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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
II ワルキューレ
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6 暗闇の螺旋

 変化とは、巨大な時の潮流のようなものだ。ひとつひとつはまるで打ち上げ花火のように単発で起こるものにも見えるが、実のところそれを俯瞰するように上から見下ろしてみるとそうではない。

 諜報機関の人間の仕事は政府首脳陣に正確な情報をそろえ、提出することだ。時には「思わぬ」ことも起こりうるが、それらを本当に「思わぬ事態」であったのかと尋ねられれば、シェレンベルクは「違う」と言うだろう。

 それは、事象として想定していなかったわけではない。

 ありとあらゆる可能性を――諜報員たちは視野にいれるものだ。

 彼らは軍人たちと同じで「想定していなかった」という言い訳は通用しない。ありとあらゆる状況を想定して行動しなければならない。万が一、その想定が最悪の場合、自分の命を危険に晒すとしても、である。

 要するにある程度は予想の範囲内、ということになった。

 諜報員たちは決して戦闘任務を主とする軍人ではないが、時として彼らは戦場の背後で暗躍する。現在、シェレンベルクやミュラーの部下たちがそうであるように。

ドイツ国防軍や武装親衛隊(WSS)などの武装集団の快進撃を支えるのは、占領地区などの抵抗勢力を掃討する汚れ仕事を引き受ける国家保安本部率いる行動部隊アインザッツグルッペンの活動があってこそだ。

 民族浄化などのジェノサイドは余りにも馬鹿馬鹿しくてシェレンベルクには興味がないが、戦場においては必要と判断されることもある。シェレンベルクもその程度は冷静にわきまえている。

 ジェノサイドと戦闘行為での殺害は似て非なるもの。

 そういった意味で、ヴァルター・シェレンベルクは、かつての上官であったラインハルト・ハイドリヒのカリスマ性を認めつつも、全面的に賛同することができない点でもある。

 国家保安本部の幹部たち――シェレンベルクやミュラー、あるいはネーベ――は各々が局長として膨大な仕事を抱えているため、多くの意味で疑わしい少女がいるものの、自らかかずらっているわけにはいかなかった。

 ゲシュタポの訊問官は、その下劣な訊問方法などで知られているが、彼らの全てが少女に対してそうすることを拒んだのだった。

 彼女の底知れない青い瞳に見つめられると全ての欺瞞も、悪辣な企みも、なにもかもを見透かされてしまうようで、その言葉も行動も、なにもかもが封じられてしまうのだ。

 そして誰もがこう認識する。

 ――それは決して触れてはならない氷の彫像だ、と。

 触れたが最後、待っているのは我が身の破滅だけ。

「ところで、提督」

 シェレンベルクはしばらく考え込んでからそう切り出した。

 カナリスは彼の頭脳が忙しなく回転している間の沈黙を決して嫌っているわけではなかった。むしろこの年若い諜報員の友人と共にいることを、彼は楽しんですらいる。

「……彼女の”影響力”とやらが本物であるとしたら、他の人間にも引き合わせてみたら面白そうだと思うのですが、いかがでしょう?」

「そういえば、突撃隊(SA)のヴィクトール・ルッツェ大将が興味を持っていたらしいな」

「ルッツェ大将は先日の取り調べのときにもわざわざ”見学”にいらっしゃったようです」

 含みを持たせたシェレンベルクの言葉に、カナリスは無言で笑った。

 どこまで看破し、なにを考えているのかわかりにくい青年は確かに諜報部員としての素質を持っている。容易にその腹の中を他者には明かさない。

 もっともカナリスは、シェレンベルクに対してはそれでいいと思っている。

 諜報部員が容易に他人に対して自分の胸の内を明かすようでは問題だ。自分ひとりで考え、行動し、最善の結果を導き出せないようでは使い物にならない。だからこそ、シェレンベルクは国外諜報局長を務めていられるのだ。

