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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XI 偽典
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15 凱旋

 ゲーリングとポールがベックの自宅から立ち去って、家主であるルートヴィヒは厳しい光を瞳にたたえたまま書斎にこもってしまったのは残暑の日差しが傾きだした時刻だ。わずかに冷えた風が室内を回る。

 応接室に取り残されたマリーと夫人は顔を見合わせてから互いに小首を傾げる。

 もっともそれは両者違う意味で首を傾げたのではあるが。

 夫人はゲーリングとポールとの会話に同席していなかったから夫の不機嫌な理由を知らなかったのだが、一方のマリーのほうは単にベックがどうして機嫌が悪くなったのかが理解できなかったせいだ。

 マリーには、他者の感情を理解することなどできはしない。

「国家元帥閣下となにか深刻なお話しでもあったのかしら……」

 不安げにつぶやく夫人が口元を手で覆った。そんな彼女の服の裾を小さく引っ張ったマリーに、夫人が困惑しきった眼差しを向けると少女は沼の底にも似た青い瞳でにっこりと笑ってみせた。

「……大丈夫ですよ」

 なにが大丈夫なのか。

 なにが心配いらないのか、彼女は言わない。

 そうしてベックの姿が応接室から消えてから、マリーはというとテーブルの上に置かれたままだった本を手に取るとスキップでもするような軽い足取りでバルコニーへと歩いて行ってしまった。

 それからどれだけ時間がたっただろう。

 バルコニーも本が読めるような明るさではなくなった時刻、マリーは額に浮かんだ汗を拭いながら本にしおりをはさんで閉じると室内に戻ろうとして振り返る。

 するとそこにはルートヴィヒ・ベックが相変わらずどこか機嫌の悪そうな、そして厳しい瞳のまま腕を組んで少女を見つめていた。壁に寄りかかっていたベックは、マリーが自分に気がついたことを知ると体を起こして目を伏せた。

 ベックの長い影が少女の足元に落ちる。

「……ベックさん?」

「マリー……」

 どうかしたんですか?

 相変わらず状況を理解していない少女は、そう言いたげな様子で小さく首を傾げると長身の退役軍人を見上げている。

 大きく溜め息をつくように名前を呼ばれてベックは続く言葉を失ったまま顔を覆った。

 長い沈黙が赤い日差しに満たされたバルコニーが重い沈黙に満ちている。そこにあるのは苦悩に満たされたベックの姿と、無邪気な表情で彼が口を開くのを待っているマリーだ。

「わたしは……」

 一一〇〇万人という少女の言葉を思い出した。

 ナチス親衛隊がなにをやろうとしているのか、うっすらとではあったが理解していたはずだ。だからこそ、陸軍参謀本部総長として敢然とナチス党に立ち向かった。そのために結果として解任され、後任をフランツ・ハルダーに任せた。そのハルダー自身もヒトラー陣営とはうまくいっていないらしい。

 これではいつか、ヒトラーらとうまくやっていけない高級将校はことごとく更迭されるのではないかとベックは気を揉んだ。

 一説には、ハインツ・グデーリアンやマンシュタインもヒトラー陣営には受けが余りよくないらしい。彼らもそれぞれに個性に溢れてはいるが優秀な指揮官であることはベックもハルダーも認めるところだった。

「わたしは、どうすればいいのだ……」

 誰に告げるでもなく独白した老将に、マリーは本を小脇に抱えたままじっと彼を見上げると細い腕を伸ばしてベックのシャツを軽く引っ張った。

 ナチス党がやろうとしていることに反対をしているという自分の理念に誇りを持っていた。けれども、目の前に突きつけられた膨大すぎる数字に想像を絶する恐怖を感じた。

「マリー?」

「ベックさん」

 明るい太陽のかけらのようなとも表現できるマリーの笑顔は、明らかに彼女の口から告げられた残虐な内容とはかけ離れていて、ベックはそんな少女になにを言えば良いのかわからなくなる。

