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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XII 弓を引くヘラクレス
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6 網の目

 夏の残り香が消えていき、秋へと向かおうとする日差しを受けながら、ヴァルター・シェレンベルクはベルリンの片隅にあるレストランへと足を運んだ。

 そのレストランは、給仕からコックに至るまでの全員がシェレンベルクの部下であり、信頼できる諜報員で構成される。

 かつて、そのレストランでは何度となく重要な会合が持たれ、あるいはシェレンベルク自身が個人的に利用した。

 夕方の風はどこか涼を含んでいて、それが心地よく感じさせられた。

 ガラスのはめ込まれた押し戸を開いたシェレンベルクは、品の良い給仕にテーブルへと案内されて穏やかな顔立ちの中に微笑を浮かべる。

「こんなところへお呼びだてして大変申し訳ありません。大島中将閣下」

 ハイル・ヒトラーと形式的な敬礼をしたシェレンベルクは、テーブルに着いている年上の日本人を温厚な眼差しの下から冷静に観察した。

 日本人らしい、というよりはドイツ人らしい目の前の男。

 すでに六十歳にも手が届こうかというこの日本陸軍の駐独ドイツ大使は、ドイツ第三帝国の国家元首――アドルフ・ヒトラーからの信任も得ている。しかし、その日本人の存在をシェレンベルクは実に興味深い相手だと思っていた。

 大日本帝国陸軍中将――大島浩。

 先の独伊日による三カ国の軍事同盟の立役者のひとりであるが、シェレンベルクあたりからしてみれば大島の見解には若干の希望的観測に満ちているようにも感じられる。

 そんなことをシェレンベルクが考えていると、先に大島が口を開いた。

「かまわんよ。しかしドイツの諜報部(そちら)からわたしに接触してくるとは、さすがに驚いたがね」

 ドイツ国内の諜報機関について大島がどこまで把握しているのかはともかくとして、腕につけたSDの徽章はシェレンベルクの立場を偽りようがないし、制服に縫い付けられた階級章も彼が将官待遇を受ける親衛隊員であることを物語っているから、大島なりに礼を払った言葉使いになったのだろう。

「中将閣下がそのようなことで驚かれるなどとはまたご冗談を……」

 椅子を引きながら口元に薄い笑みをたたえたシェレンベルクに、一方の同盟国の駐独ドイツ大使は鼻から息を抜くと笑った。

「しかしドイツは大したものだ。あのソ連軍を押し返すとはな」

「……恐れ入ります」

 感極まったと言いたげな大島の言葉に、シェレンベルクは曖昧な返答を返してから「しかし」と続けた。

「しかし、それは全て偶然の賜物です。たまたまソ連でクーデターが発生したから我々ドイツは勝機を掴むことができたと言えるでしょう。仮に、ソ連が内部分裂をせずにこのまま今年も夏を過ぎることになれば、おそらく昨年以上に厳しい戦況が待っていたと思われます。そしてそれはドイツの致命的な失策になるところでした」

「そうは言うがな、シェレンベルク上級大佐。時の運を有効に活用しなければ戦争に勝つことなどできはすまい」

「おっしゃる通りです」

 まるで大島は我が事のように誇らしげな笑みを浮かべている。もっとも、そんな年上の日本人の笑顔を眺めながらシェレンベルクは至極冷静だった。

 ――いっそ自分の国の心配だけをしていればいいのだ。

 国が同盟を組むのは、決して義理人情のためなどではない。

 相手をうまく利用しようと企んでいるだけに過ぎないのだ。だというのに、ドイツの東部戦線での勝利が心底誇らしいという顔をしている大島浩にシェレンベルクはどこか冷めた思考を巡らせる。

 日本人というのはみんなこうなのだろうか。

「勝負は時の運とも言うからな」

 大島の台詞を受けてシェレンベルクは内心で肩をすくめた。

 勝負が時の運などであるわけがない。彼自身は軍人ではなかったから実際の作戦行動など専門外にも甚だしいが、それでも彼は諜報部員のひとりとしてありとあらゆる情報を得て状況を分析している。時にそれらの情報から割り出された分析結果は、政府高官や軍部高官にとっては面白くないものもあるだろう。

