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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XII 弓を引くヘラクレス
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7 追跡者

 コツコツと足音を鳴らしてヨアヒム・フォン・リッベントロップは落ちつきなく室内を歩き回っていた。

 執務机の上に放り出されているのは、宣伝省のゲッベルスが突きだしてきた国家保安本部に関係する調査ファイルである。そんなファイルに視線を放りながらリッベントロップは小さく舌打ちを鳴らした。

 国家保安本部を含むナチス親衛隊、さらにそのトップに君臨するハインリヒ・ヒムラーも忌々しいが、国民啓蒙・宣伝省を牛耳る「自称」プロパガンダの天才も全くもって忌々しいことこの上ない。

 結局のところいつも自分の足を引っ張ろうとするのは他でもない。政府高官たちなのだ!

 リッベントロップは自分のことを棚に上げて内心で相手を罵ると、乱暴にソファに腰を下ろしてからむっつりと考え込んだ。

「……なんとか国家保安本部の警察気取り共の尻尾を捕まえることはできんものか」

 独白するように呟いた彼はじっと目の前の空間を睨み付けてから首を傾げた。正直なところを言えば、決してリッベントロップ自身は謀略に長けているわけではない。しかし、それでも外務省の頂点にいる自分ならばラインハルト・ハイドリヒの存在しない国家保安本部に反旗を翻すことが可能なのではないかと思った。

 それにしたところでヨーゼフ・ゲッベルスのあの態度は忌々しい。

 そこまで考えてからリッベントロップはふと刑事警察で行われている強制収容所にまつわる一斉摘発を思い出した。現在、国家保安本部で行われている大規模な捜査は外務省と強制収容所に関するものだ。当の捜査しているゲシュタポなりクリポなりが、捜査していることを隠すつもりもないようで、傍目には大々的に捜査を行っているようにも見える。もっとも内容を公開しているわけでもないし、ゲシュタポに至っては設立当初から徹底的な秘密主義がしかれており、政府高官と言えども介入はほぼ不可能と言ってもいいだろう。

 ゲシュタポは外務省を。

 そして刑事警察は強制収容所の大規模な捜査を行っている。

 強制収容所の腐敗はドイツの産業を揺るがす巨大な犯罪とも言えるだろう。そして国家保安本部は、強制収容所がそうした「犯罪」の温床となっていることを知った上で放置したのだ。治安維持組織としての責任は重大だ。

 リッベントロップはなんとか辻褄を合わせるようにして思考に沈む。

 しかし、と外務大臣は考えながら軽く左右にかぶりを振ると片目を細めた。

 強制収容所の犯罪を糾弾するとなれば、親衛隊本部のひとつ――経済管理本部の長官オズヴァルト・ポールが黙っていないだろう。

 親衛隊理念に乗っ取った親衛隊員というよりは根っからの商売人で、常に多大な利益を上げることだけが彼の目的であるように思われる。そしてポールの指揮する経済管理本部の「財閥」を糾弾するとなれば、ナチス親衛隊から反発を受けることにもなるだろう。

 ポールの経済管理本部は、ナチス親衛隊の財布そのものなのだ。

 国家保安本部を非難するために、経済管理本部を引き合いに出すことは簡単なことだが、事態はそれですむほど小さな問題ではないということもヨアヒム・フォン・リッベントロップにもわかっていた。

 しかし、このままでは外務省は国家保安本部の歯車のひとつとして組み込まれてしまうかも知れない。

 策謀に長けた不快な組織。

 彼らの目をどうすれば背けることができるだろう。

 リッベントロップは一向に出口の見えない思考の底なし沼にはまりこんで何度目かの溜め息をついた。

 戦争がはじまってから、自分の周りは厄介ごとばかりで満ちている。

 なにもかもが思うようにいかない。全てが不快で仕方がなくてリッベントロップは軽くローテーブルの足を蹴り飛ばした。

 ゲッベルスがリッベントロップに提示してきた国家保安本部に勤務するショル兄妹の一件も興味深い話しではあるが、そもそも国家保安本部がナチス党の理念で統一されていないのは今に始まったことではない。

