7 手のひらの上
ヨアヒム・フォン・リッベントロップ。彼は外務大臣を務める男だが、周囲の知識人たちの彼に対する評価と言えば、高慢で外交センスに欠ける、軽蔑すべき男であるというものであった。
国民啓蒙・宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルス博士は豪勢な椅子に腰掛けたままで、彼の手元に届けられたファイルを眺めている。
手書きの報告書。
タイプライターで打たれたものとは異なり、若干読みづらいがそんなことはゲッベルスにとってみればまさに「どうでもいいこと」だった。
国家秘密警察がリッベントロップの、というよりは、外務省の周囲をかぎ回っている。しかも動いているのはどうやらゲシュタポだけではないらしい。
いずれにしろ。またなにかしらの愚にもつかない失態でも犯したのだろうが、自分が優秀だと本気で考えている馬鹿はいくらでも使い道がある。
「……もっとも、それは先方も同じか」
独白したゲッベルスは侮蔑するように、フンと鼻を鳴らしてから椅子に深く沈み込んだまま腕を組むと目を伏せた。
リッベントロップはなにか失態を犯した。
もっとも、外務大臣の失態は今に始まったことではない。
彼は対イギリス交渉でも重大な失敗をしている。
「……馬鹿な男だ」
*
国家保安本部第六局――国外諜報局、特別保安諜報部の部長マリア・ハイドリヒの首席補佐官ヴェルナー・ベストと、次席補佐官ハインツ・ヨストの元を訪れたのは国防軍情報部長官ヴィルヘルム・カナリスの首席補佐官を務めるハンス・オスターだった。
片やはナチス親衛隊の国家保安本部の高官であるとは言え、かつては亡き長官ラインハルト・ハイドリヒのブレーキ役とも言われたヴェルナー・ベストと、当の国外諜報局長にまで上り詰めた優秀な知識人でもあるハインツ・ヨストだ。これに対してハンス・オスターは元来、反ナチス党の気運の強い人物で、傍目には互いに接点などないように思われる。
マリーの執務室に出入りするのは基本的には秘書を務めるハンス・ショルとその妹のソフィア。そして補佐官のベストとヨストだけで全てだ。マリーの上官ともなれば話は別で、自由に彼女の執務室を出入りする権利を持っているわけだが、どういうわけかヴァルター・シェレンベルクも、長官のカルテンブルンナーも訪れることはほとんどない。
ゲープハルトやメールホルンは、その仕事の特殊さのためから自分の執務室を持っており、時には一度もマリーと顔を合わせずに一日を終えることもままあった。
立場的にはマリーが上官の執務室に出向くのが当然なのであるが、これについてはマリー自ら上官たちの執務室を訪ねることは滅多にない。用事がないというのも一理あるだろうが、要するに人の話など聞いてはいないのだ。マリーはマリーの意志で動いているに過ぎない。
そのくせ、大した用事もないらしいというのに、他部署の高官たちのところには気軽に”遊びに”行くものだから、実のところ影ではひっそりとマリーの父親を自称する国家保安本部長官のエルンスト・カルテンブルンナーがへそを曲げていたらしい。
「長官、もっと自分のところにも顔を出してほしいなら、そう言わなければマリーは鈍いから気がつきませんよ」
カルテンブルンナーにそう諭したのはシェレンベルクだ。
しかし、と部下の言葉を受けてカルテンブルンナーは考えた。
彼女がカルテンブルンナーに対して、何のアクションも起こさないのは逆を言えば信頼の裏返しなのではなかろうか、と。
どちらにしても、マリーがカルテンブルンナーの執務室を訪ねないために、国家保安本部長官がいじけたらしい。そう国家保安本部内ではまことしやかに囁かれるのだった。
話しはそれたが、ハンス・オスターがナチス党一派に対して好意的ではないということは、周知のことで当然のようにベスト、ヨストらの耳にも入ってきている話しだった。そのため、そんなオスターが国家保安本部の彼らの元を訪れたことには驚きを隠せない。
多くの情報機関の人間が国家保安本部を訪れるようになったとは言え、彼らの目的は配属されることになった少女に対する関心だけだ。
あわよくば、浅はかであらゆる意味で経験の足りない子供を懐柔しようとでも思っているのだろう。
そんなことはたやすく想像できた。
「連絡をもらった時には驚きましたが。……ようこそ、と言うのもなんですが」