「大丈夫ですよ」

「……――君が言っていたことは本当のことなのかね? 本当に、一一〇〇万人もの人間を殺そうとしていたのか?」

「うーん……」

 ベックに問い詰められるように告げられてマリーは口ごもった。もっとも、だからといって自分がゲーリングとポールを相手にして言った内容を失言だとは思っていない。

「別に”わたしたち”は当初殺そうとしていたわけではありませんよ?」

 よくよく聞けば物騒な台詞であることこのうえないが、そんなことをマリーは気にしていない様子だ。

「それに、普通に考えれば一一〇〇万人もの人間を殺すことなんて簡単にはいかないんです。それは軍人だったベックさんが一番わかるんじゃないですか?」

 殺すだけならば簡単だ。

 しかし中世ではあるまいし、殺したら殺したでその後の死体を放置しておくわけにもいかない。

 肉は腐敗する。

 殺した後の処理も念頭にいれなければ、計画など簡単に破綻する。

 悪意のかけらもなくそう言った少女は苦悩するベックをよそに天真爛漫に笑うと、彼の脇を通り抜けて室内へと戻っていく。

「待ちなさい」

 自分の横を通り抜けた明るい笑顔の少女の腕を掴んだベックが制止する。その余りの力の強さにマリーは思わず眉をしかめるが、ベックはそんな彼女の変化にはお構いなしだ。

「マリー。君は、なにを考えているんだ」

 普通に考えれば、ゲーリングの命じたという「最終的解決」に関する計画の立案。それをナチス党関係者以外の人間もいる席で話すなど狂気の沙汰ではない。おそらく、ゲーリングやポールの動揺振りを見る限り、極秘事項であったはずだ。だというのにマリーはそんなことを気に掛ける様子もなくベックの前で口にした。

 ――なにを考えているのかわからなくなる。

 彼女はナチス親衛隊の、国家保安本部の諜報部員であり、さらに親衛隊全国指導者個人幕僚本部の一員でもある。つまりそれだけ巨大な秘密を抱えている人間であるということもベックはわかっているつもりだった。

 けれども、そんな情報将校がベックを前にしてナチス党(NSDAP)にとっての巨大な秘密を漏洩させた。それがなにを目的としているのかベックには理解などできるわけもない。

 情報将校相手に気を許していいわけがないということもわかっていて、けれどもマリーの無防備な横顔に心を許してしまいそうになるのもまた事実だ。

「はい?」

「君の目的は何だ」

 ナチス党にとっての重要な秘密の漏洩。

 その存在をベックが知る事になるということがどういうことであるのか、国家保安本部の人間が知らないわけがない。

 ただでさえ国内の反体制分子に対して緻密な捜査網を持っている彼らなのだから。

「さぁ? そんな難しいこと言われてもわかりません」

 掴まれた手首をそのままにしてマリーはベックに応じてそう言った。

「そういえば、東部からパウルス大将閣下が帰ってきてるんですってね。”良かった”ですね」

 今思い出したとでも言いたげな彼女の言葉が、どうしてか不愉快に感じてベックは片方の目を細めると舌打ちを鳴らしてからマリーの手首を離した。

「パウルスか……」

 フリードリヒ・パウルスは先日、東部戦線での戦功によって上級大将に昇進した。彼は故ヴァルター・フォン・ライヒェナウ元帥の片腕と呼ばれた事務屋で、そうした方面では卓越した手腕を発揮する。ヒトラーは東部戦線で脳卒中のために命を落としたライヒェナウ元帥に代わって第六軍の司令官として大抜擢されたが、それまで軍団を率いた経験もないパウルスに対して、前線から離れた場所でベックは不審の目を向けていた。

 彼の勝利は偶然が重なった賜物ではなかろうか、と。

 死んだハイドリヒと、そしてハイドリヒが率いた国家保安本部がなにを計画して、なにをやろうとしていたのかはベックにはとてもではないが理解できない。けれども、ベックの関心事は決してそれだけではなかった。

 国家保安本部の動向にも警戒すべきものはあったが、国家首脳部の動向にも強い関心を向けている。

「パウルスは上級大将に昇進したのだったな」

「そうなんですか?」

 そういったことに余り関心がないらしいマリーはベックの言葉に相づちを打ってから、暖炉の上の棚に本を置いてから振り返ると華奢な腕を伸ばした。

 細く頼りない指がベックの手を握る。

「ベックさん、”わたしたち”はドイツの敵じゃありません。ベックさんなら、誰がドイツの敵なのか知っているはずです」

 ニコニコと笑っている少女の不気味な笑顔。「ね?」と言いながらやはり首を傾けた少女に圧倒されて、ベックは息を飲んだ。

「国家保安本部にとって、計画の全容を知られると言うことは余り好ましいことではないのではないか?」

「大人の事情なんて知りませんけど、まともに考えるなら一一〇〇万人、もしくはそれ以上の人間を絶滅するなんていうこと可能だと思ってる人がいるなら相当頭の中がおめでたいんですよね」

 容赦ないマリーの言葉に、ベックは視線を彷徨わせた。

 どうして目の前の少女はこんなにも冷静に残酷な言葉を綴ることができるのだろう。

「マリー、君は……」

「大丈夫ですよ」

 つながれた細い指。その手をベックは思わず握りかえした。



  *

「ベック上級大将のところに預けられていた女の子がこれがまたなかなか可愛らしい子でな」

 機嫌良さそうに言った古い知り合いに、どこかうんざりとした様子でソファの肘掛けに頬杖をついた同年代の長身の男は、やんちゃ坊主そのままの笑顔をたたえる彼に対して大きな溜め息をついた。

「そんなものを見るためだけにベック上級大将の自宅を訪ねたのか?」

 子供がひとり暮らしをしていては世間的に物騒だという理由だけで預けられたという経緯(いきさつ)は、説明などされなくても理解できたから彼としては友人がわざわざベック家に預けられたらしい子供を見に言ったというのが理解できない。

