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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XII 弓を引くヘラクレス
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2 切り札を握る者

 国外諜報局長ヴァルター・シェレンベルク親衛隊上級大佐の執務室に呼び出されたハンス・ショルは、室内にそろう面々に思わず立ちすくんだ。

 そこに顔を揃えているのは執務室の主人であるヴァルター・シェレンベルクを筆頭に、国内諜報局長のオットー・オーレンドルフ、国家秘密警察局長のハインリヒ・ミュラー、刑事警察局長のアルトゥール・ネーベである。

「情報のでどころはさしずめゲッベルスの宣伝省情報部辺りだろう、違うか?」

 室内にハンス・ショルが足を踏み入れるや否や、厳しいミュラーの声が彼の耳に飛び込んでくる。

「三局の調査では、最近では随分と活発にゲッベルスも情報収集にあたっていた様子です。ミュラー局長」

 国内世論を思う方向に誘導するためには国民の思考をある程度把握していなければ話にならない。そう考えればゲッベルスが随分前から国内外の情報を収拾していただろうということは容易に想像がつく。強いて懸念があるとすれば、それがどの程度の規模であるのかというものだが、警察官僚であるミュラーとネーベはそれなりに関心はあるものの諜報分野に関しては必ずしも専門分野であるというわけではないから、本格的にゲッベルスのそれに捜査の手を広げるつもりはなかった。なによりも、ミュラーとネーベが行動に移すよりも、諜報を専門とするオーレンドルフやシェレンベルクがいる。彼らの優秀さを考えれば門外漢である人間が口を出すべくもないだろう。

「ゲッベルスも熱心だな」

 オーレンドルフの言葉を受けてネーベがそう評価すると若い国内諜報局長はかすかにほほえんでから数枚の報告書のコピーを高官の間に回す。

「よく来てくれた、その辺に座ってくれて構わない」

 シェレンベルクの穏やかな声が聞こえてきてハンス・ショルは末席にあたる椅子に腰掛けた。

 特別保安諜報部ではマリーと補佐官の業務を補佐することがショル兄妹の仕事だったから、こうして国家保安本部の高官たちと顔を合わせることなどほとんどないと言ってもいいだろう。

 書類を回しているオーレンドルフの鋭い眼差しは、どこかナイフの刃先のようにも思わせる。気難しげな瞳をちらと上げてから、書類に視線を戻してしまったオットー・オーレンドルフは、マリーの秘書になど興味はないと言いたげな様子だ。もっとも、仮にショルが彼らに対して反発めいたものを感じたとしても、国家保安本部の高官たちが制服に縫い付ける階級章は圧倒的な存在で、罪の有無など無視してショルの人生を強制的に終了させる権力を持っているのだと言うことを突きつけていた。

 紙をめくる音をたてたミュラーが文面を視線で追いかけながら口元を片手で追おうと小さなうなり声をあげた。

「問題は山ほどある」

 ミュラーの言葉にネーベが頷いた。

 まるでそこにハンス・ショルが同席していることなど気にも掛けていないようだ。気難しげな顔のままで書類から視線を上げたミュラーは、一度、オーレンドルフを眺めてからネーベに視線を映す。

 現在のところ、ミュラーのゲシュタポは外務省の捜査を。そしてネーベの刑事警察は強制収容所の一斉摘発にあたっている。両組織共にその他にも膨大な仕事を抱えており、少ない捜査官だけでは限界を超えていた。

「今だって手一杯だ」

 ミュラーがどこか不機嫌につぶやくとネーベは視線を書類から上げようともせずにもう一度小さく頷いた。

「確かに……」

「ゲッベルスなどに構っていられるか」

 うんざりとした様子でつぶやいたゲシュタポ・ミュラーは、音を立てて書類をテーブルの上に放り出すと改めてシェレンベルクを見やる。

「それで、実際問題どうなのだ?」

「そうですね、正直に言わせていただければ、宣伝大臣閣下のおっしゃることももっともかと思いますが……」

 シェレンベルクの返答にオーレンドルフは胡散臭げに鼻白んだ様子で椅子に座り直した。

「だが、もっともだと感心しているわけにもいかんだろう」

「それはそうなのですが」

 最年少であるという自分の立場をわきまえているのか、もしくはそれも計算の内で徹底的に自分の役割を演じているのか、ヴァルター・シェレンベルクは相変わらず穏やかな笑顔を浮かべたままでデスクに両肘をつくと指を組んだ。

「連中は、ここぞとばかりに我々の尻尾を掴もうと躍起になるだろう」

 呼び出したハンス・ショルとは無関係とも思える会話を続けている高官たちに困惑を隠せないマリーの秘書は表情を余り表に出さないように気をつけながら、室内の様子を窺っている。

