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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XII 弓を引くヘラクレス
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9 隔たりと接近

 東部での事実上の戦争の終結は、占領地方で活動を行う警察機動部隊――アインザッツグルッペンの隊員たちの精神に多大な負担を強いる結果になった。

 パルチザン掃討作戦という大義名分の元に行われるのは、ドイツ史上でもまれに見る大量処刑――あるいは殺戮――である。

「軍人共は”気楽”なものだ」

 吐き捨てるようにして苦々しく呟いたエルンスト・カルテンブルンナーは手帳をめくると近日中の予定を視線だけでざっと確認した。できるだけ早く高官による会議をねじこみたいところでもあるが、現状の国家保安本部は外務省の敵性分子に関する捜査と、強制収容所に関係する汚職、横領などの捜査だけで正直なところてんてこ舞いだ。これに加えて占領地区に展開する行動部隊アインザッツグルッペンの拡張などを行えば、国家保安本部の中枢を構成する高級指導者たちが過労死するようなことになりかねない。組織の維持のためには、知識人の消耗を避けるべきだというのがカルテンブルンナーの見解である。

 組織の秩序を維持すると言うことは、低学歴の間抜け共に務まる仕事ではない。愚鈍な間抜けであれば利用しがいがありはするだろうが、問題は野心の大きな愚鈍な連中だ。彼らは身の程を弁えず、自分の昇進ばかりに取り憑かれている。

 苛立たしげに舌打ちしたカルテンブルンナーは、時計を眺めてから肩をすくめると、内線電話で人事局長のブルーノ・シュトレッケンバッハ親衛隊中将を呼び出した。

 国家保安本部の高官による会議の打診を受けて、内線電話の向こうでしばらく考え込んだシュトレッケンバッハは「承知しました」と告げて、長官(カルテンブルンナー)との会話を終えた。

 常に局内の頂点にあって状況の把握を行ってに引き受けているゲシュタポのハインリヒ・ミュラー、刑事警察のアルトゥール・ネーベ、国内諜報のオットー・オーレンドルフらはともかくとして、国外諜報のヴァルター・シェレンベルクはその若さも理由からか、局長という立場にありながら、日々精力的に動き回っており、そんな彼を捕まえるのは至難の業だ。

 シェレンベルクの人脈の広さと、その能力の高さにはさすがのシュトレッケンバッハも一目置いていた。なによりも、彼はラインハルト・ハイドリヒの生前、国家保安本部長官の右腕とも言われた若き法学博士なのである。

 ヴェルナー・ベスト、フランツ・ジックスらと対等に渡り合い、彼らを叩きつぶした実力の持ち主。

 そんな彼は、ヨーロッパ諸国に広く独自の情報網を展開している。そしてそれはつまるところ、ドイツ国内にも同様だということだが、いつの時も穏やかな笑みを浮かべているシェレンベルクがなにを考え、なにを知っているのかは果たして謎が大きいところがあった。

 そしてそれこそが、彼が情報組織のトップとして君臨していながら。ドイツ随一の大スパイとも呼ばれる理由である。

 ゲシュタポの諜報員として活動していた頃は、平服で情報収集にあたることが多かったから、それこそシェレンベルクの行動は破天荒なものだったが、ハインツ・ヨストの後を継いで国外諜報局長におわまってからは、彼の行動も若干おとなしくなった。

 もっとも、それにしたところでシェレンベルクという男は常に精力的に動き回っているから、他の高官たちと比べると独自の行動が多いことは否めない。

 そういったわけからシュトレッケンバッハは、エルンスト・カルテンブルンナーから命じられた急な会議のセッティングに頭を抱える羽目に陥っていた。

 そんなことを考えながら国家保安本部の中庭に面した廊下を歩くシュトレッケンバッハは、木陰のベンチに腰をおろしている三人の男女に視線を留めた。

 年齢層はばらばらで、一見しただけならば親子三代に見えないこともない。もっとも、顔立ちが全く違うから、血縁関係は感じられないし目撃した張本人であるブルーノ・シュトレッケンバッハは彼らの素性を知っている。

 金髪の少女を挟んでマイジンガーとベックが腰掛けているが、何と言うべきか奇妙な構図だ。

 ベックはどこか不機嫌そうな眼差しのまま、マリーしか見ていないし、マイジンガーはマイジンガーで威圧するような視線を時折ベックに走らせている。そんな険悪と言ってもいいだろうふたりの年上の男に両脇を挟まれている少女はいつもと変わらない笑顔のままで自分の両膝に手をついていた。

