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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XII 弓を引くヘラクレス
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8 混迷の予感

 こつり、と靴音をたててルドルフ・ランゲは車を降りた。

 ラトビア、及びリガの保安警察及びSD司令官を務める彼は、この夏に国家保安本部長官の座におさまったエルンスト・カルテンブルンナーの命令を受けて急遽航空機を使ってベルリンへと戻ってきていた。

ヒトラー万歳(ハイル・ヒトラー)!」

 カルテンブルンナーの執務室へと案内されたランゲは言いながら右腕をぴんと張り上げて敬礼をすると、国家保安本部(RSHA)の新長官の前で姿勢を正した。

 ルドルフ・ランゲがカルテンブルンナーと直接顔を合わせるのは初めてのことだ。

 目の前のオーストリア出身の大男は立ち上がりながらわずかに表情を緩めると執務机の前でまっすぐ姿勢を正しているランゲにほほえんだ。

「どうだね、バルト海の方は」

「はっ、現在は単発的なパルチザンやレジスタンスの活動は見られるものの、”大規模な”活動は現在のところ小康状態を保っております。昨年の一斉摘発によって、特定の不穏分子はあらかた処分されたものと考えております」

 ランゲはヴァルター・シュタ―レッカーやハインツ・ヨストの指揮下のアインザッツグルッペンA隊に所属し、その中のアインザッツコマンド2部隊を指揮している。三千人のアインザッツグルッペンの中でも生え抜きの部隊として、ランゲ自身もその功績によって年の初めに行われたヴァンゼーで行われた会議に招待されている。

「なるほど……。パルチザンやレジスタンス共の活動は、我々ドイツ人の行動に危険を及ぼすことも考えられるからな。危険の芽は徹底的に潰しておかなければならんな」

 顎に片手をやりながらそんなことをつぶやいたカルテンブルンナーを見つめていたルドルフ・ランゲは、ふと執務机にいくつかの写真立てが立てられていることに気がついて、わずかに訝しげな表情をちらつかせた。

 国家秘密警察の警察官僚として将来有望な、と言われているランゲはこの年三二歳になる。簡単に言えば六局の局長を務めるヴァルター・シェレンベルクと同年齢の法学博士だ。

 数ヶ月前、ランゲがハイドリヒのその執務室を訪れた時は写真立てなど置かれていなかったと記憶している。ざっと執務室を視線だけで見渡してから、彼は冷静に室内の変化を観察した。

 前任のハイドリヒが暗殺され、カルテンブルンナーが新しくその地位に就いた。そしてたった数ヶ月の間になにがあったのだろう。とは言っても、ランゲがカルテンブルンナーやハイドリヒのことをよく知っているわけでもない。

 カルテンブルンナーも、すでにシュタ―レッカーが提出した過去の書類を読んでいるからラトヴィアの状況はある程度把握している。現在の指揮官は四二歳のフンベルト・アッハマー・ピフラーダー親衛隊大佐で、実質的には国家秘密警察(ゲシュタポ)の警察官僚のひとりだった。

 東部の状況は落ち着きを取り戻しつつある。

 しかしながら、国家保安本部の警察機動部隊はそれに反して忙しさを増しつつあった。そんな中で保安警察及びSD司令官を務めているルドルフ・ランゲをベルリンに召喚すると言うことはそれなりのリスクを伴っている。しかし、それをわかっていて、カルテンブルンナーはラトヴィアの警察機動部隊の前線指揮官を召喚した。

 軍隊の行動が落ち着きつつある今こそが危険な時期でもある。

「国防軍の連中は、将校を含めて思考が軟弱すぎます」

 ランゲはしばらく考え込んでからそう告げた。ちなみにそんなことを言う彼は、国防軍を含めた武装親衛隊などの自分たち――警察機動部隊に対する評価も知っている。彼もカルテンブルンナーらと同様に法学博士の博士号を持つ知識人のひとりだ。少なくとも、軍人たちなどの荒くれ者と比較してずっと頭の回転が速いという自負はあった。

