3 蜘蛛の糸
じっと見つめる青い瞳に捕らわれた。
最初はただの好奇心だった。
国家保安本部長官、一歳年少のラインハルト・ハイドリヒがベーメン・メーレン保護領でチェコスロバキア亡命政府の暗殺部隊によって殺害されてから、ひとりの少女が国家保安本部国外諜報局局長ヴァルター・シェレンベルクと、国防軍情報部の長官ヴィルヘルム・カナリスによって保護された。
そもそもそれは本当に「保護」だったのだろうか?
ややしてから少女は入院していたベルリンの総合病院から、郊外の小さな家に移された。
一階建ての木造のこじんまりとした家は、カナリスとシェレンベルクの出資によって無一文の少女に提供されたものだった。寝室と居間、そして小さなキッチンと浴室、庭はごく小さく、車一台も停められないような花壇に花を植えられており、このために彼女のささやかな小さな家は花の家と呼ばれるようになった。
エルンスト・カルテンブルンナーは首を傾げてから腹の前で長い指を組むと窓の外を眺めやる。
尊大で狡猾なハイドリヒが死んだ。
しかし、本当にそれで良かったのだろうか。
そんなことを考えながら彼はじっと考え込んで眉をかすかにつり上げた。
東部では”青作戦”が開始された。
現在のところドイツ本国の情報機関では、どうやら彼の上司でもあるハインリヒ・ヒムラーが自分の権力を完璧なものにするためにかけずり回っているらしい、という話しは風の噂で耳にした。
特に自分を過大評価しているわけではないから、面白くないものもあったが、無能なハインリヒ・ヒムラーが全権を握るよりもラインハルト・ハイドリヒのほうが幾分ましなのではないかとも思う。
これは、カルテンブルンナーがハイドリヒに対して好ましい印象を持っていたわけでもないが、それでもひとりの人間にひとつの権力が集中すると言うことがどういうことになるのかをよくわかっていたからだ。
親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーが、文字通り警察権力の全権を握ったとして、仮に彼が暴走した場合、ヒムラーを制止することができる者がはたしているだろうか。
ちらりとカルテンブルンナーの脳裏に、現在のベーメン・メーレン保護領の副総督に任命されたクルト・ダリューゲがかすめた。
クルト・ダリューゲは粗暴な男で、元々は突撃隊の幹部だった。
元突撃隊の幹部らしく、すぐに前が見えなくなる傾向が強く、カルテンブルンナーの観察ではおそらくハイドリヒに対して面白くないものを感じていたことは明らかで、隙を見てハイドリヒの権力の座を狙っていたのではないかとも思われた。
もっとも、ハイドリヒに対して好意的な印象を抱く人間などいるわけもない。
おそらく妻のリナ・ハイドリヒくらいしか彼に対して好意的な言葉を述べないだろう。多くの反ハイドリヒ派の人間たちと同様にカルテンブルンナーもまたハイドリヒの冷徹な瞳を恐れるひとりだったのだから。
オーストリアの親衛隊及び警察高級指導者という立場にいる彼が花の家を訪れた最初の日、彼女は恐れることもせずにじっと大きな青い瞳でカルテンブルンナーを見つめ返した。
平凡なドイツ人少女、と言うには少々体格の貧弱な痩せ型の少女は、玄関口に立っていた大男を見つめて口を開く前に彼の目の前でくずおれるようにして倒れ込んだ。
足が悪い少女だというのは事前に入手した調査で知っていた。
長い腕で支えてやると恥ずかしそうにうつむいてから彼を室内へと迎え入れた。
「そう言えば目の前で”こけた”んだったか」
くすりと思い出してから小さく笑ったカルテンブルンナーは、額に落ちかかる頭髪を指先でつまんだ。
どちらにしたところで、ドイツ本国で騒々しさを増している親衛隊情報部及び警察の主導権争いは熾烈なものとなっているだろう。
