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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XI 偽典
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11 狂犬の飼い主

 強制収容所総監のリヒャルト・グリュックスは自分のデスクについたままで考え込んでいた。国家保安本部の国外諜報局に所属するマリア・ハイドリヒ親衛隊少佐。彼女は前国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒと、初代強制収容所総監のテオドール・アイケの確執などどうでもよいことだと言い切った。

 確かに、グリュックスとマリーの関係は「全くのゼロ」であって、ふたりの間に確執など存在しない。

 彼女は、彼に面会を求めたのはザクセンハウゼン強制収容所に収容されているヨシフ・スターリンの息子、ヤーコフ・ジュガシヴィリと話しをしたかったからであって、そのために彼女はグリュックスの助けを必要としていただけだ。

 なによりもグリュックスが警戒していたのは、国家保安本部が素知らぬ顔で行使する「特例」という悪習だ。

 彼らは特権を享受して思うままに振る舞っている。

 気にかかることと言えばもうひとつあった。

 問題の国家保安本部長官が経済管理本部長官のオズヴァルト・ポールに接触していることだ。

 長官級の会議の内容は、しがない強制収容所総監でしかないグリュックスには伝わってきていないが、この国家保安本部(RSHA)と、経済管理本部(WVHA)は犬猿の仲と言っても良いだろう。

 なにより、グリュックスを伴って経済管理本部長官のオズヴァルト・ポールが、軍需大臣のアルベルト・シュペーアを訪れたことも興味深い。

 なにかが動き出しているということは想像に難くないが、なにが動き出しているのかということまではグリュックスにはわからない。

 小首を傾げてからグリュックスは窓の外を眺めた。

 どちらにしたところで、ポールの心配もシュペーアの懸念もグリュックスの感知するところではなかった。

 彼の立場は強いて言うならば、ザウケルのそれと余り変わらない。

 結局、苦労させられるのは中間管理職だ。

 噂によれば国家保安本部は強制収容所の一斉摘発を計画しているらしいが、これについてはすでにグリュックスの手を離れた問題と化していた。かつて、グリュックスを含めた多くの強制収容所の看守たちが徹底的なアイケからの教えを受けたものだが、そのアイケの教えを受けた看守たちのほとんどが、今は第三SS装甲擲弾兵師団「髑髏(トーテンコップフ)」として再編された。

 つまるところ今の強制収容所を預かる「髑髏部隊」とは、同じ名前の全くの別物と言ってもいいだろう。

 そして、今に限ったことではないが、髑髏部隊創設の頃から「多少」の腐敗は強制収容所の名物的慣習となっていたものだが、国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒが強制収容所の利権を狙いはじめたころから、アイケによる内部組織の引き締めが行われた。その後、髑髏部隊はヒムラーの命令を受けて武装集団として改変されて、ポーランド戦より前線に立つことになった。

 こうしてその後の強制収容所の管理を任されることになった髑髏部隊は事実上似て非なる存在と言えただろう。

 憮然として腕を組んだ彼は残暑の暑さにうんざりと眉をひそめると、大きな溜め息をついた。

 結局の所、かつての強制収容所総監のテオドール・アイケと、前国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒは、万人が認めるカリスマ的な才能の持ち主で、ふたりの圧倒的な力を持つ独裁者による「恐怖政治」によって、かつての強制収容所はぎりぎりの自浄作用が働いていたと言ってもいいだろう。

 そんなアイケやハイドリヒのカリスマに、グリュックス程度が及ぶわけもない。

 機嫌悪く舌打ちを鳴らしたリヒャルト・グリュックスは、経済管理本部長官に直通の電話をかけるのだった。

 その一方で、ザクセンハウゼン強制収容所の所長を務めるハンス・ローリッツ親衛隊上級大佐は、旧ポーランド南部に位置するアウシュヴィッツ強制収容所の所長ルドルフ・ヘェス親衛隊中佐のもとを訪れていた。

「噂を知っているか?」

 そうローリッツに告げられて、ヘェスはわずかに視線を走らせる。

「……心当たりは山ほどあるが、どれのことやら」

「中佐も気がついていないわけではないだろう」

「もちろん、”気がついて”いないわけではないが、わたしだってこちらの運営だけで手一杯だ。他の収容所の経営管理している連中にまで気が配ってやれるわけではない」

 憮然としたヘェスに、ローリッツはアウシュビッツ強制収容所の巨大さを想像してから同情するように溜め息をついた。

 ローリッツが所長を務めるザクセンハウゼン強制収容所と比較すれば、アウシュビッツ強制収容所は余りにも巨大すぎて、その運営だけで頭が痛くなりそうだ。そんな巨大収容所の経営をルドルフ・ヘェスはよくやっている。

