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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XI 偽典
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14 再定住計画

 ナチス親衛隊国家保安本部に所属する情報将校。十代の少女がひとり暮らしをしているということに加えて二度もテロリズムの標的となっていることから、長期休暇を与えるにあたってたったひとりでは心配だという国家保安本部長官エルンスト・カルテンブルンナー親衛隊大将の懸念から、たまたまプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセを訪れていた陸軍参謀本部総長フランツ・ハルダー上級大将を介して、前陸軍参謀本部総長のルートヴィヒ・ベック陸軍退役上級大将のもとに預けられることになった。

 親衛隊員であるとは言え、十代の少女がテロリズムの標的とされるということは余りにも忍びないということで自宅に預かることになったのだが、問題はその後だ。

 悪名高い国家保安本部の情報将校とは言え、当の本人はベック家では年齢相応の少女らしく振る舞っているのだが、彼女が預けられてからというものベックの家を訪れる者が増加したことが、家主であるルートヴィヒの頭痛の種だった。

 この日訪れたのは空軍総司令官のヘルマン・ゲーリング国家元帥と、経済管理本部長官のオズヴァルト・ポール親衛隊大将で、どちらに対してもベックには余り良い印象がなく、むしろ両者に対して感じるのは悪い印象のほうが多いと言えるだろう。

 つい先ほどまで午睡をしていた少女は口元に手を当ててあくびをかみ殺してから、隣に腰を下ろしているベックを横目に見やった。

 ベック家に預けられたばかりの頃は、余りにもやせこけていたことと、顔色の悪さもあったが最近ではそれもだいぶ改善されてきたように思う。

 ――休暇の間はちゃんと食事をとってゆっくりしていっていいのよ。

 夫人が穏やかに告げると、言われた少女のほうはわかっているのかいないのかにこりと笑って「はい」と言う。

「それで、”ナチ”の大物がどうしたわけだね?」

 腕を組んで問いかけるベックはわずかな皮肉を声音ににじませて、ゲーリングを眺めてから自分の隣に座っている少女を瞳だけで見下ろした。

 一方、ベックのそんな様子に対して反応も返さずにゲーリングは少女に呼び掛ける。もちろんゲーリングにそんな余裕がないからなのだが、そんな国家元帥の内心などベックは理解できることではないし、知った事ではない。

「ハイドリヒ少佐」

「はい?」

「親衛隊長官がことさらに親衛隊内部のもめ事を煽っていることは知っているかね?」

 参謀本部出身のルートヴィヒ・ベックがそこにいることで言葉を選んでいるらしいゲーリングに、少女はわずかに視線をさまよわせてから大柄な男を見つめ返した。

「ポール大将閣下がゲーリング元帥と一緒にここにいるっていうことはつまり、国家保安本部と経済管理本部の再定住計画に対する方針が違っていることが問題だから、その話にきたっていうことでいいんですよね?」

 子供は子供なりに考えているらしい。

 少女が視線を上げてゆっくりと言葉を綴ると、彼女の口から出た「再定住計画」という単語に隣に腰掛けている前参謀本部総長のベックは、かすかに不快げな光を瞳に閃かせただけで言葉を放つことはしない。

 ナチス党の大物であるゲーリングを目の前にして安易な発言をすれば、危険に陥ることになるのは自分自身だけではなかった。

 ――自分自身だけではなく、それこそ一族郎党が強制収容所に思想犯、もしくは政治犯として放り込まれることになるだろう。ベック自身は元軍人であったから、強制収容所に送り込まれてもいましばらくは耐えることができるだろう。

 しかし、一族の女や子供たちはそればかりではない。

「でも、ゲーリング元帥だって、一連の”計画”の解決方法を立案しろって指令を出したんじゃないですか」

 そう告げてからマリーは左手の人差し指を顎に当てて小首を傾げる。

 はっきりとした単語を使わないのはナチス党員――そしてナチス親衛隊員たちの特徴でもある。彼女の発言を聞く限り、マリア・ハイドリヒという少女はやはり紛れもない親衛隊員なのだということを感じさせられた。

 それにしてもゲーリングが出した指令とはどういうことだろう。

 ベックは無言のままでかすかに眉をひそめる。参謀本部総長を務めていた頃から、ナチス党に関するきな臭い噂は聞こえているが、ふたりの会話を聞く限りドイツ国内に流れていた噂は限りなく黒に近いのだろう。

「ポール大将が事業の関連で労働力として必要なこともわかりますけど、そもそも国家保安本部に行動の自粛を求める前に、必要なことがあるんじゃないんですか?」

 隣にベックがいることも、ゲーリングが発言するにあたって言葉を選んでいることも、そしてポールが国家保安本部の推進する「最終的解決」に対して反発を深めていることも、マリーにとっては関係のないことであるらしい。

