13 差し伸べられた腕
「シェレンベルクではないから、それほど射撃は得意ではないのだが……」
”問題”はなかろう、というのが特別保安諜報部長の首席補佐官を務めるヴェルナー・ベストの見解である。
ヴェルナー・ベストが親衛隊中将、ハインツ・ヨストとカール・ゲープハルトが親衛隊少将。ヘルベルト・メールホルンが親衛隊上級大佐で、ヨーゼフ・マイジンガーが親衛隊大佐である。
常に部長であるマリーの横にベストがいるのは、少女の横に高級指導者である彼が居ることよって不信の眼を向ける者から瞳をそらす目的もある。もっとも、これについてはベストの思惑通りになっているとは言い難いが、どちらにしろ親衛隊中将という彼の立場は、それなりににらみを利かせるには充分だった。
情報将校でありながら、腕力にものを言わせた暴力的な諜報活動をも得意としている若いヴァルター・シェレンベルクとは異なり、ベストの射撃の腕は中くらい、といったところでそれほど得意であるわけでもない。
最低限の護身用程度にしかならない射撃の腕をベストは過大評価などしていなかった。万が一、想定するよりも悪い事態が起これば、ベストはマリーの身の上どころか自分の身を守ることすらままならないのだ。
強制収容所に収監される囚人たちは厳しく管理されており、彼らが看守に立ち向かうことなどほぼ不可能だと考えられた。
しかし、それでもマリーは決して大柄なわけでもなければ、骨格がしっかりしているわけでもない。体幹のバランス感覚が悪く、足元もおぼつかないような少女では体力が充実している成人男性に素手で襲いかかられただけで昏倒するだろう。
「本当に大丈夫なのですかな?」
鼻白んだ様子で首を傾げたリヒャルト・グリュックスに、マリーはスキップでもするように振り返るとにこりと笑顔をたたえた。背中の半ば程まで伸びた長い金髪が身軽な動作にあわせて揺れる。
「マリー、足元に気をつけなさい」
「はーい」
わかっているのかいないのか、ベストの諫言に素直な返事を返した少女は、自分に対して興味深そうな瞳を向けてくるザクセンハウゼン強制収容所長のハンス・ローリッツ親衛隊上級大佐に視線をやった。
少女の青い瞳と、ローリッツの瞳が交錯する。
彼女は、とローリッツは思い出した。
初めてザクセンハウゼン強制収容所に訪れたとき、処刑の現場にショックを受けて意識を失ったのだ。
まだ、六月のことだったか。
そのときと比べるとマリーも随分明るい笑顔を取り戻したような気がする。あのときの少女の印象といえば、どこか焦点の合わない瞳でゆらゆらと歩いていたような気がする。あのとき、処刑の現場を眼にして倒れたというのに、再びこのザクセンハウゼン強制収容所を訪れるなど正気の沙汰とは思えない。
ローリッツにしてみれば、強制収容所という場所に耐性のない人間が訪れるのは邪魔なだけだとも思っている。
「強制収容所は、子供の遊び場ではないのです。ベスト中将閣下」
ローリッツがベストに耳打ちすると、廊下の一番先頭を軽やかに歩いていたマリーは爪先で重心を取ってくるりと振り返ると腰に両手を当てて、ぷっくりと頬を膨らませた。
「そんなことわかっているわ。別に遊びに来たわけじゃないもの」
遊びにきたわけじゃない、と言い切った少女が唇を尖らせている姿はどこか愛らしくて、ハンス・ローリッツはぷっと吹き出した。
「ない胸をはっても、胸が目立つわけでもあるまい」
グリュックスの品のない言葉にマリーは唇を尖らせたまま軽く地団駄を踏んでから、駆け足気味にヴェルナー・ベストに近寄ると、その右腕にとりついた。
「仮に女性相手なのだから、もう少し品のある物言いをされてはいかがかな?」
グリュックスに告げるベストは、少女の背中に軽く腕を回してから静かに告げればマリーは首席補佐官の腕に頬を寄せたまま相変わらずどこかふくれっ面のままだ。少女がむくれている表情も可愛らしくて、さすがの無頼漢であるグリュックスも頬を綻ばせざるをえなくなる。
「これは失礼した、お嬢さん?」
いかにも学者然としたベストとグリュックスでは出自が全く異なる。武装親衛隊の高級指導者、テオドール・アイケの下で強制収容所の管理を徹底的にたたき込まれたグリュックスと、国家保安本部の知識人筆頭として名声を馳せたベストでは、互いの立場が違いすぎた。
けれどもそんなグリュックスが思わず手を伸ばして少女の頭を手のひらでなでると、一方の少女は撫でられたことが心地よかったのかわずかに目を細めて男の手にされるがままになっている。
