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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XII 弓を引くヘラクレス
138/410

1 悪手

 目の前にいる、この取るに足らない男のことを……――。

 ヨーゼフ・ゲッベルスは意地悪くそんなことを考えてから、内心でひっそりと嘲笑する。

「外務大臣は、本当に親衛隊の……」

 いつものように演説でもするようになめらかに言いかけてから、わざとらしくひとつ咳払いをするとゲッベルスは首を傾げた。

国家保安本部(RSHA)の連中を出し抜けると思っているのですかな?」

 外務大臣のヨアキム・フォン・リッベントロップも、国民啓蒙・宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルスも共に独自の情報網を所持していると自負している。もっとも、ゲッベルスにしてみれば、リッベントロップの外務省情報局はすでに失態を演じたも同然だ。おそらくすでに多くの内部情報が国家保安本部に渡っていると見てもよいだろう。

 かつて彼らは”こう”恐れられた。

 ――ゲシュタポはどこにでもいる。

 それは市井だけの話しではない。

 多くの場合、国家秘密警察(ゲシュタポ)の内通者が社会の多くに潜んでいるという意味でもあるが、それ故に、どこであってもドイツ人である以上気の休まるところなどありはしない。

 もしくは、ゲシュタポの内通者は外務省、あるいは国民啓蒙・宣伝省にも潜んでいるかもしれない。

 いや、とゲッベルスは微かに目元だけで笑った。

 おそらくゲッベルスやリッベントロップが感知していないだけで、ゲシュタポ――あるいは諜報部に通じる国家保安本部の内通者がいることは間違いない。それをゲッベルスは想定した上で自分の権力の及ぶ範囲内で宣伝省の情報部を動かしている。それによって得られた情報はいくつかあった。

「ゲッベルス大臣はゲシュタポが、我が外務省をかぎ回っていると言うが、”わたしには”なんら後ろ暗いことはない。そもそも、彼らがわたしの周囲をかぎ回るだけ無駄な振る舞いではないか」

 彼らは無駄な労力を割いている。

 いつものようにどこか居丈高な態度のままでそう告げたリッベントロップに、ゲッベルスは内心で「馬鹿め」と悪態をついた。

 せっかく、”外務省の周辺”をゲシュタポがかぎ回っているという事態を教えてやったのに、リッベントロップは見事に誤解している。

「確かに、ゲシュタポは夜と霧の法令を盾にして強権を発動することができる。しかし、大臣級の人間に手を出せば返り討ちにあうだけのことだとわかっているだろう」

 あのミュンヘン出身の田舎警察官はとうとう頭の芯までいかれたか。

 ゲシュタポ・ミュラーを凄絶にこきおろしたリッベントロップはどういうわけか、異常なほど自信に満ちあふれているようにも見受けられる。

「しかしですな、万が一の事態を考慮した場合、国家保安本部の動きに対して注意を払うことは無駄なことではないものと思われますが?」

「……ふむ」

 ゲッベルスの言葉を受けてリッベントロップは考え込んだ。

 確かに、宣伝大臣の言う通り、ゲシュタポの動きは外務省情報局――INFⅢを通じてリッベントロップの耳にも届いている。もっともその動向の詳細までは謎なままであるが、ゲシュタポが外務省の周りをかぎ回っていることは知っていた。

「確かに、彼らの動きを放置しておくことは余り愉快なことではないが……」

 独白するようにつぶやいたリッベントロップは視線をさまよわせてから、不機嫌に鼻から息を抜いた。

「だが、ゲシュタポ共の動きを外務省や宣伝省でコントロールするわけにもいかんだろう」

 それなりにもっともな台詞を吐き出した外務大臣は、そうしてゲッベルスを見つめ返した。

「面白い情報があるのをご存じですかな?」

「……面白い?」

 ゲッベルスの告げる「面白い情報」などあてにする気にもなれなくて、リッベントロップはむっつりとした表情のままでひとりがけのソファに深く腰を下ろすと大きな溜め息をついた。

 数ヶ月ほど前から、ヨアキム・フォン・リッベントロップにとっては余り心楽しくない状況が続いている。

 リッベントロップの屋敷で行われた夜会での殺人事件にしても然り、スイス連邦における赤いオーケストラ(ローテ・カペレ)の一件も然り。結局、外務省の行動は後手後手で、全てにおいて国家保安本部の国家秘密警察(ゲシュタポ)と諜報部に先手を打たれている。これらの状況が面白いわけがない。