 彼らの評価を知らなければ話しにならない。

「もっとも、武装親衛隊共もエリートを気取っていますが、所詮社会の底辺であることには変わりがありませんが」

 大胆にも国家保安本部長官の前でタバコに火をつけながらランゲは口元を歪めるとそう言った。

 国家保安本部の警察官僚。

 それが彼のプライドだ。

「そういえば、閣下。武装親衛隊の警察師団……、確か第四師団でしたか、彼らを国家保安本部(RSHA)の一存で使うことはできないのですか?」

 ふとなにかを思い出したようにランゲはカルテンブルンナーにそう告げると小首を傾げた。

 東部に展開する行動部隊アインザッツグルッペンの総兵力はたった三千人ほどでしかない。その少人数の部隊でアインザッツグルッペンは肉体的にも精神的にも過酷な任務を遂行している。そんな実働部隊を指揮するひとりの「前線指揮官」として、ルドルフ・ランゲにしてみれば、交代人員の確保は大きな問題でもある。

「第四SS警察装甲擲弾兵師団、か……」

 ランゲに言われてカルテンブルンナーは首を傾けた。

 武装親衛隊に組み込まれた警察部隊――第四SS警察装甲擲弾兵師団はヒトラーの命令によって組織された秩序警察から成る武装親衛隊師団である。

 ヒトラーの命令を受けて、ヒムラーが組織したこの警察部隊は秩序警察(オルポ)から選抜されたため、実質的には国家保安本部の指揮下にはない。ちなみにごく最近やっと正式に武装親衛隊の配下に組み込まれたばかりだった。

「だが、あれも今は武装親衛隊に組み込まれているからな。わたしの権力がどこまで及ぶかは正直なんとも言えんな」

「なるほど」

 国家保安本部長官の言葉を受けながらくぐもった返答を返したランゲはタバコの先に点った火を凝視してから顔を上げる。

「もちろん武装親衛隊である以前に、奴らのボスは秩序警察長官のダリューゲだからな。仮に、こちらが武装親衛隊に懐柔できたとしても、ダリューゲが黙ってはいないだろう」

 冷静なカルテンブルンナーの指摘に、灰皿にタバコの灰を落としたランゲはなにげなく執務机の上に置かれている木製の写真立てを手に取った。

 そもそもランゲがベルリンを訪れたのはカルテンブルンナーの召喚を受けたからで、彼の意志ではない。

「お嬢様なんていらっしゃいましたっけ?」

 大柄なカルテンブルンナーの背後から乗り出すようにして両肩に手をかけている少女が白い花の花冠を頭にのせて笑っている。

「あぁ、その子か」

 ベルリン市内の公園だろう。

 木陰に腰掛けて本を片手にしているカルテンブルンナーと、花冠をつけた少女が写りこんでいた。薄い色彩の袋袖の半袖のブラウスに、ハイウェストの膨らんだスカートをはいた少女は、髪の色彩も薄ければ瞳の色彩も薄い。

「かわいいだろう」

「かわいいですね」

 骨折をしているのか片腕を吊っており、どこか痛々しさを感じさせる。そんな少女の写真にランゲはわずかに眉をひそめてから人差し指の先で写真立てのフレームを打った。

「可愛らしいですが、少し細すぎませんか?」

 痩せすぎだ、という言葉をあえて控えてランゲは写真の少女を見つめている。

 ベルリンから遠く離れてラトヴィアで生活をしているランゲにしてみれば自分の仕事が支障なく運べば良いだけのことであって、ドイツ本国での動きなど知った事ではない。

「うぅむ……」

 痩せているというランゲの指摘に、困惑した様子でうなり声を上げたカルテンブルンナーはまるで独り言でも言うように「それなりに頑張って食事をさせてはいるんだがなぁ」とつぶやいた。