国家秘密警察(ゲシュタポ)を差し置いて、武装親衛隊(WSS)が出張ってくるのがどうも腑に落ちんな」

 カナリスは決してそれまでのゲシュタポのやり方を好ましいとは思っていないが、それでも順序や管轄というものは尊重されなければならないものだと思っている。自分のそんな融通の利かない考え方はそのうち我が身を滅ぼすのではないかとも思われるが、それでも管轄外のことに”軍隊”が手を出してくることが気にかかった。

「国防軍にしても、武装親衛隊にしてもそうですが、行動部隊アインザッツグルッペンの活動を含めた国家保安本部(RSHA)を煙たく思っている者は多いですからね。せいぜい国防軍と武装親衛隊の一部の軋轢に利用されただけかと思われますが。それよりも気になるのは、問題の一件が彼女の精神状態を不安定にさせてしまったことですか」

 軍隊の士官たちは行動部隊アインザッツグルッペンの活動を快く思っていない。それを諜報部員のシェレンベルクにはわかりきっている。しかし、アインザッツグルッペンが後方の広大な占領地区を制圧していかなければ、いったい誰が国防軍や武装親衛隊の背中を守ると言うのだろう。

 投降してきた女子供に近寄ろうとした途端、袖口から手榴弾をだしてくるという場合も少なくないのだ!

 戦場に道徳は限られている。

 敵は殲滅しなければならない。

 それを女子供だからと容認しろ、というのは筋が通っていない。

 誰かが軍隊の背中を守らなければならないのであれば、やらざるを得ない。

「目の敵にされて辟易しているのではないかね?」

「……もう慣れましたよ。国家保安本部は、汚れ仕事の固まりです。今に始まったことではありません」

 自分が関わっていないことは多々あるが。

 それでも情報としてシェレンベルクは多くの出来事を知っている。飄々と笑う彼は、コーヒーを飲み終わってからテーブルのソーサーにカップを戻した。

「戦争をしている以上、誰かが汚れ仕事をやらなければならないのであればやるだけです、が……、国家保安本部(RSHA)の長官が殺された途端、内部の派閥争いが始まれば、他の組織の人間に付け入る隙を与えるでしょう。早急にこれらの収集をつけなければ、いろいろと面倒なことになるかと思いまして」

「君がそのトップに就こうとは思わんか?」

「ご冗談を」

 カナリスに挑発されて、シェレンベルクは低く笑った。

 顎にある薄い傷がひきつれる。

「わたしはトップに向いているような人間ではありません。国家保安本部という組織は、かの親衛隊大将閣下のカリスマ性があってこそ成り立っていた組織なんです」

 自分の能力も、魅力も。全てを彼は自覚している。

 そして自分が決して組織のトップたる才能を持っているわけではないことも知っていた。

 優秀すぎる諜報員だ。

「仮に、ヒムラー長官がわたしを推薦したとしても、総統閣下はそれを良しとされないでしょう」

 まるでわかりきったことだとでも言うようにシェレンベルクは肩をすくめた。

「それで、シェレンベルク大佐。君は”彼女”を誰と引き合わせるつもりだね?」

「……そうですね。とりあえず、社交界にでも顔を出そうかと思いますが」

 あくまで彼女は「ラインハルト・ハイドリヒの遠縁の親戚」程度にしか、ドイツ第三帝国首脳陣とつながりのない一般庶民だ。

「ルッツェ大将が彼女に興味を持たれているというのでしたら好都合です」

 切り崩せるところから切り崩していけば良い。

 当面、マリーはシェレンベルクにとってはそれほど実害のある存在ではない。

 ならば放っておいても良い、というのが彼の見解だった。なによりも、終始監視している状況にあるミュラーのゲシュタポと、オーレンドルフの国内諜報部がある。なにもシェレンベルクまでが彼女を監視する必要などないのだ。

「三局と四局か……」

 国内諜報を担当する第三局の局長を務めるオットー・オーレンドルフ親衛隊少将は、つい先日まで東部戦線のオイゲン・フォン・ショーベルト将軍や、エリッヒ・フォン・マンシュタイン将軍の第十一軍に付属する行動部隊アインザッツグルッペンD隊の司令官として着任していた。