「国家保安本部の、諜報部に勤める秘書のことです」

「……秘書?」

「えぇ、まだ大学生でしてね。現在は休学中で国家保安本部の諜報部で秘書として仕事をしています。この秘書がまた面白いのですよ」

「ほぅ?」

 ゲッベルスの言葉にリッベントロップは身を乗り出した。

「どうやら、この大学生が元々は反体制派の学生運動を組織していたらしいとのことなのです」

 よどみのないゲッベルスの声音にリッベントロップは少しだけ考え込むと腕を組み直す。

「つまり、不穏分子を摘発すべき国家保安本部(RSHA)が子飼いにしている、と理解してよろしいか?」

「……さて?」

 答えをはぐらかすように笑ったゲッベルスは、タイプライターで打たれた書類をリッベントロップの前につきだした。

「どのようにでも受け取っていただいて構いませんよ」

 曖昧なゲッベルスの返答を受けて、リッベントロップは黙り込むと口元に片手を上げたままで思考に沈む。

 ゲッベルスのことも国家保安本部と同じように気の抜けない相手であることも理解しているリッベントロップだが、ここは果たしてゲッベルスの口車に乗っておくべきなのだろうか。

「どちらにしたところで、国家保安本部が”外務大臣”の周りをかぎ回っていることは確かなことです。充分にお気を遣われたほうがよろしいかと思われます」

 得体の知れない笑みを浮かべたゲッベルスから視線を引きはがしたリッベントロップは、自分の持っていたファイルにゲッベルスのつきだした書類を挟み込んでから立ち上がった。

「とりあえず、有効な情報の提供を感謝する」

「とんでもない」

 ソファに腰掛けたままで手を開いて肩をすくめたゲッベルスの演技じみた動作に、どこか不快なものを感じながら、結局それに対してはなんのコメントもせずに宣伝大臣の執務室を後にした。

 外務省に戻る道すがら、ヨアキム・フォン・リッベントロップはゲッベルスから手渡された書類に視線を落とした。

 ハンスとソフィア。

 このふたりの大学生の存在。

 ショル家の経歴とふたりの政治活動。

 いくつかの情報が端的に書かれている。

「なるほど」

 ”反社会的”な不穏分子を国家保安本部が子飼いにしているとなれば、それの情報は不遜な彼らの権威を失墜させるためには有益だろう。

 ナチス親衛隊の権力。

 そして鼻持ちならない国家保安本部の権力。

「調子に乗っているのも今のうちだ」

 口の中だけでつぶやいたリッベントロップはそうして後部座席に座り直すとじっとフロントガラスの向こう側を凝視した。



  *

 マリーは余り屋根のない車には乗りたがらない。

 暑いからと何度かベストやヨストがオープンカー(カブリオ)での移動を薦めたものの、余り強い意思表示をすることの少ないマリーが珍しく断固として拒否をした。

 敵地ではないから特別危険が及ぶことが多いわけでもないのだが、それでも彼女は顔色の悪い顔からさらに血の気を引かせて無言のままでぶるぶると左右にかぶりを振ると、高級指導者たちの会話に入り込むこともできずに困っているアルフレート・ナウヨックスの腕を掴んでそこに鼻先を押しつけるようにして小刻みに震えていた。

 そんないきさつがあってマリーが乗る公用車は多くの場合セダン型の車に乗った。

 以前、個人的にカブリオでドライブに誘ったカルテンブルンナーの横で、金髪の少女は景色を楽しむどころではなく運転席の国家保安本部長官にしがみついて動けなくなってしまったことがあった。

 そんな経験をして以来、エルンスト・カルテンブルンナーはマリーをカブリオ型の車で迎えに行くようなことをしなくなったらしい。

「まぁ、別に無理にカブリオに乗らなくてもいいだろうが、つい最近までは暑かったからな」

 そんなことを思い出したのか特別保安諜報部の次席補佐官――ハインツ・ヨストが首席補佐官の顔を眺めながらそう言った。

 一応、暑いからと気遣ったつもりなのだが、意外なことに少女はなにかを思い出したのか、恐怖に満ちた光を瞳に浮かべて硬直してしまっていた。

 彼女は、なにをそんなに恐れたのだろう。

 もっとも公用でカブリオなどに乗る必要はないし、先の国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒの例もあったからセダンのほうが警護がやりやすいという意味もあった。

