言葉に、用心深さを表にはあらわさないままシェレンベルクはそう応じた。
フェンローでの秘密作戦のときもそうだった。たまたまビュルガー・ブロイケラーで発生したアドルフ・ヒトラー暗殺事件が重なったためイギリスの秘密工作ではあるまいかとの疑惑のためにシェレンベルクが細心の注意を払って展開してきた苦労が泡になった。
どんな犠牲が発生しても、事は急いてはいけない。
言葉を濁すようにして応じたシェレンベルクは、ヒムラーとそれから二言三言言葉を交わしてから彼の前を辞した。
「やれやれ」
廊下を歩くシェレンベルクは首の後ろを撫でながら口の中だけでぼやくと、誰も見ていないのを良いことにそっと片目を細めてみせる。
――命令するほうはいつでも気楽なものだ。
フェンローでの事件では、結局鉄十字章を受けるに至ったが、そんなことは彼の満足感に大した影響を与えはしない。
政府高官たちは作戦は成功であるように映ったかもしれないが、シェレンベルクにしてみれば事を急いたために彼の目的は達成しなかった。
結局、三年前のヒムラーの命令によって、計画は台無しになりドイツ国内に展開するイギリスの諜報部隊の尻尾を捕まえるには至らなかった。
消化不良の作戦はシェレンベルクに親衛隊上層部への不信を招くに至る。
「愚かなことだ」
ぽつりとつぶやいて、シェレンベルクはネクタイを締め直してから廊下の背後を肩越しに振り返った。
ヒムラーには結局、世界の情勢など見えてはいない。
いや、ヒムラーだけではなく。政府首脳部も同じなのだろう。
こつりと靴音を鳴らして、そうして若い国外諜報局長は長い睫毛を伏せた。