ハインリヒ・ヒムラーにしてみれば、冷徹なナンバー・ツーが死んだのだ。これを機に一気に権力を手中にしてしまおうというヒムラーの考えなど周囲からは余りにもあからさますぎた。
顎に手を当てて考え込んだカルテンブルンナーは窓の外にそっと視線を流しやると、腕を組み直す。
逼迫している東部戦線を考えれば、国内で権力争いに興じている暇などないのではないか。そうも思うが、ヒムラーにとってみれば大問題なのだろう。しかしどちらにしたところで前線で実際に戦闘をしている兵士にしてみれば良い迷惑以外のなにものでもない。
「はじめまして、お嬢さん」
低い声をかけながら、手土産として持ってきていた小さな花の鉢植えを手渡すと彼女はぽかんと口を開いてからひどく嬉しそうににっこりと笑ったものだ。
「ありがとうございます、えぇ……と」
彼の名前を知らない少女が礼を述べながら鉢植えを受け取ると窓辺に置くのを見守った。彼女の振る舞いのどこにも怪しげなところはなかったし、室内も通信機器などが置かれているような様子は微塵もなかった。
細すぎる両脚は筋肉が落ちきっていて、マリア・ハイドリヒと名乗る少女が本当に足が悪いことをすぐに理解させられた。
「わたしは、エルンスト・カルテンブルンナー。法学博士です」
ナチス親衛隊に所属する親衛隊将校であるということは黙っていた。もっとも彼のスーツにはナチス党の党員バッジがつけられていたから、言わなくてもすぐにわかることだったのだが、マリア――マリーはそれを追求することもしなかった。
「ハイドリヒ嬢?」
「はい?」
返事をした彼女は出窓に鉢植えを置きながら、小さく咲いている黄色の花を興味深そうにじっと見つめている。
「あなたはラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将のご親戚かなにかか?」
「……それは、その」
どういう意味なのかと言いたげに首をかしげた彼女は、青い瞳をうろうろと彷徨わせてから眉をひそめた。
「はい……」
しばらく考え込んだ後に、マリーはつぶやくようにそう言った。
「ごめんなさい、わたしあまり記憶がなくて……」
とつとつと話す彼女はどこか不安げで、杖をつきながら窓辺から戻ってくるとカルテンブルンナーにソファをすすめた。
彼が座るのを確認した彼女はふらつくように肘掛けに片手をつきながらゆっくりとソファに腰をおろす。
「ひとりで暮らしているのか?」
「はい」
応じて彼女は首をかしげてじっとカルテンブルンナーを見つめている。
「そうか、……ひとり暮らしなんてしていて怖くないか? ドイツ国内とは言えどこに抵抗勢力が潜んでいるのかわからないんだぞ? 親衛隊情報部と関係が強いと知られれば事件に巻き込まれることだって考えられるだろう」
「わたしのことは、シェレンベルクやカナリスがたまに見に来てくださるということですし、情報部の方たちが立ち寄って気にかけてくださるということなので……」
ニコニコと笑ったマリーにカルテンブルンナーは肩をすくめた。
情報将校たちが気にかけて立ち寄るというのは、おそらく言葉通りの意味ではないはずだ。スパイの疑いの元に多くの情報官や警察関係者たちが彼女を監視しているのだ。
「そうか」
「……博士はどうしてこちらに?」
膝下丈のフレアースカートは沢山の布が使われていて、大きく裾が広がっている。貧弱な体格を見る限りスカートの下には沢山の布を重ね合わせたスカート下をはいているのだろう。
「いや、カナリス提督とシェレンベルク大佐の保護する少女がいるとウィーンで聞いてね。どんな娘なのかと興味をもっただけだ。失礼な物言いで申し訳ないが」
「よく言われます」
口元に片手をあげてクスクスと笑った彼女は、大柄なカルテンブルンナーを大きな瞳で見つめている。美少女と言って申し分ないが、同年代のドイツ人少女と比べるとどうにも体格が心許ない。