 ショルが国家保安本部に勤務するようになってからというもの、これだけの高官を前にしたことは初めてのことだ。

 彼らは、ドイツ警察権力のトップに位置する人間たちだ。

「いずれにしても、この報告書によると国家保安本部内にもゲッベルス側に通じている人間がいるということだが」

 まさか奴らではあるまい。

 ミュラーが言いながらちらりとショルを見やる。

 もちろん唐突に話を振られたハンス・ショルには見覚えのないことだったから、高官たちの厳しい眼差しを受けても背筋を正して彼らを見つめ返すだけだ。

「可能性は非常に高いですが、そんな人間をいちいちあぶり出すだけ時間の無駄です。ミュラー局長」

 猜疑心の塊のようなハインリヒ・ミュラーに、シェレンベルクは落ち着いた眼差しのままでそう告げた。

「なによりも、互いの情報組織に人をやっているのはお互い様ですから、ここは気がついていない振りをして利用させてもらえば良いだけのことです」

 シェレンベルクの指摘に、今度はネーベが口を開いた。

「だが、利用すると言ってもそう簡単にはいかないだろう」

「そうですね、確かに相手は情報の扱いに長けている者だと思われます」

 ですが。

 シェレンベルクはそう言ってから一度言葉を切った。

「武器として情報を扱うには素人かと」

 だからこうして筒抜けになるのだ。

「とりあえず問題は宣伝省のスパイが国家保安本部(RSHA)内を跋扈(ばっこ)していることではありません」

 最年少の局長がそう言い切ったとき執務室の扉が開いてふたりの人物が姿を見せる。

「だから学生運動をしている子供(ガキ)など秘書として採用するなど責任問題になると言ったのだ」

 声の主は人事局長のブルーノ・シュトレッケンバッハだ。

 共に入室してきたのは国家保安本部長官のエルンスト・カルテンブルンナー。

「情報ではどうやらゲッベルスの宣伝省情報部が国家保安本部に白バラ(ヴァイス・ローズ)のメンバーを採用していると言うことが気づかれたようです」

 オットー・オーレンドルフの報告に不機嫌に舌打ちしたのはシュトレッケンバッハで、一方のハンス・ショルは若き国内諜報局長の言葉にぎょっとした様子で背筋を正した。

 ミュンヘン大学を中心として展開される反体制派の学生運動組織――白バラ(ヴァイス・ローズ)

 その中心的人物だったのがハンスとソフィアである。

 父親のローベルトは、マリーとその補佐官のヴェルナー・ベストの恫喝を受けてやむなく国家保安本部に勤務することとなった。

「マリーが休暇中のこの時期に!」

 カルテンブルンナーが苛立たしげに靴音を響かせると、乱暴にソファに腰を下ろして室内に揃う一同を見渡した。

「長官閣下はどのようにお思いですか?」

「……白バラ(ヴァイス・ローズ)がどうとか、そんなことには興味はないが、彼らの上官はマリーだろう。ならば彼女が出勤してくるまで待つべきではないか?」

「そうしたいのは山々なのですが、どうやら先方としてはこれに乗じて我々のアキレス腱を捕らえようと必死の様子ですので」

「なるほど、それで白バラの連中に白羽の矢を立てたというわけか」

 シェレンベルクの丁寧な説明に、エルンスト・カルテンブルンナーはふんと鼻を鳴らしてから腕を組んだ。

「それで、貴官らはこの一件をどう見る?」

「表向きに動いているのは宣伝省情報部と思われます。ですが、今回の白バラのメンバーに着目したということを考えますと、おそらく警察権力の拡大を恐れた宣伝大臣閣下が、外務大臣辺りを焚きつけ、権威の失墜を狙っているのではないかと思われます」

 要するに外務省と国家保安本部――あるいはナチス親衛隊の共食いを画策しているのだろう。

 容易に想像がつく事態に、カルテンブルンナーはむっつりと黙り込むとはす向かいに座っているシュトレッケンバッハを見やった。

「それで、なぜ外務省と宣伝省がつながっていると?」

「それにつきましては三局のほうで調査を進めていました。宣伝大臣閣下の手勢が随分活発に活動しておりましたので、調査局のデータと併せて情報の分析を行いましたところ、宣伝省が外務省に対して接触を持っていることが発覚しました」

 カルテンブルンナーの問いかけに対して、今度はオーレンドルフが説明するとオーストリア出身の国家保安本部長官は姿勢を正して座っている青年を眺めた。

「ミュラー中将とネーベ中将はこれらの情報についてどのように?」

 自分がシェレンベルクの執務室を訪れるまでにどこまで話しが進んだのかと説明を求めるカルテンブルンナーにミュラーが足を組んだままで口を開いた。

「白バラについての調査ですが、これは特別保安諜報部が直接指揮を執っておりますので、我々の方で感知をしていないというのが実際のところですが、長官が夜と霧の法令を適用せよとおっしゃるのであれば、我々に否やはありません」

