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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
II ワルキューレ
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4 胡蝶の夢

 エルンスト・カルテンブルンナーの酒と煙草の量が減ったらしい、という諜報部にとっては割とどうでも良い類の情報がハインリヒ・ヒムラーの元に舞い込んだ。やれやれと自分の顔を手のひらで仰ぎながら溜め息をつく。

 彼が再三再四、カルテンブルンナーの健康問題について指摘をしても聞く耳も持たなかった男が、とりあえず自分の体調に気を遣う気になったのは良いことだ。

 政府高官たる者、健康に気を遣うべきである、というのがヒムラーの持論だ。彼はカルテンブルンナーのその変化を好ましいものとして受け止めた。

 しかしいったいなにが四十歳にもなろうという男の気を変えさせたのだろう。妻、そしてヒムラーですら彼を変えることなどできはしなかったというのに。

 カルテンブルンナーが時折、ウィーンからベルリンを訪れていることは知っている。そしてその目的が先日、人騒がせな事件を起こしてくれた少女であることもヒムラーは知っている。カルテンブルンナーが少女と愛人関係があるわけではないということは、周囲の情報から容易に察しが付いた。

 邪推をして調査もさせたが、すでに複数の警察関係者、あるいは情報将校らの証言によってカルテンブルンナーが問題の少女と情愛の関係にあるわけではないことは証明づけられた。

 ヴァルター・シェレンベルクとヴィルヘルム・カナリスの出資する掘っ立て小屋のような家に住んでいる彼女の元に、多くの将校たちが出入りしていることも知っている。しかし、あくまで個人的な関係でしかなく、特別男と女の関係でもない以上咎める理由はどこにもない。

 シェレンベルクに追及してみたところで、いつもの如く飄々としている青年将校は悠然とした笑みをたたえるばかりだ。

 彼がなにを考えているのか、それはヒムラーにすらわからない。

 マリア・ハイドリヒと言う名の少女であるとシェレンベルクから報告が届いたのはつい最近のことで、それによるとラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将の少しばかり遠縁の親族にあたる娘だということだ。

 さらにこの娘の後見人となっているのがヴィルヘルム・カナリスということもあり、多くの情報将校たちが彼女を探るために接触した。

「彼女は無害でしょう。今のところは」

 含みを持たせたシェレンベルクの言葉を思い出した。

 じっと目を細めたハインリヒ・ヒムラーは、手元にある書類を見つめてから考え込むと溜め息をつく。

 親衛隊全国指導者、などという肩書きを持つがそれでも彼の下についている情報将校幹部たちの方が自分などよりもずっと優秀だという自覚もあったし、なによりも自分の小心さは我ながら理解している。

 ハイドリヒやシェレンベルク、そしてミュラーやダリューゲら名だたる情報将校、警察官僚たちと比較すればずっと器の小さな男だ。

 もっとも理解していてもどうすることもできないから、それはコンプレックスの原因にしかなりはしない。

 考えるべきことはただひとつ。どうやって彼らを統率するかということだ。

「今のところは、というのは?」

 ヒムラーの問いかけにシェレンベルクは小さく小首を傾げる。

「そうですね、誰かが彼女を利用しなければ、ということです」

 多くの情報将校たちが出入りするその家で、誰かが情報を漏らし、それを敵国のスパイに利用されるようなことになればドイツは危機に陥るだろう。

 今のところ、彼女の家――花の家ハウス・デア・ブルーメンで情報漏洩をするような士官も警察もいない。しかし、それはあくまでも今のところ、だった。

「……なるほど」

 ぽつりとつぶやいて、ヒムラーはデスクに着いたままで考え込んだ。

「しかし、ただの少女だろう?」

「……えぇ、”ただの少女”です」

 シェレンベルクは応じて、片目を細める。

 戦線は逼迫(ひっぱく)しており、国内でも抵抗組織の活動や、占領地区ではパルチザンの活動が活発化していた。それを押さえ込み、ドイツにとって好ましい状況に導くには容易なことではない。

「ですが長官。彼女は”使え”ます」

 シェレンベルクは注意深く言葉を選んだ。

「ほう?」

 ハインリヒ・ヒムラーの瞳に興味深げな光が宿った。

「彼女の家――花の家ハウス・デア・ブルーメンには多くの情報将校が集まっております。その中に連合国のスパイがいるとすれば、そこから当たりをつけて敵の情報を得ることも可能かと」