これだ、とベストは感じた不安のまま視線をマリーに走らせる。
彼女にはどこまで危機意識がないのだろう。もしかしたら、本当に暴漢に襲われなければ、危機感を抱かないのではないかとすら思わせられる。
プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセの前で銃撃を受けたときや、また暴漢に襲われたときのように。
「マリー、もう少し警戒心を持ちなさい」
「だってグリュックス少将はわたしに乱暴を振るうわけではないでしょう? どうして警戒しなければいけないんです?」
ベストが言っている事が全く理解できないとでも言いたげなマリーの様子に、肩を落とした元裁判官はぽんぽんと軽く少女の肩を叩いてから溜め息をついた。
そうこうしてマリーとベスト、グリュックスとローリッツ。さらに護衛の下士官を含めた一行は訊問室の前までたどり着いて、ローリッツは軽く扉をノックしてから頷いた。
「こちらです、ベスト中将閣下」
扉を開くとそこには後ろ手に手首を拘束された三十代半ばの青年が椅子に座らされている。マリーは椅子に座らされている男をじっと見つめてから、にっこりと笑うとベストに手を引かれて室内へと入っていく。
続いてハンス・ローリッツとリヒャルト・グリュックスが入ろうとするが、それはベストに制止された。
「マリーと彼が話しをしているところに、同席は遠慮してもらいたい」
おそらくグリュックスにしろ、ローリッツにしろ、マリーとヤーコフ・ジュガシヴィリがどんな会話を交わすのかを興味を持っているだろう。だが、同席させるわけにも行かないし、マリーはベストさえも同席させない。
赤いオーケストラの摘発をした際、諜報部員の”ルーシィー”の訊問をしたときもそうだった。彼女はハインリヒ・ミュラーの気を揉ませながら、それでも尚一対一で腕利きのスパイと渡り合ったのだ。
「万が一、奴がフロイラインに手を挙げるときはどうするつもりです」
ローリッツが咎めるような声を上げれば、ベストは扉の向こうに消えていく少女の後ろ姿を肩越しに見やってからひとつ息をついた。
「問題はないだろう。彼女は、今までもっと危険な相手とひとりで話しをしているのだからな」
扉が閉ざされてしまえば、激昂することもない少女の声は外に漏れてくることもなく、ただ静かな時間が廊下に流れている。それでも中の様子が気にかかりはするのか、ベストは扉の覗き窓から室内を確認した。
机を挟んだマリーとジュガシヴィリはいったいなにを話しているのだろう。
奇怪だとベストが思ったことはもうひとつあった。
彼女は通訳をつけずにジュガシヴィリと言葉を交わしている。その発音から察するにロシア語であろう。しかしマリーはいったいどこでロシア語など学んだのだろうか。そもそもプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセでは、ロシア語を話せるとは一言も言っていなかった。
そしていつものことだがマリーの声色は激することはなく、時折、動揺するのかヤーコフ・ジュガシヴィリの声が不自然に揺れている。
一体何の話しをしているのか、ベストにはわからない。
そういえば、と彼は不意に思い出した。かつてベストが共に仕事をしたラインハルト・ハイドリヒは、やはりロシア語が得意だった。確か、他にも英語とフランス語にも堪能だった記憶があった。
長い時間ふたりがなにを話しているのか、廊下で待機していた高級指導者たちが気にかかりだした頃、室内から椅子を引きずる音が響いて顔を上げる。
「終わりました、お待たせしてしまってごめんなさい」
ひょっこりと扉が開いて顔を覗かせた少女は、ベストらに形ばかりの謝罪をすると室内で呆然としているヤーコフ・ジュガシヴィリを尻目に廊下へ出ると、当たり前のように差しだされたベストの腕に自分の腕を絡めて寄りかかる。
それは少女が彼を信頼している証しとも言える。
リヒャルト・グリュックスはそんな仲の良い親子のようなふたりを眺めながら考えた。
おそらくこれが、国家保安本部のふたりの情報将校の距離感なのだろう。けれども、どうしてこんなにもかよわい少女が、強健であることこそ誇りとされるナチス親衛隊に所属しているのだろう。
本来、こんなに病弱――決して病弱というわけではないのだがリヒャルト・グリュックスはそう思っている――では良き母を育成する目的のために結成されたドイツ女子同盟にも入ることはできないだろう。