 彼は、アインザッツグルッペンの司令官として着任している間に南ウクライナを中心として活動し約九万人の民間人を殺害している。

 それが本当に民間人であったのか、それともパルチザンであったのかは現場にいなかったシェレンベルクには判断のしようがないが、一説には国家保安本部局長のラインハルト・ハイドリヒの命令だったという。

 もっとも、それが書面として残っていない以上、死人に口なしとはよく言ったもので本当にハイドリヒが出した命令であるのか、それともそのほかの場所からでた命令であるのか、もしくはオーレンドルフ自身が行った行為にかかわらずいざというときに他者に自分の罪を押しつけるための弁明として用意したものなのかははたして不明だ。

 もっとも、オットー・オーレンドルフは国内諜報局の局長を務めるだけあって、シェレンベルクにも実際の所は理解しかねるところがあった。

 彼もまた、諜報部員として優秀で、用心深く慎重だ。

「大佐は、アインザッツグルッペンは必要だと思うかね?」

「……さて?」

 カナリスの言葉に、シェレンベルクは苦笑すると首を傾げた。

 明言を避ける。

 万が一、自分の言葉を後々の政治的な取引の材料にされてはたまらない。

「そういった質問にはお答えいたしかねます」

「そうか」

 それでは、と続けながらシェレンベルクが立ち上がった。

「わたしもそろそろお(いとま)させていただきます。まだ仕事がたまっておりますので」

 几帳面にネクタイを直しながら、シェレンベルクはカナリスにまっすぐ視線を向けると額の上に手を挙げて敬礼をした。

「しかし、忙しないな」

 カナリスの評価に、年下の青年将校はぺこりと頭を下げてから、颯爽と踵を返すと国防軍情報部を後にする。シェレンベルクを見送って苦く笑ったカナリスは、そうしてコーヒーカップを執務机に置くと革張りの椅子に腰を下ろして考え込んだ。

 常に両手に仕事を抱えている様子のシェレンベルクは一時も一所(ひとところ)にとどまっているという印象がない。

 部下も良く動かすが、本人もかなり多忙に動き回っている男だった。

 とくに重要な案件に至っては、ヒムラーやハイドリヒの指令のもと自ら動くことが多い。

「だが、なかなか気持ちの良い青年だ」

 彼のような諜報員がいれば、ドイツはまだやっていけるだろうとも思う。

「……ハイドリヒ。君は、なにを望んで、なにを求めた結果行き着いた答えだったんだね?」

 ぽつりとつぶやいたカナリスはそうしてたったひとりきりになった執務室で、椅子に腰をおろしたままで腹の前で指を組むと目を閉じて思考に沈んだ。

 彼――彼女はなにを望んで、なにを思っているのだろう。

 シェレンベルクがわからなくても良いのだ。

 ”彼女”は”彼”なのだから。

 それは、自分だけが知っていれば良いことだ。なによりも、多くのドイツ人にとって彼女がハイドリヒであることなどどうでも良いことでしかない。

 観察したところ、マリーがハイドリヒの性格をそのまま受け継いでいる様子はなかった。それではどうして彼女がハイドリヒなのかと問いかけられても、カナリスには答えられない。

 言ってみれば感触が同じだった、とでも言えばいいのか。

 ただそれだけだ。

 結果的に平凡な少女を、国家を冒涜した罪によって投獄されるところを救っただけになったのかもしれない。それが自己満足だというのであればそれもやむを得ないだろう。

「マリア……」

 たったひとりのドイツ人の少女を救っただけ、ということでも良いではないか。

 カナリスは微笑すると肩から力を抜いた。



  *

 ぬるりと指の間をすり抜けていくのは生理的な気持ちの悪さだ。

 眉をひそめたままで廊下を進む足を速めたシェレンベルクは、なにげなしに舌打ちする。彼女と出会ってからというもの、彼が感じている気持ちの悪さが消えていかない。

 ごく平凡な少女。

 その年頃の少女らしく、自分の周りにあるものに対してしか興味をいだかない。そんなごく普通の少女にしか見えないというのに。

 ――この気持ちの悪さはなんだろう。

 ”彼女”が”ラインハルト・ハイドリヒ”であるなど。

 ……本当に?