 悪くすれば「それがどうした」と受け流されるのがオチだ。

 あるいは、受け流す程度で済めばいいのだが、悪くすれば報復措置が待っているとも考えられる。

 腕を組んだままで結局「うぅむ」と考え込んだリッベントロップは、機嫌悪そうに舌打ちを鳴らしてから目を伏せてしまった。



「外相は自分が捜査の対象にされているのではないかとでも思っているのだろうな」

 プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセのゲシュタポ・ミュラーの執務室で、刑事警察局長のアルトゥール・ネーベはそう言った。

 外務省の捜査というのはあくまでもネーベとミュラーにとってみれば、ある種の建前でしかない。

 社会人のひとりとして。

 そして警察官僚のひとりとして、彼らは目の前の仕事に専念しているが、彼らが気に掛けているのはマリーを負傷させた犯罪者がのうのうと生活しているという点においてである。

 ショル兄妹の情報が「敵」の手に渡ったことは明かだが、それを外務大臣がどう利用するつもりであるのかはいまだに未知数だ。主に捜査に当たっているゲシュタポでは、おおかたそれらの情報をもって国家保安本部に強請(ゆすり)をかけようとでもしているのだろうというところだが、万が一、彼らが予想を超えた行動に出た場合も想定しなければならない。

「そんなところだろう」

 ネーベに応じたミュラーはタバコに火をつけながら自分の机の上に山と積まれている、外務省関連の捜査報告書を眺めてげんなりと肩をおとした。

「しかし多忙なのはわたしに限らんだろう」

 長い息を吐き出しながらミュラーが笑うとネーベは「まぁ」とつぶやきながら自分が持ち込んだファイルに視線をやった。

強制収容所(KL)のほうは相当捜査資料が山積みらしいじゃないか」

「それについてはその筋の専門家が動いているからそれほど大きな問題になっていないが、それでも相当手を焼いているようだ」

「そうなるだろう。あれだけの収容所の数だ」

「なにも下部の連中まで制裁を下さなくても良い。上の連中だけを見せしめに引き締めればそれで充分だ。後は、上についた連中がなんとかしようとするだろう」

 それでなんともならなかったら、徹底的な制裁を下せば良いだけのことだ。

 こんなときにヒムラーの僧侶のようなともとれる潔癖な親衛隊理念が言い訳に使える。もちろんそんなものはミュラーもネーベも頭から信用などしてはいないし、どうでも良い類のものでしかないのであるが。

「情報収集については専門家に任せておけばいいだろう」

 そのためにヘルベルト・メールホルンとリヒャルト・コルヘルが招集されたようなものだ。とはいえ、専門家がいるから自分たちが情報分析をしなくても良いというわけではない。

 現場の捜査と平行してゲシュタポもクリポも同時進行で別角度からの情報分析を行っている。どちらにしたところで、現在の国家保安本部はすでに犯罪捜査についても、不穏分子の摘発についても許容量など当の昔に越えている。

 たった五万人の職員で組織を維持していこうという方が無理難題なのだ。

 日々の頭痛の種にネーベが溜め息をつくと、ミュラーは書類棚の片隅に置かれたアルミ製の写真立てを見やった。

 彼にとって、実の娘のような国外諜報局に所属する少女の存在は権力闘争と、権力欲に疲弊しきったミュラーの心を唯一癒しを与える存在だった。そんな彼だったからこそ、マリーがテロリズムの対象となり、骨折を負う事態になった時は怒り狂ったものだがそれと同時に彼女がミュラーの指揮する国家秘密警察(ゲシュタポ)局に配属にならなくて良かったとも安堵した。

 ミュラーも自覚するとおり、ゲシュタポは荒くれ者の集団だ。そんなところに感受性の鋭い年齢の少女を放り込むなど狂気の沙汰と言えるだろう。

 ミュラーの革張りの椅子に腰掛けたまま眠っているマリーの写真にネーベがほほえんだ。さしずめミュラーが仕事のためにあいていた執務室をマリーの居眠り用にでも貸し出していたといったところだろうか。

 スフィンクスなどとあだ名される寡黙な警察官僚が、実のところ国家保安本部長官のカルテンブルンナーと並んでマリーに甘いことは組織内では周知の事実だった。もっとも、マリーに甘いとは言っても公私混同しているわけではない。

