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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XII 弓を引くヘラクレス
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11 世界の見え方

 ベルリン市内の公園の一角にある木の下で、敷物をしいた老婦人は膝下のワンピースに膝丈のドロワーズをはいた少女が隣で転がりながら本を読んでいるのを特に咎めることもせずに穏やかな眼差しのまま見守っていた。

 彼女は、泣く子も黙るナチス親衛隊――プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに本部を置く国家保安本部に所属する親衛隊将校である。だというのに、転がって本を読んでいる彼女からはとてもそんな空気など感じさせなくて、本当に彼女がナチス親衛隊の将校なのかと疑いを持たせることもままあった。

「子供なんだから、水遊びでも楽しんできたらどうだ」

 ベックのなにげないそんな言葉に、マリーは本から目を上げると鼻の上にしわを寄せてしかめっ面をしてみせると小首を傾げる。

「水遊びは、あんまり好きじゃないんです」

 控えめな彼女のそんな台詞にベックは数秒考え込んだ。

「……まさかとは思うが、かなづちなのか?」

「――……」

 少女に気遣いをしながらも歯に衣を着せないルートヴィヒ・ベックの言葉に、マリーは絶句して閉口している。

 敷物に転がって本から顔を上げただけの少女の見開かれたまん丸の瞳を受けて、ベックは思わず声を上げて大笑いしてしまった。当然、そんな老人の反応にマリーは多いに気分を害したのだが、彼女の子供っぽい怒りなど、軍隊生活を長く続けたベックにとって大して恐れるものでもない。

 顔を真っ赤にして思わずと言った様子でベックに詰め寄ったマリーの華奢な体を両腕で抱き留めた夫の、そんな様子に口元に手を当てて夫人も控えめに笑っている。

 傍目には本当の祖父母と孫娘のようだ。

「そんなに笑わなくてもいいじゃないですか、ベックさん」

 唇を尖らせたマリーに、ベックは苦笑しながら眉尻を下げると「すまない」と言いながら、不意に視界の隅に入った男の姿に目を細めた。

 ベックの元に親衛隊の少女が預けられているというのは、すでに高官の間では有名になっていることだったから、多くの組織の高官たちが興味を抱いて曰く「ナチス親衛隊唯一の女性将校」をおもしろ半分に見物に来る。

 はっきり言って家主のベックにしてみれば騒がしいだけの良い迷惑で、この日も日々の喧噪から逃れるためにピクニックに来ていたのだが、全く持って無駄なこととはまさにこのことだ。