カルテンブルンナー自身のような大男に襲いかかられれば、腕一本で簡単に命を落とすだろう。
マリーは初対面のナチス党員の彼に対して警戒するわけでもなければまた、必要以上に臆病になることもない。後ろ盾としてシェレンベルクとカナリスがいるという安心感からなのか、とも疑いを抱いたがマリーと会話を交わすうちに、どうやらのびのびとした性格は彼女本来のものだという結論に達した。
「博士はいつもはウィーンにいらっしゃるのですか?」
「そう……、そうだね。ウィーンで仕事をしている」
「そうなんですか、楽都ウィーン……。素敵な所なんでしょうね」
にこりと笑う。
オーストリアの都市ウィーンはクラシック音楽が盛んで、多くのコンサートホールやオペラ劇場が存在する。そのため「楽都」もしくは「音楽の都」とも呼ばれている。
中でも最も有名なのはウィーン国立歌劇場だ。その専属管弦楽団は世界的にも有名で、歴史も恐ろしく古い。
記憶が曖昧だ、と言う割りに多くのことを知る彼女に対して探るような疑問も感じたが、それだけだ。
エルンスト・カルテンブルンナーは愚かな追及者ではない。
記憶が曖昧であることと、物事を覚えていることはまた別個のことだ。
そうでなければ記憶喪失者が言葉を話してはならないことになってしまうだろう。彼女はなんらかの理由で記憶の一部が欠落しているのだ。
カルテンブルンナーはとりあえずそう考えた。
もちろん疑惑が晴れたわけではない。
「フロイラインは足が悪いそうだね、どれ、わたしが茶でもいれてこようか」
「あ、え……!」
カバンの中に茶葉をいれてきたことを思い出したカルテンブルンナーが長い足を伸ばして立ち上がると、マリア・ハイドリヒと名乗る少女は驚いた顔で立ち上がろうとした。しかし、まともに歩くこともできない彼女が突然立ち上がる事などできるわけもない。
肘を突っ張って立ち上がろうとしたもののうまくいかず、そのまま疲れたようにソファに腰を落としてしまった。
台所に向かおうとしたカルテンブルンナーが苦笑すると、細い彼女の肩を抱くようにしてマリーと共にそれほど広くはない台所へと向かった。
焦った割りにはきちんと整理整頓された台所に、カルテンブルンナーが慌てる必要もないのではないかと訝しむと、マリーはガスに火をつける。
「お茶もお出ししなくて……」
金色のまっすぐの髪から覗いた耳が微かに紅潮していて、微笑を誘われた。
「フロイラインは足が悪いのだから、気など遣わなくて良かろうに」
そう言った男にマリーは支えられながら茶器の準備をする。
細い指先がふたり分の茶器を用意しているのを見つめているカルテンブルンナーに、マリーはそっと睫毛をあげると彼を見上げた。
「なにか?」
「いや、情報部や警察関係者が来たら、普通の女の子なら怖がるもんじゃないのかと思って見ていただけだ」
「……そうなんですか?」
青い瞳をまたたかせた彼女を思い出すと、カルテンブルンナーはもう一度苦笑した。そうしてごく短い期間に何度か彼女を訪れると、そのたびに嫌な顔ひとつせずに彼を出迎えて家に招いた。
いずれ、とカルテンブルンナーは思う。
彼女の暮らす花の家の噂は広まるだろう。
警察関係者たちと情報将校たちが出入りする一般民間人の家。マリーが暮らすその家を知られれば、彼女が危険に巻き込まれることは容易に想像できた。
抵抗組織、もしくは他国のスパイなどにとって非力な少女など体の良い人質でしかない。そのときになって一体誰が彼女を守るのだろう。
とりとめもなくそんなことを考えながら、カルテンブルンナーは報告書の一枚に眉をひそめた。
「最終解決、か……」
カルテンブルンナーがヒムラーの命令によってリンツの東に設置した強制収容所がある。いわゆる絶滅計画のための収容所ではないが、そこはかつてのラインハルト・ハイドリヒが再教育の見込みのない犯罪者や、反社会分子を収容する。