 つきまとうのは疑念ばかりだ。調べるだけ調べ尽くしたから、彼女がスパイではないと言うことは「わかって」いる。しかし、それだというのに、感じるのは気持ちの悪さばかりだ。

 初めは興味と好奇心。

 その次に疑念と猜疑心。

 そして、それらを通り越して感じるのは、ただどろどろとした気持ちの悪さだった。

「……俺はどこへ、行こうとしているんだ」

 ドイツ第三帝国という国は、どこへ向かおうとしているのか。

「こんな遅くまで仕事ですか?」

 声をかけられてシェレンベルクは軽く肩の上で右手を振った。

 国家保安本部は多くの最先端の警備体制が敷かれ、さらに武装と警備員たちに要塞のように守られている。

 猫の子一匹たりとも入り込むなど不可能だ。

 理論上は。

 執務室のデスクについたシェレンベルクは鍵付きの引き出しから一冊のファイルを取り出した。

 数日前、マリーは国家保安本部にやってきた。

 プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセのその場所の恐ろしい噂のことなどまるで知らないとでも言うかのようになんでもない顔をして。

 おそらく彼女のことだから本当に知らなかったのだろう。

 わざわざそれについて教えてやるつもりもなかったから、シェレンベルクは言及しなかったが、それでも彼の執務室にやってきた少女の反応を逐一見逃したりなどしない。

 視線ひとつ、顔色一つ。

 それらは時として実に雄弁に事実だけを物語る。

「……こんな遅くにお仕事ですかな?」

 意地の悪い声が聞こえて、ヴァルター・シェレンベルクは顔を上げる。

 立ち上がろうとした彼に、声の主はソファに腰を下ろしながら静かにほほえんだ。

「あぁ、そのままで結構。掛けていて構いません」

 慇懃な物言いはどこか蛇のようで、シェレンベルクは正直なところあまり好きな相手ではない。

 朝からウィーンへ飛んで、さらにその足でティルピッツ・ウーファーの国防軍情報部(アプヴェーア)へと出向き、ようやく自分のオフィスへと戻ってきたと思ったらこれだ。時刻はすでに夜半を過ぎており、山積みの仕事を片付けなければならないと思っていたところへの意外な来訪者だった。

 できれば余り顔を合わせたくない相手でもある。

 国民啓蒙・宣伝省、その大臣の地位に就く男。ヨーゼフ・ゲッベルスだ。その巧みな宣伝と、煽動の手腕は評価すべきものがあるが政治家のひとりとして、無責任な戦争に国民を駆り立てるのはあまり優秀な政治家とは思えない。

 良くも悪くもナチス党の古参党員だ。

 ドイツ第三帝国総統アドルフ・ヒトラーの側近と言われる政治家、もしくは軍人たちの多くは、他国の政治家と同様に自分勝手な争いや(いさか)いを企てながら、自らそれらに手を下そうとしない卑劣な面がある。

 万が一、自分が失敗をしてもそれを他者になすりつければ良いと思っている。

 それがシェレンベルクが彼らを嫌う理由の一つだ。

「……宣伝省の大臣閣下が国家保安本部(RSHA)などにどんなご用件ですか?」

「いえ、先日の墓暴きの件が面白かったので」

 さも愉快だとでも言いたげに口を開くゲッベルスは、ヒムラーの顔を思い出したのかくつくつと笑っている。

「楽しんでいただけたようでなによりです」

 こんな時間に誰かに会うなら、しなびた中年男よりも娼婦のほうがまだましだ、とシェレンベルクは内心で思いながら小首を傾げるとソファに座るゲッベルスを見つめた。

 政治家としてはまだ若々しく精力的なこの上背の低い宣伝大臣は、ナチス党員としてはそれほど大柄なほうではないシェレンベルクよりもさらに小柄だ。しかし、その口は恐るべき凶器として、ドイツ国内で猛威を振るう。

 彼の煽動は巧みで、そして人を操る術を心得ている。

 たまたまシェレンベルクが生粋の諜報部員であり、慎重深かったためゲッベルスの煽動に引っかからなかっただけのことでしかない。国家保安本部に籍を置く者の多くは一般庶民たちと同じようにゲッベルスの巧みな手管に飲み込まれた。

