12 死の弓
特に彼女を「特別扱い」しているわけではない。
もっとも、子供であり、あのような儚げな少女に親衛隊少佐などという地位に就けたハインリヒ・ヒムラーは、どうやら特別視しているようでもある。
フランツ・ハルダーはベック夫人の横でまどろんでいる少女を見つめてから思考に沈む。
親衛隊高級指導者のふたりとマンシュタイン、そして突撃隊参謀長はひととおりの言葉を交わすとその場を立ち去った。
残されたのは前陸軍参謀総長のルートヴィヒ・ベック、現陸軍参謀総長のフランツ・ハルダー。そしてベック夫人とマリーだけだ。
公共の場であるということもあって、どこで誰が聞いているとも限らない。そのため安易に軍隊内での込み入った話までは突っ込むことをせずに、差し障りのない範囲内でハルダーとベックは会話を続けている。
横にいる夫人は男たちの会話は聞かない振りをして読書を続ける。
「親衛隊……、国家保安本部のカルテンブルンナーがマリーを貴官に預けたいと言ったときは驚いたが」
確かに、ハルダーはそれまで何度となくマリーと「個人的」に顔を合わせて言葉を交わす機会があったが、だからといって互いにプライベートな話しをするわけではないし、なによりもフランツ・ハルダーが個人的な会話をすることを避けるようにしていた。
親衛隊員であるマリーに対して個人的な話しをすることを無意識に避けていたのかも知れない。そんな、どこかドライなマリーとハルダーの関係はまだどこかぎこちないもので、特にハルダーが彼女を警戒している。
エルンスト・カルテンブルンナー。
現在の国家保安本部を束ねるオーストリア出身の法学博士。その男は国家保安本部長官という椅子に座る以上、充分に警戒すべき相手であるというのがハルダーにしろ、退役したベックにしろ共通した見解だった。
ドイツの国内外から恐れられる国家保安本部の高官たちは、その多くが若い官僚で構成される。そしてそれ故に、国家保安本部には社会的な意味での伝統が通用しない。
それこそが、国家保安本部が無法者集団であると影から囁かれる理由だった。ラインハルト・ハイドリヒが亡き後も、その体制はカルテンブルンナーらの「後継者」らによって維持され続けている。
――世間の道理など理解していない、ごく平凡な子供。
いや、平凡とは言いがたいのかもしれないが、それでも尚、マリーは天真爛漫でまっすぐな眼差しは大人たちが「焦がれ」た子供そのまま。
警戒心もなく好奇心のままにおおらかに笑うマリーを預ける相手は、責任のある厳格な大人でなければならなかった。
その理屈はわからないではない。
なぜならば、子供というのは得てして良い影響よりも悪い影響のほうをより受けやすいからである。
感受性が強く、更に短期間で二度もテロリズムに巻き込まれたマリーを不憫に思ったからこそ、犬猿の仲とも言える国家保安本部の申し出を受け入れた。
意外かもしれないが、そこには大人の世界の確執など関係ない。ただ、子供に対する大人の責任があるだけなのだ。
「……素直な良い子は嫌いではない」
行儀は余り良くないが。
ルートヴィヒ・ベックの評価に、フランツ・ハルダーは本を枕にして眠っている金の頭を見下ろした。
「素直な良い子、か」
率直なところを言えば、ハルダーは自分の傍で眠っている少女に対して評価をしかねている。
マリア・ハイドリヒ――マリーという少女の発言は、ハルダーが聞いていてとても気持ちの良いものではなかった。
彼女は「命」を軽んじすぎる。
マリーの年代の子供はそんなものだと言われたとしても、軍人であり、戦争に若い命を駆り立てる責任者として、マリーの発言は「はい、そうですか」と受容して良いものではない。
大人の責任として、間違った発言は正さなければならない。
「わたしは思うのだが、彼女にはまともなしつけがされていないのではないか……?」
しばらく考え込んでからハルダーはそう言った。
「……ふむ」
ハルダーのそんな言葉に相打ちを打ったベックは、自分の後を継いで参謀総長となった男を片目を動かして見やった。
彼らは共に厳格な軍人として生きてきたのだ。そんなふたりからしてみれば、自由奔放とも言える少女の振る舞いはどこか目に余るものがある。
「しかし、聞いた限りではこの子には両親がいないのだろう。ならば、今まで正しいしつけをされた云々という問題は酷ではないか?」
ナチス親衛隊の無法者たちとはまた違う。
どこか「社会」そのものの枠組みを理解していないのか、それとっも社会の枠組みから少々外れているのではないかと思わせる。少女の言動は時として、大人たちを多いに困惑させた。
彼女は「なにか」が違う。
それは反社会的だとか、そういうことでもなく、もっと人間の根源的ななにかが大きく逸脱してる。
一言で言うならば、素肌で直接感じる違和感とでも言えばいいのだろうか?
