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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XI 偽典
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6 螺旋の先端

 ドイツ国内に多数の情報組織が活動していることはその筋の関係者たちには周知の事実である。特に、ティルピッツ・ウーファーに本部を置く国防軍情報部(アプヴェーア)は主として軍事的な諜報活動を。そして、プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに所在地を据えている親衛隊情報部――国家保安本部は政治的な諜報活動を行うものとする。

 それがかつて双方の長官であるヴィルヘルム・カナリス海軍大将と、今は亡きラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将によって定められた”協定”であった。もっともそうはいったところで軍事行動と政治活動を完全に切り離すことなどできはしなかったから、互いに互いの領域を侵すこともままあることだ。

 親衛隊情報部が軍事上の情報を得ているように、またその逆も然りで、ごく当然のように国防軍情報部には多くの”政治的な情報”も流れ込んでくる。

 長官ヴィルヘルム・カナリスの首席補佐官を務めるハンス・オスターは、ソファに深く腰を下ろし、長い足を組み合わせたままでじっと目の前の虚空を見つめて黙り込んでいる。

 彼の情報源に引っかかったもの。

 曰く――国民宣伝・啓蒙大臣のヨーゼフ・ゲッベルスと、外務大臣のヨアヒム・フォン・リッベントロップが接近しつつあるらしい。

 彼の情報源は諜報員たちばかりではない。その複数の諜報員だけではない”情報提供者たち”からも同様の情報が寄せられている。つまるところ、それは果てしなく真実に近い”噂”なのであろう。

 頭の回転が速くずるがしこいゲッベルスはともかくとして、リッベントロップなどに情報将校たちを手玉に取るような腹芸ができるとは思えない。おおかた情報のでどころはリッベントロップ辺りだろうとオスターは踏んだ。

 政府高官たちが互いに互いの優位に立とうとして策略を練っていることは知っていた。国外では戦争中で、多くの若者たちが命を落としているというのに全くもって嘆かわしい事態ではあるが、本人たちは権力争いに興じながらも真剣に国政を担っていると勘違いをしている。結局は自分のためだけではないか。

 そんなことを腹立たしく思いながら、オスターは小首を傾げた。

 リッベントロップ、ゲッベルス。そしてボルマンやゲーリング、ヒムラーなどの要人たちが互いに反目し合っていることは随分昔から情報を得ているが、それではなぜ、今さらゲッベルスとリッベントロップが接近しつつあるのだろう。

 彼らの性格を考えるに、何らかの目的がなければそんな行動に出るとは思えない。戦争中でありながら、国防軍の足すら引っ張ろうとする男たちなのだから。

 そして彼らが接近する目的とやらに興味がひかれた。

 それから一時間ほどしてから報告書をまとめたオスターは、カナリスの執務室を訪ねて前大戦からの優秀なスパイ・マスターに対して言葉をぶつける。

「……このように思われますので、わたしにはとても意図的に流された情報とは思えません」

 なによりも、ゲッベルスもリッベントロップも互いの省庁に情報部を有している。リッベントロップのINFⅢは事実上、先の赤いオーケストラ(ローテ・カペレ)の摘発の際、ゲーリングの調査局と共に素人振りを露呈されて機能不全に陥っているから言うまでもないが、ゲッベルスは違う。

 国内にあって、彼は情報の扱い方をよく心得ていた。

 もちろんそうは言ったところで、ゲッベルスも諜報活動においてはとても専門的であるとは言えないのだが。それでも尚、彼の諜報組織は警戒するに値する。なぜなら、その組織のトップにはゲッベルスの目が光っているのだ。

 ヨーゼフ・ゲッベルスという男は、野生の勘にも近いそれで天才的な情報の扱いを見せた。彼の手品師のような言葉の弾丸は、国民たちを熱狂の渦に巻き込むだけの力を持っている。

「ゲッベルスだったらもっと用意周到に情報を流すだろう。奴が情報を流すときはなにかしらの”あて”があるときだけだからな」

 オスターの言葉をそう評したカナリスは深く頷いてから、優秀な補佐官を静かに見つめ返した。

 もしくは、ゲッベルスがリッベントロップに接近しているという情報は、ゲッベルスにとって他者の耳に入っても良い程度にどうでも良いものだったとも考えられる。

 ゲッベルスがその情報を流れるに任せたとすれば、そうした理由しか考えられない。

「問題は、なぜこの時期に、今になってゲッベルスとリッベントロップが接近しているかということです」

 正直なところ、ゲッベルスとリッベントロップの仲が良かろうが悪かろうが、オスターには関心がない。だが、今の今まで反目し合ってきた彼らがどうして今さら手を組もうとなどしているのか。それには多少の興味がひかれた。

 ナチス党の中で勢力図が書き換わりつつあるのだろうか……?

