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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
X 天の車
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11 夜と霧の法令

 ナチス親衛隊に配属された女性将校。

 ドイツ国外に彼女が身につけていたベルベットの腕章を持ち出そうとしたエージェントは、ゲシュタポに逮捕された。

 ベルリン市内は平常を取り戻しつつあるが、それはあくまでも上辺だけで国家保安本部を中心とする国家秘密警察(ゲシュタポ)や、刑事警察(クリポ)は、共に限界状態で犯人の捜索に当たっていた。

 薄暗いアパートメントの一室で、男はタバコに火を灯すとじっと目を細めてから考え込んだ。

 あの腕章には、確かにSDの徽章と、親衛隊全国指導者個人幕僚本部に所属することを示すカフタイトルとが縫い付けられていた。子供がお遊びでそんなものを身につけていたとは考えがたい事態であるから、冷静に状況を分析する限りそれを身につけていた彼女は”そう”なのだろう。

 そして彼女があの腕章を身につけていたということは、彼女がSDであるということだが、それにしては、と彼は思う。

 腕をねじり上げた時のあのいたいけな儚さと、細さには思わずぞっとさせられた。驚いたように顔を上げた少女の瞳。数瞬後、彼の力に耐えきれずいやな音を立てた少女の腕。数秒で我に返った彼は、任務を即座に思い出してその腕章をもぎとった。

 華奢な少女の体を、彼の腕が覚えている……。

「だが、ドイツの奴らも罪もない女子供を皆殺しにしたじゃないか……」

 それを考えればドイツ人の罪は、少女ひとりの命をもってすらあがなえない程重い。だから、と男はまるで言い訳でもするように片目を手のひらで押さえると瞑目する。

 年頃の少女に手を挙げるのは個人としては忍びない。けれども今はそうした道徳心など切り捨てなければならない時代なのだ。

 だから。

 ”祖国”のためにやむを得なかった。

 男は自分の行為を正当化するように、自分自身に言い聞かせた。

 深くタバコの煙を吸い込んでから灰皿に押しつけてもみ消すと、ネクタイを締め直した。そうして表情も意識も切り替えてから、彼は腕時計を見るとアパートメントを出た。

 彼女の身辺は現在、常にゲシュタポの影がある。それに注意を払わなければならなかった。これ以上接近するとなれば、ゲシュタポや刑事警察の捜査官たちをも相手にしなければならないかも知れない。

 抵抗する力もなく、あれほどかよわい少女がSD章を身につけていたという理由を考えなければならない。

 リッツェンのないSD章と、親衛隊全国指導者個人幕僚本部のカフタイトル。

 それは飾りでつけられるようなものではない。

 国家保安本部の高官たち、彼らが年端もいかない少女にそんなものをつけることを安易に許すとは考えがたい。

 要するに……。

「彼女は正規の情報将校、か……?」

 靴音を鳴らす彼はそっと片目をすがめてから小さく舌打ちした。

 少なくとも自分も情報部の人間であるという自負がある。親衛隊情報部に後れを取るつもりなどなかった。

 厳しい眼差しのまま歩く彼は、やがて自分の勤め先でもある外務省の門をくぐっていった。



  *

 男が外務省の建物に姿を消したのを確認してから少し離れたビルの一室から双眼鏡で様子を窺っていたコンラート・モルゲンは、不機嫌そうな眼差しで自分の隣に立っているフィールドグレーの制服を身につけた男を見やった。