ベックの言葉を聞きながらじっと考え込んでいたハルダーはなにげなく手を伸ばすろ、大きな手のひらで無意識にマリーの金色の頭を撫でてから、そんな自分の行動にぎょっとした。
「無意識に」少女の頭を撫でていたという現実に、心の底から動揺する。
一瞬で言葉を失ったフランツ・ハルダーに、ベックは不審な眼差しを向けた。
「ハルダー?」
「……いや、なんでも」
なんでもない。
そう言いながら、フランツ・ハルダーは表情を取り繕うように片手で口元を覆った。
とても親衛隊員などに見えない少女が眠る姿になぜだか触れてみたいと思った。彼女と同じ年頃の少女など、ドイツ中に何千人もいるだろうに、それでもどうしてだろう。
――彼女は特別だと思わせる。
マリーの発言が許せなくて、その頬を張ったときもあった。
そのときには、特に感じもしなかったが、眠る少女を触れてみてその儚さにぎょっとした。
ベック家で生活するようになって少し肉付きも良くなったような気はするが、彼女はこの儚いほどの頼りなさを抱えて、ナチス親衛隊という男たちの世界で生きている。
本来、その世界は国防軍に所属する生粋の軍人たちですら、彼ら親衛隊員らと共にいるということは精神力を要するのだ。そんな世界で、体力のない少女が生きているということがどういうことなのか。
ハルダーにもベックにも想像できないわけではない。
なにごとかを考え込んでいるハルダーを視線だけで見やったベックは溜め息をついてから、両膝に手を突いて立ち上がると妻に耳打ちする。
「どれ、そろそろマリーを起こしてくれるかな? 我々は帰ろうと思うのでね」
マリーを凝視しているハルダーを促して、片付けを夫人と共にはじめるとベックは何度目かの息をついた。
「承知した」
*
「どう思う?」
刑事警察局長――アルトゥール・ネーベ親衛隊中将は、テーブルを挟んで向かい合わせに座っている国家秘密警察局長に言葉を投げかけた。
「……ふむ」
コンラート・モルゲンとヘルベルト・メールホルンらによる強制収容所の横領に関する捜査は佳境に入りつつあった。
事態は思った以上に根深い問題を孕んでいて、これが大ごとになれば刑事警察局単体の問題ではすまなくなる恐れまで出てきた。それはともすれば、ネーベのみならずカルテンブルンナーの責任問題にもなるだろう。
「しかしこれだけの規模となると、ポール大将の反発も必至だろうな」
短期間でこれだけの情報分析と摘発を行うことができたのはひとえに、ヘルベルト・メールホルンとリヒャルト・コルヘルの尽力によるところが大きい。
いかに将来有望とされる刑事警察幹部候補の親衛隊判事、コンラート・モルゲンだけでは一ヶ月程度の間に収容所における犯罪網を摘発することなど不可能だっただろう。
モルゲンの所属する国家刑事警察本部は徹底的な強制収容所看守らの捜査を行い、彼らの捜査はかつてのルブリン強制収容所長を務めたカール・コッホを中心とした犯罪網を掴んだ。
これだけの規模。
そう告げたハインリヒ・ミュラーは分厚い資料のファイルを指先でめくってから片目を細めると鼻から息を抜くと腕を組み直してふんぞり返った。
「問題は、”あの”日和見の親衛隊長官閣下がどう判断するかだな」
弱気なハインリヒ・ヒムラーは少し周囲から強い言動を受けただけで当初の意見を簡単に翻す。それだけならば特別問題はないのだが、一番の問題は、自分の問題を回避しようとしてヒムラーが部下に責任を押しつけようとすることだ。
渋面のままモルゲンの上げてきた資料を睨み付けているネーベとミュラーは、扉が開いた音にさっと立ち上がって敬礼をした。
「ヒトラー万歳!」
入室してきたのはカルテンブルンナーだ。
「捜査の進展は問題ないようだが、思った以上に事態が大ごとなようだな」
「はい、長官」
ぱらぱらと音をたてて資料を指先でめくったカルテンブルンナーは、中身に見るともなく視線を走らせる。現状で、それらの資料を読まなくても、エルンスト・カルテンブルンナーはすでにネーベからの資料を読んでいた。
「問題は、法制局長官に上げてあるが、ブライトハウプト中将がどこまで動くか、というところだな」
ともすれば自分の責任を回避しようとして、そのままヒムラーの指示を仰ぐべく右から左に受け渡すだけにならなければ良いが。
危惧するカルテンブルンナーの台詞に、ミュラーは右腕をテーブルについて身を乗り出した。
「しかし、その親衛隊長官閣下自身が日和見では問題が雲散霧消しなければ良いのですが……」
「そうだな」
強制収容所の看守による犯罪は全国、及び占領地域でモルゲンが確認しただけでも八百件に及ぶ。おそらく尻尾を掴んでいないものを含めれば千件を軽く越えるだろう。その中でも特に悪質だとされるものには容赦なく有罪を言い渡された。
「わたしのほうでもポール大将とブライトハウプト中将とは接触しているが、今回の件は事が事だからな」
口ごもるカルテンブルンナーは、眉をひそめたままで視線を会議テーブルの書類の山にさまよわせてからネーベと、次いでミュラーを見やった。