とてもハイキングや行進などの活動についていけるとは思えない。
「ロシア語など話せたのか」
そんな懐疑的な視線を向けるグリュックスをよそに、感心した様子のベストが穏やかな声で問いかけると、マリーは大きな青い瞳をまたたいてから自分でも驚いた様子で一瞬言葉を失った。
「……”そうみたい”です」
にっこりと笑う。
「あまり難しいこと考えてませんでした」
クスクスと口元に手を当てて笑っている彼女は、ベストの左腕に捕まったままでゆっくりと歩いて行く。
「彼とはどんな話しを?」
「秘密です」
「そうか……」
今までそれほど長くはないつきあいの中で、マリーが話さないと決めた以上絶対に話さないことは知っているからヴェルナー・ベストもそれ以上は追及しない。
「それよりも」
言いかけてから少女は首を回すと、どこか警戒するような眼差しのまま国家保安本部の情報将校らを見つめているハンス・ローリッツとグリュックスを見やってから、唇の端でほほえんだ。
彼女の笑顔は正体がわからない。
どうしていかめしい男たちの中で、そんな笑顔をたたえていられるのか。
「ローリッツ上級大佐? ご自分の身がかわいければもう少し頭を使った方がよろしいんじゃありません?」
意味深な彼女の言葉にローリッツは言葉を失った。
「……それは、どういう」
どういう意味なのか。
もちろん、強制収容所の髑髏部隊の面々は国家保安本部が多数の情報を管理することを知ってはいてもどれだけ大規模な情報集積所であるのかを知らない。だからこそ、彼らは強制収容所内部のことを他者が知るわけがないだろうと思い上がるのだ。
言葉に詰まったローリッツに、少女はうつむきがちに静かに笑ってから鼻先をベストの制服に押しつけた。
彼女の言葉には、決して後ろ暗いものがあるわけでもなければ、また嫌みなところがあるわけでもない。ただ明るく響いて、ごく普通の会話を交わしているように感じられるのだった。
その内容さえ考えなければ……。
「失礼します、ベスト中将閣下。国家保安本部のカルテンブルンナー大将閣下からお電話です」
踵をかちりと鳴らして廊下の向こうから急ぎ足でやってきた髑髏部隊の少尉に告げられて、ヴェルナー・ベストは顔を上げた。
「……そうか!」
わずかに考え込んだのは自分の腕に取りすがっている少女をどうしたものか、というものだった。ベストの早足などについてこれるわけもないし、彼女を託すとしてリヒャルト・グリュックスやハンス・ローリッツのような無頼漢では心許ない。
「レンナルツ」
「……は」
背後に控えていた特別保安諜報部の情報将校を呼びつけた。
ユストゥス・レンナルツ親衛隊少尉はそもそもヴァルター・シェレンベルクの直接の部下だから、情報将校としての資質の面でも問題はない。今回のザクセンハウゼン強制収容所訪問にあたって、ベストとマリーの護衛官として選抜された。
「マリーの面倒を頼む。まだ本調子ではないから気を遣え」
命じてベストは髑髏部隊の下級指導者について廊下を歩き去っていった。
「……ベスト博士は心配性ね」
廊下の先に消えたベストを見やってからぽつりとつぶやいたマリーは、自分の横に立っているレンナルツに「そう思わない?」と同意を求めるように小首を傾げた。
あんなに心配しなくても子供じゃないんだから。
そうぼやいたマリーを見下ろして、レンナルツは内心で「子供じゃない」と言っている者は大概子供じみているものだな、などと思うのだった。
なによりも彼女の年齢だ。
十六歳などまだまだ子供に過ぎない。
「あなたが年中転んでいるのがベスト中将閣下が心配される原因だと思われますが……」
「だって……」
おそらく歩くときに足が上がりきっていないのだろうと思われた。
それに加えて足元を見ていなければ、つまづいて転ぶという事態になってもおかしくない。なにもないところでつまづいて転ぶということであれば、ヴェルナー・ベストらが心配するように、彼女の体力的な面は余り好調ではないのだろう。
「とにかく、中将閣下はあなたのことが心配で仕方がないのですから、余り心配の種を増やさないように……」
「はーい」
自分よりも階級が低い者にお説教じみたことを言われても、意に介することもなく返事をした少女はそんな自分たちを見つめているグリュックスとローリッツを見返してから、彼らの心中を察することもなくにっこりと笑った。




