15 遙かなる雷鳴
「マリーに休暇を与えたいがどう思うか?」
国家保安本部、プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセの長官執務室に呼び出されたのは、一局局長ブルーノ・シュトレッケンバッハと六局局長ヴァルター・シェレンベルク。そして、医師のカール・ゲープハルト、特別保安諜報部の補佐官を務めるヴェルナー・ベストとハインツ・ヨストだ。
「仕事上は特別問題ありませんが、どれくらいの期間になる予定なのです?」
口を開いたのはハインツ・ヨストだ。
「そうだな、今のところは傷病休暇ということもあるだろうから十日前後と考えている」
カルテンブルンナーの言葉に、ゲープハルトは鋭い眼差しを一同に向けながら持ってきていたファイルを軽く右手の平でたたいた。
「貴官らが、考えているほどあの年齢の子供が体力が有り余っているわけではないのですぞ」
十代半ば。
「わかっています」
医師の言葉に相づちを打ったのはシェレンベルクだ。
わかっていると言いながら彼は更に続けた。
「わかっていますが、彼女にとって最も安全な場所がここであるということもまた事実なのです」
「もちろん貴官らの言うこともわからんではない」
カール・ゲープハルトの冷静な声が執務室に響く。彼は医師としての立場を崩すことをせずに国家保安本部の高官たちに視線を巡らせた。
「記録を見る限り彼女は二度も暴漢に襲われている。だから、わたしは長官に出した報告書の中で然るべき施設と書いている。それをどのように処理するのかは貴官ら次第であろう。わたしは一介の医師にすぎんのだからな」
医師として一歩もひかない構えのゲープハルトに、シュトレッケンバッハが口を開いた。
「然るべき施設、となると要するに安全な精神病院にでも入院させろという意味ですかな?」
確かに精神病院などは他者が入り込む余地はない。
「別に精神病院でなくても、軍の病院とかそう言ったものがあるだろう! 穿った見方をするのはやめていただきたいものだ」
憮然としてファイルを叩いたゲープハルトは軽くシュトレッケンバッハを睨み付けてから、腕を組み直してカルテンブルンナーを見やった。どちらにしたところで、国家保安本部長官の一声次第なのである。
「しかし、入院となると難題だな……」
彼らの議論をよそに顎に指を当てたままで考え込んでいるカルテンブルンナーはぽつりとつぶやいた。
数秒してからぱちりと指先を鳴らして副官を呼んだ彼は部屋の隅に立つ親衛隊少尉に何事かを申しつけた。
「承知しました」
型どおりの返事を返して部屋の外に出て行った青年を見送ってからカルテンブルンナーは鼻から息を抜く。
「ゲープハルト少将の意見は至極もっともだが、入院となるとな……」
個人的な意見になるが、とカルテンブルンナーは続けた。
「わたし個人としては入院はあまり賛成したくない」
「なぜです」
ゲープハルトは食い下がる。
彼の立場はあくまでも医師としてのものだ。
「マリーのカルテを見る限り、これ以上は彼女の健康維持に大きく関わる問題です。あなた方は彼女を殺したいのか!」
医師としてゲープハルトは、SDの高官たちを相手に辞さない構えを見せており、そんなシュトレッケンバッハやカルテンブルンナーたちとのやりとりを眺めながらシェレンベルクはやっと挙手をして発言を求めた。
「カルテの内容はざっとしか目を通しておりませんが、ゲープハルト少将。それほど深刻な事態に発展しそうなのですか?」
マリーの行動を見ている限り、とても命に関わる問題であるとは思えない。もっとも、それはあくまでも頑健な体力を持つ親衛隊将校らの自分たちを基準に考えているせいもあるかもしれない。
彼らにしてみれば、十代の少女の体力などある意味では計り知れないものだ。
「今日明日の命に関わるという問題ではないだろうが、半年、一年後、このままでは彼女が生きていられるかなど怪しいものだ」
むっとした様子のカール・ゲープハルトが告げれば、シュトレッケンバッハは無知を咎められたと受け取ったようでひどく不愉快そうに眉尻をつり上げるとなにか言いたそうに、ヒムラーの幼なじみを見やって口を開きかける。
「あの年代の女の子の体の中でなにが起こっているのか、貴官らはわかっているのか?」
ゲープハルトはそう言った。