 遠目に見えるだけだが、まだ骨折した左腕の腫脹はひいていないようだ。

 なにを話しているのだろう。

 そんなことをシュトレッケンバッハは思ったが、結局それ以上は彼らを観察せずに踵を返した。

 はっきり言ってしまえばマイジンガーなどに用はない。ルートヴィヒ・ベックはそもそも部外者だったし、マリーは休暇中なのだ。

 一方、マリーと共にマイジンガーとかろうじて言葉を交わしていたベックはちらりと自分の腕時計を眺めてからさりげなく少女の肩に大きな手のひらで触れる。

「マリー、そろそろ妻が夕食の準備をして待っている頃だ。そろそろ帰るぞ」

「はい」

 ベックに促されて立ち上がったマリーは、ベンチに腰を下ろしたままのマイジンガーに対してひらひらと他意もなく片手を振った。

「それじゃ、帰ります」

「……マリー」

 ニコニコと笑っている少女の名前を呼んだヨーゼフ・マイジンガーは、顎に片手を当てて数秒考え込んでから立ち上がるとじろりとベックを見つめる。

 マイジンガーにしてみれば、国防軍の将校――しかも退役している――など恐れる相手ではない。

「少し待っていてくれ」

 ベックを威圧するようにそう言ったマイジンガーは大股にふたりに背中を向けると早足で自分の執務室へと向かっていった。それから数分してから戻ってきたマイジンガーの手の中には一冊のファイルがあった。

「少々量があるが、仕事に戻ってきてから読むよりは時間の節約になるだろう」

 言いながら無造作に手渡して軽く片手を上げるとそのままふたりの前から姿を消した。まるで、ともすればベックの前になどいたくもないとでも言いたげだ。

「……あの男」

 マイジンガーの背中を見つめながらベックは不意にぽつりとつぶやいた。

「どうかしたんですか? ベックさん」

「いや、なんでもない」

 思い出すのは一九三八年に起きたブロンベルク罷免事件だ。

 眉をひそめたまま立ち尽くして考え込んでいるルートヴィヒ・ベックを見上げた少女は胸にマイジンガーから手渡されたファイルを抱きかかえるようにしてから、長い金色の睫毛をまたたかせる。

 噂では、事件の一端に先ほどのゲシュタポの捜査官であるヨーゼフ・マイジンガーが絡んでいるらしいという噂は、ベックの耳にも聞こえていた。

 もちろん、ベックがマイジンガーに対して余り快い感情を抱いていないのはそればかりが理由ではない。しかし、そんなことを目の前の年若い少女に話したところでどこまで通じるものかベックにはわからなかったし、子供を前にして残虐な話しなどしたくないというのが本音だ。

 結局、口ごもった様子でかぶりを振ったベックは少女をエスコートするようにしてその肩に手をかけるとゆっくりと歩調を合わせるようにして歩きだした。

 彼女がよく転倒するのは、一緒に生活をするようになって数日ですぐに気がついた。

 ハインツ・グデーリアンなどは、彼女が足が良くないのは主に運動不足のせいだろうと言ったが、すでに二回ほどテロリズムの対象にされている少女が安易に運動場に出ることなどできるわけもないだろう。

 もっとも、グデーリアンなどはアクティブな性格だから、ならば年寄りと一緒に運動でもしよう、などと言い出しそうだ、とベックは思うと口元をわずかに綻ばせた。

 それにしても、と彼は思う。

 彼女はなにをどこまで知っているのだろう。そして、どうしてこんなにも「悪辣な」と評される国家保安本部の連中に対して怯えも悪意も、そして卑劣さもまるで感じさせない笑顔をたたえたままでいられるのだろうかと。

 多くの親衛隊員たちが”そう”だ。

 門前の警護をしている下士官らですら、マリーに対しては穏やかな笑顔を見せる。

 通りすがる親衛隊員たちがベックに対してナチス式の敬礼をするのを感じながら、それらに対して形ばかりの敬礼を返して彼は横を並んで歩いている少女を視線だけで見下ろした。

