4 情報の中心
全ての物事の成り行き。あるいは事象の行く末に対して”彼”は無慈悲なほど冷徹に計算している。
ヴァルター・シェレンベルクの本心がどこにあるかなど、おそらく誰にも理解することなどできはすまい。
彼の姿こそまさしく変幻自在。決してひとつの姿にとどまっているわけではない。おそらくは彼のかつての上官であった男――ラインハルト・ハイドリヒですらも若く優秀な知識人の真の姿を知らなかったはずだ。
「子供の相手は疲れます。ヨスト少将」
そう言ったシェレンベルクに苦笑した彼のかつての上官は若い国外諜報局長にタバコをすすめながら、窓の外の夏の終わりに日差しを見上げた。
「ショルの妹の行動はお気づきだったでしょうに」
わずかに非難の含みを持たせたシェレンベルクの言葉にヨストは肩をすくめてみせる。指先でタバコを受け取った彼は制服のポケットを探るとマッチを取り出す。
「シェレンベルク上級大佐はどう見える?」
「”彼ら”のことですか?」
「そうだ」
「……そうですね」
問いかけられてシェレンベルクはわずかに考え込む素振りを見せた。
「子供らしい幼稚で浅はかな考えが身を滅ぼす事態になりかねないということを、わかっていないようですね」
世間とは子供たちが思うほど寛容ではなく、時には無邪気な彼らが良かれと思って行動に移したことが彼ら自身を恐怖のどん底にたたき落とす。
世界の非情さを。
彼らは子供であるが故に知りはしない。
「”あのくらい”の子供たちにありがちなことですが、自分たちが力を寄せ合えば世界を変えていくことができるのだと錯覚している」
そして……――。
「そして、勇気の意味をはき違えているんです」
せせら笑うように告げるシェレンベルクはそうしてからタバコに火をつけるとわずかにうつむいた。
その横顔はぞっとする程冷たく見えて、ハインツ・ヨストは片目をすがめた。
「シェレンベルク上級大佐はそういった時代はなかったのかね?」
ヨストが問いかける。
「……さて」
曖昧に言葉を濁して笑ったシェレンベルクは片目に光を閃かせただけで言及を避けた。
「わたしは末っ子でしたから」
苦笑しただけでシェレンベルクはタバコをくゆらせると黙り込んでしまった。
彼の生まれは一九一〇年。つまり、彼は先の欧州大戦とその戦後の荒波にもまれて育った子供だ。
厳しく困難な時代が続いた。
そんな時代を生き抜いてきた彼は内心で何を感じ、その瞳が何を映していたのか。
「……先の欧州大戦で、わたしの生まれ育ったザールブリュッケンはフランスの空襲を受けました。その年の冬は寒さと飢餓が町を覆っていたことは幼いながら忘れることはできません」
しばらく考え込んでいたシェレンベルクはぽつりとそうつぶやいた。
一九一四年から、一九一八年まで続いた先の欧州大戦。
現在、社会の中心を構成している知識人たちを含めた中核的な官僚たちの多くがなんらかの家庭的な悲劇に見舞われていた。
淡々と語るシェレンベルクの表情に変化はない。
なにかを思っているのだろうが、それは彼の表情からは全く読み取れなかった。
ヨストすらも認めるかつての国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒの正真正銘の右腕。
そう呼ばれた男。
「さて、わたしは一旦これで失礼します」
灰皿にタバコを押しつけたシェレンベルクはネクタイを直してからヨストに敬礼をした。
「ハイル・ヒトラー」
現在、マリーは国防軍陸軍退役上級大将、ルートヴィヒ・ベックの元に預けられている。保護者がいる子供であれば自宅で休暇を取ることも問題ないのだろうが、彼女の場合身寄りがないから、たびたびテロリズムの対象となってきたことを考えれば、良識のある大人のもとに預けられたということは正しい判断だ。
どうしてか彼女はひどく危機管理能力が欠けている。
なにかしらの生い立ちのせいなのか、それとも別の原因によるものなのかヴァルター・シェレンベルクにはわからない。そもそも、彼はマリーのそんなところには興味がなかったし、自分の職務には関係のないことだと思っていた。
「そういえば、上級大佐」
「なんでしょう?」
