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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XI 偽典
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13 手探りの信頼

 ――まったくもってサディスティックで悪趣味なこと極まりない。

 そう評価をしたのは刑事警察のコンラート・モルゲンだ。

 彼は上官であるアルトゥール・ネーベの前で報告の際、不快さとあからさまな怒りで表情を歪めていた。

 サディスティックで悪趣味。

 モルゲンの報告書にある記載を眺めて黙り込んだネーベは、表情を余り変えないままでファイルに納められた写真を凝視する。

「ネーベ中将閣下、奴らの行動には人間性を疑うものがあります」

 苦しげにつぶやいた彼はうつむいて足元を見つめたままで黙り込み、その姿はまるで言葉を探しているようにも見えた。

「わたしは過去の事件の記録にも目を通しておりますが、これはその辺の――いえこう言うと語弊があるかとは思われますが……」

 そう言ってモルゲンは眉をひそめると考え込んだ。

 裁判官とは常に冷静で、理性的でなければならない。そんなことはコンラート・モルゲンにもわかりきっている。

 わかってはいるものの、モルゲンの人間性が、強制収容所で繰り広げられる悪質で狂気じみた犯罪に嫌悪感を感じさせている。

「わたしには、彼らのやっていることはドイツの不利益にしかならないのではないかと思います」

 しばらく考え込んでから彼はそう言った。

「モルゲン博士」

 ややしてからアルトゥール・ネーベは判事という職責と、親衛隊という立場の間で揺れる部下の名前を呼んだ。

「モルゲン博士、君は今は国家保安本部の捜査官で、そして君が立っているのは法廷ではない」

 だから思い悩む必要などないのだ。

「君は今、君が感じ、思ったことを口にしてかまわんのだ」

 重々しく告げたネーベに対して、モルゲンは目を伏せてから口を開いた。

「中将閣下、わたしはたとえ囚人相手であろうと、このような看守たちの行いは唾棄すべきものと思います」

 一概にナチス親衛隊とは言っても、その最下層にあたる兵卒と、親衛隊知識人たちとでは自尊心のありようがまるで違う。

 それはモルゲンのみならず、カルテンブルンナー、ベスト、ヨスト。メールホルンやシェレンベルク、オーレンドルフと言った面々も同じくしている。

「博士。君は人として正しいと思ったことを選択すれば良い。君が必要とするなら、邪魔なものは”我々”が全力で排除してやる」

 そんな刑事警察局長の言葉に、将来有望とされる親衛隊判事はかすかに笑った。

「期待させていただきます」

 ネーベに報告を終えたモルゲンは、そうして敬礼をすると執務室を出て行った。部屋の中でひとり取り残されたネーベは組んでいた腕をほどいてから目の前に広げられたファイルに挟まれた写真を眺めやる。

 ほとんどは証拠隠滅のために破壊された残虐な拷問道具などの写真だ。

 死骸の山も映し出されているが、それについては無言で眉をひそめただけで、ネーベにしてみればコメントすべきほどのものでもない。

 それは、彼が東部で目にしてきたものと大して変わらない。

 執務机の面をとんとんと指先で叩きながら犯罪者たちの心理状態を考えた。

 こんなときに、犯罪者たちはどんなことを考えるだろう。

 まずは罪を免れるために証拠を隠滅する。それが定石だ。そして自分に都合の良い事実を捏造して捜査を攪乱しようとするだろう。しかし、それがいわゆる「身内」で行われたものであるとすればどうするか。

 ネーベは一歩考えを進めてみてから小さく舌打ちを鳴らす。

 内部の高官同士の問題は、高官が動くしかないとして、ネーベにはやらなければならないことがある。うなり声を上げた彼はデスクの隅に置かれた内線電話の受話器を上げる。

 この捜査資料を見る限り、ネーベにはひとつ思い当たる節があった。

 それは――まるで既視感にも似ている。

「シュタインマイヤー大尉を貸してもらいたいのだが」

 受話器に向かってネーベは告げた。

 ゲシュタポの捜査官であり、六局の局長であるヴァルター・シェレンベルクがゲシュタポに所属していた頃からの知己でもある。そんな彼は元々、生粋の刑事警察であり犯罪に対する鋭い嗅覚を買われて、国家秘密警察に転属となった。そんな彼は現在、国家保安本部の一部署の部長に対する傷害事件の捜査に当たっており、多忙この上ないこともネーベは知っている。

 それでも、今のネーベの前にある事件に最も適任の刑事は他にいないだろうと思われた。



  *

 ここのところ随分痩せたという評判の国家元帥にして空軍総司令官でもあるヘルマン・ゲーリングはそれでも他者と比べるとずっと太い指を組み合わせて執務机に肘をついたまま目の前の男を凝視した。

