3 生命の灯火
マッチでタバコに火をつけたシェレンベルクは執務机の片隅に置かれた灰皿を引き寄せながら沈黙を守ったままで小首を傾げた。
部屋の入り口に立つのは華奢な若い女性だ。
「お話しがあります」
そう言って彼女はシェレンベルクに面会を求めてきた。
ソフィア・マグダレーナ・ショル――。まだ二一歳の彼女は、ミュンヘン大学医学部の学生で、現在は休学中でマリーの秘書を務めている。
彼女と兄のハンスは共にミュンヘン大学を中心とした反体制派の学生運動「白バラ」の中心的人物で、その父親もナチス党に対しては懐疑的な視線を向けており、このショル一家はゲシュタポによって徹底的な監視を受けている。
「話しはかまわないが」
国家保安本部の高官を前に緊張は隠せないものの、意志の強い表情をたたえている彼女の眼差しが印象的だ。
そうは思いながらヴァルター・シェレンベルクは言葉を続けた。
「……――」
「君の直属の上司はわたしではなくマリーだろう。そのマリーがいなければ、補佐官――つまりベスト中将、あるいはヨスト少将に話しを通してからわたしにくるのが、社会的に順序というものではないかな?」
柔らかい青年の声。
ミュラーシュトレッケンバッハらと違って、どこか人当たりの良ささえも他者に感じさせるシェレンベルクの声色にソフィアは思わず視線を落とした。
国家保安本部きっての天才。そう言われるボン大学出身の法学博士。
若く経験の足りないソフィアにはとてもシェレンベルクの本心を見抜くことなどできはしない。そして、ソフィアだけではなくシェレンベルクもわかっていて穏やかに言葉を綴る。
「それは、……そうですが」
口ごもった彼女にシェレンベルクはほほえむと、タバコを人差し指と親指でつまんだまま、ソファをソフィアに薦めた。
「立ち話もなんだから、座りなさい」
絶対的な権力者を前にしてソフィアはうなだれたまま言葉を探す。
シェレンベルクを言いくるめられる自信など彼女にはなかった。なによりも、悠然とした態度を崩さない年上の青年を前にしていると、自分の稚拙さをまざまざと見せつけられてなにを言えば良いのかがわからなくなる。
ソフィアが立ち尽くしてうなだれてしまったのを認めたシェレンベルクは、タバコをもみ消すとゆっくりと彼女の傍に歩み寄って優しくその背中に腕を回した。
ぎょっとしたように男を見上げたソフィアは、目の前にある穏やかな青年の笑顔に困惑した。
「わたしはゲシュタポの恥知らずな捜査官どもとは違う」
そう告げて彼女をソファに座らせてやると、自分もソフィアの向かいに腰をおろした。
「それで、君はわたしになにを聞きたいのかな?」
とても国家保安本部の高官とは思えない柔和な物言いは、ソフィアの胸の内に正体不明の疑惑を生むが、シェレンベルクはそんなことを気に掛けもせずに続けた。
「兄から聞きました。宣伝省情報部がわたしたちの情報を入手したと」
「あぁ、どうやらそのようだ。それで、君はその件についてどう考える?」
「……国家保安本部は、反体制派を含めた不穏分子の摘発をしています。その摘発を行う組織に不穏分子がいるとなればこれは組織の信頼を揺るがすスキャンダルになるでしょう。ですから、その……」
わかっているのだ。
ソフィアも馬鹿ではない。
自分と兄が国家保安本部に所属していると言うことの危険性。それは監視でもありながら、保護も同然だということを。
国家保安本部の高官の秘書を務めているということで保護されている。それが現実だ。
「宣伝省、及び外務省の非難をかわすために、わたしたちを逮捕するつもりなのではないかと……」
兄はソフィアにこう言った。
護衛をつけるというのも、実のところ監視を強化するつもりなのではないか、と。
粗暴で暴力的な相手であれば、毅然と立ち向かうことも可能かもしれない。ゲシュタポなど恫喝と暴力によって容疑者を叩きつぶすことを得意としているのだ。しかし、今ソフィアの目の前にいる人物はそうではない。
いかにも知識人然とした若い男は、穏やかな眼差しのままでソフィアの言葉に耳を傾けている。
そうしてソフィアのどもりがちになる説明を聞いていたシェレンベルクはからからと明るい笑い声を上げた。
