12 死の音叉
――その青い瞳は、ある一定の使命感を心の内に抱いた人間が見てはいけない眼差しだ。あの瞳は、人の根底にある”もの”を引きずり出す。
本来はうまく人の内側に閉じ込められるべく、その人間の本質を。
ジレンマに駆られながら。あるいは、疑いを抱きながらも国政に従っていた者たちの瞳を覚醒させる。
その存在は、か弱い故に彼女の瞳は、見た者の狂気を引きずり出すのだ。
ヨーゼフ・アーベントロートは彼女の瞳に、地獄を視た。
自分と同じ性質の、自分とはけれども全く真逆の。
とてもたおやかで、穏やかでそして暖かい性質の狂気。
「シュタインマイヤー君、君はアーベントロートのことを誤解している」
そう指摘したのは彼に異常殺人の捜査を指南したルーカス・フォルツ博士だ。
「おっしゃる意味がよくわかりません……」
困ったように首を傾げるシュタインマイヤーに、フォルツは微笑してからコーヒーカップを口元に運ぶと、窓の外を見つめたままでしばらくの沈黙を挟んだ。
「君は彼が異常者だと思っているのだろう?」
「はい、博士」
ソファに座って、立ったまま外を眺めているフォルツの横顔を見つめているシュタインマイヤーは、彼の言葉を急かすこともなく静かで穏やかな沈黙に身を任せる。
「そうだな、多くの警察関係者も、精神科医共すらも奴を異常者だと思っている。おそらくは司法関係の人間共もそう思うだろう。”こんな犯罪を正気の人間ができるわけはない、なにかしら、精神に異常をきたしているからできたのだ”と」
心臓をくりぬき、幼い膣を切り取り、冷蔵庫の中で保管していたヨーゼフ・アーベントロート。
その凄惨な犯行を、異常者の犯罪であると多くの警察関係者が断定した。
精神異常を煩っていなければできるわけがない、と。
「ヨーゼフ・アーベントロートは正気だよ。正気だからこそ、奴にああした犯行が可能だったのだ」
言い切ったフォルツはそれから再び言葉を選ぶように沈黙を挟むと、コーヒーカップを手にしたまま体を回すと、ゆっくりと絨毯の上に足を踏み出した。
「我々のようなごく”一般的な”意味で正常な人間と同じように、彼にも喜怒哀楽はある。そして、彼も我々と同じように怒りを感じるし、悲しみを感じる。けれども、そんな”正常な”男がどうしてあんな犯行ができたのだと思うかね?」
「……わかりません」
「彼には、どうしてもひとつだけわからないことがあったのだ」
ヨーゼフ・アーベントロートにたったひとつだけわからないことがあった。
「君が調べた通り、アーベントロートは医学部出身で、仕事でも全く問題なく医師業を続けてきた男だ。そんな男だから、当たり前だが知識も深く、一般的な男たちより頭も良い。もっとも、頭が良いということがはたしてまともな人間性につながるのかと言えば、それについてわたしは全くもって疑問を抱いているがね」
回りくどい言葉を吐きだしたルーカス・フォルツはそう言いながら喉の奥で笑うと、ちらとシュタインマイヤーの目の前のテーブルの前に置かれているファイルを眺めやった。
「ブーヘンヴァルト強制収容所で、アーベントロートが死んだというのはわたしも聞いている。その詳細は知らないが、彼の死の直前の精神分析をしてもらいたいとブーヘンヴァルト強制収容所のピスター親衛隊上級大佐から依頼を受けたのだが、死人の精神分析などできるわけもないし、対象者が死んだ以上その心の闇を垣間見ることなどできはしないからな」
暗に断ったのだと言いたげなフォルツに、シュタインマイヤーは小首を傾げた。
脱線しそうなフォルツに語り口に、ゲシュタポの捜査官は無意識に顎を撫でると訝しげな表情をたたえて視線だけを頭上に上げる。
「博士、アーベントロートの”たったひとつだけ理解できないこと”というのは?」
「あの男には、他人の感情の機微など理解できんのだよ。たとえば痛い。たとえば悲しいとか苦しい。こんなことをしては相手が辛いだろう、そういった気持ちの変化が全くわからない。それを正常と見るか、異常であると見るかはそれぞれだろうが、わたしはこの種の人間は正常だが”病質”だとわたしは考えている」
正常な精神の”病質”だと、フォルツが告げた。
「精神病ではなく?」
「精神病は病気だろう。だが、奴を見てどう思う? 奴は病気か? まともに人間関係を構築し、他者から尊敬される仕事を持ち、それなりに女性にももてる。そんな人間のどこが病気だと言うんだ?」
