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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XI 偽典
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9 たちこめる暗雲

 オットー・オーレンドルフは仕事の合間を縫って、国外諜報局のヘルベルト・メールホルンのもとを訪れた。

 メールホルンはかつて長官だったラインハルト・ハイドリヒと対立したために、出世コースから外れることになったものの、オーレンドルフにしてみればシェレンベルクが高く評価しているのと同様に、やはり一目置く法律家である。

「こんな埃っぽいオフィスにどんな用事ですかな? 中将(グルッペンヒューラー)?」

 手元をスタンド型のライトで照らしながら書き物をしていたメールホルンは、ペンを走らせていた手を止めてから顔を上げる。

「……皮肉は結構です」

 どんな表情をすれば良いのかわからない、とでも言いたげなオーレンドルフの言葉に笑い声を上げたメールホルンは、彼に椅子を勧めてから「それで」と言いながら書きかけの書類を執務机の脇に押しやる。

「それで、優秀な君がどんな用事かね?」

「メールホルン博士は以前外務省に派遣されていらっしゃいました」

「まぁ、(てい)の良い左遷だな」

 ハイドリヒにとってメールホルンは迷惑な男でしかなかった。

 ヴェルナー・ベストと同じだ。

「別にわたしは、前長官と博士の関係性が聞きたくてこちらをお伺いしたわけではありません」

 力のこもりがちになるオーレンドルフに低く笑ったメールホルンは、手のひらで首の後ろを撫でてから小首を傾げると、自分よりもいくつか若い国内諜報局長を見つめた。

「博士から見て、イギリスの情報部はどの程度の実力を持っていると思われますか?」

「我々が把握している程度の情報は掴んでいると思えばいいだろう。どこの国だって優秀な人間はいるし、相手を軽視するなら我々はそれまでの存在だ」

 常に、予想できる全ての事態に対応できるように準備しなければならない。

 そして自分たちが予想できるということは、敵対する相手も当たり前のように予想していると言うことだ。

「もちろん、軽視してはいません」

 軽く身を乗り出したオーレンドルフは、わずかに考え込んでから目を上げるとメールホルンを見つめ返した。

「現在、イギリスと交戦していた北アフリカの戦線では天然痘の流行のためにほぼ軍事的にも政治的にも膠着状態に陥っています。その隙をついてアイルランドが動き出すということはあり得るのでしょうか……?」

「アイルランド、か」

 アイルランド共和国は今のところ中立を守っている。

 しかし、ドイツと敵対するイギリスとアイルランドの間にはいつ大火事に至ってもおかしくない火種がくすぶっていることもまた現実だ。

 イギリスの国力が弱まりつつある中、アイルランド共和国は事実上、イギリス領土となっているアイルランド島北東部――北アイルランド――を奪還すると画策するかも知れない。

 オーレンドルフの言葉を受けて思案に沈んでしまったメールホルンは、ややしてから国内諜報局長を見やるとこつこつと指先で机をたたいた。

「あり得るかもしれんな。こと軍事的な問題となるならば、我々の知るところではないが、外交上の問題となるかもしれん。情報は集めておいても無駄にはならないだろう」

「仮に、アイルランドがイギリスに反旗を翻すとすれば……」

「今のところそうはならんだろう」

 言いかけたオーレンドルフにメールホルンが言い切った。

「今、イギリスには多くの亡命政府が居を構えている。フランス、ポーランド、チェコスロバキア、オランダ、ノルウェー……。彼らがアイルランドの反乱を黙認するとは思えないからな」

 アイルランドの存在はイギリスにとって死活問題だ。

「そのイギリスの情報部に関してですが、博士からはどう見えますか?」

「……わたしは諜報部員ではないのだがね」

 溜め息まじりにつぶやいたメールホルンは、椅子に深く座り直すと改めてオーレンドルフを眺めると口を開いた。

「君もわかっているだろうが、イギリス海軍の情報部には充分に神経を払いたまえ」

「……海軍の、ですか?」

「君も知っている通りイギリスは島国であるということから海軍大国だ。その国で最も発達している軍隊の情報部をみくびってはらなない」

 海を越えて、イギリスにはありとあらゆるものが運び込まれている。

 食料も、兵器も。そして情報も。

「もっとも、国外の情報はシェレンベルク上級大佐や、国防軍情報部(アプヴェーア)のほうが熟知しているだろう。古い情報しか持っていないわたしなぞのところに来ても時間の無駄だ」