「……もしも、彼女がこちら側の情報を漏らすようなことになったらどうするつもりだ?」

「そのときは、ゲシュタポ(我々)の権限で処刑を行うとが可能です」

 マリア・ハイドリヒは常に国家保安本部(RSHA)の監視下にある。

 ならば危険と判断されたその時点で処刑すればいいだけのことだ。ごく冷静に言い放ったシェレンベルクに対してヒムラーは唇を結んだ。

 ドイツの危機となるのであれば、殺せばいいのだ。

 殺してしまえばいい……――。

 シェレンベルクの冷酷な言葉にヒムラーは、ふと少女のあどけない表情を思い出したようだ。

「閣下、ドイツ人にも祖国に弓を引く人間は存在します。そのときに、慈悲の心など必要ありません」

 それがゲシュタポであり、親衛隊情報部(SD)の戦い方だ。

「そうだな」

 彼女がドイツ人であろうとなかろうと、その存在がドイツの脅威となるのであれば冷酷に切り捨てれば良いことだった。

 花の家ハウス・デア・ブルーメン

 その危険性を、ハインリヒ・ヒムラーも理解していた。

 女性たちの前では見せることのない冷たい眼差しをヒムラーに向けているシェレンベルクからは、普段のプレイボーイ振りは全く感じられない。

 彼もまた、諜報部員のひとりなのだ。

 全ての状況を彼は任務のために利用する。

「万が一の場合に備え、国家保安本部で彼女に関する情報を逐一収拾しております。処刑の件はお任せください」

 誰もがマリア・ハイドリヒに対して疑惑の眼差しを向けていた。しかしそれにしても彼女は余りにも清廉潔白で監視しているのが馬鹿らしくなるほどだった。

「任せよう、シェレンベルク大佐」

「はっ」



  *

 マリー――彼女が持つのは恐るべき才能だった。

 そうシェレンベルクは思う。

 人の心を捕らえ、ほんの短い時間で(とりこ)にしてしまう。

 ミュラーから受けた報告の一部は国外諜報局長を務めるシェレンベルクも捜査するところではあった。ただ、決定的な証拠が挙がらず、ロシア人と疑わしい情報官を泳がせていたところに舞い込んできたクリメント・ヴォロシーロフ暗殺事件。

 シェレンベルクは諜報員だったから、同僚は愚か上官すら信用なぞしてはいない。彼が信用するのは裏付けされた確たる情報と現実、そして自分自身だけである。彼は曖昧な情報を元に、憶測と推論と希望的観測をもって判断の基準にしている人間など、政府高官にしろ一般庶民にしろ侮蔑の対象としてしか見てはいなかった。真実を見誤り、現実から目を背ければ、こんな時代の己の行く末など目に見えていた。

 そこに待つのは破滅のみである。

 一般庶民の希望的観測や楽観論であれば一向に構わないのだが、情報官や政治家がそれでは困ったものだ。非情に残念なことだが、その手の現実を直視できない輩が多すぎた。

 新たな情報戦に備えて、親衛隊情報部の暗号コードを刷新したシェレンベルクはひとつの可能性に突き当たるに至って小首を傾げる。

 戦争とは乱暴だが外交手段の一つであって、外交手段である以上、そこに核として存在するのは情報だ。戦争という至極乱暴な外交手段においても、より多くの情報を握った者が勝つのである。

 もっとも戦争において情報量が物量に押しつぶされることもあり、それ事態が無意味になる例もあるが、それでも尚、全く無意味になるわけではない。

 時として、監視者たちの手駒が思わぬ挙動をとり、それが驚くような結果を導き出すこともあるが、果たしてそれをシェレンベルクらの予測の外にあったかと問われれば、そうではない。

 諜報員たちが最も警戒する相手は同業者以外の何者でもないのだ。

 シェレンベルクの敵は、内にも外にもいる。そして、そんな彼にすらマリーはどこか正体不明だった。

 不安定な人格を精神科医たちに診せれば、たちまち異常者というレッテルを貼られるかもしれない。しかし、マリーの人格が不安定とはいえ、決して反社会的なわけでもなければ、対人能力が欠落しているわけでもない。シェレンベルクは諜報部員として注意深く彼女を観察していた。

 暴力ではない方法で、あるいは人を惹きつけてやまないのであれば、彼女のカリスマ性はおそらくハイドリヒを凌ぐだろうと思われる。

「厄介なもんだ」

 彼女が何者か。

 そんなことはどうでもいい。

 マリーは本当にラインハルト・ハイドリヒなのだろうか? そんなことを考えながら山と積まれる目の前の報告書に視線を落とす。

 各地でパルチザン掃討のために展開するアインザッツグルッペンの指揮管理権は第四局の国家秘密警察(ゲシュタポ)が持っている。その中に配属される情報将校たちから上がってくる情報の全てに目を通して部下たちに指示を下していくのがシェレンベルクの仕事だった。