つまるところ、彼は「正常」なのだと理論を展開するルーカス・フォルツの言葉にすでにシュタインマイヤーはついていけない。
「シュタインマイヤー君、この手の犯罪者に対して気をつけなければならんことはただひとつだ。君もわたしも、アーベントロートのような男と相対したことはそれほど多くはない。だが、目をこらして注意深く観察すれば一般の人間とは異なる反応も見えてくる。それは残虐な行為とか、上辺だけの社会に流された思想だけからは読み取れぬ。あの手の人間はもっと冷静に社会を観察しているものだ。たとえるなら、そうだな……。野生動物が自然界で生き抜いていくように」
注意深く、慎重に全ての社会的な「正常である」枠を取り払い、網を取りのぞけばそこに張られた罠が見えるはずだ。
「わたしは分析することこそできるが、アーベントロートの目に、この世界がどんな風に映っていたのかはわからん。彼が見たものを理解できるのは同質の人間だけだが、そんなものほとんど居はしまい。仮にいたとしても、”奴ら”は野生動物と同じように鼻が利く。野生を忘れた我々が捕らえられるような人間ではない」
そして、とフォルツは付け足すように低く笑った。
「問題なのは、仮にヨーゼフ・アーベントロートと同じような人間がいたとして、全員が全員殺人犯ではないということだ。彼らは社会に溶け込み、正常な人間と同じように生活しているのだよ。犯罪に手を染めることはない野生動物が、天才的な勘を頼りに野生ではない場所で生活している。それがどれほど危険なことなのか、君ならば理解できるはずだ」
「……――博士」
あえぐようにシュタインマイヤーが呟くと、壮年の医学博士はパイプに火を灯しながら首を傾げた。
「そこにあるファイルは、アーベントロートが書き残したものらしい。君が何を追っているのかは知らんが、いずれ役に立つかもしれん。無能なことこの上ないが、先日やっとわたし経由でブーヘンヴァルト強制収容所のピスター上級大佐から送られてきたものだ。おそらく、オリジナルは収容所に保管されているのだろうがな」
シュタインマイヤーがファイルを指先でめくると、そこにはタイプで打たれた数枚の書類が挟まっている。
一枚はヘルマン・ピスターからの分析依頼の書簡と、その下にはシュタインマイヤー宛のアーベントロートの「遺書」だ。
シュタインマイヤーはルーカス・フォルツに短く礼を告げると、そうして彼の研究室を後にした。
車に向かって歩きながらラルス・シュタインマイヤーは考える。
ヨーゼフ・アーベントロートと、彼が出逢って以来たびたび関わる「少女」に接点があるわけでもなければ、性格も全く異なる。アーベントロートが反社会的な一面を持っていたのに対して、マリア・ハイドリヒ――マリー・ロセター――がそうした一面を持っているわけでもない。
逆に他者が不安を感じるほど弱く、儚いと思えてしまう。
けれどもなぜだかシュタインマイヤーには確信があった。
ドイツという国にとって彼女の存在がマイナスに働かないとしても、かよわい乙女は確かに連続少女殺人事件を引き起こしたヨーゼフ・アーベントロートと同質のものであるに違いない、と。
そう考えれば、全てに合点がいく。
車を飛ばしてルーカス・フォルツの研究室から戻ったシュタインマイヤーは、自分のデスクの鍵のかかる引き出しにファイルをしまいこむと、そのまま国外諜報局特別保安諜報部のヘルベルト・メールホルンの執務室へと向かう。
そこには現在、多くの情報が集積されておりシュタインマイヤーが組んでいる年若い裁判官の青年士官も入り浸っている。
「忙しそうだな、大尉」
言われてシュタインマイヤーは肩をすくめて見せた。
「博士方ほどではありません」
「そうか」
短く告げたモルゲンは、ソファにふんぞり返ったままの格好でじっとファイルに視線を落としているが、やがてシュタインマイヤーに対して口を開くと眼鏡を指先で押し上げながら顔を上げた。
「……妙だと思わないか?」
不意につぶやいたコンラート・モルゲンに、シュタインマイヤーは無言のまま首を傾げて、言葉の先を促すと、親衛隊判事は睫毛を伏せてから視線を彷徨わせた。
「これほど慎重に外務省に潜伏していた男が、焦ったと思うか?」
「……――」
不審の塊ででもあるかのような、モルゲンの口調にシュタインマイヤーは閉口すると、言いかけた言葉を飲み込んだ。
「なにを焦ったんだと思う?」
なにを彼に「行為」を躊躇させた?