 ゲシュタポの長官として、彼は変わらず冷徹な辣腕を振るい続けている。

 ――ゲシュタポ・ミュラー。その名前は伊達ではない。

「どちらにしろ、早急に組織の拡充をしなければ国家保安本部は遠からず破綻するだろうな」

 それは金銭的な問題ではない。

 人員的な問題から破綻することは目に見えている。ただでさえ、国家保安本部に所属する情報将校や諜報部員、ゲシュタポや刑事警察らは過重労働を強いられているのだ。

「プラハのダリューゲ上級大将が我々に対して快く思っていないことは確かだからな。もっともあちらはあちらで、フランクの権力を押さえ込むために東奔西走しているようだが」

 チェコスロバキアで権力を握るカール・フランクとクルト・ダリューゲの主導権争いは傍目にも明白でそこにこそ付け入る隙があるのではないかと思われる。

 かつてのハイドリヒはベーメン・メーレン保護領副総督という椅子と同時に国家保安本部長官という椅子のふたつに座り続ける体力的にも精力的な一面を見せたが、ダリューゲにその素質があるとはネーベもミュラーもあるとは思っていない。

「”あの”男が、未だに秩序警察(オルポ)の権力を握っているのは大問題だな」

 警察組織はひとつの組織として統一されるべきだ。

 それがふたりの見解だ。

 あるいは国家保安本部の下にそのまま組み込まれれば良い。

 なにも秩序警察が完全に解体されてゲシュタポと刑事警察の中に取り込まれる必要はない。

 いわゆる一般警察が国家保安本部の下に組み入れられることによって、ゲシュタポとクリポの負担が大きく減ることになるだろう。

 事件現場で秩序警察と刑事警察の縄張り争いが発生することになるネーベにしてみれば、一般警察が未だに国家保安本部の外の権力の下にあるというのは大きな問題だった。たったそれだけのことで、事件の捜査をはじめる前に主導権をどちらが握るかでもめる事態になるのだ。

 腕を組み直したネーベはクルト・ダリューゲの不快な顔立ちを思い出して大きく息を吐き出した。苦々しいネーベの声色にミュラーはちらりと視線を上げてから煙草の煙を吐いて口を開いた。

「そうそうそういえば、強制収容所の捜査の件でオルポに協力要請をしたら断られたと聞いたが」

「まぁ、そんなところだな」

 ネーベが刑事警察の人員が不足していることを理由にカルテンブルンナーに陳情した上で、秩序警察に捜査協力を求めたのだがダリューゲにはやんわりと「国家保安本部にはその程度の捜査には単独で解決する能力があるはずだ」と要請を拒絶されたいきさつがある。

 確かに現状の刑事警察の能力で解決できない問題ではない。

 しかし、すでに刑事警察を含めた国家保安本部は過重労働故に大きくその処理能力を超えつつある。このままでは所属する多くの捜査官たちが過労で倒れるような事態になるだろう。仮にそうなったとして、危ぶまれるのは国内及び占領地域の治安の悪化である。

 国内はともかくとして、占領地域の治安がさらに悪化するという事態はできる限り避けなければならない。ただでさえパルチザンやレジスタンスが跋扈(ばっこ)しているのである。

 治安悪化の要素はいくらでもあった。

「それについては、堪忍袋の緒が切れて長官が動くのではないか?」

「そうだと良いがな」

 ミュラーの言葉に肩をすくめたネーベは憤懣やるかたないといった様子で憮然とした。

 共に警察官僚であり、警察組織を指揮するふたりの親衛隊中将にとって不愉快なことは山ほどある。日々の業務に追われる彼らにとって、毎日が「分からず屋」の他の組織の連中との戦いだ。

 外務省にしろ、宣伝省にしろ、経済管理本部にしろ。

 彼らは保身のことしか考えていない。自分の権力と、自分の身をどうやって守るか、それしか考えていないのではなかろうか。

「……しかし、マリーと二週間も会えないのはこたえるな」

 やがてミュラーがぽつりとつぶやくと、ネーベが外見的には表情を変えずに視線をやった。

 別に彼女に会ったからといってミュラーが甘やかすわけでもない。

 ただ、プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセをマリーの心地よい明るい声が響かないのはどこか寂しいものを感じるのだ。