特別保安諜報部の執務室を出ようとしたシェレンベルクをヨストが呼び止めた。
「貴官も忙しいだろうが、帰る前に長官室へ顔を出してほしいとカルテンブルンナー大将閣下が言っていたぞ」
「承知しました」
苦笑してから首の後ろを撫でたシェレンベルクはブーツの踵を鳴らしてマリーの執務室を出て行った。カルテンブルンナーが呼んでいるというヨストの話しにいやなものを感じながら、廊下を歩く青年は自分の執務室へ戻る前に長官のもとへと足をむけた。
長官の話しというのはせいぜいろくでもないことだろうと想像できる。
亡きハイドリヒにしろ、ヒムラーにしろそうだが、政府高官というものはシェレンベルクの能力を過大評価して無理難題ばかり押しつけてくる。カルテンブルンナーもそうだ。
「まったくもって話しにならん」
口の中で独白した彼はそうしてカルテンブルンナーの部屋の扉の前にたどり着くと、目を伏せてから再び上げる。そうすることで表情を改めるとシェレンベルクはドアノブを回した。
*
アメリカ本土の天然痘の汎発流行は”知った事”ではない。もちろん民間人にも被害が及ぶことを考慮すれば人道的に許されることではないのはわかっているが、戦争という非人道的な行為をすでに行っている以上ある程度の被害には目をつむるべきだ。
苦々しげに国防軍情報部のハンス・オスターは特別保安諜報部から持ち込まれた報告書に目を通していた。
正直なことを言えば、親衛隊情報部も”ナチス親衛隊”の一組織である以上、オスターにしてみればならず者集団であることには違いない。しかし、どうにもマリー・ロセター――マリア・ハイドリヒの指揮する特別保安諜報部は印象が違う。
そもそもナチス親衛隊がならず者集団であるというのは、前身の突撃隊時代から変化はない。ブラウン・シャツの乱暴者たちが華麗な制服を身につけるようになっただけのことではないか。
そう思うところもあるというのに、マリーはまるで自分に裏表などないとでもいうように、対立する組織同士の間ですらも伸び伸びと振る舞って言うように見えた。
もっともその突撃隊と親衛隊も今では諸々の事件を経過して対立するに至っているが、せいぜい目くそ鼻くそを笑うと言ったところだ。
「帰らんのかね?」
静かに扉が開いた音にオスターは顔を上げた。
上背の低い国防軍情報部の長官は穏やかな眼差しのまま、室内のソファに腰を下ろした。
「提督こそお帰りにならないのですか?」
「そろそろ帰ろうとは思っているがね」
言葉遊びのように切り返すカナリスの様子にオスターはわずかに目を細めると首を傾げた。
「随分お疲れのようですが」
「なに、西も東も今は情報が錯綜しているからな」
東方、及び西方外国軍課から届く膨大な情報に、現在、カナリスの率いる情報部はそれらの分析のために日夜、ティルピッツ・ウーファーのオフィスに泊まり込む日々が続いている。
「ともあれ、戦場の混乱よりもましだろう」
「そういえば先日東方外国軍課のゲーレン大佐が来たと聞いていますが」
東方外国軍課課長ラインハルト・ゲーレンの優秀さはオスターも認めるところだ。しかし、どうにも愛国心が足りないのではないか、というのが彼の分析するところだった。
「あぁ、簡単な報告だったがね。……ところで、それは?」
「あぁ、これですか」
デスクから立ち上がったオスターは目を落としていた分厚い報告書を、カナリスに差しだしながら自分もソファに腰をおろす。
「マリーの……。特別保安諜報部からの報告書ですが興味深いですね」
アドルフ・ヒトラーに対するアメリカのテロリズムに対抗したナチス親衛隊主導による報復テロ。
それはアメリカ合衆国の首都を狙ったものだった。
天然痘を使うテロであることは聞いていたが詳細については実のところ、国防軍はほとんど関わっていないと言える。
「どうせなら、ヒトラー暗殺など見て見ぬ振りをすれば良かったのです」
憮然として言ったオスターにカナリスは声もなく笑ってからファイルをめくる。
「オスター大佐の言うこともわからんではないが、彼らは彼らの信念のもとに動いているのだろうからな」
アドルフ・ヒトラーの暗殺。