オスターがナチス党を嫌っていることを知っているから、あえて敬礼を省いたベストはそう言って彼を出迎えた。ちなみに「ようこそ」などと言われたところでオスターとしては面白くもなんともない。本音を言えばこんなところの空気など吸ってもいたくない程なのだ。
マリーが長期休暇を取ったことはすぐに他の情報機関にも知れ渡ったらしく、途端に国家保安本部を来訪する部外者が減ったのだが、そんな状況の中でのオスターの訪問だ。青天の霹靂とはまさにこのことだろう。
「マリーが休暇中なのは”ご存じ”かと思っていましたが」
「別段、彼女に関心があるわけではない」
ベストの言葉を一蹴したオスターは、薦められたソファに腰掛けて膝に上腕をつくと両手の指を組み合わせる。
なにより彼女の”経歴”を誰よりも知っているのはオスター自身なのだ。
万が一にも彼女――もしくは彼女の所属する国家保安本部――が、オスターの邪魔になるような行動を取るのであれば、秘密を暴露する準備はすっかりできている。
「お電話していただいた”外務省”のことですかな?」
ナチス親衛隊と国防軍。その組織の違いはある。階級の違いはともかく、年長者にあたるオスターに対して礼儀を払いながらベストとヨストはソファに腰掛けると、オスターの様子を窺った。
「正直、国家保安本部としてはどうなのだ?」
「……――どう、というのは?」
オスターの問いかけにベストは探るように問い返す。
諜報機関の人間というものは、組織内外にかかわらず腹の探り合いを仕事にしているようなものだ。組織内が必ずしも安全と言えないのが現状なら、組織外はもっと危険性を伴っているということだ。
「”噂”では、外務省を探っているらしいじゃないか」
「あぁ、なるほど……、そちらの件ですか」
応じてベストは肩をすくめてみせた。
「オスター大佐の言われる通り、我々、国家保安本部が外務省を探っているのは事実ですが、なにぶん実際現場で捜査に当たっているのは諜報部ではありませんので、我々の感知するところではないのです」
犯罪の捜査は国外諜報局の仕事ではない。
そう言ったベストに、表情を変えることもせずに視線を投げかけたオスターは腕を組み直してから小首を傾げる。
「そうなのか? その辺りの”線引き”は国家保安本部では曖昧なものと思っていたが」
嫌み混じりのオスターの言葉に、ベストもそんなことでは表情を変えはしない。
彼は百戦錬磨の法律家だ。ハンス・オスターが情報将校として経験を重ねていることと同様に、ベストも国家保安本部の知識人として謀略に長けている。
「事と次第に寄ります、大佐。現状は、あちらの一件については、我々国外諜報局が動くべきものではないと思っております。なにより、我らの部長も動きを見せておりませんので、我々だけではなんとも……」
「ふむ……」
ベストの説明にオスターは考え込む様子を見せるが、それも計算の内なのだろう。ベストの隣に座っているヨストが頭の片隅で考える。
「刑事警察からの報告では、外務省は犯罪者を子飼いにしているらしいとか。そのような情報を国防軍情報部では掴んでいないのですかな?」
仮にも国家保安本部の部長級の人間を襲撃した容疑者が外務省にいるのではないか。ベストの言葉に、オスターが黙り込んだ。
「もちろん、国防軍情報部がそのようなたかが傷害事件などには動かないことは承知していますが、多かれ少なかれ情報は収集しているとこちらでは判断していますが……」
遠回しなベストの言葉に、オスターが目を上げた。
親衛隊情報部が軍事的な情報も収集していることと同じように、オスターの属する国防軍情報部が、「政治的」な情報も収集しているだろうと指摘するベストに、彼はかすかに唇の端をつり上げると笑った。
「さすがのタヌキっぷりだな」
「それはお互い様でしょう」
オスターの皮肉に、ベストも皮肉で返してから真面目な顔に切り替えた。
「それで、正直なところどのように思われます?」
「……外務省に敵が潜んでいるとすれば、それは国防的に考えても重大な失態になるだろうな」
ベストの言葉を受けてオスターが告げると三人の情報将校の間に、しばしの沈黙がたゆたった。
先日のゲーリングの調査局の失態と同じだ。
どうしてこう政府要人たちはそろいも揃って情報管理に甘いのだろう。
諜報部員としては頭痛がしてくる問題である。