いっそ殺せば良かったではないか、そうモルゲンが告げるとシュタインマイヤーは言葉を失った。
「彼女、ハイドリヒ少佐と言ったか。彼女はテロ事件の犯人の姿を見ているのだろう? そんな目撃者を放置しているとなれば自分の身に危険が及ぶことはわかっているだろう。おそらく出国できなかったのは、事件からこっちベルリン周辺で厳戒態勢が敷かれていたからだろうとは思うが、それにしても不手際が目立ちすぎる」
まるで思いつきで犯行に及んだ普通の殺人犯と同じだ。
モルゲンの鋭い指摘に、シュタインマイヤーが言葉を失っていると、今ひとりの法律家であるメールホルンが自分の机の上に積まれた書類の間から視線を放って寄越した。
「確かに、なにかに焦ったのだろうな」
メールホルンの言葉に頷きながら、書類に視線を走らせているコンラート・モルゲンは小さく頷きながら考え込んでいる。
そうだ。
顔を見られた時点で、殺すという選択肢もあったはずだ。
いや、それだけではない。彼女の身につけていた腕章が目的だったというのならば、彼女の反応を瞬時に見ただけでベテランのスパイであればすぐに彼女が国家保安本部の関係者であると言うことがわかったはずである。
それを、腕を折っただけで放置したということは、犯人がなにかに躊躇したのか、それとも一時的に判断能力を低下させたことが考えられる。
それではなにに対して犯人は彼女を殺すことをためらったのか、ということになるが、それがモルゲンには見えてこない。
物的証拠と状況証拠を揃えて逮捕することは簡単だが、おそらく逮捕に踏み切ればかなり高い確率で自殺するだろうと思われる。
犯人を捕らえることだけが目的ならば、死のうが生きていようがどちらでも構わないのであるが、それでは捜査が進まない。なによりも犯人、あるいは容疑者が死ぬと言うことはドイツ国内に潜伏しているスパイ網をそのまま残すことに他ならない。だからこそ、彼は安直に犯人を捕らえるだけでは捜査に影響が生じるだろうということを考慮する。
「大尉がゲシュタポにしては思慮深い性格で助かった」
シェレンベルクの手駒。
多くの者がラルス・シュタインマイヤーをそう見ている傾向にあった。
実質的には彼の上官はハインリヒ・ミュラーにあたるのだが、現在、国外諜報局を指揮するヴァルター・シェレンベルクがゲシュタポの出身であるということもあって、それなりにミュラーの国家秘密警察の捜査官たちには顔が利いた。
かつてゲシュタポの情報組織を指揮したヴァルター・シェレンベルク。
その名前はそれなりに有名だった。
「褒められたと受け取らせてもらいます」
にこりと笑ったシュタインマイヤーに、モルゲンは鼻の上にしわを寄せてからソファに浅く腰掛けるゲシュタポの青年を見やる。
「それで、大尉はなにを探ってきたんだ?」
「お見通しですか」
「法律家は鼻が利かないとやっていけない」
にべもないモルゲンの言葉にかすかに笑ったシュタインマイヤーは、しばらく考え込んでからそっと声を抑えて話し出した。
「ひとつの可能性を探ってきました」
そこで一度言葉を切る。
「以前、わたしがゲシュタポに入る前に担当した事件だったのですが、その事件の犯人がいわゆる精神異常者で、年端もいかない少女を三十人ほど惨殺した医師です。その事件を覚えておいでですか?」
「記録では読んだな。あれだろう、ヨーゼフ・アーベントロート。先日、ブーヘンヴァルトで死んだ」
察しの早いモルゲンの返答に、シュタインマイヤーが深く頷くと「それで」と警察官の言葉を裁判官が促す。
「言葉で表現するのはとても難しいことです」
逡巡した後にそう言ったシュタインマイヤーは、興味深そうな瞳を向けてくるモルゲンとメールホルンを見渡してから左右にかぶりを振った。
「無理に言葉にしなくても良い、考えた事を話せばいい」