「ヒムラーにもっと明確な政策の方向性を示せと言ったところで無理だろう」

 長い沈黙を挟んでから、オズヴァルト・ポールにそう告げた。

「ですから、国家元帥閣下にご助力を戴きたいと申し上げているのです」

 ヒムラーに次ぐ権力の所有者は、ドイツ国内にあってそれほど多くない。

 そう指摘した経済管理本部の長官オズヴァルト・ポールに、ゲーリングは相変わらず派手な軍服姿のままで頬杖をつくと考え込んでしまった。

 ナチス親衛隊全国指導者――ハインリヒ・ヒムラー。

 気の弱い若造、と言った印象しかなかった男。そんな男は、いつしかドイツ国内の警察権力のトップについた。もちろん、それらをお膳立てしたのはゲーリングでもあるが、ヒムラー自身が登用した若手知識人たちの力も大きかっただろう。

 かくして巨大な警察機構は完成し、その力は図らずもゲーリング自身を罠にはめた。

 ナチス親衛隊の間でも、ユダヤ人問題についてはどっちつかずの政策をとって久しい。最終的解決についてはゲーリングがラインハルト・ハイドリヒに対してその解決方法を早急に立案し、自分に提出すべしという命令を出し、このため年の初めにヴァンゼーでの会議が行われたのだが、これについてゲッベルスが横槍を入れてきたのも事実だ。

 このため、親衛隊内部においても組織によってその方法が別れる形となったのである。

 とりあえず、それはどうでも良いのだが。

 特に国家保安本部と経済管理本部の政策の違いは、親衛隊内部の権力の混乱を良くも悪くも如実に表している。

 気の弱いヒムラーが青くなって右往左往している様が頭の片隅に思い浮かんで、ゲーリングは嘲笑する。

「そうは言ってもな。わたしは親衛隊の経営に関する発言権なぞない」

「承知しています。ですから、閣下に圧力をかけていただきたいと申し上げているのです」

 単刀直入なポールの言葉に、ゲーリングは鋭い瞳を閃かせると座っていた豪華な椅子を引いて立ち上がった。

 重々しい足取りでゆっくりと室内を回る。

「……だが、今の国家保安本部(RSHA)に圧力をかけるとなるとな」

 ヒムラーに圧力をかけるのは簡単だ。

 どちらにしたところで、各機関から多くの苦情で溢れているだろう。

 独白するようにつぶやいてから、ゲーリングはかすかに背筋を震わせると片手で胸を押さえた。

「閣下?」

 ゲーリングの様子を不審に思ったのか、ポールが呼び掛けると左右にかぶりをふった巨漢は顔を上げてからわずかに青ざめた顔色のまま大きな溜め息をついた。

「ポール親衛隊大将。貴官はベック退役上級大将のところに預けられている女の子のことを知っているかね?」

「……は?」

 唐突にゲーリングの口から飛び出した話題にオズヴァルト・ポールは目を点にしてから、どこか間抜けな声をあげる。

 ベックのところへ預けられている女の子。

 そんなことを言われてもわかるわけがないではないか。

 思わずポールがそう口にしかけたが、すんでの所でぐっと言葉を飲み込んでわざとらしく小首をかしげた。

 ゲッベルスやボルマンなどとは違って、ゲーリングは女性に対してやや潔癖なところがある。だから、彼が愛妻以外の女性にうつつを抜かすとは考えがたいから、そうした男女の関係を示唆するものではないのだろう。

 なにより、ゲーリングは「女の子」と表現したところから推察するに性的な対象と見ているとは思えない。

 一方ゲーリングのほうは、ポールが問題にしている国家保安本部のほうからわざわざマリーがルートヴィヒ・ベックのところへ預けられているということを聞かされていたため、彼女が今どこに滞在しているのかも知っていた。

「女の子、と言いますと?」

「彼女に会ってみたまえ」

 わたしは苦手だが。

 口の中で付け足したゲーリングは、ポールを見やってから表情を気取られぬようにしながら言葉を続ける。

「少なくとも、玉虫色のヒムラーよりは与しやすいかもしれん」

 御しやすいとか、(くみ)しやすいとか。そんなことはともかくとして、ヒムラーなどよりもずっと聡明で頭の回転が速い。

 どこか異質な存在感を持つ少女のことが、ヘルマン・ゲーリングは得意ではなかったが、それでも自己主張の強く頭の固い人間を黙らせるには丁度良い相手だとも思う。

 彼女は親衛隊知識人たちのように優秀なわけではないが、それでも大人たちの都合など知った事ではないとでも言いたげな彼女の異質さは、誰彼なく飲み込んでいくのだ。他の誰もそう思わなくとも、ゲーリングには彼女の異常さを感じ取ることができた。

 もしくは、他の者もゲーリングと同じように感じているのかもしれない。けれども、それには確証がない。

 だからゲーリングも含めて誰も口にはしないのだろう。

 オズヴァルト・ポール親衛隊大将と共に、ベック家を訪れたヘルマン・ゲーリングを出迎えた家主――ルートヴィヒ・ベックは露骨に嫌悪を顔に浮かべたが、それは今にはじまったことではなかったからゲーリングはそれについてなにも語らない。