 時に政府要人とシェレンベルク自ら接触して会議の席を設けることもある。

「シェレンベルク大佐」

 声に顔を上げた彼は片方の眉をつり上げた。

「どうした」

「約束はないそうなんですが、お客様です」

 国家保安本部に来客がある場合、相手が一般人であれば密告である場合が多い。もしくは取引を持ちかけに来たか、である。

 考え込んだのはほんの数秒。

「通せ」

「はい」

 秘書に連れられて彼の執務室へ入ってきたのは驚いたことにマリーだった。

 肩に品の良いベージュのショールをかけて、長いドレスのようなスカートとやはり品の良いブラウスを身につけている。胸元には白いリボンタイを締めて、片手に杖をつきながら不安そうな眼差しで辺りを見回していた。

 カバンを肩に吊った彼女は疲労した表情で何度か息をつくと、シェレンベルクを認めるとかすかに笑った。

 ベルリン郊外の自宅からなんとか徒歩とバスでたどり着いたのだろう。

「突然来てごめんなさい」

「……いや、それでどうした?」

 マリーはシェレンベルクの腕に支えられるようにしてソファに腰をおろすと、疲れ切っていたのか何度か溜め息をついてから顔を上げた。

「疲れただろう、大丈夫か?」

 言われてほほえんだ彼女は膝の上に置いたカバンから一枚の紙切れを取り出すと、シェレンベルクに差しだした。

「これは?」

「わかりません……」

 アルファベットの羅列だ。

 ぱっと見た限りではエニグマコードのようだった。しかしなぜマリーがそんなものを、国家保安本部に持ち込んだのだろう。

「家にいつからあったのかわからないんです。今朝、家を掃除していたら見つけて……」

「そうか」

「……あの」

「うん?」

 考え込むシェレンベルクにマリーが覗き込むようにして、彼をじっと見つめて睫毛をまたたかせる。

「……シェレンベルクは、わたしのことを疑っています?」

「どうだろうな」

 そう言いながら低く笑った彼は、マリーの金髪を指先でかき回すと受け取った紙切れを手にしたままで立ち上がる。

「これの解析をしなければならん。マッテゾン少尉に家まで送らせよう。彼の準備ができるまでここで茶でも飲んでいくといい」

 彼女が暗号の書かれた紙切れを持ち込んだことに対して、疑いを抱いているわけではないということを態度で示してやってシェレンベルクは秘書に指示をいくつか出すと、執務室を出て行った。

 シェレンベルクの執務室に秘書と共に取り残されたマリーは、見慣れないドイツ人女性に不安げな眼差しを向けているが、秘書の女は電話の受話器を取った。

 徒歩とバスで国家保安本部に訪れて疲れていたのか、やがてマリーはソファに沈み込んだまま眠りに引き込まれていく。

 彼女は自分でもあきれるくらいよく眠ることに気づいている。

 しかし、それでも眠くて仕方がないのだ。

「国家保安本部で寝るなんて、随分肝の据わったお嬢さんね」

 腰に両手を当ててあきれたようにソファに座った少女を見下ろした秘書の女はわざとらしく大きな溜め息をついてみせた。



  *

 夢を見た。

 蝶になる夢を見た。

 はたしてわたしが蝶であったのか、それとも蝶がわたしであったのか、それはわからない。もしかしたら、わたしと蝶の間には明確な差などないのかもしれない。

 ぼんやりと目を開いた少女は自分の鼓膜に響く男の声に、一瞬の後に焦点を結ぶ。目の前で自分を呼ぶ国家保安本部に属する青年将校を認めた。

 金褐色の髪と水色の瞳の、長身のその青年はマリーよりもずっと年長だ。

お嬢さん(フロイライン)

 知的な瞳に見つめられてマリーはかすかに笑った。

「夢を、見たのよ」

 自分という存在がひどく曖昧で区別をつけられない。もしかしたら、自分というアイデンティティは最初から非常にに頼りないものなのかもしれない。たった些細なきっかけで、今まで築いてきたものがあっけなく崩壊してしまう。

「……夢?」

「そう、夢を見たの。蝶になる夢を見ていたの」

「ロマンチックな夢を見るもんだな」

「そうかしら?」

 小さく首を傾げながら微笑した少女はウルリヒ・マッテゾンに杖を手渡されながらソファを立ち上がる。

「シェレンベルク大佐の指示だ。家まで送ろう」

「ありがとうございます」

 男に礼を述べながら、マリーは小首をかしげてから上背の高いマッテゾンを見上げた。シェレンベルクの指示によって自分のことを貴婦人のように扱うこの親衛隊将校はなにを考えているのだろう。

