5 顔のない支配者
善悪という概念そのものが意味を持たない存在というものがあったとするならば、それは世界にどんな影響をもたらすのだろう。
まるで、音叉の音色が共鳴し、増幅するように。
もしくは投げ入れられた小石が、鏡のような湖面に波紋を描き出すように。
打ち鳴らされた音叉の音色は空気を振動させる。
小石にも。
音叉にも。
そもそもその存在自体が能動的に「世界」に働きかける力などない。ちっぽけな存在にすぎないのだ。
要するに、道具とは扱い方によって役目を変えるということ。
ラインハルト・ハイドリヒの死後、投げ入れられた「小石」は世界という巨大すぎる湖に波紋を描き出しつつあることを、シェレンベルクは感じていた。
世界の行く先など興味はないが。諜報部員のひとりとして自分が所属するドイツ第三帝国の行く末には興味があった。
一九四一年の対ソビエト作戦が失敗に終わり、戦局はほぼ膠着状態に陥っていた。ドイツとソビエト連邦の資源の差を考えれば、戦争が長期化するような事態はドイツ第三帝国にとって好ましい事態であるとは思えない。長期化すればするほど、ドイツにとって不利な状況へと傾いていくだろう。
政治家や一部の扇動家のプロパガンダはともかくとして、そういったナチス党の思想とは無縁な情報将校であるヴァルター・シェレンベルクなどにしてみれば、問題点は一目瞭然だ。
まともにソビエト連邦と相対しようとすれば泥沼の戦闘に引きずり込まれ、待っているのはじり貧の消耗戦ばかりである。
さらに悪いことに、このソビエト連邦の背後にはイギリス、フランス、アメリカなどといった連合国諸国がついていることだ。
イギリスやフランスなど国力を消耗しきっているから些細な問題にしかならないが、問題は未だに未知の存在であるアメリカ合衆国だ。
昨年の末に、ドイツ第三帝国の同盟国である大日本帝国がアメリカ合衆国のハワイ州オアフ島にある真珠湾を奇襲攻撃した。
本当に「奇襲攻撃」であったかはともかくとして、結果的に日本によるアメリカに対する攻撃は、ヨーロッパ戦線に参戦したがっていたアメリカに口実を作るきっかけにもなった。
外交とは、キツネと狸の化かし合いだ。
互いが互いを自分の支配下に引きずり込もうとして躍起になっている。
厄介なのはアメリカ合衆国の対ソ支援だ。航空機、戦車、トラック、機関車、靴から食料まで。ありとあらゆる品物がアメリカからソビエト連邦に供給されている。それ故に、対ソ戦を展開するドイツ第三帝国にとって、アメリカという存在は目の上のたんこぶでしかない。
なんとかアメリカとソ連を引き離そうと画策する諜報部だったが、これにソビエト連邦内から唐突なアクションとなったのがクリメント・ヴォロシーロフの暗殺事件だ。
クリメント・ヴォロシーロフはヨシフ・スターリンの知己と言っても良い将軍で、その手腕についてはそれほど高く評価はされていないものの、軍部では重要なポストにあった。
もっともシェレンベルクにしてみれば、ドイツ装甲部隊に対して小火器をもって対抗するような程度の低い将校でしかなく限りなく低評価だった。
スターリンの昔なじみというだけで、戦争責任も不問にされた男。
独裁者が信頼する男が殺された事は、スターリンの猜疑心を煽り国家内部の多くの要人を片っ端から粛正させることになった。
さらに、これをソ連内に潜入していたアメリカの二重スパイが、本国へと持ち帰ったことから問題は国際色を帯びた。
今のところ、シェレンベルクはそのいきさつを興味深く観察している。
一方でアメリカ国内に潜入しているドイツのスパイたちからは多くの情報が寄せられていた。
もしかしたら、とシェレンベルクは思う。時代という潮流の中に、今、大きなうねりが生まれようとしているのかも知れない。
――自分の”信じるもの”のために戦う男たちの力を、そうとは知らずに引き出そうとする乙女の魔力。
彼女の青い瞳には、善も悪もなく。
ただ鏡のように”人”の本質を映し出すのであれば、それはおそらくドイツ第三帝国にとって切り札となるだろう。
「……恐ろしいな」
ぽつりとつぶやいたシェレンベルクは無意識に顎を撫でてから目を細めると思考の淵に沈んでいく。
諜報部員として。
そして国家保安本部に所属する情報将校として、自分にのしかかる任務の重さを感じた。