「カルテンブルンナーからこちらにマリーが預けられていると聞いていたが」

 居丈高なヘルマン・ゲーリングの態度が鼻につくのかベックは言葉少なにナチス党のナンバーツーを応接室へと案内しようとすると、夫人が夫の腕を軽く掴んで首を振る。

「あなた……」

 耳打ちするように告げる言葉はゲーリングとポールには聞き取れなかった。

 ベックが引っ張った扉の隙間から残暑の風が流れて一同の鼻先をくすぐっていく。わずかに開かれた扉の隙間からは開け放たれた窓と風に揺れるカーテン。そして火のいれられていない暖炉の前に敷物をひいて、その上にうつぶせになって眠っている少女の姿が見えた。

 顔の脇にひろげられた本のページが風にめくられて、ぱらりと音をたてている。

 どうやら夫人は、マリーが応接室で眠っているからと夫を止めたようだ。

 軽い素材で作られたドレスは何枚も重ねられていて、ゆるやかな曲線を描く。閉じられた瞼を彩る金色の睫毛が時折夢でも見ているのかわずかに痙攣した。

「マリーと話しをしたいそうだ」

「……そうなんですか」

 困った様子でゲーリングとポールを見た夫人はややしてから、夫の腕を押さえる手を外してから「お茶の用意をしてきますね」と言い置いてその場を立ち去った。

「マリー、起きなさい。お客が来ている」

 少女の細い肩を揺らして起こしたベックは、眉尻を下げてから彼女の裸の肩にショールをかけてやると軽々と抱き起こした。

「……ベックさん?」

 寝ぼけ眼でぼんやりとした青い瞳を上げた少女の頭は、起きたばかりのためにまだ頼りなくゆらゆらと揺れてから老将の胸にそのまま上半身を預けて目を閉じる。

 警戒心の欠片もないと言うよりは、ベックの背後にゲーリングとポールがいることにすら気がついていないのだろう。

「マリー、起きるんだ」

 厳しい声で呼ばれたマリーは、ゆるゆると再び目を上げるとあくびをかみ殺してごしごしと目をこする。

「お客人だ」

 もう一度そう言われてマリーは改めてベックの背後に気がついた様子だ。

 首をわずかに傾けるようにして、家主の背後に視線をやるとそこにふたりの制服姿の男が立っていることにようやく気がついた。

「君と話しをしたいそうだ」

「……ゲーリング元帥、と?」

 誰かしら。

 ナチス党のナンバーツー相手にも怖じ気づくことのない少女に対して、オズヴァルト・ポールは訝しいものを感じるが、とりあえず今のところはゲーリングが仏頂面のままではあるものの彼女の無礼を咎めないから口を出すべくもない。

 それにしても……――。

 ルートヴィヒ・ベックの腕の中にいる少女は何者だろう。

「親衛隊の経済管理本部長官を務めていらっしゃるオズヴァルト・ポール親衛隊大将閣下だ」

「……あぁ、そうでした」

 ベックの紹介を受けて、そう相づちを打った金髪碧眼の少女は立ち上がりながら固い表情のままのゲーリングを見つめ返してからにっこりとほほえんだ。

「ゲーリング元帥、こんにちは」

「う、うむ」

「それでどうかしたんですか?」

 元帥相手に物怖じしない態度の少女は床に置きっぱなしの本を拾ってから、ベックに指し示されたソファに腰掛けた。

「親衛隊長官の件で話しがあるのだ」

「……いいですけど、わたしが”告げ口”したらどうするんです?」

 まるで暗喩のようなゲーリングとマリーのやりとりを聞きながら、妻の対応を済ませてベックは少女の隣に腰をおろすと興味深い眼差しで三人を見つめた。

 ひとりはナチス党(NSDAP)のアドルフ・ヒトラーに次ぐ権力者であるヘルマン・ゲーリング。もうひとりは親衛隊本部長官のひとり。そしてそんなふたりと相対するのは十代半ばの少女である。興味深いと思わないはずがない。

「告げ口、か……」

 言われてゲーリングは太い指で自分の顎に触れると数秒沈黙する。

 ベックが最後に会った時と比べると随分痩せたように感じるのは気のせいか。

「”君”が、告げ口などするのかね?」

「さぁ?」

 ゲーリングの言葉に応じながら少女はわずかに小首を傾けた。

 退役した陸軍上級大将が見る限り、ヘルマン・ゲーリングは明らかに少女の腹を探っている。そして当の少女のほうはしらばっくれている様子はない。

 そうであるならば、ゲーリングは彼女の何に対して警戒しているのだろう。

「考えすぎなんじゃないですか?」

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