ふたりの腕利きの警察官僚は、ありとあらゆる意味で修羅場をくぐり抜けてきている。
巨大な「悪」の執行者たち。オズヴァルト・ポールとその部下たちがどこまで抵抗するかは果たして不明確だ。
「……そういえば、オラニエンブルクではモルゲンの協力者が処刑されかけたと聞いているが」
「そのようです。他にも、アウシュヴィッツに潜入しているモルゲンの部下が行方知れずとなっておりますが、これについても捜査中であります」
「ヘェスの奴も大概小者だが、あの男も腹黒いからな」
モルゲンの捜査が進むにつれて、強制収容所の抵抗はますます激しくなるばかりだ。ただでさえ警察と司法の手が届きにくい世界なのだ。
劣悪な環境であるために、潜入した捜査官が感染症で死んだと言い訳されてもおかしくはない。
長い沈黙が三人の間を支配した。
多くの強制収容所の所長らが決して「白」ではない。
「親衛隊長官の件はわたしのほうでなんとかしよう。捜査官の身になにかあることも考えられる。充分捜査官の安全に気を配ってくれたまえ」
問題は山積みだ。
「ところで、外務省のほうはどうなっている?」
外務省。
カルテンブルンナーの言葉に、ミュラーは崩していた姿勢を正してから小首を傾げた。
「近日中に検挙することは可能かと思われますが、こちらも想像以上に外務省の深部にまで入り込んでいますな。問題は、外務省情報部にまで食い込んでいることです」
「INFⅢか……」
リッベントロップが指揮する外務省情報部。
その能力などたかが知れている。
情報部員として訓練も受けていない外交官程度が、情報部員のまねごとなどすればその結果は目に見えていた。仮に、重大な情報を掴んだとしても、逆にそれ以上の情報を流出させていると考えて良いだろう。
どちらにしろ、外交官など情報戦のずぶの素人だ。
外務省にスパイがいるというだけではなく国家保安本部の機密事項とも言える、女性将校の存在をかぎつけた男がいるということが大きな問題だった。
万が一、マリーの情報が国外に流出すればそこは大きな弱点として考えられるだろう。
「マリーの身の回りには充分な警備体制を敷いているが、それでもやられるときはやられるからな」
どんな人間でも不死身なわけでもなければ、隙がないわけでもない。
間隙を縫われればそれまでだ。
今のところ、前参謀総長のルートヴィヒ・ベック宅で厄介になっているが、普段はゲシュタポの捜査官が両隣を固めるアパートメントで暮らしている。さらに鼻の利く警察犬と、業務中は腕利きの実働部隊と補佐官とが周りを固めていた。
それでも、多くの高官や親衛隊将校らがパルチザンらに狙われる事件が後を絶たないように、弱点になるであろう箇所はここぞとばかりに狙われるものだ。
カルテンブルンナーも、ミュラーも。そしてネーベもそれを危惧している。
そして、ともすれば心配しすぎだと思われてもやむを得ないほど彼女は弱い。
マリーは子供なのだから仕方ないと言われればそれまでだが、それにしたところで、肉体的な意味で考えても年齢相応の発達をしていないのではないかと思わせる。
「とりあえず、長官。職務中は、マリーの周りにはマイジンガーもナウヨックスもいる。奴らには少々”ギャング的”なところもあるが、どちらも前線での作戦を経験している。そうした危機管理能力はベスト中将やヨスト少将を凌ぐだろうから彼らに任せれば良いかと思われますが」
ポーランド戦においてアインザッツグルッペンの指揮官代理を務めたマイジンガーと、グライヴィッツ襲撃を決行した秘密工作員のナウヨックス。どちらも前線経験の豊かなゲシュタポの捜査官と言える。
もちろん、決して彼らの能力を買いかぶっているわけではないが、これに加えてベストやヨスト、メールホルンやゲープハルトといった知識人たちが少女の横を固めているのだ。
マリーが考えなしの行動を取るとは考えられないわけではないが、とりあえず、首席補佐官のベストの報告を聞く限り、少女は大人たちの苦言を素直に受け取っている面があるから、そういった意味では同年代の少女たちのように大人の小言を受けて反発して暴走するということは考えがたかった。
「そうだな。マリーは素直だから我々も随分助かる」
言いながらほほえんだカルテンブルンナーは、首を片手で撫でてから息をついた。
窓から流れ込んでくる風は秋の気配を伴って、南方とは異なる冬の訪れを感じさせる。椅子に深く腰を下ろした国家保安本部長官は身の回りで起こる数多くの事件に振り回されながら、唯一、マリーの存在だけが彼の心に安らぎを与えている。
もしも今のカルテンブルンナーがマリーを失う事態になったら、かつての冷徹で残虐な一面が彼の狂気がドイツを恐怖のどん底にたたき落とすことになるだろう。容易にそんなことは想像がついて、刑事警察局長のアルトゥール・ネーベは、思わずぞっと背筋を震わせた。
エルンスト・カルテンブルンナー――彼は決して優しい男などではない。
それをネーベは知っている。