 リッベントロップは身の程を弁えない愚か者だが、ゲッベルスは違った。

 愚かであることには違いないが、彼の頭脳は彼自身の口と同じようによく回る。鋭い瞳が印象的で、ただひたすらアドルフ・ヒトラーに心酔する男だ。

「なにか情報を掴んだ、というのがあるいは正しいのかもしれません」

 オスターの言葉に、カナリスはひとつ頷いてから小さく椅子を軋ませると、執務机に腕をついて身を乗り出した。

「おそらくそんなところだろう」

 だが。

 カナリスは続ける。

「……だが、そうだとするならば、どんな情報をつかんだのかということだな」

「噂話のひとつですが、あぁ、これはまだ秘密裏のものでして、刑事警察(クリポ)の長官からの情報なのですがね」

 オスターが顔色ひとつ変えずに淡々と言葉を綴る。

 興味深げに聞いているのはカナリスだ。

(くだん)の外務省に絡むことなのですが、先日、国家保安本部の将校が暴行事件に巻き込まれたことをご存じですか?」

「……確か、マリーが骨折したのだったか? シェレンベルク上級大佐から聞いた話では、ギプスがとれたということで、今は休暇中で退役されたベック陸軍上級大将のもとに預けられたと聞いているが」

 いきさつと、現在の状態はシェレンベルクを通じて聞かされている。

「それです」

 意味深長に一度言葉を切ってから、ハンス・オスターが小首を傾いだ。

「ネーベ中将の話しでは、どうやらその容疑者と見られる男が外務省に所属しているらしいとのことです」

 そこまで言ったオスターにカナリスは「なるほど」と相づちを打った。

 状況と、経過、そして過程と結果を分析すれば、オスターの言いたいことは容易に現実の世界に示される。

 みなまで告げる必要などない。

 言葉のいくつかのつながりで、その倍以上の情報を読み取るという技術が情報将校には要求されるのだ。そして、その技術にカナリスは誰よりも長けている。

「……話しのでどころはネーベか」

 彼が所属する国家保安本部が、ネーベの動きをどこまで把握しているかは不明だ。もっとも反ヒトラー陣営の一角を形成するネーベ自身の行動にもカナリスらは不審に近い懐疑のようなものを抱いていた。

 彼は、なにを考えてか東部戦線の行動部隊アインザッツグルッペンに志願した。ネーベの出世欲によるものだったのか、それとも別の思惑があったからなのか。真意はわからない。

 なぜ彼がアインザッツグルッペンの指揮を、その指令の意味をわかっていただろうに出動したのか。

 ただ、あるのは「どうして」という疑問ばかりだ。

「はい」

「そうか……」

 マリーの事件を追っているのがネーベだということに、けれどもなぜか納得する。

 彼は刑事警察という志を捨てていない。

 たとえ彼が、マリーの真実の姿を知らなくても。

 金色の長い髪の、青い瞳の華奢な少女。八月に入ってからカナリスは忙しさの余り、少女と会うことはなかった。もっとも友人である、国家保安本部の情報将校――ヴァルター・シェレンベルクからはいくつかの情報を得てはいたがそれだけである。

「つまるところ、外務省を国家保安本部が捜査しているらしいということを、ゲッベルス辺りが掴んだのだろうな」

 その情報をゲッベルスがどう使うかは彼次第だ。

 外務省を国家保安本部が捜査しているとリッベントロップが知る事になれば、外務省側の反発は必至であって、そうなるとすでにゲッベルスとリッベントロップが手を組んでいるという可能性も考えられる。

 最悪の事態は、高慢で愚かなリッベントロップに対して、ゲッベルスが余分なことを吹き込むという事態だった。そんなことになればリッベントロップがどんな暴走するのかわからない。

 不安要素は消しておくべきだ。

「それで、そのゲッベルスとリッベントロップの件を大佐はどう見る?」

「すでに接触していると、本官も見ております。ですので、今後も注視していくつもりですが構いませんか?」

「……そうだな」

 口ごもるようにつぶやいたカナリスは両手の指を組んでデスクに肘をついて、目を伏せるとオスターに頷いて見せた。

 参謀本部が国家保安本部と接触している。

 それもカナリスにはわかっていた。

 この場合で言う国家保安本部の将校はもちろんマリーのことであるが、マリーがラインハルト・ハイドリヒと同じ感触の魂を持っているということを知っているカナリスではあったが、少女がなにを考えてどういう結果から行動を取っているのかはカナリスにはわからない。

 マリーは不思議な子供だ。

 まるで殺されたハイドリヒと同じ感触の魂を持っているというのに、彼女には確かに彼女としての個が存在している。

 言うなれば、まさしく正反対の全くの別人だ。

「大佐に任せよう」

 おそらくすでに親衛隊情報部の奥深くが動いている。最近では、刑事警察と国家秘密警察を動員して強制収容所の大規模な摘発に乗り出しているらしいということだったが、それについてカナリスは反論の余地はない。

 もちろん施設内で行われる無辜(むこ)の人々に対する非人道的な扱いは許されるものではないが、今のところ、彼らはそれに対する声高な批難は主張しない。物事(ものごと)というものは、正しいことを口にすればそれが正しくまかり通るわけではないのだ。

 ”正義”というものが、”正義”の名の下にまかりとおるのであれば、正しいことを口にした者が逮捕される現実などありはしない。

 要するに、それこそが現実なのだ。

 正義を信じてはいるが、ただ単純に悪を討伐すれば良いということではないという事実を、カナリスも知っているし、オスターにもわかっている。今のところは、ナチス党のやっていることが偽善であることもわかっていて、叩きつぶすにはもうしばらく時間が必要だった。