 素っ気なく告げたメールホルンに、オーレンドルフは立ち上がって「ハイル・ヒトラー」と短くあいさつを交わすとそのまま足早にメールホルンの執務室を出て行った。

 彼らが交わした言葉はぶつ切りのもので、ほとんど会話の形をなしてはいない。それでもオットー・オーレンドルフはそれだけのやりとりでメールホルンの言いたいことを理解したし、メールホルンもオーレンドルフが問いかけたことのほぼ九割を読み取った。

 オーレンドルフが立ち去ってから机に肩肘をついたメールホルンは、頭の回転の早い理知的な青年のことを考える。

 噂でしかないが。

 オットー・オーレンドルフという男は、行動部隊アインザッツグルッペンの指揮官として東部戦線に展開していた時に精神的に大きな負担を強いられる部隊の作業からどうやれば隊員たちの精神を守ってやれるものかと真剣に気遣ったらしい。

 どちらにしても、とメールホルンは考える。

 これまで通り、宣伝省の焚きつけた「処置」とやらを国家保安本部が続行していくなら、遠からず限界が訪れるだろう。

 同盟国であるイタリアや日本もドイツの主導する「処置」に対して良い表情をしていないのだ。自分が敵国の政治家ならば、当然、それらを利用するだろう。

 頭の足りない民衆を扇動することは簡単だ。

 ヒロイズムを気取って毎日のように演説してやれば良いだけのことだ。民衆がそれなりに好意的に受け止める政治家なり芸能人なりがすり込めばより効果的だ。

「ゲッベルス、か」

 国家保安本部によって薦められていたユダヤ人の東方移送計画は昨年辺りから、その方針を大きく変更させられた。

 曰く――確実な処置。

 けれどもなにが方針を変更させたのか。それが一番の問題だ。

 国内の情報網を注意深く観察すれば、ゲッベルスを含めた政府高官たちが方針を変えざるを得なかった理由はいとも簡単に導き出せる。

 彼らは焦っているのだ。

 国内で頻発する反体制派の行動と、国外におけるドイツに対する反発の大きさが、政府を焦らせている。そして国外は武力制圧すれば良いだけのことであるが、国内問題はそうもいかない。

 盲目的な民衆の目を国内問題からそらすために、ゲッベルスが率いる宣伝省は反ユダヤ問題をあげつらっているのではないか……? そう考えるのがおそらく妥当だろう。そしてゲッベルスの過激な宣伝(プロパガンダ)は政府の政策そのものに影響を与える結果となった。

「ふぅむ……」

 うなり声を上げたメールホルンは内線電話の受話器を上げながら目を伏せるとダイヤルを回した。

 ――イェッセン博士はどう思っているだろう。

 そんなことを思いながら。


 国内諜報局長のオットー・オーレンドルフ親衛隊中将と、ヘルベルト・メールホルン親衛隊上級大佐がそんな話しをしていた頃、国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルクは武装親衛隊から色よい返事をもらったことで機嫌を良くしていた。

 隊員の選抜と訓練については「専門家」に任せれば良いことで、諜報部のシェレンベルクが口を出すべき問題ではない。大概の場合、専門分野に門外漢が口を出すとろくな結果にならないと相場は決まっているものだ。

 いずれにしたところで、シェレンベルク自身は単独行動による作戦を得意とするいわゆるスパイであり、そのため組織だった特殊作戦に秀でているわけではない。組織だった部隊であるためには相応の訓練が必要である。そうヴァルター・シェレンベルクは認識していた。

 あとは、とシェレンベルクは策謀を練る。

 最良の部隊を準備すればよい。

 親衛隊全国指導者――ハインリヒ・ヒムラーが、シェレンベルクの提案を拒絶できないような完璧な舞台。

 少々の危険もやむを得ないだろう。

 どうせ愚かな上層部はシェレンベルクの意図すら掴むことはできないのだ。

 ひっそりと笑った男は武装親衛隊から届いたファイルを無造作にデスクの引き出しに放り込んだ。

 必要ならば誰であれ罠にかけるし、誰であれ欺き、そうして裏切るつもりだった。それは当の昔に決めている。

 だから、ハイドリヒもミュラーも。

 そしてヒムラーも。シェレンベルクは彼自身の野心のために利用した。

 ヴァルター・シェレンベルクという男にとって、ナチス親衛隊は道具であり、そうして手段でしかない。

 その道具を冷静に扱えない者が、出世レースから外れていくのだ。常に理性的でいなければ人生というゲームの行く先にあるものは、破滅と敗北だけで、だからこそシェレンベルクはそうした意見で、国防軍陸軍参謀本部東方外国軍課のラインハルト・ゲーレンに敬意を払う。