「そうなれば、問題は警察組織だけのものとは言えますまいか?」
「つまり協力しろと?」
「えぇ、包囲網を形成するには、国家保安本部……。いえ、我々”ナチス親衛隊”の力だけでは足りません」
ベストらのような親衛隊知識人たちは、外務省や宣伝省がヒムラーのナチス親衛隊を毛嫌いしていることは知っている。
強大な警察権力を、多くの政府高官たちが恐れていた。
「それに、オスター大佐が考える通り、これは単純に傷害事件であるとして済む問題ではないはずです」
「……――そういうことであれば、国防軍情報部でも検討してみよう」
だが、とオスターは続けた。
「そちらで期待している動きができるとは思うな」
「もちろん、それは承知しています」
ベストは大きく頷いてからソファを立ち上がった。ヨストとオスターの彼の動きを追いかけるが、そんなことを気にする様子もなく自分の執務机のひきだしを引くと、中から数枚の書類を取りだしてあいているファイルに挟み込む。
「どこまで国防軍情報部で把握しているかは知りませんし、こちらも警察ではありませんので、独自に調査した結果でしかありませんが……」
揶揄するようなベストの言葉とともに差しだされたファイルを、オスターは数秒見つめてからベストを見上げた。
視線が交錯する。
「このファイルは、我らが部長に報告しているわけではないが……」
先までは告げないベストに、オスターはファイルを受け取った。
「”お借り”しよう」
なにせマリーは今は休暇中だ。
彼女に報告するには、わざわざルートヴィヒ・ベック退役上級大将の自宅まで行かなくてはならない。そこまでするほどのことではないと思っていたし、マリーが休暇をとったくらいでは業務を行う上で問題になるほどのことではない。
ベストとヨストが独自の権限を持っていることによって、特別保安諜報部は部長の決定権を直接経由しなくても業務を遂行することができる。そしてそのための補佐官なのだ。
「そういえば、マリーと言えば、今はベック上級大将閣下のところに預けられているということだが、”敵”などに大切な部長を預けるなど心配ではないのかね?」
ファイルを受け取りながら応じたオスターに、ベストはソファに座り直すと口を開く。
「別にベック上級大将閣下が、マリーに危害を加えるわけではないし、そもそも敵だの味方だのという考え方が理解できませんな」
とぼけた様子で応じたベストに、オスターはそれから二言三言言葉を交わすとそれ以上の会話を続けるのは無意味なことでしかないとでも言うように、プリンツ・アルブレヒト街八番地の国家保安本部を出て行った。
「外務省を包囲するのに、アプヴェーアが協力などすると思うか?」
ハンス・オスターとヴェルナー・ベストの会話にじっと聞き入っていたハインツ・ヨストが、それからしばらくして言葉を放つと、首席補佐官の親衛隊中将は腕時計を見ながら息を吐き出した。
「するだろう。彼らにとってみても外務省が敵性分子を放任していることは諸刃の剣だし、そもそも戦争をしているのは軍隊だからな。我々親衛隊員とは違って死活問題だ」
内部の裏切りは――リッベントロップが単に気がつかないだけであるとしても――それほど重大な問題だ。
軍隊と言えば武装親衛隊の問題も気にかかるところだ。
かつて、突撃隊と国防軍がもめたいきさつもある。現状、武装親衛隊の事実上の総指揮官を務めているハンス・ユットナーは、武装親衛隊という組織を一般親衛隊から切り離し、ドイツ国内にあって「正式な第四の軍隊」という位置づけようと画策している。それについてベストは特に思うところはないし、それはユットナーにしてみれば重要な問題であろうことも理解していた。
国防軍と共に軍事行動を行う彼らが、国際的に非正規部隊のままでは彼ら自身の存在に危険が及ぶ可能性もなきにしもあらずだ。
勝っている間は良い。
しかし、そればかりの楽観的な見方だけでは危険は拭えない。
ならばできる限り危険性は排除するべきで、ハンス・ユットナー親衛隊大将の危惧は正当性を持っていた。
「しかし、オスター大佐の親衛隊嫌いは相変わらずだな」
苦笑したベストに、ヨストは肩から力を抜くと笑みを返す。
「全くだ。だが、まぁ、それはそれでやむを得ん」
国防軍――特に陸軍は反ナチス派の軍人たちが多いのだ。
これはまた多くの意味で一悶着ありそうだ、と想像してからヨストは自分の仕事に戻るのだった。