ヴォロシーロフ暗殺事件を引き金にスターリンは馬鹿馬鹿しくなるほど猜疑心は増悪し、その刃は同盟国の将校は愚か、同国の部下たちにすら向けられている。それはドイツ第三帝国の独裁者である総統アドルフ・ヒトラーにしてみても似たような傾向が見られるが、スターリンの情報とヒトラーのそれを比較してみると、ドイツの独裁者のほうが”そういった”意味では幾分かましだ。
ユダヤ人に対して、ヒトラーの憎悪が傾けられている間は。
猜疑心に取り憑かれた孤独な独裁者。
それがソビエト連邦のヨシフ・スターリン。
アドルフ・ヒトラーの唱える東方生存権構想など、シェレンベルクにはさらさら興味もない。しかし、スターリンの下で生きるような人生など大概まっぴらだ。
人よりも多少目先が利く故のシェレンベルクだからこそなのだろう。
そして、少女――マリーの問題も彼には大きかった。
今のところ、マリーは国家保安本部の国家秘密警察の第四局、国内諜報の第三局、そして国外諜報の第六局。最近ではアルトゥール・ネーベ率いる刑事警察の五局も首を突っ込んで監視されているような状況に置かれていた。これに併せて国防軍情報部も彼女の身辺にちらつく存在を調査している。
そんなマリーにはプライベートなどないも同然だった。
にもかかわらず、彼女は情報将校の彼らが不審を感じるほど、自然体で、そして明るく振る舞っていられる。
普通の少女ならば、これだけの人間から監視される生活など送っていれば気が触れるだろう。
それはまるで。
感情のなにかが”欠落して”いるのではないかとすら思わせる。それこそ、シェレンベルクがマリーに対して感じるようになった異常性だった。
人として、あたりまえに持っているはずのなにかが彼女には足りない。
最初からなかったわけではない。
徐々に欠落していっているのだ。
かつてのハイドリヒのように、そして異なる意味でマリーには人としての当たり前にあるなにかが剥がれるように失われていった。
多くの人間たちに恐れられるゲシュタポや親衛隊情報部にすら、彼女にとっては猫の子でもあやすようだ。そんな印象を受けた。
どうすればそんな精神状態に至ることができるのだろう。
彼女には恐怖がない。
疑念も、怒りも、悲しみも。
簡単に言うならば、他者に対する共感能力がないのだ。出逢った頃はマリーも持っていた人の感情を察する能力が欠落していった。しかし、理解していないからといって多くの犯罪者たちのように反社会的な態度をとることはない。興味深げに見つめるその双眸に誰もが絡め取られた。
腕を組んで考え込んでいるシェレンベルクは、自分を見つめる二組の視線に首を回した。あと数時間もすればベルリンに到着するだろう。
「わたしひとりでウィーンに行ければ身軽なのだがな」
独り言でも言うように肩をすくめたシェレンベルクは、そうして再び考え込む。
ハイドリヒが死んでから、ドイツ第三帝国首脳部は高官たちの護衛に神経質になっていた。神経質になっていようが、なっていまいが死ぬときは死ぬし、生き残るときは生き残るのだから、気を回すだけ仕方ないのではないかとも思わないでもない。
そもそも、ヴァルター・シェレンベルクは生粋の諜報部員だ。
敵に遭遇してもなんとかできる自信は一応あった。
「”お偉方”は随分神経質になっていますからね、大佐」
「確かにな」
投げかけられた言葉にシェレンベルクは応じて、片目を細めた。
「だが、わたしはそれほど高官というわけではないだろう」
「ヒムラー長官はそう思っていない様子ですよ」
「……買いかぶりだ」
肩をすくめた彼に、ゲシュタポの青年は目を伏せる。なにかを考え込んででもいるかのようだった。
マリーは、過酷な監視の中で生活をしていて、なにを考えているのだろう。
シェレンベルクはそんなことを思いながらシートに深く背中を預けると胸の前で腕を組んで目を閉じた。
ベルリンに帰ったら、カナリスの元に出向かなければならない。その結果次第で親衛隊情報部、あるいは国防軍司令部に出向かなければならないだろう。今後の予定の段取りを頭の中で立てながら鼻から息を抜くと肩から力を抜いた。
どちらにせよ、マリーは犯罪の容疑者以上の監視下に置かれている。万が一、彼女に危険が迫ったとしても問題はないだろうし、彼女が他国のスパイにたぶらかされて外国へ向かうことも阻止できる。
ハイドリヒの魂を受け継ぐ者。
そう最初に彼女はシェレンベルクに言った言葉。
その言葉を彼は覚えていた。