 彼女は不思議な少女だ。

 いつも花が咲いたような笑顔を浮かべている。

「……少佐殿シュトゥルムバンヒューラー、足元に気をつけて」

 すれ違ったゲシュタポの捜査官からにこやかにそう言われてマリーは、少しだけ小首を傾げると「はい、ありがとう」と告げた。

「マリー、君はなにを”知って”いるのだね?」

 ふと問いかけたベックに、少女は体重を感じさせない歩き方で爪先でくるりとステップを踏むと、年老いた男を見上げるようにして覗き込むと青い瞳でにっこりと笑った。

「……さぁ?」

 顎に人差し指を押し当てて、マリーは笑う。

 いつもと変わらない、得体の知れない笑顔で。

「でも、ベックさんが望んでいることと、”わたし”が知っている事は”きっと”どこかで繋がっているのかも知れませんね」

 朗らかな声色を響かせた少女は、右手にファイルを持ったまま両腕を開くとバランスを取るようにして、まるで一本の線の上を歩くように歩きだす。ふらふらと時折不安定に揺れる彼女の足取りがどこかおぼつかないものを感じて、ベックは思わず彼女の腰を捕まえようと片手を伸ばした。

「ベックさんや、他の人たちが考えていることは必ずしもひとつとは言えませんけど、”わたしたち”は別にドイツを滅ぼしたいわけじゃないんです」

 小鳥が歌をうたうように彼女はよどみなく告げる。

 傾いている夕日を背中にしたマリーはベックの手が自分に触れる前に振り返った。

 逆光で少女の顔は濃い影が落ちる。

「……だから、”心配”しないで」

 人々の思いがひとつでなどあるわけがない。

 人とはそれぞれに強い理想を持っているものなのだから。

 ベックやグデーリアン、ハルダーらすら各々が考えを異にしているように。まるでナチス親衛隊に所属する人間たちですらもそうなのだと、マリーは告げる。

 ベック家で生活をするようになった彼女はいつも朗らかで子供らしい笑顔をたたえているから、なにを考えているのかわかりづらいところはあるものの、それでも彼女は時にひどく大人びた眼差しをちらつかせることがあった。

 心配しないで――。

 そう言ったマリーを見つめたベックはそのまま言葉を失った。

 まるで純粋な子供の瞳に、内心を見透かされたような気分にさせられたからだ。

「マリー……」

 絶句したルートヴィヒ・ベックは、少女の体を捕まえ損ねて宙に浮いた手を、そのまま呆然と引き戻すと思わず自分の胸の前で拳を作った。

 そう。

 戦う決意は、当の昔にしていたはずだ。

「……帰ろう、マリー」

はい(ヤー)

 胸の内にある決意を再認識したベックは、それから数秒して我に返ると少女に追いついて隣を歩きだす。

 自家用車の停められている駐車場まで歩いた彼は、金髪の幼げな少女を助手席に座らせるとそうしてエンジンをかけた。

 戦う決意をしていたはずだ。

 それはそう。自分の未来のためではなく、マリーらのような子供たちのドイツのために。彼らの未来を守るために、戦う決意をしていたはずだ。

 戦いとは、外国との命のやりとりだけではない。

 国内でするそれもあるはずだった。そして、戦う理由はどちらも同じだ。子供たちに、輝かしい未来と誇りを残すために戦うのだから。

 車を発進させたベックの服の裾をマリーが軽く引いた。

「ベックさん」

 呼び掛けられる。

「どうした?」

「……眠い」

 膝にマイジンガーから手渡されたファイルを乗せたままでうつらうつらと船を漕ぎ始める少女に、退役軍人の男は苦笑した。

「眠っていなさい」

 そう言葉を返してくしゃりと少女の頭をかき回したベックに、マリーは両目を細めるとそのまま助手席のシートに深く背中を預けて無防備に眠りへ落ちていく。少女が完全に睡魔の腕に捕らわれる頃、ベックの鋭い観察眼がマリーの肉体と精神活動の相関関係に気がついた。

 マリーが頻繁に居眠りをしているのは、ベック家を訪れて以来変わらないことだが、特にこうしてどこか鋭い思考を披露した後はそういった反応が強くなる傾向にあるようだ。

 もしかしたら、彼女の精神活動は周りが思う以上にずっと彼女の肉体に負担を敷き、疲労させているのではないのだろうか。

 そうだとすれば、国家保安本部に在籍し常に難解な業務と問題に対して思考を巡らせているということは、少女の肉体に大きな負担をかけ続けることになるのではあるまいか。

 黄昏の中で眠りについた少女の横顔を見やってベックはハンドルを握りながら、思考の深みへとはまっていった。

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