「いかんせん小食でな」

 しかも食べても食べても痩せていく。

「ひとつ言っておくが、娘ではないぞ」

「そうなんですか?」

 一部の親衛隊高級指導者からは、カルテンブルンナーの隠し子だとか、ミュラーの隠し子だのと言われることもあるが全く持って根拠のない言いがかりだ。

「それに仮にわたしの子供だったなら、本当に良くできた娘だ……」

 ランゲの手の中の写真立てを眺めやってから目尻を下げてほほえむと自分の豪華な椅子に背中を深く預けると大きく息をついた。

「なにより大概、警察官の子供などはろくでもないと決まっている」

「そうですかね?」

 苦笑しながら言ったカルテンブルンナーにランゲが言葉を返すと、「ところで」と話題を切り替えた。

「はい、閣下」

「報告書によればラトヴィア方面はあらかた平定されたと考えているが、現状はどうなっている?」

「……――」

 少女に関する話しをしていたときの口調とは打って変わって真剣な物言いに戻ったエルンスト・カルテンブルンナーに対して、ルドルフ・ランゲは灰皿に煙草を押しつけると表情を改めた。

「前長官閣下の命令に基づき、相応の処置を行っておりますが、戦争の事実上の終結に伴い、”東部”からの所属不明の”難民”が増加していることは事実です」

 そしてその所属不明の難民は、ドイツ軍にとって脅威の的になることもまた事実だ。

 厄介なのは一般民間人に紛れ込んでいるパルチザンだ。

 彼らは女子供であっても見くびることなどできはしない。

 両手を挙げて降伏してきたかと思えば、その袖口に手榴弾を隠し持っていたりすることがままあった。

 彼らは卑劣だ。純真無垢な子供たちにナショナリズムを吹き込み、暴力という行為を強いる。思慮の浅い短絡的な子供たちを洗脳することなど簡単だ。

 執務机に写真立てを戻してランゲは肩をすくめると苦々しげに片目を細めた。

 せっかく苦労してラトヴィアを平定したというのに、戦争が終結したことによって不穏分子が押し寄せつつある。それは端的に言うならば、状況の混乱を予測させておりランゲにしてみれば頭痛の種であるには違いない。

 だからこそ、部隊の拡張を彼は望んでいた。

 もちろんその要望は、各地に展開する各行動部隊の四人の司令官たちからもカルテンブルンナーの元に上げられている。

 しかし部隊の拡張を求められても、元々国家保安本部の人員はそれほど多くない。すでに占領地域の治安維持のために許容範囲を超えていた。それが現実だ。

 部隊の拡張が無理難題であることはおそらく、カルテンブルンナーやランゲだけではなく指揮官の誰もがわかっていることだった。

「まったく難題ですな」

 ランゲは自分に言い聞かせるようにそう言った。

 国家保安本部の指揮するパルチザン掃討部隊が動いているからこそ、国防軍の安全が確保されているのではないか。

 多くのアインザッツグルッペンの隊員たちが思っているジレンマを、国防軍の兵士たちも、あるいは武装親衛隊の隊員たちも理解などしていない。彼らは、アインザッツグルッペンの警察機動部隊の隊員たちを血も涙もない冷血漢だとでも思っているのだろう。

「要望についてはこちらでも考えておく。とりあえず、ラトヴィアに限ったことではないが、充分に不穏分子を警戒しておけ」

「承知しました」

 カルテンブルンナーとそんな会話を交わしてから、執務室を辞したルドルフ・ランゲは報告書として提出したファイルのことをちらりと考えて手のひらで顎をなでた。廊下ですれ違った人物の見覚えのある顔にランゲは反射的に片手を上げる。