この収容所は花崗岩採石場での強制労働施設であり、また、施設の片隅には略式処刑を行うための施設も設置されている。
もっとも、カルテンブルンナー自身はヒムラーの推進する初期の「再定住」計画に積極的に関係しているわけではない。彼の権力はダリューゲやハイドリヒによって大きく制限されており、再定住計画のほとんどに関係していたのはハイドリヒの部下であるアドルフ・アイヒマンだった。
そして、そのアドルフ・アイヒマンが今はベルリンに勤務しているということで、多くの最終解決のための決定に絡んでいるらしい。
別段人道的になるわけではないが、正直なところカルテンブルンナーからしてみれば、アイヒマンの存在は鬱陶しいことこの上ない。職務上のことにたいして文句を言うわけではないが、大学に進学していないことを根に持っているような程度の低い輩は共に仕事をしていると大変疲れるのだ。
劣等感の塊……。
上官に認められたいという気持ちは多かれ少なかれ、男ならば持っているものだ。それはカルテンブルンナーも否定しない。
しかし、そのための手段を選ばないおべっかばかり使っているアイヒマンのような男には生理的に虫ずが走る。
大した器の大きさがないからそのように躍起になるのだ。
もしもそのアイヒマンが、情報将校の多くから慕われている少女に目をつけたらどうなるだろう。そんなことが頭をかすめて、カルテンブルンナーはベルリンから送られてきた最終解決に関する書類にわずかに目を細めるのだった。
*
完璧な、理想の自分を希む。
その性別は男であっても、女であってもかまいはしない。性別など大した問題ではないのだ。たとえば、彼が殺した人間に性別も、年齢も関係がなかったように。
ラインハルト・ハイドリヒ、と父母から名付けられた子供がたまたま男として生まれただけ。
たったそれだけのことだ。
奪われた生命と同様に、自分の生命もまた他の全ての生命と等しく平等だ。彼の部下たちである多くの処刑人たちはそれらを理解していない。
「下らんことだ……」
白い天井を見上げたまま、ハイドリヒは低く笑った。他者の命もそして自分の命も”その時”が訪れた時にただ等しく失われる。それだけのことだというのに、多くの権力者たちは他者の生命と自分の生命とが必ずしも平等だとは思っていなかった。
それはなんと愚かなことだろう。
そんなことを熱に霞む頭で考えながら、ラインハルト・ハイドリヒはそれほど遠くはない未来に、自分の命の灯火が消え去ることを感じていた。
「わたしの命とて、獣のそれと大して変わらないというのに」
かすかに唇をつり上げると、そうしてハイドリヒは目を閉じた。
「だから、おいで。わたしの魂を受け継ぐ者よ……」
ここへおいで。
無垢な心に、完璧な美と、完全な純潔を持つ死の天使。
ラインハルト・ハイドリヒはぼんやりと熱に浮かされたように中空へ片腕を差し伸べた。死の際に、彼の青い瞳の中に天使が舞い降りる。
その腕の中に。
幻覚なのか、現実なのか。それはもう今のハイドリヒには理解できなかった。
彼の腕の中に舞い降りたか弱い小さな天使こそ、彼が望んだ完璧な、そして純粋で無垢であるが故に残酷な殺戮者。
「ここへおいで、わたしの死の天使……」
かろうじて唇を動かしたハイドリヒは、その言葉が声になったのかどうかすらもわからないまま、そうして意識を手放した。
その腕に、自分と同じ金色の髪の、青い瞳の天使を抱き留めて死に至る。
目を開いたマリーは大きな青い瞳をまたたかせてから室内を見渡すと、ややしてから窓の外に視線を向ける。まだ日は高い。
いつの間にかうたた寝をしてしまっていたようだ。
浅い眠りの中で夢を見ていたような気がする。