 しかし、多数の情報の下から正しい情報を抜き出すことこそが、情報将校たちの仕事である。

 確かに時の運とやらも大きく作用するのだろうが、それが本当に「運」と呼ばれるものであるのか、と尋ねられればシェレンベルクはそれに対して「(ナイン)」と言うだろう。

 事実とは、常に必然が積み重なって生じた結果でしかないのだ。

 時にはそれらは偶然が重なり合って発生したものに見えることがあるかもしれないが、それらの原因を辿れば決して「偶然」と呼べるものではない。

「ところで、シェレンベルク上級大佐はわたしにどんな用事なのかね?」

「このたびは国家保安本部が外務省の捜査をしていることは、日本の大使館にも届いているかと思われますが、閣下としてはどのようにお考えですか?」

「ふむ……」

 シェレンベルクの言葉に大島は考え込むと、顎を軽く手のひらで叩きながら思案している。

「ドイツの外務省に、敵が潜んでいる、とそちらでは睨んでいると?」

 問い返した大島に若い国外諜報局長はかすかに目を細めた。おそらくそんなシェレンベルクの反応に大島は気がついていないだろう。

 この男はよほど腹芸が苦手と見える。

 手の内があからさまなのは計算によるものではないだろう。

「これは噂のひとつですが、日本大使館がポーランド人をかくまっているらしいという噂も聞いております」

 ずばりとシェレンベルクが本題に切り込んだ。

「……――」

 若いドイツ人青年の言葉に、一気に大島の表情が不機嫌なものになる。まるで自分の不備を指摘された子供のようだ。

「彼らは満州の国籍を得ている」

 どこか苦々しい表情になった大島に、シェレンベルクは外見上は表情をかけらも変えることもせずに小さな音をたててコーヒーカップを持ち上げる。

「えぇ、そのようです。こちらも存じ上げております。現在、ドイツと日本は同盟関係にありますが、それ以前から閣下の故郷であらせられます大日本帝国はポーランド第二共和国と親交をお持ちでしたね?」

 日本という国が、ポーランドにおいても。

 そしてドイツにおいても常に「ドイツ第三帝国」の手から、多くのポーランド人、及びユダヤ人などを含めた異民族を保護していることもシェレンベルクはすでに熟知している。

「もちろん、ドイツにとってそんなことは大した問題ではありませんが、ゾルゲの一件ではこちらも相当辛酸をなめさせられておりますので。もちろん、ゾルゲの足跡を見誤った我々にも責任の一端はありますが」

 リヒャルト・ゾルゲ。

 その名前に大島は不愉快げに背筋を正すとむっつりと黙り込んだ。ソビエト連邦の二重スパイの存在が、昨年の東部戦線でドイツの苦戦を強いる結果になった。そして、そんなゾルゲの活動を見抜くことができなかったのはドイツ側の責任だけではない。

「ドイツの外務省に潜む不穏分子のリストをいただければ結構です。こちらとしても”満州人”にまで捜査の手を伸ばそうとは考えてはおりませんので」

 日本大使館を通じ、ドイツ国内、あるいは占領地域から逃れることができたポーランド人などにシェレンベルクは興味がなかった。

「閣下が協力的な態度をとっていただけるなら、こちらも閣下の責任は不問とさせていただきましょう」

 シェレンベルクのスマートな取り引きに、大島は椅子に背中を預けるとコーヒーカップを睨み付けたままで言葉を探している。そんな駐独日本大使をシェレンベルクは追い詰めすぎずに距離を保った。