確かに見殺しにしてしまえば世間はより平和に向かうのではないかとも思われるが、それでもヒトラーは国家元首であり、他国による暗殺など許されて良いわけはない。
「本気ですか?」
本気でそんなことを言っているのか。
不機嫌そうに眉をひそめたオスターはむっつりとして口をつぐんだ。
ワシントンを天然痘が襲うことはオスターとカナリスを含めた国防軍情報部、あるいは司令部にも事前に報告を受けていたことだから、それほど驚くべきことではない。しかしある程度の事態も予測していた彼らにとっても予想外だった事態が発生してしまった。
「ロンメル元帥と空軍のケッセルリンク元帥から随分激しい抗議が来ていてな」
北アフリカに展開していた空軍と陸軍の双方からナチス親衛隊の行動について激しい抗議が連日のように舞い込んでいる。この件で参謀本部総長のハルダーがハインリヒ・ヒムラーに直談判したらしいが、結果は思わしくなかったらしい。
「それはそうでしょう。そもそも、自分の手でコントロールできない武器など使うべきではありません」
オスターのもっともらしい言葉に、カナリスは腕を組むと数秒間考え込んだ。
「それについてはシェレンベルクから話しを聞いているが、彼の話では”指令”は問題の医師にだけ下したものであって、娘に出したものではないらしいとか」
アフリカに天然痘が汎発流行したという事実には、どちらにしたところで該当地域で活動する軍隊にとっては頭の痛い問題だろう。とりあえず、ドイツ本国に入り込むことだけは寸でのところで食い止めてはいるが、それにしたところでいつ本国まで及ぶかわからない事態となっている。
オスターは苦々しい表情のままで黙り込んでしまった。
北アフリカの天然痘流行は本当に偶発的なものだったのだろうか。疑惑ばかりが胸の奥に積み重なっていく。
ロンメルとケッセルリンクの怒りが目に浮かぶようだ。
誰だって伝染病の恐怖に覆われた地方に部下を送り出したいと思わないだろう。だからケッセルリンクとロンメルの怒りは正統なものなのである。
「故意であろうとなかろうと事態の収拾にはもうしばらく時間がかかるだろうな」
「えぇ、提督」
国防軍情報部が受け取った情報によると最も被害を被ったのはエジプト国民とエジプトに展開する米英軍らしい。
「ところで、この報告書は確かに興味深い」
カナリスは不意に目の前の書類の束を軽くたたきながら話題を切り替えた。
「はい。しかし、親衛隊の諜報部は逮捕権は持っておりませんが」
国外諜報局という立場を越えて特別保安諜報部は多くの情報を収拾している。その指揮を執っているのがマリーだが、優秀なのはなにより彼女の補佐官たちだろう。
報告書の内容は国家保安本部で行われている強制収容所と外務省の捜査に関する一部の情報と、アメリカ本土を狙った「作戦」についての報告だ。
そんなものを国防軍情報部に回したのは果たして誰の思惑なのか。
「マリーはベック上級大将のところへ預けられているらしいということはお聞きになっていますか?」
「うむ、聞いている」
彼女は何度かテロリズムの対象にされた。
そのための配慮なのであろうが、しかし、国家保安本部も随分と大胆な行動に出たものだ。
参謀本部と言えば反ナチス派の温床と言ってもいいだろう。その総長を務めたベックの元に親衛隊員を預けるなどということにはオスターが驚いても仕方はないだろう。
「女の子のひとり暮らしでは危険だろうからな。気になるなら大佐も一度会いに行ってはどうかね?」
「提督もご一緒にいかがですか?」
どこかからかうように告げたカナリスにオスターが憮然とする。
「そうだな、ベック上級大将のところならばプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセよりも顔を出しやすいから一度顔を出してみようか」
そう言ってカナリスは朗らかに笑った。ここしばらく彼女には会っていない。なによりも八月の半ばに傷害事件に遭って骨折までしたらしい。
「女の子にひどいことをする奴がいるものだ」
独白めいたカナリスの言葉にオスターは無言のまま頷いただけで沈黙を貫いた。
オスターとカナリスが知るのは、青い瞳の金髪の少女。
――マリー・ロセター。