男性にしてはやや高いトーンの声で、けれどもひどく優しく告げられた。いや、優しいと感じたのは気のせいだったのかもしれない。七月の初めにはマリーは長時間でなければ歩くことができる程度の脚力が回復していた。
ノックの音が聞こえて、マリーは首を傾げる。
ひとりがけのソファから立ち上がった彼女は一瞬だけよろめいてから玄関へ近づくとかんぬきをはずして扉を開く。
「シェレンベルク……」
「近くを通りがかったものだからね」
言いながら花束を手渡した彼は、制帽を外してから軽くマリーを抱擁すると頬に口づける。そうしてからマリーの横をすりぬけると室内へと入った。
コツリとブーツの踵の音が響いたが、少女はその音に警戒する様子もなくソファに座ったシェレンベルクに背中を向けると花束を抱えたまま「お茶をいれますね」と言った。ここのところ、マリーは随分と安定してきているような気がする。
彼女の言葉使いがそれをよく現していた。
ドイツ人男性としてはそれほど大柄なほうではないシェレンベルクだが、それでも華奢でやせ細ったマリーに万が一襲われたとしても、彼が彼女を返り討ちにすることなど容易なことだった。
だから、シェレンベルクがマリーを危険視する必要などどこにもない。シェレンベルクは小柄であっても諜報部員なのである。
マリーがシェレンベルクの目の前に現れてから一ヶ月ほどがたつ。
ヴィルヘルム・カナリスによって作られた「マリア・ハイドリヒ」という地位を与えられた少女に対して、多くの情報将校や警察関係者らは疑惑の目を向けている。それは一ヶ月たった今でも変わらない。しかし、マリーはそんな眼差しをものともせずに明るく伸び伸びと振る舞っていた。
どういうわけか、マリーはシェレンベルクらナチス親衛隊の隊員たちをかけらも恐れてはいない。まるで自分の優位性を最初から知っているかのようだと、シェレンベルクの目には映った。
盆に茶器を乗せて台所から戻ってきたマリーの足が時折不安定に揺れる。それを見て取ったシェレンベルクはソファから立ち上がると、彼女の手から盆を取りあげた。
脚力がいくらか回復したとは言え、いまだにいつ倒れるのかわからない危うさが彼女には残されており、それがマリーに関わる者たちの多くを心許なく感じさせたのかも知れない。
「誰かの手を借りたければ素直にそう言えばいい」
彼女は、自分のことをハイドリヒの魂を受け継ぐ者だと言った。
その真偽はともかくとして、シェレンベルクは彼女をハイドリヒとして扱うつもりなど毛頭なく、ただ一般庶民の少女のひとりとして彼は接していた。
「はい……」
取りあげたトレイを運びながらシェレンベルクはちらりと視線を自分よりも小さな頭を見下ろすと、マリーはその視線を感じたのか青い瞳を上げるとにこりと笑う。
彼女から感じたもの。
それはカリスマだ。
多くのナチス党幹部たち、親衛隊高級将校。彼らが決して持ちようのないものを持っている。
女性の身である彼女が戦場に出ることはないだろう。
しかし……――。
鋭い瞳を向けるシェレンベルクはそっと眉をひそめてから、居間のソファとローテーブルに視線を向ける。
彼女に関わったふたりのロシア人が死んだ。
もちろん、処刑に関わったのは特別行動隊のアインザッツコマンドだ。現実的な話しとして、マリー自身が彼らになにかを明かしたという証拠はひとつとして出てこなかったため、彼女の存在は保留とされた。
存在としては間諜としての疑いもなきにしもあらず、というところだったのだが彼女を監視するのは国防軍情報部や親衛隊情報部といった名だたる情報部が複数の目で同様に無罪を主張としたため、親衛隊首脳部も手出しができなかったという現実があった。
「どうかしたんですか?」
「いや」