「なんだ、知らんのか? 子供とはいえ、国家保安本部に所属しているとなれば興味のとつやふたつ湧くだろう。エーリッヒ」

 ハインツ・グデーリアンの言うことはもっともだが、長身の男――エーリッヒ・フォン・マンシュタインにしてみれば国家保安本部に所属する中間管理職の「子供」の情報将校など関心を向けるまでもない。

 確かに、国家保安本部と親衛隊全国指導者個人幕僚本部に名前を連ねているとなれば、興味を持つ輩もいるかもしれないが。

「……それで、実際どうだったんだ?」

 マンシュタインに問いかけられて、グデーリアンは腕を組み直してから天井を見上げると鼻から息を抜いた。

「そうだな、運動不足の甚だしいヤセギスの子供だったが」

 花のような笑顔をたたえた彼女は、ベックとグデーリアンの話しを邪魔するわけでもなく耳を傾け、時折、自分に振られる話にきちんと答えていた。

 子供らしい無邪気さと、無遠慮さが気に入った。

「なかなか鋭いところもあるようだ」

「ふむ」

 グデーリアンの評価を聞きながら頬杖をついていたマンシュタインは考え込んで、しばらくしてから目を上げる。

「国家元帥のお気に入りとは聞いているが、実際のところどうなのだろう? ハインツ」

「さてな」

 国家元帥のお気に入り。

 そう呼ばれる少女がナチス親衛隊の国家保安本部に所属している。

 その噂は国防軍上層部に、まことしやかに流れているものだ。もっとも、この噂については当のヘルマン・ゲーリングが否定するわけでもなければ肯定しているわけでもないから真偽の程は定かではない。

「子供が国家保安本部に所属か……」

 マンシュタインやグデーリアンなどからしてみれば、国家保安本部そのものが子供の集団と言っても過言ではない。

 現在そのトップを務めるエルンスト・カルテンブルンナーは三九歳。死んだラインハルト・ハイドリヒも三九歳だった。彼らの下で強大な権力を振るう知識人たちも三十代前半が多いときたものだ。

 そこに子供の将校が配属されたと言ったところで、ままごと会場であるということには大した違いがない。

「いよいよヒムラーのままごと遊びにやきが回ったか」

 ぽつりとつぶやいたマンシュタインに、グデーリアンが「そう言えば」と切り出した。

「パウルス上級大将が凱旋帰国したそうだな」

 パウルスの帰国の前日、すでに空軍のリヒトホーフェン元帥もドイツに帰国している。

「パウルス上級大将は優秀な人物だから、自分の力量を見誤るということはないだろうが、政府首脳部が彼を過大評価するならば問題が大きくなるだろうな」

 マンシュタインの冷静な指摘にグデーリアンは肩をすくめた。

 後一歩のところで、万が一昨年のように東部の戦場が冬将軍の下の泥沼に引きずり込まれていれば戦況は一変しただろう。おそらくパウルスの軍団は生きて帰れなかったかも知れない。

「問題といえば、知っているか? 参謀本部のハルダー上級大将を解任しようとヒトラーが画策しているらしいが、これにおべっか使いのカイテルが大反対しているらしい」

「……あのカイテルが?」

 これはまた珍しいことがあるものだ、と目を丸くしたマンシュタインは立派な口ひげのあるヴィルヘルム・カイテルの顔を思い出してから古い友人の顔を見直した。

「それは面白い情報だな」

 ヒトラーのイエスマンと呼ばれた男。

 彼はハルダーとも折り合いが余りよくないはずだ。

 そのカイテルがヒトラーに対して反対の声を上げている。

「確かに参謀本部はきな臭い噂が飛び交ってもいるが、あそこをヒトラーのイエスマンだけで構成するというのは俺もあまり賛成はできんからな」

 カイテルになにがあったかは知らないが。

「……なにも国家元首が戦争に口を出す必要などないというのにな」

 やれやれと溜め息をついたマンシュタインにグデーリアンは腕を組み直すと「まったくだ」と頷いた。

 戦争は軍人の仕事なのだから。

「とりあえず、そんなことよりもヒトラーがパウルス上級大将の手腕を見誤るとしたら、大きな問題が生じることになるな」

 パウルスは愚かな男ではない。

 そうした意味では彼の判断能力には信頼を寄せているが、前線指揮となると話しは違う。前線というのは常に不確定要素が蠢いているのだ。司令官は冷静に、全ての可能性を考慮に入れて大局を見渡していなければ話にならない。

「彼は司令官の器ではない」

 高級将校とは言っても決して万能なわけではない。司令官としての才能を持つ者もいれば、参謀として力量を発揮する者もいる。

「うむ……」

 マンシュタインのパウルスに対する評価に、グデーリアンはうなりながら目を伏せた。確かに時代は動き出しているのだが、その正体がわからなくてふたりのヒトラーに覚えの悪い高級将校は茶器を前にして黙り込んだ。

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