「子宮と卵巣、卵管といった女性特有の生殖器官が将来、赤子をその中で育むために微細なコントロールをしている。あの年代の女の子はとてもデリケートで、少しの体力の減少が将来のそうした機能に大きく関わってくるのだ。彼女がこのまま痩せ続ければ、女性としての役目だけではなく、正常な生活にも支障が出てくるだろう」
母親となるために、少女らの体の中では多くの変化が起こっている。
そうしたゲープハルトの指摘にシュトレッケンバッハは返す言葉もなく開きかけた口をそのまま閉ざしてしまった。
「わたしは彼女を入院させたいのではない。ただ、マリーの体調のことを考えるとこのままの状態で激務に晒し続けることには余り賛成できないと言っているのだ」
やせ細った少女のことをゲープハルトは医師という立場のうえで心配している。
「確かに、最近は随分痩せてきている」
そう言ったのはヴェルナー・ベストだった。同僚のヨストに視線を投げかけたベストに対して、視線を投げかけられた男は首を傾げながら視線を高い天井へと向けた。
「”ごつごつしている”のは今にはじまったことではないが、確かに休憩中寝ていることが多いな。たたき起こして食事を促すのが大変だ」
仕事中に寝ているわけではないから、その辺りは咎めるべくもないが休憩となるとソファで眠っているのが目につくようになった。
体力的にあやしいものがあるのかもしれない。
ヨストの言葉に一同が考え込んだ頃、ノックの音が響いてゲシュタポのミュラーが入ってきた。
「これはとんだ巨頭会談のようですな」
自分自身も親衛隊中将という身でありながら、カルテンブルンナーのところに集められた一同を見渡してそう揶揄したミュラーにシェレンベルクが唇の端で薄く笑う。
「マリーに休暇を与えたいのですが、問題がいくつかありましてどうしたものかと」
「なるほど」
それで彼女の補佐官と上官、医師と人事担当と組織長官という構図になっているわけだ。ミュラーはシェレンベルクの言葉を一瞬で理解するとあいているソファに腰をおろしてから、数秒考え込んだ。
「マリーのところにハルダー上級大将が”遊びにきて”いまして、なにを話しているのかは知りませんが、お耳にいれておくべきですかとは思いまして……」
「どうせ参謀本部としてはマリーに懐柔して国家保安本部の情報を集めたいといったところでしょうが、ハルダー上級大将閣下直々というのは随分大物扱いですね」
たかが十代の少佐相手に。
シェレンベルクが笑い声をあげると、ミュラーはわざとらしく気難しげな顔をしてから腕を組む。
「懐柔、か……」
ヨストは言いながら小首を傾げた。
正直に言えばマリー相手に政治的な話しをしたところで意味がないのを、補佐官であるヨストとベストは充分に承知している。
形式的にはマリーの上官という形で落ち着いているヴァルター・シェレンベルクが、どこまでマリーのことを把握しているのかは謎めいているが、彼女に最も近しいのはカルテンブルンナーやシュトレッケンバッハらではない。
補佐官のベストとヨストだ。
彼女の身の回りに対する認識の甘さは、多くの者を誤解させる要因となっているがそれは買いかぶりだ、とヨストは思う。
マリーは確かに自分の身の回りに対する警戒心はひどく薄く、認識不足すら考慮されるが決してそうではない。
余分なことに対して余り言葉にすることはせず、思慮深い。傍から見るほど彼女は姦しい少女特有の性格を持っているわけではなかった。
知りすぎていることをあからさまに口にすることもせず、ここぞと言うときにカードを切るその姿はまるで一流の諜報員だ。それらの才能を考えれば、マリーの体力が極度に不足していることは少しばかりの欠点に他ならない。
人間とは誰しも欠点を持っているものなのだから。
「懐柔されているのは、はたしてどちらかは”彼女”以外誰も知らないのかもしれんな……」
誰に言うでもなくぽつりと言ったヨストは穏やかな瞳をベストに向ける。
「問題は、彼女が休みたいと思っているかどうかではないか?」
「そうではない」
ヨストの言葉にゲープハルトが即座に反論した。
「彼女が休みたいと思っているか、思っていないかなど関係はない。問題は、彼女の体力が今後の行動に耐えきれるかどうか、だ。そもそも、諜報員として活動していたシェレンベルク上級大佐ならばわかることだろう」
情報将校がかけずり回るのは「安全な」都市だけではない。
時には戦地も回って情報を集めることがある。そうした時、食事など一日に一度取ることができればよいほうだ。