 オスターとカナリスがそんな話しをティルピッツ・ウーファーで交わしているころ、ベック家を訪れた壮年の軍人がいた。

 どこか愛嬌をたたえた目元とやんちゃ坊主のような印象を受ける名将だ。

 ベック夫人の横でパタパタと尻尾を振りながら、焼き菓子を作る彼女の手元を見つめているのは痩せた金髪の少女だ。

 まだ残暑も厳しいため、首筋に長い金髪が触れない様に両脇できっちりと三つ編みにされていた。レース織りのスカーフで後れ毛を留めているのが品が良い。

「痩せているのに肌を出し過ぎじゃないか?」

 苦言を呈した男にルートヴィヒ・ベックは片方の眉毛をつり上げた。

親衛隊(SS)の、シェレンベルク上級大佐の選んだドレスだそうな」

 別に俺の趣味じゃない。そう言いたげなベックの不機嫌な顔に、壮年のやんちゃ坊主は吹き出した。

「それにしてもこんなところで遊んでいて構わんのか? 貴官も暇ではなかろう?」

「なにぶんわたしも”総統閣下”の覚えが悪いので。ベック上級大将」

「ふん……」

 やんちゃ坊主そのままで壮年になった戦車戦の第一人者とも言える男――ハインツ・ヴィルヘルム・グデーリアン陸軍上級大将は、いつもの如く機嫌の悪そうなベックの案内を受けて応接室へと向かった。

「それで、あの少女が国家元帥閣下のお気に入りの女の子だとかで?」

 問いかけるグデーリアンに、ベックはちらと肩越しに視線を投げかけてから、年下の男に溜め息をついた。

「そんなことをわたしに言われてもな。わたしは、この家に彼女がくるまでほとんど話しなどしたこともなし。親衛隊の将校だとは聞いているが、それだけだ」

 単にナチス親衛隊と言っても、悪事に手を染めている連中ばかりではないことをベックもグデーリアンも知っている。

 グデーリアンに至っては、ナチス親衛隊の武装組織を高く評価しているところもあった。 なぜならば、彼らはその悪名はともかくとして、文字通り「エリート部隊」としての強さを持っていたからだ。

 かつての国防軍将校――パウル・ハウサーに鍛えられた精鋭たち。

「まぁ、あれだけ可愛ければ、国家元帥閣下がお気に入りだとしてもわからなくはないですがね」

 飄々とした機甲部隊の頂点に立つ男はそう言ってから、コーヒーを運んできた夫人と並んで歩いてくる少女に対して頬を綻ばせる。

 少女――マリーの青い目は焼けたばかりのケーキに釘付けだ。

「……足が余り良くないそうだ」

 ベックの言葉にグデーリアンは顎に手を当てたまま、遠慮の欠片もなくじろじろと少女を眺めているが、一方の彼女はそんなことを気に掛ける様子もなく相変わらず尻尾があれば、勢いよく左右に振っているだろう様子だった。

「あなたのミルクティーは次に持ってきてあげるから少し待っていなさいね」

 手伝いをしようとしているマリーを制して、夫の隣を指し示した夫人はにこりと笑ってからテーブルにケーキと夫とグデーリアンのためのコーヒーを置くと、そう言い置いてから踵を返した。

はい(ヤー)

「余り足が良くないと言うが、ただの運動不足じゃないのか?」

 容赦なく一刀両断した男にきょとんとして大きな青い瞳を見開いた少女は、ハインツ・グデーリアンを見つめ返してからにこりと笑った。

「彼はグデーリアン陸軍上級大将。ご挨拶をなさい」

「マリーです、よろしくお願いします」

 立ち上がってドレスの裾をそっとつまむと、膝を少しだけ折り曲げて会釈をする。

 そのときだ。

 長い毛足の絨毯につまづいたのか、少女がバランスを崩して前方に体が勢いよく傾いだ。

「……おい」

 咄嗟に差し伸べたグデーリアンの腕の中でがマリーの軽い体が衝撃を覚悟して固くなった。

「いくら体重が軽くてもテーブルに突っ込んだら怪我をするぞ」

 ぞんざいなグデーリアンの言葉を受けて、きつく目をつむった少女は頼りになる男の胸に手をついて体を支えると礼を言いながら起き上がる。

「……ベック上級大将、この”ちんちくりん”が本当に親衛隊員か?」

 余りな物言いだが、グデーリアンが疑問を感じても無理はない。

「ハインリヒ・ヒムラーとエルンスト・カルテンブルンナーの秘蔵っ子だそうだ」

 グデーリアンに応じて、ベックが広い肩をすくめてみせた。

「ごめんなさい、ありがとう」

 枝のように細い腕と肩。

 世間のドイツ人少女のような力強さはかけらも感じられないマリーの姿に、グデーリアンは眉をひそめてから、少女を立ち上がらせると深々と溜め息をついた。

 ――ドイツの未来は大丈夫だろうか。

 彼が心配になったのも無理はないのかもしれない。

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