本当に彼女がラインハルト・ハイドリヒなのか。それとも違うのか。
「……オカルト好きの奴なら小躍りして喜びしそうな話しだな」
主に、昨年スコットランドにフライトした総統代理ルドルフ・ヴァルター・リヒャルト・ヘスや、親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーのような。
「馬鹿馬鹿しい」
口の中で独白して、シェレンベルクは薄目を開けた。
イギリスに送り込んだシェレンベルクの部下からは問題の総統代理が未だに生存しているという情報を掴んでいる。
イギリスからしてみれば、彼から何らかの情報が引き出せれば良いとでも思っているのか、もしくは、今後なんらかの事情の証人としてでも使おうというのだろうか。
取引の材料。
ヘスがそんなものになるとは思えない。
愚かな男だとシェレンベルクは思っていた。
「空港に着いたら、マリーに土産を持って行ってやってくれ」
「承知しました」
オーストリアのウィーンは音楽の都だ。
そのウィーンのカルテンブルンナーを訪ねた時に、彼から少女に対する土産を預かったのだ。
焼き菓子とバイオリン。
聞いた話では腕の良い楽器職人の手によって作られたものらしい。音楽など社交上での興味程度しか持たないシェレンベルクには、楽器の良さなどさっぱりわからない。焼き菓子のほうはカルテンブルンナーの細君が手ずから焼いたものらしい。
マリーは素直な性格だったから、単純に喜ぶだろう。
ヴォロシーロフ暗殺事件は鍵だ。
シェレンベルクはそう思っていた。
投じられた小石には善悪はなにもなく、そうして世界にさざ波を生み出していく。人として大切なものが欠落していく少女の不可解さに、シェレンベルクは考え込んだ。
鍵はそこにある。
けれどその鍵の意味がまだわからない。
百戦錬磨の諜報部員であるシェレンベルクにも理解できない鍵。その鍵は、世界に波紋を投げかけているのだろうか。
そうして、その波紋はどこへ行くのだろう。
世界を大津波に飲み込むことになるのか。
マリーがハイドリヒの魂を受け継ぐ存在であるということが本当であるならば、純粋無垢な少女の心がハイドリヒのように冷徹無比な存在になったとき、世界はどう変わっていくのか。
とりとめもないことを考えながら、シェレンベルクはユンカースJu52の窓の外をじっと見つめた。
*
朝早くからユンカースJu52に乗ってオーストリアのウィーンを訪れてから、休息をいれることもなくオーストリアの親衛隊及び警察最高級指導者であるエルンスト・カルテンブルンナー親衛隊中将のオフィスを訪れ、さらにそのまま軽食をとっただけで、ベルリンにとんぼ返りしたヴァルター・シェレンベルクは、部下を国家保安本部へと帰してから、その足で国防軍情報部長官のヴィルヘルム・カナリス海軍大将のもとを訪れていた。
一見多忙にも見えるものの、国家保安本部国外諜報局長という地位を拝命しているが、シェレンベルクは生粋の諜報部員だ。この程度の忙しさは諜報活動と比較すればなんでもないもののひとつだ。
事実、諜報員として他国へ出向いているわけではない。自分の命がかかっているわけではないのだから気楽なものである。
カナリスのもとを訪ねたのは、その日の随分遅くになってからだった。
もっとも、シェレンベルクの来訪を予想していたのか、出迎えるカナリスも普段と代わり映えのしない表情で、彼を執務室へ出迎えた。
「提督自らコーヒーなどいれていただいて申し訳ありません」
「なに、ウィーンからとんぼ返りでは忙しかっただろう。少しゆっくりしていくといい」
ところで奥さんは大丈夫なのかね?
カナリスの言葉にシェレンベルクは朗らかに笑う。
「うちの細君は、わたしがこんな仕事をしておりますのでもうとっくにあきらめておりますよ」
予告もなく帰ってこないなど年中だ。
国家保安本部の要職に就くシェレンベルクだったから、戦場ばかりか占領地区を渡り歩くことも多かったからやむを得ない。
それは軍人の妻と大して変わらない。
自分の目の前に出されたコーヒーから立ち上る香りに微笑しながらシェレンベルクは応じた。
「ビールの方が良かったかね?」
「制服を着ている時は、アルコールを控えておりますのでお気遣いなく」
フィールドグレーのナチス親衛隊の制服を着た青年将校が告げる。
制服を着ている時はアルコールを控えているのであれば、いつ飲んでいるのだろう?