「なかなか良い提案だが、君は見落としていることが多いな」
ショル兄妹を逮捕する、という言葉を「提案」というそれで一蹴してシェレンベルクは長い足を組み直した。
「まぁ、機密事項も多いから説明は省くが、君はまず国家保安本部と外務省、宣伝省の関係性を理解していない。それと、国家保安本部が必ずしも体制派の人間だけで構成されているわけでもないと言うことも君は見落としている」
ふたつの指摘をしてからシェレンベルクは、若く魅力的な女性を見つめて腹の前で両手の指を組み合わせた。
「そして、君らは、君らが国家保安本部で秘書をしているということが、我々のアキレス腱とでもなっていると思っているようだが、その程度のことは些事にしかすぎん」
大した事ではない。
言い放ったシェレンベルクにソフィアは両目を見開いた。
「我々を見くびってもらっては困る。君らが六局にいる程度のことが、国家保安本部を面白く思っていない連中にとって付け入る隙にでもなるとでも思っているのであればそれ大間違いだ」
ドイツ人としてはそれほど大柄なほうでもないシェレンベルクは、しかし堂々としたものでソファに深く腰を下ろして目の前の女性を見つめていた。
「君も、君の兄も大学生だそうだが、白バラの件も含めて、わたしから言わせてもらえば、君らは社会の成り立ちを理解していなさすぎる。そんなことだからビラまき程度で社会が変えられるなどという馬鹿げた絵空事に取り憑かれるのだ」
容赦なくソフィアをこき下ろしたヴァルター・シェレンベルクは一呼吸おいてから、わざとらしく首をかしげた。一方、ソフィアの方は「馬鹿げた絵空事」という評価を受けて衝動的に腰を浮かしかけた。
「そう、それだ」
人差し指を上げてシェレンベルクはソフィアを指した。
「……え?」
「ゾフィー。君はわたしの考えも、他の高官たちの考えも読み取れないだろう。それがまず君たちの底の浅さを現している。君らが本当にドイツを変えたいと思うならば、君がやらなければならないことはなんだと思う?」
静かなシェレンベルクの問いかけに、ソフィアは言葉を失った。
――ドイツを変えたいと思うのならば、何をしなければならないのか。
その問いかけに硬直した。
「わたしたちが、やらなければならないこと……?」
運動をして政府を変える。その運動を見た多くの人たちが考えるきっかけになれば良いと思った。
反体制派の人間が処刑されているらしいという噂は聞いている。
それでも危険を承知でやらなければなにも始まらない。
――もう、目をつむっているのは嫌だ。
しかし、「国家保安本部の」ヴァルター・シェレンベルクが彼女に聞いている以上、それは回答として決して正しいものではないように思われる。
眉をひそめたまま考え込んでしまったソフィアにシェレンベルクはかすかに笑った。
「君がやらなければならないことは、耐えて学校を卒業することだ。たとえどんなに体制派に流されようと、堪え忍んで学校を卒業し、相応の地位を得て、自分で立ち上がる力を手に入れること。”もしも”君が反体制派として声を上げ、そのために殺されることを覚悟していると言うならば、それは崇高な死ではない」
一息に言い放ったシェレンベルクは、向かいのソファに座って背筋を伸ばしている女に軽く笑った。
「ただの犬死にだ」
「……ですがっ!」
「ヒロイズムを気取って君らがビラをまいたところでどうなる? 君らが逮捕され、処刑された後のことを考えた事があるか? 仮にそうなればほぼ確実に体制派の人間による監視が強化され、言論は今以上に弾圧され、体制を変えようとする人間は動きをとれなくなるだろう」
安易なヒロイズムは社会を不幸に陥れる。
「そもそも君は大学生として、思慮が浅いな」
シェレンベルクが表情を余り変えずに一刀両断すると、ソフィアは抗議したいように口をひらきかけてから、結局なにも言えないままその口を閉ざしてしまった。
自分の膝の上に固められた拳を見つめてうなだれる。
国外諜報局長――若きヴァルター・シェレンベルクを相手に議論をしようとすることそのものが間違いだったのかもしれない。
余分なことを言えば自分の死期を早めるだけだ。