 ……――追い詰めすぎてはいけない。

「考える時間をくれんかね?」

「もちろんです」

 大島の言葉にシェレンベルクはにこりと笑った。

「なにより、大島中将閣下の我がドイツに対する忠誠心を疑ってはおりません」

「……ありがたい」

 数秒の沈黙の後にそう言ってから大島は視線を彷徨わせると、右手の人差し指でテーブルの面を打ちながら考え込んだ。

「ひとつ聞かせてもらえるかね?」

「なんでしょう?」

「”情報”はどこから漏れたのだね?」

 問いかけられてシェレンベルクは低く笑った。

 もちろん、彼の内心はともかくとして、外見上は冷ややかさが感じられるような笑みではない。

(じゃ)の道は(へび)、と申します」

 曖昧に言葉を濁して大島浩の問いかけを受け流したシェレンベルクは、小首を傾げると運ばれてきた食事に視線を向ける。

「リストは……」

 言いかけてから大島が口をつぐむ。

「リストは、ゲシュタポに持ち込めば良いのかな?」

「そうですね、ご連絡をいただければこちらから伺います」

 ポーランド人をかくまう日本大使館が多かれ少なかれ外務省に巣くう不穏分子の情報を握っていることはシェレンベルクにもある程度の予測はつくことだった。それでなくても、戦前から大日本帝国とポーランドの親交は非常に深い。

 そこで不穏極まりない大島とシェレンベルクの会話は終止符を打たれ、それからしばらくは料理に舌鼓を打ちながら他愛のない世間話を交わすだけにとどまった。

 どちらにしたところで、外務省の捜査を続ける刑事警察(クリポ)も多くの情報を掴んでいることだろう。しかしそれだけでは決して足りない。相手の牙を抜き、その情報網を手中にしようと思うのであれば、徹底的に対象を叩きつぶさなければならない。



  *

 こうしてヴァルター・シェレンベルクが、日本大使館の大島浩と腹の探り合いともとれる会話を交わしていた頃、プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセではカール・ゲープハルトの執務室を訪れた元ミュンヘン警察の刑事であるヨーゼフ・マイジンガーが書類を手にしたまま、医師に対して素朴な質問を投げかけた。

 ――世間話程度に聞いてくれて構いませんが。

 そう前置きしてマイジンガーは、さも世間話のついでだとでも言うかのように、小首を傾げながら口を開いた。

 純粋に刑事でしかないマイジンガーにとってみれば、単に不思議に思ったと言うだけの話しだろう。

「あれほどの虚弱体質でよくもT4作戦アクチオン・ティーファを免れたことができたものだと思いませんか?」

 一九三九年から一九四一年までの約二年間にあって、医師を中心として行われた民族浄化作戦のひとつである。

「……E作戦(エー・アクチオン)か」

 なにげないマイジンガーの言葉に、ゲープハルトは丸い眼鏡を鼻の上に押し上げてから、頬杖をつくと手元にめくっていた書類に視線を落とす。

 ゲープハルトの記憶では、マイジンガーの言う「T4作戦」の指揮をとっていたのはカール・ブラントなどを中心とした医師たちである。当然、ゲープハルトがブラントのことを知らないはずはない。

 確か、カール・ブラントは現在は武装親衛隊の大佐だったはずだ。

「処分するには妥当ではない、と判断したのだろう」

 ゲープハルトのもっともらしい返答にマイジンガーは肩をすくめた。

「わたしは一介の刑事ですから、その辺りの事情についてはさっぱりですが。よくよく考えなくても彼女は健康的なドイツ人少女の理想とはほど遠い。そうは思われませんか?」

「だから、彼女を今からでも殺処分しろとでも、マイジンガー上級大佐は言うのかね?」

 問いかけの形で言葉を返されて、ゲシュタポの捜査官をも務めた冷徹で残虐な男は獰猛な眼差しをかすかに細めて見せた。

「そうは言っていません」

 ただの疑問だ。

 そう言ったマイジンガーにゲープハルトは自分のデスクの引き出しを無造作に引くと数枚の書類の挟み込まれたファイルを放り出した。

「たかが刑事の貴官に読みこなせるとは思えんが、それを読んでみるといい。彼女の健康状態に関する診療記録だ。彼女は肉体的には異常者、あるいは身体的障害を持っているわけではない。つまり、彼女が先のE作戦(エー・アクチオン)の対象になるべき正統な理由がないということになる。知能も正常、肉体的にも欠陥はなし。あるとすれば彼女が若干、平均的なドイツ人少女と比較して痩せ型だというだけだ」