「若いというのは羨ましいものだな」
肩をすくめたカナリスに、シェレンベルクは言葉を返すこともなく唇の片端をつり上げた。
国防軍情報部長官の男の執務机の上に三匹の猿のブロンズ像がおかれている。
確か、それは大日本帝国のどこかの地方の名産品だか、土産物だったかとシェレンベルクは記憶していた。
猿が三匹並んでおり、一匹は目を塞ぎ、一匹は口を塞ぎ、そしてもう一匹は耳を塞ぐ。
まるで、とシェレンベルクは思う。
それは諜報部員たちのモットーを示しているようではないか。
「それで、ウィーンに行っていたと聞いているが」
「さすがカナリス提督はお耳が早くていらっしゃいますね」
「皮肉はいらん」
「……提督相手に腹のさぐり合いなどしたところで時間の無駄ですので率直に申し上げます」
ソファに腰をおろしたシェレンベルクは窓際に立つカナリスの背中を見つめてそう言った。
スパイマスターとも言われる、辣腕の諜報部員相手にシェレンベルクは腹のさぐり合いなどするつもりはない。
「聞こう」
「ウィーンのカルテンブルンナー親衛隊中将のところへ行っておりました」
「……エルンスト・カルテンブルンナーか」
「はい」
「頭はそれなりに回るが、腹芸は下手だな」
あの男は。
カナリスの言葉にシェレンベルクが小さく頷いた。
「腹芸は、向き不向きがございます」
「しかし、政治家が腹芸できんのは致命的に政治家生命に関わるぞ?」
「……ごもっともですが」
カナリスもシェレンベルクも諜報部員であって、政治家ではない。
だからこそ腹芸が得意である、という部分もある。
諜報部員たちは相手を出し抜き、罠にはめることこそが仕事なのだ。
元来、諜報部員たちは総じて一般的な人間たちよりも、目がよく見えすぎるきらいがある。
「少なくとも、疑い深い我々よりは”真人間”かと」
シェレンベルクの言葉に、コーヒーのカップを手にしたカナリスは「それもそうか」とつぶやいた。
「それで、カルテンブルンナー親衛隊中将はなんと?」
「はい、その件で提督にひとつお伺いしたいことがあります」
物怖じしない後輩の諜報部員にカナリスが薄く笑った。
「……なるほど、わたしに聞く方が先、というわけか」
「申し訳ありません」
尊敬すべき先輩に礼を失しない程度の無礼さで鋭く切り込むシェレンベルクの態度がカナリスは嫌いではなく、むしろ好感を抱いているほどだ。
「提督は”彼女”が亡きハイドリヒ親衛隊大将閣下であるとおっしゃいました。正直なところを申し上げますと、わたしはオカルトの類が大嫌いですし。そういったものを信じたり、本気で追求するような輩を蔑みの対象としか思っておりません。提督もわたしと同じく諜報部員である以上、現実を見つめていらっしゃるはず」
そこまで一息に言ってから、シェレンベルクは一度言葉を切った。
数秒の間の後、彼は再び口を開く。
「なぜ提督は”彼女”がハイドリヒ閣下である、と?」
どうしてか、とシェレンベルクが事の核心を衝いて問いかけた。
「……なぜ、か」
問いかけられて苦笑した。
カナリスは窓の外を見つめて沈黙する。
「説明は難しいな。わたしは大佐を納得させる答えをする自信がない。無論、わたしとてアーネンエルベの連中のようなくだらんオカルトじみたものは信用に値せんと思っているが」
カナリスの言葉をシェレンベルクは忍耐強く聞きながら、目を細めて年上の男を観察した。
言葉を選んでいる様子のカナリスは、そうしてからやがて口を開いた。
「あのとき、わたしを呼んだ彼の、迷いのない瞳が同じだったからだ」
どうにも要領の得ないカナリスの言葉。
全てを切り裂くラインハルト・ハイドリヒの刃物のような鋭さを。
ヴィルヘルム・カナリスは感じ取った。
「姿形は違えど、同じだと、わたしはそう思った」
彼、あるいは彼女はドイツ第三帝国の行く末のために”帰って”きた。
「事実、大佐も感じているはずだろう。彼女が訪れてからのドイツ内外の変化を」
小さな、小さな兆しを。
「……はい」