シェレンベルクに向かい合うようにソファに腰を下ろした彼女は小首を傾げてから、カップに茶をそそぐ男の手元をじっと見つめていた。なんでもそつなくこなすシェレンベルクに感心したような眼差しを向けている彼女は、いったいなにを考えているのだろう。
「わたしの細君がね、君に会いたいと言っていたが、今度つれてきてもかまわないかな?」
茶をそそいだカップをマリーの目の前に差しだしながら、シェレンベルクが穏やかな笑顔で告げると、少女は驚いたように口元を両手でおおった。
「……奥様、ですか?」
困ったように視線を彷徨わせたマリーは神経質にカップの持ち手をつまんだまま言葉を失っている。
ラインハルト・ハイドリヒもそうだったが、マリーもまた人付き合いが得意なほうではない。情報将校たちや警察関係者らとは、彼らが訪ねてくるから話しをするというだけなのだ。
それほど社交的とは言えない彼女の性格は確かに、ラインハルト・ハイドリヒとよく似ている。
「なに、緊張することはない。妻も、君に対してひどく関心があっただけのようだからね」
「……そうですか?」
どうしてこんな小娘に関心を持つのだろう、とでも言いたげな彼女の瞳にシェレンベルクは声を上げて笑った。肩から背中へ流れる絹糸のような長い金色の髪に目を奪われながら、シェレンベルクは少女と他愛のない会話を交わす。
ハイドリヒと同じ髪と、瞳。
外見も体格も全く異なるが、そこにあるカリスマ性は健在だ。
そして彼女のそのカリスマこそが、ふたり、あるいは三人の男たち。いや、それ以上の人間の運命を狂わせることになったのかも知れない。
彼女は本当にソビエト連邦の元帥暗殺の引き金を引いたのだろうか……?
もしも彼女の存在がソビエト連邦の暗殺事件のきっかけとなったのならば、清純な天使を装った忌むべき存在なのかもしれない。
目の前でニコニコと笑っている彼女に、シェレンベルクは瞳の奥で小さな光をちらつかせるばかりだ。
彼女は何者なのか。
小一時間ほど話しをしてからシェレンベルクは彼女の家を出た。
花の家の前に留められたベンツの運転手でもある親衛隊員はただ忠実にシェレンベルクの命令に従って、彼がマリーの家から出てくるのを待っていた。
「出せ」
「はっ」
後部座席に座ったシェレンベルクが命じると、運転手兼護衛官である親衛隊将校のウルリヒ・マッテゾン親衛隊少尉。
シェレンベルクの忠実な部下のひとりだ。
「……どう思う?」
ぽつりと口を開いた上官ヴァルター・シェレンベルクに、マッテゾンはちらと肩越しに視線を滑らせた。
「どう、と言いますと?」
「小娘……、彼女のことだ」
シェレンベルクの気難しげな声に、マッテゾンは考え込む素振りを見せる。
「小官にはごく平凡な娘のように見えます。しかし、時折不思議な発言をする子供かと……」
「ふむ」
ウルリヒ・マッテゾンの言葉にシェレンベルクは小さく相づちをうつと視線を車窓の外に視線を流しやって考え込んだ。
彼女の存在はまるで、糸巻きの芯のようだ。
マリーを中心とした大きな流れができようとしている。
ヴァルター・シェレンベルクは全てを真に受けて信じ込んでいるわけではない。彼は諜報員として疑い深く、そして慎重だった。
――魔女。
そんな言葉がシェレンベルクの脳裏の片隅によぎった。
「まぁ、いい」
独白した彼は扉に肘をついてじっと考え込んで目を閉じた。
そこにある可能性はまだ不確かで、それが良い方向へ転がるのか、それとも悪い方向へと転がるのかわからない。ただくだらない内部の権力闘争がドイツを腐敗させ、戦況を著しく悪化させることだけは、頭の回転の速いシェレンベルクには理解できた。
その権力闘争を押さえ込めた唯一の存在が死んだことは、ナチス党の支配するドイツにとって大きな損失だった。
「プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセへ向かってくれ」
「了解しました」