「別に無理矢理水遊びをしろとは言わん、ゆっくりしていればいい」

 堅い声でそう言いながらマリーを抱き留めていた手を離すと、立ち上がりながらポケットに突っ込んでいたタバコを取り出した。

 すでに穏やかな表情とは言い難い夫に、夫人はそっと眉をひそめてからマリーの頭を軽く撫でると改めて自分の手の中にある本に視線を落としてしまった。

 男――軍人の世界に、女が入り込むものではない。

 たった今までの会話をまるで気にも留めていないようなベックの後ろ姿を視線を流すだけで見つめてからマリーは再び夫人の隣に転がったままで読書を再開してしまった。

 穏やかな風が心地よく流れていく。

「面白い顔ぶれだな」

 特に感慨を感じさせることのない声で告げながらベックは紙巻きタバコに火を灯すと、マリーと妻がいる場所には声が届かない程度に離れた距離を保って唇をへの字に曲げた。

「ヒトラーが、随分とパウルスを買いかぶっているようだが、その顔つきから察するに展望はあまり良くなさそうだな」

 冷ややかともとれる前参謀総長の言葉に、現参謀総長のフランツ・ハルダーが小さく頷いてから、ちらと老婦人の横に転がっている金髪の少女を見やった。

「パウルスは優秀な男だが、今回の東部での功績はあの男の手柄とは言い難い」

 代わりに口を開いたのはハルダーの横にいる一見温厚そうな大柄な男だった。全身から放たれる空気感はとてもではないが一般庶民のそれではない。

 貴族然とした立ち居振る舞いは堂々としていて、それは見る者の多くを圧倒させるには充分だ。

 ドイツ国防軍屈指の名将。

 彼はドイツの国内外からそう恐れられる。

 ――フリッツ・エーリッヒ・フォン・レヴィンスキー・ゲナント・フォン・マンシュタイン。それが彼の本名である。

「”たまたま”ソ連で軍事クーデターが発生し、”たまたま”我々にとって都合良く事が運んだだけの事だと、ベック閣下もご承知のこととは思いますが……」

 言葉使いこそ年長者であるルートヴィヒ・ベックを立てているマンシュタインだが、その表情からは苦々しいものを隠し切れていない。

 ハルダーとマンシュタイン。

 ベックにとって彼らが「珍しい」メンツなわけではない。

 ふたりの国防軍高級将校と共にいる残りの三人が、ベックにとって警戒心をいだかせる。

「それで、武装親衛隊と突撃隊が何の用だね?」

 武装親衛隊作戦本部長官ハンス・ユットナー大将と武装親衛隊装甲軍団司令官パウル・ハウサー大将。そして突撃隊参謀長マックス・ユットナー大将である。

 この五人の武装集団の司令官たちが顔を合わせているなど珍しいにも程がある。

 なにより、ベックにとって突撃隊はともかくとして、親衛隊の連中とは犬猿の仲でもある。

 もっとも、マックス・ユットナーにしろ、ハンス・ユットナー、パウル・ハウサーにしろ彼らも国防軍の出身で、ハウサーにいたっては伝統あるプロイセン軍人の出自だ。

 (たもと)を分けた形になってはいるが、彼らは総じてドイツを破滅に導きたいわけではない。むしろその逆だ。

 現在、武装親衛隊で装甲軍団司令官を務めるハウサーはベックと同年でありながら、いまだ武装集団の指揮官を務める猛者である。彼の働きがあってこそ今の武装親衛隊の地位があると言ってもいいだろう。

 そんな彼の功績をベックは認めていないわけではない。

 認めていないわけではないのだが、パウル・ハウサーの生来の、と言ってもいいだろうか。どこか威圧的な空気に対し、最年少にあたるハンス・ユットナーは困った様子で微笑を浮かべており、一方、国防軍側の最年少者であるマンシュタインは口にこそ出しはしないものの煙たそうな光を穏やかな眼差しの下に隠している。

 そんな一同の空気に大きな溜め息をついたのは突撃隊参謀長であり、マンシュタインとほとんど年齢の変わらないマックス・ユットナーだった。

「わたしは、ルッツェ大将から彼女にお土産をもってきただけでしてね」

 突撃隊(SA)は現在、武装組織としての機能をほとんど失っていると言っても過言ではない。かつて、前突撃隊司令部に対する粛正が行われた後に彼らの地位はハインリヒ・ヒムラー率いる親衛隊(SS)に取って代わられた。そんな状況を、幕僚長のヴィクトール・ルッツェが面白く感じているわけではないが、それでも彼ら――突撃隊には国防軍にとって大きな意味のある組織でもあった。

「……彼女?」

ハイドリヒ嬢フロイライン・ハイドリヒのことです」

 ベックが問い返すと自分の胸の前にバスケットを上げたマックス・ユットナーは、暖かな日差しの下で本を枕にして船を漕いでいる少女を見やると肩をすくめる。

 マックス・ユットナーは、マリーがルッツェを何度か訪ねるうちに顔見知りとなった。

「特に貴官らの”ご機嫌伺い”に来たわけではない」

 溜め息混じりにそう言うと、国防軍と親衛隊の重鎮らに視線を走らせる。そのうちのひとりは自分の弟だが、今のところ六人のうちの最年少者として口を慎んでいるらしい。どちらにしたところで、「高圧的な」パウル・ハウサーのお()り役といったところだろう。

 弟が前参謀総長のルートヴィヒ・ベックのところへ、パウル・ハウサーを案内するのだという話しを突撃隊幕僚長のルッツェにしたところ、ならばケーキでも持って行ってくれということで本部の近くにあるパン屋が焼いたケーキを押しつけられたマックス・ユットナーだった。

