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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XI 偽典
124/410

2 奇手

 九月の上旬、軍事クーデターを引き起こしたフュードル・クズネツォフとニキータ・フルシチョフの一派はモスクワを防衛するスターリン派の赤軍を打ち破りクレムリン宮殿を制圧、占拠したがすでにもぬけの殻となっており、ヨシフ・スターリンの姿を見つけ出すことはできなかった。

 一方でスターリングラードではコンスタンチン・ロコソフスキー率いる大軍団はフリードリヒ・パウルスのドイツ第六軍と共に、ヴァシリー・チュイコフのスターリングラード防衛軍を打ち負かし、これによって事実上スターリングラードは陥落する。

 クレムリン宮殿を占拠したフルシチョフは元国家元首の不在を発表、そして国家反逆罪と大量殺戮、不当で深刻な人権侵害のかどで告発し、これに併せてスターリンの犯罪に手を貸した警察及び内務人民委員部などの職員らの一斉摘発を行った。これらの内部改革と平行してニキータ・フルシチョフは行方をくらましたヨシフ・スターリンに代わり新政権を発足し、同時にスターリン打倒のために共闘したドイツ第三帝国に対し、ほぼ無条件の講和を受け入れた。

 これにより、ドイツとソビエト連邦の戦争は事実上終了したこととなる。

 内戦処理のため欧州から手を引いたフルシチョフのソビエト連邦はコーカサス、南ウクライナなどの一部地域をドイツに割譲したものの、これらの一連の動向にやや不審げな眼差しを向けていたのは、ドイツ国防軍陸軍東方外国軍課のラインハルト・ゲーレンであった。

 ユンカースJu52でベルリンへ一旦戻ったゲーレンは参謀本部へ顔を見せることもせずに、空港に着いたその足でティルピッツウーファーの国防軍情報部(アプヴェーア)に赴いた。

「昨年の作戦の失敗を考えればぎりぎりのタイミングだな」

 訪れたゲーレンに対して暖かい笑顔で出迎えたヴィルヘルム・カナリスに対して、ゲーレンは軽く頭を下げると、第一次欧州大戦をくぐり抜けた生え抜きのスパイ・マスターをじっと見つめた。

「気がかりなことでもある、と言った顔だな。ゲーレン大佐」

「はい、提督にはお見通しのようでお恥ずかしい限りです」

 視線をわずかに彷徨わせてから言葉を探すゲーレンはややしてから重々しく口を開いた。

「……気にかかる事はいくつかあるのですが」

「続けたまえ」

 思わせぶりな様子で言葉を切ったゲーレンにカナリスは言って、穏やかな日差しの降り注ぐ窓外の木立を見やる。

「現在、フルシチョフ政権より行方不明と発表されている内務人民委員部長官のラブレンチー・ベリヤと、”前”書記長のヨシフ・スターリンの行方のことがまずひとつ」

 さらにスターリンからソ連赤軍総司令官代理を負かされたゲオルギー・ジューコフとその幕僚の行方と、狂信的な共産系パルチザングループの存在などを上げる。

 東部の不穏分子は数知れないとゲーレンはカナリスに告げた。

「なるほど」

「”政治的”な脅威を含めれば、そればかりではありません、提督」

 形式上は国防軍情報部は軍事的な情報を。そして親衛隊情報部は政治的な情報を。それぞれ担当しているはずだったか、実のところその境界というのはひどく曖昧だ。

 なぜならば軍事行動というものは政治の一部であり、軍事と政治は切っても切り離すことができないということを、双方の情報将校たちが共に理解するところだった。だからこそ、主導権を握ろうとして互いの腹を探り合う。

「確かに”そう”だな。そもそもニキータ・フルシチョフがスターリンを失脚させたからといって、あの男を頭から信用してもいいのかははたしてあやしいところだ」

 政治というのはキツネと狸の化かし合いだ。

 それは国内に対しても、そして国外に対してでもある。

 ゲーレンの報告を顎に手を当てたままで考え込んだカナリスは長い沈黙の後に目を上げる。

 腕力で奪取したものには、物事が一段落した時の反発もまた大きくなるのが世の常だ。フルシチョフが事態を収拾しはじめたころに、ぞろ別の問題が持ち上がってくるだろう。それを想像できる程度にはソビエト連邦という国は広大で、そして強大だ。問題を挙げるなら、その段階になった時までにどうやってソビエト連邦の力を削いでおくかということだ。