「……ハイドリヒ親衛隊大将は」

 歌うように甲高い声を鳴らすゲッベルスの口調は、演説をしているときの勇ましさは感じられない。

 しかし、おそらくそれも彼の計算の内なのだろう。

 注意深くヨーゼフ・ゲッベルスを観察し、その手の内を探ろうとするシェレンベルクを、気がついているのかいないのか言葉を続けた。

「ハイドリヒ大将は、生前も、死後も同様に人騒がせですな」

「……――」

 ヒトラーの側近を相手に、シェレンベルクは安易な言葉を口にしない。

「しかし、かの親衛隊大将が亡くなったのは、国家の損失に他ならない」

 ドイツ第三帝国にとって。

 ハイドリヒの忠実な下部(しもべ)。アドルフ・アイヒマンやアルフレート・ナウヨックスなどはさぞ落胆しただろう。

「えぇ」

 シェレンベルクは彼の言葉に相づちを打ちながら、わずかに睫毛を揺らした。表情を悟られないようにしながら、相手を注意深く覗っている。

「ハイドリヒ大将の後釜を、親衛隊長官は熟考しているらしいが誰が候補に挙がっているのか、貴官は知っておりますかな?」

「さて? 小官はお聞きしておりませんが」

 小心者のヒムラーが考えていることなどどうでもいい。要はヒムラーが選出した相手をどう自分のコントロール下におくかということだ。

「親衛隊長官閣下は、いざというときに尻込みする悪癖がおありだ」

 静かなゲッベルスの言葉にシェレンベルクが頷いた。

 確かにいざというときに及び腰になるハインリヒ・ヒムラーの尻をひっぱたいて引きずり上げたのはラインハルト・ハイドリヒだった。ハイドリヒがドイツ第三帝国に頭角を現していなければ今のヒムラーはなかったかもしれない。

 そうなると、ラインハルト・ハイドリヒを見つけ出し、ナチス親衛隊に抜擢したヒムラーの功績も大いに認められるのだろうが、それにしてもヒムラーは小心が過ぎる。

「政治家たる者、いざというときに決断力に欠けるようではいけませんな」

「……そうですね」

 短く応じたシェレンベルクは、相手の瞳を見つめながら考え込んだ。

 国民啓蒙・宣伝大臣がこんな夜中にわざわざ国家保安本部のシェレンベルクのオフィスまで訪れた理由はなんだろうか。

 多くの女優や美女と浮き名を流すゲッベルスだ。彼とてこんなところで男と会うよりも、見目麗しい女性とベッドを共にしていた方が楽しいだろうに。

「こんな時間にこちらをお伺いした理由ですが、シェレンベルク大佐」

 彼の言葉はうっかりすると聞き入ってしまいそうになるほどリズミカルで、相手の心を捕らえる才能に長けている。

「えぇ、本官もそれをお伺いしたかったのです」

「彼女の家は随分と華やかなサロンのようですな」

 ずばりと核心を衝いたゲッベルスの言葉に、シェレンベルクは「やはりそれか」と内心で考える。

「あぁ、部下たちが。わたしとカナリス提督が出資しているということで興味を持っているだけのようです。なにせ姓がハイドリヒですから、余計に気にかかるらしく」

「なるほど、ハイドリヒ嬢フロイライン・ハイドリヒは随分魅力的な女性のようですな」

「まだ十代の小娘ですよ」

 女にだらしがないゲッベルスだ。

 合意の上であれば咎めるべくもない。シェレンベルク自身、それほど女性関係が潔癖というわけでもないが 権力を笠に着て女性を好きにしようというやり方はあまり好むところではなかった。

「ハイドリヒ親衛隊大将のご親戚、というのは調査報告書を読ませていただきました」

 ゲッベルスの言葉は、まるで台本でも読んでいるかのようにも聞こえる。彼の言葉は全てが計算され尽くしていると言ってもいいかもしれない。

 ラインハルト・ハイドリヒの親族に連なる少女。

 だからどうだと言うのだ。

 ゲッベルスの言外の言葉を聞いたような気がして、シェレンベルクは唇をひき結んだ。

 四十代半ばの男が、十代の少女を手込めにするなど考えるだけでも気持ちの悪さを感じてしまう。そもそも、三十代の彼ですら特に手を出そうとは思えない程の年齢差だ。あるいは二十代初めの若い青年たちであれば、マリーに恋心を抱くこともあるかもしれないが。