 よどみないゲープハルトの言葉に、マイジンガーはファイルを開いてから眉間を寄せると溜め息をついた。専門用語ばかりの診療記録は刑事上がりのマイジンガー程度に読みこなせるものではない。

「それに、貴官も別に彼女をゲシュタポに突き出したいわけではなかろう」

 彼女――マリア・ハイドリヒが希有な才能を持っていることは、ゲープハルトばかりではなくマイジンガーも認めている。なによりも、マイジンガーにとってみれば左遷されていた大日本帝国からドイツまで呼び戻してくれた恩人のような存在とも言える。もっともこれ見よがしにマリーに対して感謝の念を抱いているわけでもないから、顔には出さないが親衛隊医師のそんな一言にマイジンガーは再三の溜め息をつく。

「わたしはただ不思議に感じただけです」

 あの時代のT4作戦の犠牲にならなかったことは、虚弱体質の少女にとって奇跡的なことではないかと。

「仮に、あの作戦が再開されたとして、マリーがその対象になったとして貴官ならどうする?」

 安楽死施設に突き出すのか否か。

 ゲープハルトが容赦なく問いかける。

「……――守ってみせましょう?」

 口元に薄い笑みをたたえたマイジンガーが言葉を返すとカール・ゲープハルトはぱしりと自分の膝を軽くたたいてにやりと笑った。

 ヒムラーの私設警察。

 影ではそう呼ばれるまでになった特別保安諜報部。マリーを部長としてその歯車のひとつひとつを担う親衛隊将校たちにとって、彼女の存在は彼ら自身の精神の平穏のためには必要不可欠なのだと誰もが自覚をするようになった。

 荒くれ者の代名詞的なマイジンガーやナウヨックスですらそうなのだ。

 なによりもそんな事態となれば、ベストやヨストが不快感を隠さないだろう。

「しかし、彼女は大したものだ」

 どこまで計算していたのかはともかくとして、特別保安諜報部には裁判官、弁護士、検事、医師などが名前を連ねている。万が一、自らに疑惑の眼が向けられたとして、彼女はそれらの疑惑を場合によっては簡単に払いのけることができることだろう。

 そして、所属する医師のゲープハルトはハインリヒ・ヒムラーの古い知己とも言える。そんな彼女に手出しのしようがないではないか。それを大したものと言わずになんと言うのだろう。

「それで、ゲープハルト少将はどのように思われているのです?」

 問いかけられてゲープハルトは椅子に深く預けると息を吐き出した。

「そうだな、最初こそは鼻持ちならん無礼な小娘だと思ったが」

 そう言ってから親衛隊医師は不意に優しい笑顔をたたえてみせた。

「いつも一生懸命でなかなか見所がある」

 ベストやヨストを相手に笑ったり頬を膨らませたりしているマリーは実に年齢相応の少女らしい。

 ――いや、いささか子供っぽいか。

 そうひとりごちてからほほえんだゲープハルトは机の上に戻されたマリーの診療記録を机の引き出しに戻した。

「それに、なかなか鋭いところもある。そうだろう?」

 ゲープハルトにそう言われて、マイジンガーは肩をすくめた。

「ところで、貴官はマリーに依頼を受けてなにを調べている?」

「……官房長を少々」

「なるほど」

 官房長マルティン・ボルマン。

 彼のことを調べているのだというマイジンガーに、特別な感慨も見せずにカール・ゲープハルトは応じると窓の外に視線を走らせた。

 昨年、ルドルフ・ヘスがイギリスに飛び立った後、彼の後釜としてヒトラーの側近として治まったずる賢い不快な男だ。ゲープハルトの旧友であるハインリヒ・ヒムラーとどこまでも対立し、その地位から引きずり下ろそうとしている。

「……なるほど」

 独白したゲープハルトはそれからしばらく沈黙してからマイジンガーを見直した。

「後で面白い情報を教えてやろう。役に立つかは知らんが、貴官の”捜査の一助”にはなるだろう」

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