 大人たちの思惑などどこ吹く風と言った様子で彼女は言葉を続けた。

「親衛隊長官が、他の人の意見に流されやすいことはゲーリング元帥もポール大将閣下も知っていることじゃないですか」

 遠慮なく言葉を続けたマリーは絶句しているゲーリングを見つめたままで一度言葉を切った。

「だが、やり方が問題だろう。国家保安本部はその権力の強大さをいいことに国家の歯車となる善良な官僚たちまで処罰しようとしているではないか」

 ゲーリングとマリーのやりとりを黙って聞いていたオズヴァルト・ポールは、少女の子供らしくも鋭い指摘に対し、異議ありといった様子で口を開いた。しかし、ベックの隣に座っている少女の親衛隊少佐は、自分よりも階級が上の人間と相対しているというのに気後れするような雰囲気も見せずベック夫人の運んできたクッキーに手を伸ばす。

 不気味に感じるほど彼女の表情は揺らがない。

「そうなんですか?」

「君は警察権力を一手に握る国家保安本部に特権的な権力が存在していないとでも思っているのかね」

「……そういうわけじゃないですけど」

 問い詰める調子のポールにマリーは一度口ごもると、目の前の男の詰問が不愉快に感じたらしく不満げに頬を膨らませた。

「でも、ヒムラー長官が人の意見に流されやすいのをわかっていて、そこに二種類の指令が出れば長官がどっちにも良い顔をしようとするのはわかりきったことじゃないですか」

 ポールに対して及び腰にもならない少女は言葉を返す。

 機嫌の悪さを見せたのも一瞬で、マリーはすでにやはり真意がどこにあるのかわかりにくい笑顔に戻っていた。

 そう。

 政府首脳部から二種類の指令がナチス親衛隊に命じられたため、主として国家保安本部と経済管理本部は正反対の意味合いを持つ命令をそれぞれに遂行するために行動している。そしてそれは結果的に親衛隊内の確執を深めることになり、ハインリヒ・ヒムラーの立場を危うくしていった。

「それに、ポール大将閣下はそういうことをわたしに言いますけど、わたしになにかの権限があるわけでもありません。意見をするなら国家保安本部長官にしたほうがいいんじゃありません?」

 ノースリーブのドレスから伸びた左腕はまだ腫脹していて、マリーがまだ骨折から完全に回復しているわけではないことを示している。

「埒があかんから言っているのだ」

 ポールの乱暴な言葉にマリーは首を傾げたままでどこか困惑した様子でベックを見上げた。

 国家保安本部は囚人たちの絶滅を。

 経済管理本部はそれらを軍需産業を支えるための労働力としようとしている。しかし、どちらにしたところで、ナチス親衛隊の推進する強制収容所及び強制労働収容所のやりようは嫌悪すべきものをベックは感じざるを得ない。

 多くの国防軍の士官たちが「部分的ユダヤ人」やその他の者たちを守ろうとして知恵を絞っていたという情報をルートヴィヒ・ベックは掴んでいる。

 誰もがナチス党のやり方に黙って従っているわけではない。

 ゲーリングとポール、そしてマリーのやりとりはベックの毛嫌いしたナチス党のやり方そのもので、元参謀本部総長はむっつりと黙り込んだままで腕を組み直した。そしてベックの険悪な雰囲気を感じ取っているだろう少女は、それを全く気にする様子もなくポールとゲーリングに相対した。

 ベックの手前、ナチス党の行うユダヤ人政策を隠蔽しようとしているゲーリングとポールに、マリーのほうは彼らのタブーを気に掛ける様子もない。マリーは隣にベックがいることも気に掛けていなければ、再定住計画の詳細をベックに知られることに対して危機感を感じている様子もなかった。

 彼女がなにを考えているのか、ベックにも理解できなければ、ゲーリングもポールもそうだろう。

「だからそんなことをわたしに言っても無駄だって言っているんです」

「君は親衛隊全国指導者個人幕僚部に所属しているのだから、ヒムラー長官閣下に親衛隊としての意志を統一するよう進言してもらえないか」

「意志の統一ですか……」

 でも、ゲーリング元帥。

 ポールの言葉を聞きながらマリーは言った。

「党としてはどうしたいんですか?」

 ユダヤ人に関する最終的解決をどうするのか。

 どうしたいのか。

 彼女はそう尋ねる。

 目配せするようにヘルマン・ゲーリングを見上げたマリーに、国家元帥が硬直した。

「元帥のお力なら、ゲッベルス博士を丸め込むこともできるんじゃないんですか?」

 ずばりと言い放つ彼女の言葉にゲーリングは黙り込んだ。

 ドイツ国民の全てがユダヤ人に対して嫌悪感を抱いているわけでもなければ、排他的であるわけでもない。

 ユダヤ人の権利を守ろうとする者がいることも知っていた。

 しかし、それでもすでに容易にブレーキをかけることができなくなっているということもまた事実で、それがナチス親衛隊の政策の矛盾を作り出した。

「ヒムラー長官はあの通りですから、政府首脳部の方向性がひとつにまとまれば元通りになると思いますよ」

 歯に衣を着せないマリーの物言いに、ひどく不快そうな顔をしたのはオズヴァルト・ポールで、ナチス党関係者三人の会話にベックは訝しく思った。

 ゲーリングは少女に対して明らかに気を遣っていて、ポールのほうは不愉快そうなものを感じている。そして、当の金髪の少女のほうは、彼らが自分よりもはるかに階級が上の男であるということが気になっているわけではない。