 ちなみにマリーが休暇に入ってから、ユダヤ人課のアイヒマンが若干機嫌が悪そうだ。傍目にはむっつりと唇をへの字に曲げているだけだが、どうにも機嫌の悪さは隠し切れていない。

 アイヒマンは口に出してマリーを評価するということはないが、大きな影響を受けている人物のひとりなのだろう。

「二週間もすれば少しは太って戻ってくるだろう。マリーのためを考えれば少々長く休暇を取らせた方が良い」

 たしなめるようなネーベの台詞に、深々と溜め息をついたミュラーはそうしてからソファから立ち上がると、自分のデスクの上に積み上げられたファイルの中から数冊のファイルを取りだした。

「コッホの件だが、こちらでも多少の捜査はしていた。なにかの役には立つかもしれん。まぁ、おおかたは特別保安諜報部のメールホルン上級大佐からいっているとは思うが、情報は多いに越したことはないだろう」

 話しを戻したミュラーはネーベにファイルを差しだしてそう言った。

 カール・コッホはかつてルブリン収容所でソ連兵の捕虜の脱走事件の際に、責任を取る形で所長に任務を解かれている。

 彼が刑事警察のコンラート・モルゲンの捜査網に引っかかったのは捜査を始めて間もないことだった。

「確か今は郵便警備隊だったな」

 捜査が進めば進むほど、コッホの一味が行っていたという不正と横領は許し難い犯罪として明らかになった。

 どちらにしたところで、腐ったリンゴが正常なリンゴまで腐らせることはよくあることだ。コッホにしろ、その他の犯罪者にしろ組織内を正常に保つためにはそのままにしておくことなどできはしない。

 国家保安本部の思惑はどうあれ、少なくとも親衛隊長官のヒムラーは親衛隊内部の腐敗を好ましくは思わないだろう。

 それがいかに子供じみた妄想と理想に近いものであったとしても、くだらないと一蹴せずに利用するにはもってこいだった。

 ハインリヒ・ヒムラーという男は、子供じみているからこそ役に立つ。ミュラーもネーベも同様にそう考えていた。後はどうやってヒムラーの手綱を握るかというだけのことだった。



  *

 ベックの書斎のソファで、焼き菓子を片手に分厚い本を読んでいたマリーはどこか間の抜けたくしゃみをした。行儀悪く鼻をすすった少女に、ルートヴィヒ・ベックは眼鏡を押し上げながら顔を上げると首を傾げた。

「少し涼しくなってきたというのに、そんな格好をしているから風邪をひくのだ」

 容赦ないベックの小言にマリーは首をすくめる。

 肩を組紐で縛った薄でのワンピースのことを咎められてマリーは少しだけ唇を尖らせた。

 こつりと靴音をたてて立ち上がったベックが自分のカーディガンを脱いで少女の肩に羽織らせてやると静かにその隣に腰を下ろす。

「なにを読んでいるのだね?」

 ベックが少女の手元を覗き込むとハインツ・グデーリアンの著書が広げられていた。

 いっそ女の子が読むような代物ではないが、退屈なのではなかろうか、とベックは首を傾げた。彼の書棚に年頃の少女が読むようなものなどあるわけもないから、彼女がなにを読んでいたとしても「退屈ではないか」と思っただろう。

「あの”せっかちハインツ”の本か……」

 内容をはたして理解しているのだろうか。

 そんなことを考えていると、マリーはベックに寄りかかって姿勢を崩すと頬を彼の腕に押しつけたままで目を閉じる。

 ベック家にきてから彼女はずっとこんな調子だ。

 読書をしているか、時折疲れて居眠りをしているか。そんな生活をしていて少しは肉付きもよくなってきたように感じられる。

「今は仕事中ではないから、ゆっくり休みなさい」

 ――おやすみ。

 少女の耳元にささやいたルートヴィヒ・ベックは、そうしてマリーの体に腕を回したままでパイプをぷかりとふかしてから、ソファの前のテーブルに置かれた更にパイプを戻す。

 立ち上る紫煙を見つめながら、そうしてベックはじっと思考に沈み込みながら自分にしがみついて眠っている少女を片手で撫でてやった。

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