 蝶になる夢を、彼はロマンチックな夢だと言ったが、おそらくその言葉の意味を理解できるのはごく少数だ。

 だから、わけがわからなくなる。

 蝶が自分なのか、自分が蝶なのか……。

 今までの”長い”人生の中で積み上げてきたものの全てが崩れ去ったとき、そして最後に残るものとはなんなのだろう。

 パンドラが開いた箱の底に残されたものは”希望”だったけれど。

 全てのヒト。

 全ての動物。

 生きとし生けるものの全て。その生命は平等なのだ、という冷酷なほどの現実は、「マリー・ロセター」という少女の「心」をやがて侵食して腐敗させる。

「マッテゾン少尉?」

 呼び掛けた。

「なんだ?」

「悪って、なんですか?」

 悪とはなにか。

 善とはなにか。

 そうマリーが青年に問いかける。

 少女の横を歩く情報将校の青年は訝しむように彼女を見つめた。

「……悪?」

「はい」

「……負けることだ」

「負けること?」

 口の中でつぶやいてから金髪の少女はなぜか納得したように「そう」とつぶやいた。

 彼女はまるでサナギが蝶へと姿を変えるように、混乱をきたしていた少女は、青年の目の前でゆっくりと、そして艶やかに透明な存在へと変貌していく。

「わたしはね、未熟だったから”負けた”のよ」

「なにが言いたい?」

「高みより見下ろす天使は、数百万の軍勢をもってして汚れたヒトの世界を灼き尽くす。天使とは優しいものでも暖かなものでもない。天使の軍勢とは”そういう”ものなのよ」

 静かに歌うような彼女の言葉にウルリヒ・マッテゾンはじっとなにもない頭上を見つめていた。

 マリーの言う「天使の軍団」とははたしてなんなのだろうか。

「……天使には善悪なんてなにもないのよ」

 そう言った彼女はそうして花のように笑った。



  *

 それから数日して国家保安本部第六局局長ヴァルター・シェレンベルクは、親衛隊長官のハインリヒ・ヒムラーにいつものように飄々として言った。

「ちょっとウィーンまで行ってきます」

 まるで、近所のスーパーマーケットに買い物でも行くような気軽さでシェレンベルクはそう言うと、早々にベルリンを出発した。

 ドイツ第三帝国によって併合されたオーストリアのウィーン。

 彼の目的はオーストリアの親衛隊及び警察高級指導者のエルンスト・カルテンブルンナー親衛隊中将だ。

 ベルリンとウィーンの直行便である三発型の輸送機、ユンカースJu52に乗ってシェレンベルクは早々にベルリンを発った。

 シェレンベルクに同行するのはふたりの将校で、ひとりは国家秘密警察(ゲシュタポ)で、もうひとりが親衛隊情報部の青年将校だ。

 国外諜報局の局長であるヴァルター・シェレンベルク親衛隊大佐がなにを考えているのか理解できずに、肘をついて目を閉じている彼を観察している。

「どうした?」

「……いえ」

 唐突にウィーンなどに行くと言い出した国家保安本部の幹部。

 シェレンベルクは他の幹部たちと比較すると随分と頭が切れる。かつて死に追いやられた国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将と同じく、合理的に現実を見据えている。

 その彼がオーストリアに向かうと言うのだ。

 なにか思うところがあるのか、思慮深い眼差しに淡い光をたたえていた。

 数時間した後にウィーンに到着したシェレンベルクは休息をいれることもなく、その足でエルンスト・カルテンブルンナーのオフィスへと向かった。

ヒトラー万歳(ハイル・ヒトラー)

 ドイツ式の敬礼をしたシェレンベルクに胡散臭そうな眼差しを向けたカルテンブルンナーだが、彼のデスクに置かれた灰皿は、以前訪れた時よりはその上に積み上げられたタバコの吸い殻は減っているような気もしないでもない。

 棚におかれたアルコールはどうやら出された気配はない。

 一瞬でそれらに視線を走らせて全て観察してから、シェレンベルクは視線を目の前の大男――エルンスト・カルテンブルンナーに戻した。もっともそんなカルテンブルンナーもシェレンベルクのそんな観察眼を、やはり一瞬で見抜いている。

 小柄なシェレンベルクと比べると、カルテンブルンナーは大男だ。

 なにせ身長が六フィート三インチもあるのだった。

ヒトラー万歳(ハイル・ヒトラー)