 こうした事情から「ルッツェに話さなければ良かった」と、マックス・ユットナーは後悔したわけだが、時すでに遅しと言った状況で大変空気の悪い親衛隊高官と国防軍高官の顔合わせの場に同席することになったのである。

「パウルスか……」

 そんなマックス・ユットナーを気に掛ける様子もなく、パウル・ハウサーは顎に片手を当てたままでぽつりとつぶやいた。

「あれは、然るべき部署で使ってやれば優秀な事務屋だが、前線なぞで使い物になるのかは果たして謎だな」

 ベックとマンシュタインの会話を聞いていたハウサーが言えば、ハルダーは気難しげな眼差しのままで頷いた。

 フリードリヒ・パウルスは東部戦線では倒れたヴァルター・フォン・ライヒェナウ元帥に代わって部隊の指揮を執ったが、ソビエト連邦の軍事クーデターがなければあるいはどうなっていたかわからない。

 多くの前線指揮官にそう思わせる程、パウルスは前線での指揮経験が圧倒的に不足している。

 東部戦線における偶然の積もり積もった勝利によって、国家元首であるアドルフ・ヒトラーは随分とパウルスの指揮能力を買っている様子だが、一同に会する男たちには疑いの目を向けるには充分だ。

「戦争に偶然はつきものだが、偶然と指揮官の力量を混同することは賛成できんな」

 もっともらしいハウサーの言葉にベックは親衛隊高級指導者を見やる。

 武装親衛隊という組織の頂点近くに立ちながら、彼は今でもその思想の行き着くところは軍人そのものだ。年老いた、しかし鋭い眼差しの印象的な老将はややしてからぎろりとこっくりと眠っている少女に視線を放つ。

「パウルスの一件はとりあえず置いておくとして」

 この際新たな戦場に投入されるわけではない。

 そう考えればアドルフ・ヒトラーがパウルスを持ち上げたところで、当面問題が生じるわけではない。

「貴官のところに預けられた親衛隊員がいると言うのだが?」

 マックス・ユットナーの物言いからわかるだろうに、あえてそれを聞いていない様子でハウサーはベックに問いかけた。

 まるでその場にいる他の連中などどうでも良いと言いたげだ。

 ハウサーがベックと話し出したところで、マンシュタインとハルダーは向かい合って何事か話し込んでいるが、そんなふたりの会話にマックス・ユットナーが口をはさんでいる。マックス・ユットナーにしてみれば、国防軍に送り込む兵士たちの基礎訓練は突撃隊で代行しているわけだから国防軍と全く縁がないというわけでもない。

 ナチス親衛隊は基本的に男性のみで構成される。

 その少年団でとも呼べる組織がヒトラー・ユーゲントと呼ばれ、女子は入団することが許されていない。それらのことからもわかるように、ナチス親衛隊に女性が所属するなど、創設以来前代未聞のことだった。