 彼の姿は情報将校としてあるべき姿だ。

 武装親衛隊で見いだしたオットー・スコルツェニーも、シェレンベルクにとっては駒のひとつでしかない。

 昨年、まだラインハルト・ハイドリヒが生存中で、バルバロッサ作戦がはじめられたばかりの頃、シェレンベルクはこの対ソ戦がドイツにとって旗色の悪いものになるだろうと予想した。

 蓋を開けてみれば、彼の予想した通りドイツのはじめた作戦は失敗に終わり、泥沼に引きずり込まれていくようにも見えたものだ。だがいつからか、そんな理性的に物事を観察してきたシェレンベルクの計算に狂いが生じ始めた。

 なぜ自分の計算に狂いが生じてきたのか。彼はそれを見極めるために冷静に一から計算をし直した。

 世界でなにが起きて、どうしてこうした結果になっているのか。それを見定めなければその先にあるものを見極めることなどできはしない。

「やはり、マリーか」

 その存在は、決して大きな影響力を持っているとは言い難い。彼が観察するところ、マリーは少しばかり勘の鋭いところを持つだけの少女でしかなかった。もちろん、彼女が他の人間が知らないことを多く知っているということは大きいかも知れない。

 しかし、どこぞのオカルト主義者ではあるまいし、知らないことを声高に言ってみたところでそんなものを信じる馬鹿など一握りもいるものか。

 せいぜい世迷い言と言われておしまいだ。

 本人はそれを知ってか知らずかほとんど「知っている事」をひけらかすことはない。時折、周囲の知識人たちが驚くようなことを言って見せたり、行動に起こしてみたりするだけだ。それ以外は、その辺の少女たちとなんら変わらないと言っていいだろう。

 けれども、とシェレンベルクは考えた。

 もしも彼女の存在が「変化」であるとするならば、世界にとってその「変化」はやはり「大きな変化」ではないにしても、存在することにこそ意味を持つ「大きな変化」なのかもしれない。

 今まで釣り合いの保たれていた天秤に、小さな小石を乗せただけであったとしても、その「小石」の存在は、天秤の中にあって「大きな意味」を持つ。

 つまるところ「そういうこと」だ。

「……おかしなものだ」

 一歩引いてマリーの周囲を眺めてみると、マリーに接している男たちは多かれ少なかれ影響を受けているようにも見受けられる。最もマリーと近しいシェレンベルクはそれほど大きな影響を受けているわけでもないのだが。

 少なくともシェレンベルク自身はそう思っている。

 なによりシェレンベルクの観察しているところでは、大きな理想や固い決意を持つ者ほど強い影響を受ける傾向があるように感じられる。要するに、胸の奥でなにかしらの強い感情を持っている者ほど影響を受けるということではあるまいか。

 シェレンベルクのように常に日和見的な傾向がある者はほとんど影響を受けはしないのだ。

 たとえばオーレンドルフやアイヒマン、カルテンブルンナーやミュラー、ネーベたち。高官ではヒムラーや武装親衛隊の高級指導者も入るかもしれない。

「くだらない理想に取り憑かれれば自分の命を縮めるだけだろうに」

 皮肉げにつぶやいたシェレンベルクは、ナチス党の聖杯騎士とも言える古参党員であるオーレンドルフを思い浮かべてから軽くかぶりを振った。

 彼もそうだ――。

 国を思うばかりに理想に取り憑かれ、それが自分の命を賭ける道だと信じている。そこまで考えてから、シェレンベルクはふと諜報員のひとりが得た情報を思い出した。

 どのみちシェレンベルクにとっては大した痛手でもないが、休暇を終えたマリーがどんな反応を見せるか面白い。

 ちなみに「同じ報告」は、シェレンベルクを通じて特別保安諜報部の首席補佐官ヴェルナー・ベストにもいっており、現在ベストとヨストは問題の報告書のためにかかりっきりになっている。

「くだらんな……」

 一蹴するシェレンベルクの独白は、執務室の空気をかき回す残暑の風にさらわれて消えていった。

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