エルンスト・カルテンブルンナーの変化はごく小さな予兆。しかし、実際のところは、彼女の存在は彼女自身が思うよりもずっと遠方にまで波紋を広がっていた。
かつて、ハイドリヒに関わった者たちが恐怖に絡めとられたように。
マリーの存在はもっと人の本質を絡めとる。
それは、恐ろしい才能だ。
注意深く観察しない者は、それこそ蜘蛛に捕らわれる羽虫のように造作もなく捕らわれるだろう。
マリー・ロセターがラインハルト・ハイドリヒであろうとなかろうとそんなことは諜報部員の彼らにとってどうでも良いことでしかない。
重要なことは、希有な才能を持つ少女をどう扱うのか、ということだけだった。
「ところで、シェレンベルク大佐」
カナリスが話題を切り替えた。
「アメリカのスパイの身元が判明した」
「……ほう?」
カナリスの言葉にシェレンベルクが抜け目のない表情をたたえて、興味深そうに睫毛をまたたかせる。
彼の言葉を聞きながら、ヴァルター・シェレンベクは思考を巡らせる。
生まれ変わる。
そんな世迷い言にも似たくだらない戯れ言を信じるつもりは毛頭ない。カナリスに告げた「オカルトは嫌いだ」という言葉も偽りではない。しかし、マリーがドイツにとって有益な存在であれば何でも良い。
当初、国家を冒涜した罪で収容所送りにすることも考えたが、彼女の存在がドイツにとって都合が良いのであれば、問うべき罪はない。
時として、国家とはかくも寛容なものなのである。
「それで、スパイは何者だったんです?」
「なんだ君のほうでもなにかしら掴んでいるんじゃないのかね?」
「国防軍情報部で調査を行っているということは、こちらにも届いております。二度手間に人員を割くほど暇ではありません」
ただでさえ、東部戦線に展開するアインザッツグルッペンから毎日のように膨大な情報が国家保安本部には収集されてくるのだ。
それらの解析だけでも国家保安本部内はおおわらわしている。
「……なるほど、忙しいというわけか」
「えぇ、ですが必要とあらば人員は割きますが、今回の一件ではカナリス提督自ら指揮を執っているとお伺いしておりましたので、そちらはお任せしてもよろしいかと思い、親衛隊情報部の方では手を出しておりません」
どこまで本心なのかわかりにくいシェレンベルクの言葉に、カナリスは低く笑った。
互いに、互いの言葉を全て信じているわけではない。
シェレンベルクにとってみればカナリスは尊敬する先輩でありながら、抜け目のない男であるという認識があったし、カナリスからしてみれば、シェレンベルクはハイドリヒとヒムラーの下で任務を遂行し続けた切れ者だ。
信頼を向ける相手であると同時に、互いを信用ならない相手と思っていても何らおかしな話ではなかった。
「……問題の”ドイツ人”だが、彼はかなり優秀な人間だ。言語は数カ国後に長けていて、アメリカ育ち。両親は党員だ」
「すると、ヒットラーユーゲント出身ということになりますか?」
シェレンベルクは考え込んだ。
事態の大筋は把握しているが、国防軍情報部が動いていることを承知していたから、捜査のほうはそちらに任せきりにしていた。
「つまり、ナチス親衛隊に潜り込んでいた、ということになるのでしょうか」
外国に滞在していた経験のあるナチス親衛隊の隊員は少なくない。
「そういうことになるな」
「ふむ」
短く相づちを打ったシェレンベルクは、一瞬だけ考え込むような様子を見せてから眼差しを上げる。
「さしずめOSSの人間でしょうか?」
「そうなるな」
アメリカ合衆国の戦略諜報局。
ようするに、アメリカの諜報機関だった。
「……そうですか、戦略諜報局ですか」
繰り返してひどく人の悪い笑みをたたえたシェレンベルクは、口元だけで笑うと猛禽類のような瞳に光を浮かべてからカナリスを見つめた。
「なにを考えているのだね?」
「いえ、そうですね……。”愛国心”に燃える青少年というのは、利用価値も確かに存在しますが存外もろいものですからね」
静かにほのめかすようにつぶやいた彼は、そうして不気味な笑みをたたえたまま目を伏せた。