「ハイル・ヒトラー!」

 ヨーゼフ・マイジンガー親衛隊大佐。

 数年前のポーランド戦において、ランゲらと同様にアインザッツグルッペンを指揮した「残虐な指揮官代理」である。

 ランゲが知る限りでは同盟国である大日本帝国に「左遷」されていたはずだが、いつの間にドイツに戻ってきていたのだろう。

「ランゲ少佐か、なにか召喚命令でも?」

 マイジンガーは気のなさそうな問いかけをランゲに投げかけて、鋭い眼差しをちらりと上げると小脇にファイルを挟んだままで首の後ろを撫でる。

 正直なことを言えば、ランゲはこのゲシュタポ・ミュラーの旧知の間柄である警察官僚が得意ではない。

 いつもなにかと言えば威張り散らしていてそんなところが鼻につく。

 それがルドルフ・ランゲのマイジンガーに対する評価であった。

 もちろん、彼が威張り散らしているということだけが面白くない理由ではない。ランゲにとってみれば、マイジンガーは権力争いのライバル以外の何者でもなかった。

 だから、権力志向の強いマイジンガーの存在がランゲにとっては面白くないのだ。

「ラトヴィアの現地報告のために召喚命令を受けた次第であります」

 歯切れの良いランゲの言葉にマイジンガーは「なるほど」と相づちを打ってから、プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセの入り口がざわついた雰囲気に顔をそちらに向けた。

「大佐殿は、いつ日本からお戻りに……?」

「……ちょっとこれを持っていろ」

 手にしていたファイルをランゲに手渡すと、早足の歩きだすとあっという間にプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセのエントランスに姿を消した。あわててランゲがマイジンガーの後を追いかけると、そこには後ろに重心をかけて倒れ込んだのか、背後からラフな服装をした老人に受け止められて両目を見開いている金髪の少女がいた。

「マリー、君は休暇中ではなかったかね?」

 少女を認めてマイジンガーがそう言った。

「……執務室に忘れ物をしたから取りにきたの」

 老人には見覚えがあった。

 厳つい眼差しの、老人の長い腕に抱き留められている少女は、ややしてから体を起こすと肩越しに振り返りながら礼を告げる。

「ありがとうございます、ベックさん」

 マリーと呼ばれた少女の台詞でランゲは、その老人の正体に思い至った。

「わたしは付き添いだ」

 あからさまに不審な表情をたたえているマイジンガーに対して、憮然としたベックがマイジンガーにそう告げると、ランゲは忙しなく思考を巡らせる。

 参謀総長にまで上り詰めた退役軍人――ルートヴィヒ・ベック。

「また階段でこけたのか」

 口の悪いマイジンガーの台詞に、金髪の少女はニコニコと笑顔で「ごめんなさい」と言いながら差し伸べられた無粋な元刑事の手に自分の手を重ねて小首を傾ぐ。

「それで、なにを忘れたんだ?」

「万年筆を忘れてしまって」

 わざわざ休暇中だというのにプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセを訪れることもなかろうに。

 そんな台詞でも言いたげなマイジンガーを気に掛ける様子もなく、マリーは歩きだすと一歩ひいたところで自分を見つめているランゲに視線を留めた。

 カルテンブルンナーの執務室においてあった写真の中に写っていた花冠の少女だと思い至るまで数秒かかってから、ランゲはどうして国家保安本部に子供がいるのだろうと思うことになる。

「大佐殿、彼女は……?」

 そう問いかけたランゲはマイジンガーに、彼女はマリア・ハイドリヒ親衛隊少佐であると言われて事情を理解するまでに、さらに元ゲシュタポの捜査官からぶっきらぼうな説明を受けることになるが、いかんせん知識人とはほど遠いマイジンガーの説明はさらにランゲを混乱させることになった。

 退役軍人と共にプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセの廊下を歩いて行く少女を見送りながら、ランゲに渡したファイルを受け取ってマイジンガーはやれやれと溜め息をつくとどこか困った笑顔になった。

「長官のところに写真があったからと言って、長官の隠し子だというわけではないぞ」

「隠し子だったら、あんなところに写真を置いておかないでしょう」

 ランゲは応じながらベックと少女の後ろ姿を見送って肩をすくめるのだった。

「しかし、実績が曖昧なのに階級が高いというのは納得できませんな」

「それについては親衛隊長官の采配だから、我々が文句を言ったところでやむを得まい」

 ランゲの愚痴はマイジンガーに一蹴される。

「それはそうですが……」 

 子供と同じ階級であるというのが、ランゲには納得できないらしい。

 なにか言いたげな表情のまま、少女が消えた廊下の先を見つめてそうしてランゲは溜め息を漏らした。

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