「なかなかかわいらしい娘さんですな」

「そうですね、大臣の息子さんよりも年下になりますね」

 あからさまにシェレンベルクがゲッベルスに釘を刺す。

 国家保安本部の第六局――国外諜報局から提出された「マリア・ハイドリヒ」の調査書類には隠し撮りの写真も鳩目されていた。

 その写真を見て言ったのだろう。

 杖をつきながら歩行のリハビリをしていた写真だ。

「失礼ですが、あの報告書は三局と四局で作成したものですよ。閣下」

「そうでしたな」

 悪辣な捜査手腕で名高いゲシュタポの要請を受けて、国内諜報を担当する第三局が動いた。

 なにせ、彼女はラインハルト・ハイドリヒの棺の中に潜んでいたのだ。

 事が事だけにかなり大規模な捜査が行われたことをシェレンベルクは記憶していた。あまりにも大規模な捜査だったが、カナリスの見事な仕事によってそれらの捜査をもってしても彼女の素性は知れないままだった。

 もっともヴァルター・シェレンベルクとて彼女の素性など知りはしない。

 簡単に言えばそんなものどうでもいい。

 彼にとって大切なことは、ドイツ第三帝国の利益になるかならないか、それだけだ。

「……彼女は、なかなか興味深い」

 なにが興味深いのだろう。

 シェレンベルクはそう思った。

 ゲッベルスは言葉を使って国民たちを煽動するプロフェッショナルだ。その考えているところはどこか計り知れないところがある。アドルフ・ヒトラーの側近中の側近という位置にもあったから、ゲッベルスがヒトラーの意向に沿うことを基本姿勢としていることは間違いがない。

「大臣?」

「いえ、ハイドリヒ嬢がかの大将の棺の中にいたということが、ね」

「ヒムラー長官は、彼女の悪戯だとおっしゃっておりましたが」

 型どおりの言葉を返しながらシェレンベルクが、ゲッベルスから目をそらさずに告げると、どこか機嫌良さそうに笑いながらわざとらしく両目を細めてみせた。

「まぁ、そんなことはどうでもよろしい。わたしが気になっていることはもうひとつ」

 そう言葉を続けながらゲッベルスは立ち上がった。

 身長は低いものの、どこか人の押しつぶすような圧迫感すら感じさせる。

 しかしシェレンベルクはたじろがない。

「なにか?」

「ハイドリヒ親衛隊大将の生存説、あれがどこから出たものか六局で調べてもらいたい。あるいは、すでに調査が済んでいるのであれば、速やかに報告をするように」

「……その報告とやらはどちらへすればよろしいのですか?」

 国家啓蒙・宣伝省は、防諜関連は専門外のはずだ。

「わたしに直接報告してくれて構わん」

「――……」

 ゲッベルスの言葉にシェレンベルクは数秒考え込んだ。

「承知しました」

 そうして応じた彼に、ゲッベルスは二言三言言葉を交わすとそうして夜のベルリンへと消えていった。

 おそらく宣伝省にとてハイドリヒの生存説をなにかの煽動に使おうというのだろうが、その意図が読めない。ハイドリヒが生きている、ということが占領地を恐れさせることになり、敵対する連合国側も混乱に陥れるだろう。しかし、本音はなんだというのか。

 ちらと壁にかけられた時計を見やってシェレンベルクは盛大に息を吐き出した。

 時刻はすでに午前三時を回っていた。デスクの上に乗せられたファイルを引き出しにしまって鍵をかけた彼は二の腕を目の上に乗せて、革張りの椅子に深くもたれて目を閉じる。

 とりあえず朝から動きっぱなしだったのだ。少し休まなければ、次の仕事に差し支えるだろう。

 彼が考えなければならないことは山ほどあった。

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