だからそんなことは絶対に口にはできない。一応、自分が言ってはいけないことを理解しているつもりだったというのに、目の前の法学博士相手にはそれが通用しない。
「わたしに面会を求めた時の順序にしてもそうだ」
社会のルールに則ることができないものが、反体制派の声を上げたところでたかが知れている。
そう評したシェレンベルクは、ややしてからにこりと優しくほほえんだ。
「だが、今のところ君らの身柄は国家保安本部で預かっている。君らの稚拙な行動は正直あれだが、勇気があるのは結構なことだ。せいぜい今後は、蛮勇だと言われないよう心すればいい」
穏やかな眼差しで容赦なく告げるシェレンベルクに、ソフィアは言葉を失った。
こんな男相手に、とてもではないが勝ち目などあるわけがない。
「君らの警護に関しても、長官の言葉にそれ以上の意図はない。勘ぐるなと言ったところで無理だろうが、とりあえず君らの身柄に関しては、マリーが出てきてから決めることになる」
ソフィアの言いたいことも、聞きたいこともシェレンベルクにはわかっていた。
彼らの行動は――本人はそう思っていないのかもしれないが――稚拙なのだ。こと、シェレンベルクのような諜報組織のトップにしてみれば、その稚拙さはより強く感じられる。
「さぁ、今日は家に帰りたまえ」
気がつけば夕方になっている。
呆然としている少女を脱したばかりの女性をソファから立ち上がらせて、シェレンベルクは優しく肩を抱くと執務室の外へと導いてやった。
「ハンスも心配しているだろうからな」
そうやってソフィアを退室させたシェレンベルクは、自分の机に戻るとタバコの箱を手に取った。中から一本取りだして、火をつけるわけでもなく指先でもてあそんで考え込んだ。
「やれやれ……」
ソフィアとハンスの思考を読んでいるのは、おそらくシェレンベルクだけではないだろう。
マリーの特別案諜報部の次席補佐官を務めるハインツ・ヨストもれっきとした情報将校だ。彼らの行動を予測していないわけでもないだろうが、ソフィアがシェレンベルクにアポイトメントもなしに執務室を訪れることをヨストが黙認したのだろう。
「ヨスト少将は相変わらず意地が悪い」
*
「どうしてあのふたりを放置した?」
ベストはヨストの執務室に寄りかかるようにして問いかけた。
「子供には、社会経験が重要だ。そうではありませんかな?」
「ふむ」
ヨストの答えに相づちを打ったヴェルナー・ベストはこつこつとブーツの足音を響かせながら窓際に近寄ると、彼らの部長であるマリーの机に置かれた写真立てを見やった。
その写真にはベスト、ヨストと共にマリーが笑顔で写っている。
「子供には社会経験を、か」
「子供というのは、その場の勢いに任せて思わぬ行動に出ることがあるからな。大人はそれを諫めてやらなければならん。不用意なことを言えば、子供とはいえ、命を捨てることになるだろう」
ヨストの思慮深い言葉にベストはかすかに笑ってから少女の写真立てを手に取ると、それをじっと見つめながら考え込んだ。
「それで、シェレンベルク上級大佐のところへ向かったことを諫めなかったと?」
「なに、彼なら子供の気持ちを最も理解できるだろうから適任だろう」
ヨストは自分の過去を振り返る。
子供というのは得てして、自分の周りしか見えていないものだ。その考え方がいかに大人びていたとしても、その根幹にあるものは子供のそれでしかないものだ。
だから、彼らが展開していた学生運動のような事態となる。
それは確かに素晴らしい行動であるのだが、社会というのは彼らが思うよりもずっと残酷で、そんなに簡単には変えることなどできはしない。
簡単に変えることができないのならば、突発的な行動を起こしても意味がないということだ。つまるところ、そうした行動は武力によって弾圧される標的となり、結果、それらの行動に参加した多くの命が失われることになる。
そう考えると、「大学生」の「学生運動」は大きな損失であることは間違いない。
「自分の命をの尊さを、彼らは学ぶべきだ」
小さな運動も、暴力も。
世間を変えるためのきっかけにはなりはしない。
ヨストは溜め息をつくようにそう言った。