 そこには明かな温度差が生じているように見える。

「自分たちが無能なのを棚に上げて、国家保安本部のやり方に口を出すって言うのは違うんじゃないんですか?」

 無能だと言い切った。

 そんなマリーに文字通りポールの表情が変わる。

 少女の無礼な態度に怒りを抑えきれない経済管理本部長官が、顔を真っ赤にさせて立ち上がりかけた。しかし、そんな男を見やって少女は真顔のままで金色の睫毛をまたたかせた。

「無能だと……っ」

「本当に無能かは知りませんけど。子供の発言に青くなったり赤くなったり。少し大人げないんじゃありません?」

 声の調子は全く変わらない。

 変わらないことが逆に不気味に感じるのかヘルマン・ゲーリングは困惑した様子で眉をひそめてから、マリーの言葉に立ち上がりかけるポールを片手を上げて制すると溜め息をついた。

「子供の言葉に過剰反応して、ポール大将閣下も案外大人じゃないんですね」

 ずけずけと遠慮なく言ったマリーは、隣にいるルートヴィヒ・ベックを見上げると「ね? ベックさん」と同意を求めた。もっとも、ベックのほうはと言えば同意を求められても、ゲーリングを前に返事を躊躇する。

「なるほど、ヒムラーを操るなら先にゲッベルスを操るべきだと言いたいのか」

 どこか感心したようなゲーリングはそうつぶやいてから「それにしても」と言葉を続ける。

「ゲッベルスは頭の回転が速い。操ると言ってもそうそう簡単なことではないぞ」

「そうなんですか」

 ふーん、と相づちを打ったマリーは姿勢を正しているのが疲れたのか、ベックに寄りかかると天井を見上げたままで考え込んだ。

「一一〇〇万人」

 マリーが低く告げた。

 何の数字か。

 それを大人たちが考えたのはほんの数秒だ。

 けれども、その場にいるゲーリングも、ポールも。そうしてベックも、マリーが告げた数字がなんなのかはすぐにわかった。

 それはユダヤ人の数字だ。

 ベックを前に晒された数字にゲーリングもポールも動揺した。

「ゲーリング元帥も、ポール大将閣下も。ゲッベルス博士も、”本当”に一一〇〇万人もの人間を殺戮することが可能だと思っているんですか?」

 大人たちがあえて言葉にしない数字をマリーは率直に口にする。

 一一〇〇万人のユダヤ人。

 その数字を、ゲーリングばかりかポールやベックも知っているとでも思っているかのような態度だ。

 そんな彼女の言葉に血相を変えたのはゲーリングで、数秒をおいてからベックが怒りのまま思わず立ち上がった。

「それは何の話しか! 国家元帥閣下!」

「ちょっと計算すればわかるじゃないですか。こんなに大きな肉の塊を、一一〇〇万人も殺し尽くすなんて。処理の方法も、処理した後の片付けの場所とか、全部、国家保安本部に丸投げで。……本当にそんなことが可能だと思っているんですか?」

 激昂したベックの声に重ねられた静かな少女の声は、ぞっとするほど冷徹だ。そしてマリーは言葉を失っているゲーリングも、そして不穏すぎる会話の内容に激怒したベックのにも関心がないとでも言うように不気味な笑顔をたたえている。

 ――こんなに”大きな肉の塊”を。

 処理の方法。片付け。

 その言葉が示唆するもの。

 虐殺……――。

 戦争をしている時代にあって、殺人という行為は決して免れることはできないことも軍人であるベックにはわかっている。それでも、無辜の人々が殺害されなければならない理由などどこにあるというのだろう。

 人道的な理由だけではなく。

「女も、子供も、年寄りも」

 歌うようにマリーは告げる。

「やれと命令されればわたしたちはやるだけです。でも、その命令がすでに矛盾しているのであれば、わたしたちよりももっと権力を持つ人たちが動かなければ」

 外務省や強制収容所に捜査のメスをいれようとしている国家保安本部のやり口を非難しようとして失敗した。

 彼女の言っていることはもっともだ。

 殺しているのは確かに国家保安本部の主導だが、命令を出しているのは国家保安本部ではない。

「”わたしたち”が当初計画していた予定を台無しにしたのはどこの誰か」

 国家保安本部で薦められていた「再定住計画」は幾度も変更を余儀なくされた。それらの変更は戦線の拡大に伴ったものでやむを得ないものもあるだろう。しかし、とゲーリングは思った。

 計画の段取りをたてていたラインハルト・ハイドリヒは、それも計算の内だったのではなかろうか。

 一一〇〇万人という膨大な数字。

 冷静で、冷酷な男は全てを計算していただろう。

「そ、それは……」

 青い眼差しに凝視されてゲーリングはそのまま硬直した。

 彼女の青い瞳が、ヘルマン・ゲーリングは得意ではなかった。

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