オープンカー(カブリオ)はいや……」

 怖い。

 少女はそう小声で呟くと、いよいよナウヨックスにきつく抱きついて震えてしまっていた。

 弱々しい声を思い出す。

「中将閣下も少将閣下も、少佐殿がいやだと言っているものを強要したりはしないでしょうから、大丈夫ですよ」

 大柄なナウヨックスにしがみついて震えたマリー。そんな少女の頭に無意識に手のひらで撫でたナウヨックスは鋭い視線を投げかけられていることに気がついて、そちらに視線をやった。

 首席補佐官のヴェルナー・ベストはナウヨックスがなれなれしく上官の頭を撫でようとしていることが気に入らないのか、渋面のままで武装親衛隊にも所属した生粋の秘密工作員を睨み付けた。

「しかし、ベスト中将。あそこでナウヨックスを睨まなくても良かっただろう」

 とりあえずなんとなくナウヨックスとベストの間に入ったヨストも、元々はそれほど温厚な人柄と言える人間ではない。

 ヨストも元を正せばシェレンベルクの前の国外諜報局長だ。しかし、アインザッツグルッペンの指揮官のひとりとして東部戦線に送り込まれ、彼の精神はすっかり病んでしまった。そんなヨストの精神力を回復させるにいたったのがマリーだと、彼は自覚していたから少女が怯えるほど怖がるような車などにさすがに乗せようなどとは思えない。

「ああいう有耶無耶が一番良くないのだ。少なくともナウヨックスにとってマリーは階級が上だというのを理解しているのか」

 苦言を申し立てるベストに対して、ヨストは苦笑してから執務机の端に転がっていた鉛筆を取りあげると首を傾げる。

 マリーに対して馴れ馴れしい言葉使いをするのはなにもナウヨックスに限ったことではない。正門警備につく下士官や、特別保安諜報部の下士官たちも同じようにマリーに対してはどこか暖かく優しい言葉遣いをする。

 一応それなりに敬語を使ってはいるが、これがマリーではなく別の者に対する言葉使いであったなら、正直なところ苦言程度ですむ問題ではない。

「あの子は、どこか危なっかしいから、放っておけないんだろう」

 足の悪さだけではなく。

 天真爛漫で、誰かに対して警戒することのない少女は、屈託がなさすぎて危機感にひどく疎い。

 だから、誰も彼もマリーに手を差し伸べずにはいられない。

「しかしだな、ヨスト少将」

「仮にマリーに、相手の男を肉体で籠絡しようとでもしているなら問題も出るだろうが、彼女の場合、そうではないことをベスト中将が一番知っているだろう」

 国家保安本部で最もマリーに近い場所にいるのはヴェルナー・ベストだ。

 それをヨストが指摘する。

「心配であれば、彼女の周囲に中将が気を配ってやればいいだけのことだ」

 少なくともマリーはナウヨックスがありとあらゆる意味で、自分にとって危険がない人間だと認知しているのだろう。

「不貞を働く輩を心配しているのであれば、かりかりする相手はナウヨックスではなかろう」

 ヨストが見る限り、アルフレート・ナウヨックスはマリーに対して上官だと言う確かな意識があるわけでもなさそうだが、彼女に対して不埒な行動を取るような男にも見えない。もしくは他の女相手であればそうした気にもなるのかもしれないが、今のところナウヨックスの態度は少女に不埒な真似をしようとする男のそれには見えなかった。

「それもそうだが……」

 わかっているのだ。

 ベストは黙り込むとややしてから「ところで」と話題を切り替えた。

「マリーがカブリオをあれほど嫌うのはなぜだろう?」

 どうしてあれほど全身で拒絶するのか。それが問題だ。

 いや、国家保安本部にあって通常の業務をするだけならば、公用車がカブリオである必要などない。

 だが今後もそうとは限らないではないか。

 なにかの事情で乗らなければならないとも考えられなくもない。

「さて……。なにか嫌な思い出でもあるのだろう」

 事故にあったことがあるとか。そうした経験が彼女の心に傷として深く刻み込まれていると考えれば、マリーがオープンカー(カブリオ)を頑として拒否したことも納得できた。

「いやな思い出、か」

 眉をひそめたままで考え込んだベストは、主のいない執務机を眺めてから人差し指でひとつ自分のデスクを打った。

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