 デスクから立ち上がって敬礼したカルテンブルンナーは、シェレンベルクにソファを薦めてから秘書らしい女性に向かってコーヒーの準備を命じると、自分も年下の青年将校の前に腰を下ろした。

国家保安本部(RSHA)の六局の局長殿は随分と暇なようだな」

「部下たちが優秀なので小官がひとりでがんばらなくても良いのです、閣下」

 人好きのする笑顔で応じたシェレンベルクは、そうしてから「ところで」と言葉を切った。

「噂でお聞きしたんですが、酒とタバコを減らしたと」

「……そんなことか」

 シェレンベルクの言葉に、カルテンブルンナーはフンと鼻を鳴らしてから肩をすくめる。

「なにか心変わりでも?」

「ハイドリヒじゃあるまいし、わたしの個人情報でも収集するつもりか?」

「……それもいいかもしれませんね」

 しかし、シェレンベルクにはハイドリヒのような悪趣味はない。もちろん、国家保安本部内に連合軍の間諜が紛れ込んでいるとも限らない。だからこそ、シェレンベルクは同僚にすら心を許しはしない。

「まぁ、心配なさらないでください。閣下」

 ほほえんだ彼は、そうしてカルテンブルンナーの返事を待っていると、彼はややしてから視線をおろして胸ポケットに指を伸ばしかけてから、ソファに背中を深く預けて溜め息をつく。

「閣下が酒と煙草を控えられているからといって、それをなにかの取引に使おうとは思っておりませんよ。今のところは」

「……タバコと酒はな、あの子がいやがるかと思って減らそうかと思っただけだ」

 ぽつりとつぶやいてから、カルテンブルンナーは目を細めるとじっと目の前のなにもない空間を見つめている。

「あの子、というのは花の家ハウス・デア・ブルーメンの?」

 確かに少女の家に訪れているというのに酒とタバコを持参するのも無粋の極みだ。

「別にタバコを吸っても、マリーはいやな顔をしないとは思いますけど?」

「いやな顔をしなければいいってもんじゃないだろう」

「女性に対して失礼と言うものだからな」

 そんなことを話すカルテンブルンナーに、シェレンベルクは本題を切り出した。

「そのことです、閣下。ひとつお聞かせください」

 シェレンベルクが姿勢を正して告げると、カルテンブルンナーは口を閉ざす。目の前の年下の諜報部員の青年が言い出す言葉を待っている。

「閣下はマリーが嫌な顔をするから酒とタバコを減らしたとおっしゃいました。閣下のお気持ちが変わられた原因は”確かに”マリーなのだと、判断させていただいてよろしいですか?」

「あくまで、わたし個人の話しだ」

「はい、閣下個人の話しで構いません」

 カルテンブルンナーが考えを変えさせるに至った少女の存在。

 そして、彼女に接触したソ連人の諜報部員が祖国に帰ってから国家に弓を引いたこと。

「可能性のひとつとして、閣下のように、彼女と接触した人間が考えを改め祖国に牙を剥くと言うことがあると思われますか?」

 ひとりの男の考えを確かに改めさせた少女の存在。

 それについての可能性。

「……それは、フロイライン・ハイドリヒにスパイが接触している、という可能性があるとシェレンベルク大佐は言いたいのか?」

「可能性の話しです」

「……わからんな」

 腕を組んでぽつりとつぶやいたカルテンブルンナーは、しかし、と続ける。

「彼女は不思議な娘だ。なにかを変えていこう、なにかと戦おうとしている男たちの心にあるいは火を灯すのかしれん」

「そうですか」

 カルテンブルンナーのその言葉だけで充分だった。

「閣下、お話を聞かせていただいてありがとうございます。小官は現在ある可能性についての調査を行っております。そのために閣下にお話を聞かせていただいた次第です」

「なるほどな、詳細など聞いたところで貴官がわたしにまともな受け答えなどするとは思ないからな。ひとつだけ聞かせてもらいたい」

「なんでしょう?」

「……彼女は、敵か、それとも味方か?」

 どちらだ、とカルテンブルンナーが告げると、シェレンベルクはまるで野生の獰猛な獣のように片目を細めてみせた。

 彼の諜報部員としての顔だ。

「どちらもでありませんよ。水が無色透明なように」

 水の無色透明。

 それは全ての色を飲み込む色だ。

「限りなく透明な色彩は、人を惹きつけ、全てを飲み込みます。その透明なものを手に入れた者が有利に立つのです」

 シェレンベルクはカルテンブルンナーにそう告げた。

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