「だが、上級大佐殿(オーバーヒューラー)。そんなことを言っているが、あなたも他人事のようにそんなことを言っている暇はないはずだろう?」

 ヘェスの鋭い指摘を受けて、ローリッツはぐっと息を飲み込んだ。

「しかし、わたしが犯罪行為を行っているわけではない」

 言い訳するようにそう告げたローリッツに、気難しげな表情をたたえたままでルドルフ・ヘェスは腕を組み直す。

「それは部下がやったことですからわたしは関係ありませんと言ったところで、そんな言い訳が通用すると思うか?」

 広大なアウシュビッツ強制収容所を管理するルドルフ・ヘェスも、上層部の動きはある程度感知していた。おそらく、巨大な強制収容所を管理するヘェス自身にも矛先は向けられるだろう。

 それとなく部下たちには挙動を気遣うようにと告知しているが、どこまで危機感を持つかはあやしいものだ。

 ラインハルト・ハイドリヒが強制収容所の利権を狙っていた時に、アイケは徹底的に部下の行動に自制を求めたが、そんなことが現状で可能とは思えない。

 ドイツ国内、そして占領地区に存在する強制収容所は腐敗と、管理怠慢が蔓延していた。それはザクセンハウゼン強制収容所もアウシュビッツ強制収容所も同じことだった。

「……正直な話し、ルブリンのコッホをどう思う?」

 しばらく考え込んでいたローリッツがヘェスに向かってそう告げると、アウシュビッツ強制収容所長は「うぅむ……」とうなってから片目を細めて黙り込んだ。

「確か、あの男の奥方がブーヘンヴァルトの魔女だったか」

 事務的にユダヤ人を殺戮するための処置施設を設置するヘェスだったが、コッホの妻――イルゼのサディスティックで奇行とも言える悪癖は強制収容所管理官の間に広まるほど有名なものだ。

「ピスター上級大佐だって、コッホの一件が公になれば責任問題は免れんだろうな」

「ルブリンのコッホと言えば、先日のソ連兵の脱走事件で解任されているだろう。すでに解任されている男の責任を今さら問うというのも妙な話だな」

 強制収容所は各々がそれなりに距離があるが、連絡将校や商人などのネットワークを通じてある一定の噂などは周知の事実となっていた。

「最近はゲシュタポが随分とやる気を出しているらしいからな」

 それが気がかりだとでも言いたげなヘェスに、ローリッツは顔を曇らせる。

 所長ともなれば多くの責任問題でやり玉に挙げられるのも事実で、決して自分の身が安全であるとは言い難い。

「お互いに、身の振りようには気をつけたほうが身のためなのかもしれませんな」

 考え込むようにそう言ったローリッツにヘェスがひとつ頷いた。

 カール・コッホはすでにルブリン強制収容所長の任を解かれているが、彼は在任中に随分と私腹を肥やしていたらしい。もっとも、ヘェスなどからしてみれば自業自得とも思えないでもないが、重箱の隅をつつくのが得意なゲシュタポのことだ。

 コッホの一件も含めて強制収容所管理官の周囲をかぎ回っているに違いない。そうなれば、問題は他人事と笑っていられるような事態ではなかった。

 ヘェスとそんな話しを交わして夕方にはドイツ国内に戻ったローリッツはその足でプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに向かった。

 二度ほど顔を合わせた少女将校――マリア・ハイドリヒと話しをできればとでも思ったのだが、それでも彼の立場からしてみれば余りゲシュタポの捜査官などとは顔を合わせたいとは思わない。

 袖に菱形のSD章をつけた捜査官たちに不審な眼差しを向けられて、鼻白んだ様子で息をついたローリッツは自分の階級を示してからマリア・ハイドリヒへの面会を求めた。

 彼女ならばなにか知っているかもしれないし、なによりも国家保安本部の高官たちと比べれば彼女はまだ話しやすい相手とも言える。

特別保安諜報部(うち)の部長は休暇中だ」

 国外諜報局特別保安諜報部の窓口として顔を合わせたのは、ゲシュタポの捜査官で階級はローリッツと同じ上級大佐(オーバーヒューラー)である。素っ気なく告げた居丈高なゲシュタポの捜査官に片方の眉毛をつり上げたハンス・ローリッツは不機嫌な表情を取り繕うともせずに目の前の男を冷めた瞳で見やった。

「もしや、部長のところへ話しをしに行きたいなどとたわけたことを言うつもりか?」

 馬鹿げた発言。

 そう一蹴したゲシュタポの捜査官――ヨーゼフ・マイジンガー親衛隊上級大佐は、デスクに積まれた書類を重ねてから角を揃えると、ちらりと視線を上げて目の前に詰め寄ってくるザクセンハウゼン強制収容所の所長を凝視する。