 ヨーゼフ・ディートリッヒ(つて)にナチス親衛隊に新しく所属することになったという国家保安本部の親衛隊将校について、ハウサーはもの申すと言った雰囲気だ。

「そもそも預けるとはどういうことだ?」

 つっけんどんなハウサーの言葉にベックは肩をすくめてから、敷物の上で丸くなって眠ってしまっている少女を横目に眺めると人差し指でさした。

「親衛隊の事情など退役軍人には興味のないことだから、その辺りの詳細はそちらの親衛隊本部の長官にでも聞いたらどうだね?」

 彼女の所属は国家保安本部と親衛隊全国指導者個人幕僚部であると、ルートヴィヒ・ベックはフランツ・ハルダーから聞いていた。

 つまるところ、彼女の上官はエルンスト・カルテンブルンナーでありカール・ヴォルフである。

 どちらもまだ若く、ベックやハウサーにしてみれば若造と言っても良いだろう。

「……しかし、ヒムラーもヒムラーだ」

 吐き捨てるようにハウサーは舌打ちした。

 しわの寄った眉間を見ているだけで、彼がどれほど苛立っているのかがよくわかる。

「あんな子供に勲章を推薦したなど、狂気の沙汰だ」

 前線に立つ兵士たちをたたえずに、たかだかままごとに興じているようにも見える子供に勲章を授けるなど事情を知らなければ苛立ってもおかしくはないだろう。

 鬼のような形相のハウサーがが最も気を揉んでいるのは、自分の部下たちの士気に関わる問題でもあるからだろう。そんなことはベックらにはすぐに察しがついた。

 ベルリン市内で、安全に生活しているままごとでもしているようなあどけない面立ちの少女。

「しかし、ハウサー大将。お嬢さん(フロイライン)は噂では、例の赤いオーケストラ(ローテ・カペレ)の摘発にも絡んでいるらしいと聞いているが?」

 そこでやっと話しに割り込んだのは突撃隊参謀長のマックス・ユットナーだった。

 彼も初めこそは、ルッツェが随分と入れ込んでいる可愛らしい少女に対して、どうしてこんな子供が親衛隊員なのだと不審に思ったものだ。

 しかしルッツェと共に彼女と言葉を交わすようになってから、マックス・ユットナーの印象は少しずつ変化していったと言っても良いだろう。

 マリーはどこぞの自己顕示欲の強い高官たちの夫人らとは異なり、決してことさらに自分の主張をしたりするようなことはない。むしろ、親衛隊少佐という地位を持ちながら控えめだと言っても良いくらいだ。

 マックス・ユットナーは、マリーがルッツェのところに遊びにきた折り、どうして親衛隊員などになったのかと聞いたことがある。

「……国を憂うのに、立場とか地位とか関係ありますか?」

 その言葉が指し示すのは、マリーにとって親衛隊少佐という階級がそれほど大きな意味を持っているわけではないということ。

 彼女にとってそれは大した問題ではないということ。

 時折、マリーは驚くほど大人びた眼差しを放つことがある。

 そんなどこか不思議な少女に、マックス・ユットナーは知らずに目を奪われていた。

「かわいいだろう」

 まるで自分の娘を自慢するような笑顔でヴィクトール・ルッツェに言われては、マックス・ユットナーも言葉に詰まったものだが交流を深めていくうちにわかったのだ。

「彼女にとっては我々の、権力も地位もどうでもいいことなんだろう」

 マリーには男たちがどんな権力の椅子に座っていようとも興味のないことだ。だから、ベックやハルダー、ルッツェやユットナー兄弟の横で自然体で萎縮もせずに笑っていることができる。

「ハウサー大将が思うほど、彼女は受勲したことを大層なことだとは思っていないだろうし、そんな些細なことで目くじらを立てるのであれば、ハウサー大将の器もたかが知れていると取られるのではありませんかな?」

 受勲を受けることは些細なことではない。

 マックス・ユットナーもそんなことはわかっている。

 しかし、マリーにとっては些細なことなのだ。

 年頃の女の子は、そんな無粋なものに興味は持たない。

 ファッションと、甘い菓子が一番の興味の対象だ。思春期の少女が男たちとは感性が随分と違うのだということを、多くの男たちが気がついていないのである。

 戦争に勝つことや、国のためにあることなど、少女らにとっては二の次だ。

「あのくらいの子供は、勲章よりもネックレスのほうがよほど好きだろうからな」

 キラキラと輝く宝石のついたネックレスやイヤリング。

 そういったもののほうが大好きだ。

 他には甘い菓子があればそれで女の子は機嫌が直る。

 言いながらベックにルッツェから託されたバスケットを手渡すと、マンシュタインやハルダーの会話に戻っていった。

 相変わらず眉間を寄せて機嫌の悪そうな表情を浮かべているハウサーだが、マックス・ユットナーの言葉に反論を封じ込まれたようで、それからしばらくたってから長い溜め息をついた。

 男たちが思うほど、少女は勲章や階級などを気に留めてはいないのだ、と……。

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