モルゲンの助言にシュタインマイヤーが考え込んだ。
「……――わたしには、アーベントロートの目になにが見えているのかわかりませんでした。ですが、ブーヘンヴァルトで死んだ彼の遺書には、こうありました……」
冷静な文面で、”まるで”医学博士の分析結果を読んでいるかのような気持ちに陥ったこと。
自分のデスクに放り込んだファイルの中身を思い起こす。
――親愛なる刑事さん。こんな手紙をわたしが書くのはどうかと思うが、どうにも刑事さんに伝えたいことがあって、SSの看守さんに頼み込んで紙と鉛筆をもらった。たぶん、刑事さんはわたしが生きている間にもう一度来ることはないだろうから、手紙を残させてもらおうかと思った。
出だしはいつものアーベントロートの調子そのものだった。
「気をつけろ、と……」
――その青い瞳は、ある一定の使命感を心の内に抱いた人間が見てはいけない眼差しだ。あの瞳は、人の根底にある”もの”を引きずり出す。腕力のないあのような性質の娘が、万が一、彼女自身に対して悪意を持つ者の手に晒されれば、命を落とすことなど簡単だろう。彼女には、悪意も、害意も、わたしのような思いはなにも”ない”。純粋な天使のように人の本性を引きずり出すのだ……。
アーベントロートと同じ性質のものでありながら、けれども全く”正反対の”もの。
それがあの少女なのだ、ヨーゼフ・アーベントロートは遺書の中で綴っていた。
「つまり、それは彼女は人間らしい悪意も、憎悪も怒りもない、ということか?」
全く負の感情を持たない人間がいることなどにわかに考えがたい。しかし、とシュタインマイヤーは思う。
アーベントロートとは全く真逆の性質を持っているという、彼の遺書の記載から考えればそうした可能性もあるのかもしれない。しかし、それはあくまでも仮定と可能性のひとつでしかないのだ。
けれども、いつもにこやかな笑顔をたたえている彼女を目にしていると、もしかしたら、そういう可能性もあるのではないかと思えてしまうのだった。
仮に彼女がアーベントロートが言うように、本当に危機管理ができない人間であるとしたら、それは……。
「危険だな」
ぼそりとメールホルンが呟けば、シュタインマイヤーの報告を聞いていたモルゲンも「まったくだ」と言葉を吐きだした。
つまるところそれは悪意を知らない幼児と同じだ。
彼女を見る限り、知性はそれなりに発達しているし、国内外の情報網をよく把握している。だが、他者の悪意や害意に対して危機管理がひどく甘いということは、最悪の状況も考えられた。
力のない女性を傷つけることなど簡単だ。
性的な意味でも。そして、生命的な意味でも。
体力に乏しい知識人たちですら、彼女の命を奪うことなど簡単にできそうだと思うのだ。万が一、彼女の正体が割れて敵の手に落ちれば、その命はあっけなく散らされるだろう。
シュタインマイヤーは咄嗟に立ち上がると、早足に歩きだした。
「どこへ行く?」
「報告を」
モルゲンに呼び止められて、シュタインマイヤーが短く言えば「待て」と刑事警察局の幹部は彼を制止した。
「わたしとメールホルン博士でこの件については今日中に報告書をまとめる。口頭でがなりたてたところで状況は変わらん。ゲシュタポにはわたしがうまいこと説明をしておいてやるから、大尉は急いでザクセンハウゼン強制収容所に向かうんだ。プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに戻るまで身辺警護の強化をしろ」
命じたコンラート・モルゲンは、立ち上がると執務机から便せんを差しだしたメールホルンに目で会釈をするとソファに戻って胸ポケットから万年筆を抜くと数秒考え込んでから紙面に走らせる。
そうしてシュタインマイヤーが慌てた様子で出て行くのを見送って、再び紙面へと視線を戻した。