 表情をまったく動かさずに言い放ったミュラーに、両目を見開いたハンス・ショルは、ゲシュタポの指揮官の言葉の裏に隠された真意に気がついて腰を浮かしかけるが、それを制止しようとしたのは刑事警察局長のネーベだが、ミュラーはそんなことに構うこともせずに言葉を続ける。

「白バラの連中の始末についてはマリーに任せよう。まだ、彼女は休暇中のはずだが、不在の時にいきなり部下の首を切られていましたでは、あの子が良い顔をしないだろう」

 始末。

 その冷たい響きにアルトゥール・ネーベは、ハンス・ショルを安心させるように穏やかな声を上げた。

「問題は、宣伝省と外務省がどう攻撃してくるかですな」

「そんなことは簡単でしょう。国家保安本部には不穏分子が子飼いにされており、そんな彼らにドイツ国内の治安維持のための警察権力のほぼ全てを預けていていいのかとでも言って、国家保安本部の権力を失墜させるつもりなのだ……!」

 容赦のないオーレンドルフの追撃に、シェレンベルクは肩をすくめた。

「リッベントロップは取るに足りない男だが、ゲッベルスは油断ならん男だからな」

 冷静なカルテンブルンナーの言葉に高官たちは言葉を返すわけでもなく目を伏せる。

「つまり長官はリッベントロップをコントロールしているのがゲッベルスだとでも言いたいわけですかな?」

 刑事警察もゲシュタポも、決して余剰人員があるわけではない。ただでさえ戦争中で多くの人材が戦場に駆り出されているのだ。

 ネーベの問いかけに、カルテンブルンナーは大きな手のひらで軽く自分の顎を撫でてから考える。

「コントロールする、というほど大それたものではないだろうが、なんらかの思惑があって裏で糸をひいているのは間違いないだろう」

 マリーの独断に近いとは言え、国家保安本部で白バラのメンバーを囲っていることはすでにゲッベルスにも知られているだろう。そして、ゲッベルスに知られていると言うことは、ゲッベルスがリッベントロップにすでに情報として流していると考えて良い。

 ではなぜリッベントロップがその情報を利用しようとするかということだ。

「つまり、外務省に対する捜査の駆け引きに使おうとでも思っているのでしょうな」

 ミュラーは侮蔑するように鼻を鳴らしてから再びオーレンドルフがまとめた資料を手に取った。

「ミュラー中将ならどうする?」

「彼らの戯言(たわごと)に耳を貸すほど暇でもないので」

 冷たい眼差しのままで言い放つミュラーはちらとハンス・ショルを眺めてから、視線をシュトレッケンバッハとカルテンブルンナーに戻す。

「ですが、我々が持っているのは捜査権と逮捕権だけです。シュトレッケンバッハ中将と長官閣下はどのようにされるつもりなのです?」

 外務省と宣伝省が、白バラの中核メンバーでもあるハンス・ショルとソフィア・ショルに白羽の矢を突き立てたということをマリーが知ったらどう思うだろう。

「おそらく、シオニストの人民法廷長官がゲッベルス辺りにいらぬ情報を流しているのだろう」

 人民法廷長官――ローラント・フライスラー。

 彼は不快な男だ。

 それがカルテンブルンナーのフライスラーに対する印象だ。

 甲高い声で叫び、糾弾する裁判など、裁判ではない。

「シェレンベルク上級大佐、マリーに対する連絡は貴官の一存に任せる。あと、人民法廷と宣伝省の過激派がショルを狙うかもしれん。護衛をつけてやれ」

 次々と指示を出すカルテンブルンナーは、そうしてからハンス・ショルに退室を促すように片手を振った。

 これを受けてシェレンベルクの執務室から退室したハンス・ショルはようやく安堵の溜め息をついた。

 彼の上官――いつも得体の知れない笑顔を浮かべているマリーと呼ばれる少女。彼女の周囲にいる高官たちは、ハンスとソフィアが白バラのメンバーであるということを知っていながら、そのことに対して何の発言もしない。

 ハンス・ショルにはそんな彼らがなにを考えているのかわからなくて、不快な気分になることもままあるのだが、どうしてだろう。マリーの笑顔を見ていると、心にわだかまっていた重い氷が溶け出していくような感覚を感じさせられるのだ。

「死ぬ覚悟はできている……」

 ハンス・ショルは胸の前で拳を固めてぽつりと呟いた。

 すでに白バラの活動が国家保安本部では公然の秘密となっていると言ってもいいだろう。それらの状況から考えればハンスも、妹のソフィアもいつ殺されたとしてもおかしくはない状況に毎日置かれている。

 だから、死ぬ覚悟などとっくにできていた。

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