「ゲーリングの調査局を先日手中にしたという情報は大佐の元にまで届いているかね?」

「国家元帥閣下の調査局、と言いますと、先だってからの噂のあれですか?」

 存在そのものはラインハルト・ゲーレンも噂では聞いていた。

 国家元帥ヘルマン・ゲーリングには国内外に関する恐ろしく精緻な情報網を持っているらしい、と。

「一ヶ月ほど前に、ゲーリングの盗聴網を一網打尽にした。今は、我々と親衛隊情報部の管理下にある」

「ほぅ」

 国防軍情報部と親衛隊情報部とは実質的に犬猿の仲と言っていいだろう。そんな両組織が――ゲーレンの推測するところは、おそらく――共同で管理することとなったというゲーリングの調査局。

 これは何かしらの政治的な取り引きでもあったのだろう。

 ゲーレンはそう考えた。

「なるほど、その盗聴網をロシア内部にまで広げることができれば、彼らの不穏な動向をある程度は管理することは可能かもしれませんね」

 カナリスに差しだされたファイルをめくるゲーレンは、目の前の国防軍情報部長官と言葉を交わしながらタイプライターで打たれた書類を読み進めていく。やがてそのうちに顔色を悪化させてから眉をひそめると、まるでその場にはいないゲーリングを激しく批難するような口ぶりになった。

「これはなんなのです……っ!」

 ひどく不愉快そうに小さく叫んだゲーレンは、ハッとした様子で室内を見回してから瞬時に冷静さを取り戻す。

「……見ての通りだ、ゲーレン大佐」

「……昨年の作戦が全て筒抜けだったということではないのですか? これは」

赤いオーケストラ(ローテ・カペレ)の連中が調査局(FA)にはびこっていたことをつかめなかったのはこちらの諜報部にも問題がある。少し考えればゲーリングの情報組織にスパイが潜り込んでいたことを推察できたというのに、その可能性を考えなかったのだからな」

「しかし、提督。国家元帥閣下は情報戦のプロを配置することもせずにそれらを漏洩させた責任は重い。国家元帥閣下の責任を追及せずに放置することは、今後のためにも例外を作るということになりますまいか」

「本来ならば軍法会議ものだな」

 これが普通の将軍であれば、末路は更迭だ。

 しかしおそらくそうはならないだろう。なにせヘルマン・ゲーリングは国家元首であるアドルフ・ヒトラーの盟友だ。

 ゲーレンの言葉を受けてそう言ったカナリスは若い情報将校を目玉だけを動かしてから見つめると、再び思考に沈んでしまった。

「しかし国家元帥を起訴するとなると理由はひとつやふたつでは済まん」

 ゲーリングの犯罪の一部をカナリスは知っていた。しかし、ゲーリングの権力を失墜させることは現在のところ好ましいとは言えないだろう。そうなれば、おそらく裁判は長期化するであろうし、総統のアドルフ・ヒトラーが古参党員でもあるゲーリングの起訴を許可するとは思えない。

 そして、国防軍の中でも特異な権力を有するゲーリングを起訴するには、国防軍情報部の力だけでは足りないだろうと思われた。

 要するに問題は山積みだ。

「それは理解できますが」

 眉をひそめたままのラインハルト・ゲーレンは、カナリス同様に沈黙すると忙しなく頭を回転させた。

 自分がやらなければならないことを彼は計算している。

 とりあえず、とゲーレンは頭を切り換えた。

「東部の状況は小康状態ではありますが、予断を許しません。国家元帥閣下の犯罪とやらも気にかかるところですが、そちらはカナリス提督にお任せいたします」

「余り年寄りを当てにされてもな」

 言いながら苦笑したカナリスは、小さく身を乗り出すと声を潜めた。

「大佐もわかっているだろうが、アカの奴らは油断ならん。奴らの裏をかけ。そうしなければこちらが奴らの罠にはまる」

 気をつけろ、と告げるカナリスにゲーレンは無言で頷いた。

 ――彼らは狡猾だ。

 カナリスの忠告にゲーレンはそれから二言三言、言葉を交わすとティルピッツウーファーを立ち去った。

 ひとり執務室に取り残されたカナリスは、自分の椅子に深く腰を下ろしたままじっと目を細めると虚空を見つめた。

 かつてカナリスの教えを受けたラインハルト・ハイドリヒ。そしてそのハイドリヒが育てた国家保安本部の情報将校たち。さらに東方外国軍課のゲーレンや西方外国軍課。

 彼らはドイツ第三帝国の情報部の中心人物として育ちつつある。

「そろそろわたしも用済みか……」

 そっと苦笑する。

 ハイドリヒには人間としてだいぶ問題もあったが、それでも彼の手腕には目をみはるものがあった。そう考えれば、ヴィルヘルム・カナリスにとって国家保安本部とは、ライバルでありつつも、孫のような存在でもあるのだ。