「別に問題はあるまい。マイジンガー上級大佐に迷惑をかけるわけでもなし」

「別にわたしにはなんら迷惑はかからんが、休暇中の勤務外にわざわざ仕事の話しをしに行くというのはいかがなものか」

 無粋だとでも言いたげなマイジンガーがローリッツの思惑を一蹴すると、強制収容所長の男は強くデスクを打って声を荒げた。

「わたしが話したいのは貴官ではない」

「わかっている」

 詰め寄るローリッツに、顔の前で片手を振ったマイジンガーは椅子に深く腰を下ろしてからじっと目の前の男を見つめ直す。

 つくづく、奇妙な話しだ。

 普段は補佐官であるヴェルナー・ベストやハインツ・ヨストがマリーの窓口として機能しているが、今回は実働部隊を率いるマイジンガーにお鉢が回ってきた。名前を聞けばハンス・ローリッツということで、オラニエンブルクにあるザクセンハウゼン強制収容所の所長ということだった。

 要するに、ベストやヨストは自分たちが対応するまでもないと考えたのだろうということが容易に推察される。

 簡単に言えば厄介事を押しつけられたということになるわけだが、ここで素直にマリーの滞在先を口にしてもいいものかと考えた。

「ローリッツ上級大佐、貴官がどうして部長シュトゥルムバンヒューラーと話しをしたいのか、内容にもよりますな」

「マイジンガー上級大佐にするような話しではない」

 まるで押し問答のようなやりとりに、マイジンガーもローリッツも苛立ちを隠せない。

「別にわたしはマイジンガー上級大佐の部長が少女であることを知らないわけではない。なにを警戒しているのかは知らんが、わたしは貴官に用はないのだ」

「ふん」

 ローリッツの言葉にマイジンガーは鼻を鳴らした。

「せいぜい強制収容所絡みの捜査の件だろうが、彼女に懐柔できると思うなら思い違いだ」

 侮蔑するように言い放ってから、マイジンガーは机の引き出しから一枚のメモを取り出すと、そこに記されていた住所と電話番号を別の用紙に書き写す。

「彼女と話しをしたいのなら勝手に行けばいい。ただし、その高慢な態度を改めんと先方で門前払いをされるということだけは忠告しておいてやる」

 どこの誰に預けられているのか。

 ヨーゼフ・マイジンガーはローリッツに言ってやらない。

 そこまで親切にしてやる義理などなかった。

 突き出されたメモを乱暴に受け取ったローリッツは、マイジンガーの高圧的な態度――人のことを言えた義理ではないが――に肩を怒らせながら床を踏みならすようにしてマイジンガーの前を立ち去った。

「預けられている先がベック上級大将の家だと知ったら、奴はどんな顔をするやら」

 同じ階級である自分に対してあの態度だ。マリーの目の前にしてどんな態度を取るかは目に見えていたマイジンガーは苛立ちを隠せないまま神経質に執務机の面を軽く指先で打ち付けた。

 少々痛い目に会えばよいのだ。

 意地の悪いことを考えてからマイジンガーは棚に置かれている写真立てを横目で眺める。

 そこに映っているのは、マリーを中央にして両隣をベストとヨスト。少女はふたりの法学博士の腕を無理矢理組んで、端にはマイジンガーとナウヨックスが写りこんでいた。まだマリーに対して猜疑心を隠しきれなかったマイジンガーは、どこか不機嫌そうな仏頂面で、特別保安諜報部設立初期から彼女の護衛官も務める実働部隊のアルフレート・ナウヨックスは困ったような眼差しをマリーらに向けている。

 いつも彼らの前でにこにこと笑っている少女。

 彼女がマイジンガーに依頼してきた捜査は驚嘆する内容だ。それは、ベストとヨストも感知するところではあるが、業務が多忙であるためにマイジンガーの捜査にまでは口を出してこない。

 マリーのほうはと言えば、マイジンガーに対して絶対的な信頼を傾けているようにも見える。腹の底でなにを考えているかは別として、彼女のそんな様子に毒気を抜かれた。

 ついでを言えば、写真立てはマリーが勝手に置いていったものだ。決してマイジンガーがすすんで置いたものではないが、いつの間にやらそれがそこに置かれていることが不快ではなくなっていた。

 かすかに目を細めてから厳つい顔を優しく緩めたマイジンガーは、自分の顎を手のひらで撫でてから仕事に戻る。

 ローリッツがベックの自宅で無礼な振る舞いをして、印象を悪化させようがそんなことはマイジンガーの知った事ではなかった。

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