そんな状態に陥ったときにマリーが一日と持たないだろうことをゲープハルトは心配しているのだ。
彼女の意志などこの際問題ではない。
憮然とするゲープハルトはあくまで医師として発言しているが、その思惑が理解できない者にとってはいまひとつ彼の言っていることは理解できない。
「休ませたいが入院は好ましくない、となると別の方法を探さなければならないのですかな」
ようやくベストが口を開くと、一同はそれぞれに考え込んでしまっていた。
「そういえば、先日の会議で話しに出しましたが、マリーがベック退役上級大将と親しくしているという件ですが」
ややしてからミュラーが呟くように言うと、カルテンブルンナーが腕を組んだまま顔を上げてゲシュタポ・ミュラーを見やる。
「丁度、ハルダー上級大将が来ていますし、彼に取りなしをしてもらった上でベック上級大将に預けてはいかがか?」
「あの反ナチスの急先鋒の親玉に?」
国家保安本部では一部の反ナチス派の国防軍将校の動きを掴んでいる。
おそらく末端に至るまでの動きは掴めていないだろうが、それでもある程度のことは彼らも把握していた。
もっとも彼らが反ナチス派――つまるところ反ヒトラー派の――の急先鋒であるからといって、それだけを理由に彼らを追及することは国家保安本部にもリスクが大きすぎる。一般市民に対して夜と霧の法令を適用することとは訳が違う。
カルテンブルンナーの言葉にミュラーは低く笑った。
「彼らの動きは多少はゲシュタポでもつかんでいます。ですが、性欲のコントロールもできんような若い連中に護衛を任せるよりは、参謀本部の爺さん方にお任せした方がこちらの肝も冷えないで済むというものです」
なにより年寄りとは言っても純粋な軍人出身だ。
彼らは危機管理の仕方をよく知っている。
「ついでにマリーはかの将軍とは親しいそうですから好都合ですし、すでに退役されている御身とあれば暇ももてあましているでしょう」
反ナチス派のサロンと化しているのではないか? カルテンブルンナーはミュラーの言葉を聞きながらそんなことを思ったが、口に出さずに執務室を見渡した。
ちなみにマリーの直属の上官であるヴァルター・シェレンベルクはと言えば、相変わらずなにを考えているのかわからないほほえみを浮かべたままだった。
ルートヴィヒ・ベック上級大将は御年六二歳。
確かに、マリーを預けるには丁度良い、かもしれない……。
だが、ベックの意向もあるだろうが。
なにやら奇妙な方向に転がりだした話しの内容に、特別保安諜報部首席補佐官のベストは、マリーが現在抱えている仕事の内容を思い出す。
ほとんどの仕事は補佐官のベストとヨストが行えば良いから問題はないが、マリーが彼らに語らないところでどんな仕事を進めているのかは、正直なところベスト自身にもわからない。
こうしてカルテンブルンナーの執務室での話し合いは解散となり、その後に陸軍参謀本部総長のフランツ・ハルダー上級大将と国家保安本部長官エルンスト・カルテンブルンナー大将の間でなんらかの話し合いが持たれたらしいが、その内容は内密にされた。
どちらの将軍も互いに対して良い印象を抱いていない様子であるが、仕事に絡む話しとなれば別問題だ。
公的な話しに私情を差し挟む余地などない。
これらの事情から国外諜報局特別保安諜報部の部長、マリア・ハイドリヒ親衛隊少佐は二週間ほどの休暇を与えられることになったのだが、そもそも彼女はひとり暮らしであるため食生活と身辺警護の理由から前参謀本部総長を務めたルートヴィヒ・ベック退役上級大将の元に預けられることになった。
ついでに言うとベック夫人には孫娘が一緒に暮らすようで嬉しいとらしいと好評だったらしい……。
「子供じゃないわ」
唇を尖らせたマリーに、ミュラーは少女の頭に手のひらを置くと腰をわずかに屈めて上背のあまり高くない少女の目を覗き込んでにこりと笑った。
「自分が子供である者ほど、子供じゃないと言うもんだ。ベック上級大将のところでゆっくり休んできなさい」
「はい……」
言い含めるような彼の言葉に少女は護衛の親衛隊員に連れられて送迎のための車の車内へと乗り込んでいった。
ちなみに警戒心がゼロのマリーと護衛官だけでは心配だということもあって、特別保安諜報部の実働部隊を指揮するヨーゼフ・マイジンガーも道中を同行することとなった。
ちなみに、この日の前日、カール・ゲープハルトの診断の結果、マリーの左腕のギプスは外されている。