「ヒムラーは気に入らんが」

 ぽつりとつぶやいてから小首を傾げた。

 注意深くハインリヒ・ヒムラーの率いるナチス親衛隊を観察してみれば、随分とその内側における権力構造は様変わりしたように思える。

 いや、外面だけを見れば大して変わっていない。

 そして外面だけを取れば大して変化がないからこそ、多くの者たちは今までのナチス親衛隊とは変わっていないのだと勘違いをする。

 軽く椅子を揺らしてからカナリスは目を伏せた。

「ドイツにとって、”君”は必要不可欠だったのだ……」

 冷徹な、残酷な男は一度死に、そうしてドイツを救うために戻ってきた。

 ――いや、もしかしたら”彼”はドイツを救うつもりなど毛頭ないのかもしれない。それでも尚、彼の存在はドイツにとって必要だった。

 多くの高官たちに恐れられた、「第三帝国の首切り役人」の喪失は、多くの者を安堵させる結果になったが、それは同時にドイツという国をそのまま破滅へと至らしめようとしていたこと。

 そこに、まるで天使のように残酷な純潔の化身として”彼”は戻ってきた。

「……わたしは、あなたを待っていた」

 思い出すのは弱々しい声。

 強烈なカリスマと、強靱な精神と肉体を持っていた彼とは似ても似つかない、弱々しい存在は、けれども、それゆえにラインハルト・ハイドリヒとは全く真逆のカリスマを、少女は蒼天の空の下に旗のようにかざした。

 たとえこの世を煉獄に陥れるとしても、彼はドイツという国が存続するために必要だった。

「ハイドリヒ、君はなにを望んで、なぜそうまでして戻ってきたのだ」

 魂も、精神も無に返して、純潔の存在として。



  *

「マリーちゃん、お昼ご飯よ」

 書斎に夫人の控えめな声が響いて、自分の机についたまま手紙を読んでいたルートヴィヒ・ベックは顔を上げた。

 いかめしい眼差しを和らげて妻に微笑したベックが唇の前に人差し指を立てて、本棚の前のソファを指で指す。

「あらあら、まぁまぁ……」

 クッションを抱きかかえたまま眠っている金髪の少女は、警戒心の欠片もなく寝息をたてていた。

「ハルダー上級大将閣下からお預かりした子なんでしょう? あなた」

「うむ……、まぁ、そんなところだ」

 曖昧な答えを返してから、ベックは手紙を伏せると妻に対して声を潜めた。

「少し前に眠ったばかりだからもう少しそのままにしておいてやりなさい」

「えぇ、わかりました」

 ベックは少女の正体を知っていた。

 彼女はナチス親衛隊に所属する将校で、本来であればベックとは思想を異にするはずなのだが、当の彼女は全く無邪気なもので強面の彼に臆することもなかった。

 知り合ったのは、フランツ・ハルダーの執務室だったか。

 国家保安本部に所属する親衛隊将校。しかし、彼女はベックやハルダーの前で政治的な話しをするわけでもなければ、彼らを恫喝するような態度をとるわけでもない。

 青い瞳に素直な感情を乗せて、彼らに対してまっすぐ疑問をぶつけるだけだ。

 ――ベック上級大将閣下?

 彼女はそう言った。

 けれども、そのときすでにベックは退役した身であって上級大将ではない。だから、軍属でもない彼女には「上級大将」などとつけなくて良いと言った。

「……えーと?」

 結局、「ベックさん」で落ち着いた彼女からの呼びかけが、参謀本部総長にまで上り詰めた彼にはどこか新鮮で、柔らかな子供ながらの声にそう呼ばれると自然と笑顔が浮かんだこと。

 ハルダーの取りなしで、しばらくベックの自宅に居候することとなった少女は、ナチス親衛隊の将校であるというのに彼の行動に特に関心を持つわけでもなく、子供らしい当たり障りのない会話を彼に投げかけるだけだった。

「わたしは今は上級大将ではない。肩書きなどつけずにベックでかまわん」

「はーい」

 恐れも、気負いも知らない少女はそうしてルートヴィヒ・ベックに返事をしてから、花のように笑ったことを思い出した。

「”おっかなそう”なあなたを見ても怖がらないなんて変わった子ですね」

「……別にいつも怒っているわけではない」

 むっつりと妻に言葉を返したベックは溜め息をつくとソファで寝返りを打つ少女を見つめてから再び眉尻を下げるのだった。少女にとってベックの経歴も、軍隊での栄光も大した意味を持っていない。

 ただ、彼女の瞳は過去ではなく、現在と未来だけを見つめている。


 ――……ベックさん!

 長いドレスの裾を揺らして少女が日差しの下から、木陰で読書をしていたベックを呼んだ。

 良く言えば剛胆で天真爛漫な。悪く言えば、臆面がなく無神経な。

 けれどもそんな彼女の瞳こそ、ドイツの未来そのものなのだと彼は確信した。

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