 年齢は互いに余り変わらないはずだが、片やはハインリヒ・ミュラー率いるゲシュタポの捜査官であり、片やはアルトゥール・ネーベ率いる刑事警察の幹部候補である。

「なんでわたしがこんなことを……」

 むっつりとつぶやいたコンラート・モルゲンに、ラルス・シュタインマイヤーは親衛隊判事の差しだした双眼鏡を受け取りながら肩をすくめてみせる。

「ですが、判事殿とこうした仕事ができるのは、後学のためになりますのでわたしはなかなか面白いですが」

 退屈ですがね。

 そう言ったシュタインマイヤーに、モルゲンはとりついていた窓から体を離すとそのまま壁を背中にして座り込む。

「こうした仕事はわたしなどより、君のほうが得意だろう」

 頭のはげ上がりつつある四角い顔をしたモルゲンを見やってから、シュタインマイヤーは「それはそうですが」と応じて外務省の建物を見つめていた。

「なにせ相手が外務省ですから、そうした意味合いもかねて、判事殿が選抜されたんではないのですか?」

「そんなもの天下のゲシュタポの権限でどうとでもなるのではないか?」

「どうとでもなると言えばどうとでもなりますが……」

 最悪の場合、夜と霧の法令を適用すればよい。

 理由などどうとでもできる。

 それを指して言ったコンラート・モルゲンに、シュタインマイヤーはわずかに小首を傾げてから静かに笑う。

「わたし個人は余りそう言った手法を好みませんので」

 自分は生粋の刑事警察だ。

 その誇りがある。

「なるほど」

 フン、と鼻を鳴らしたモルゲンは隣に立っているシュタインマイヤーを見上げてから、ところで、と口を開いた。

「これはあれだろう? どうにも捜査が行き詰まっているのかと思っていたが、案外意外なところから情報が出てきたものだな」

 八月の半ば、国外諜報局特別保安諜報部の部長が襲撃されて負傷した。その捜査は行き詰まっているのかと思える程小康状態になっていたのだが、これに対してゲーリングの率いる調査局と国内諜報局の一部から情報が舞い込んだ。

 問題の諜報員は外務省情報部に潜伏しているらしい。

 この事件の情報の洗い出しを行ったのは、かつて国家保安本部の屋台骨を支えたヘルベルト・メールホルンが片手間に捜査情報を再分析した結果、外務省情報部――INFⅢの局員が浮かび上がってきた。

「……それは、メールホルン博士が優秀であるというよりも、君らの捜査がザルだということではないのか?」

 眉をひそめたモルゲンの横顔に、シュタインマイヤーは苦笑してから鼻の頭を掻いた。

「いえ、お恥ずかしい限りです。ゲシュタポの人間は強硬な捜査方法が板についてまして、こうした綿密な捜査は余り得意としてはいないのです」

「……ふむ」

 シュタインマイヤーの言葉を聞き流しつつ、モルゲンは首を傾げると両膝に手をつきながら立ち上がり、窓の外を眺めやった。

「それで、奴は例の六局の部長を襲った容疑者であると踏んで間違いないのだな?」

「おそらくは」

 彼とつながりを持つのは、アメリカか。それともイギリスかフランスか。どこだろう。

「連合国とのつながりはあるのか?」

「そうですね、今のところは親戚筋などにもそういった影はありませんが、どのあたりから彼が外国の情報員として活動するようになったのかは謎めいています」

 しかし外務省情報局に勤める者となれば、外国との接触もたやすいだろう。

「あの女の子は、国家保安本部(我々)にとってそれほど重要な存在なのか?」

 しばらく考え込んでいたモルゲンが問いかけると、シュタインマイヤーは薄く笑ってかぶりを振った。

 ラルス・シュタインマイヤーは、ヴァルター・シェレンベルクと並んで彼女の出自を知る人間だ。シェレンベルクに無二の信頼を受けている以上、考えなしの発言をすることなどできはしない。

「少なくとも、カルテンブルンナー大将閣下にとっては、彼女は重要な士官であると考えます」

「……なるほど。まぁ、引っかかるものはあるが、追及はしないでおこうか」

 カルテンブルンナーだけではない。

 彼らの上官――ハインリヒ・ミュラーとアルトゥール・ネーベも彼女に随分と心を傾けているのを、ラルス・シュタインマイヤーもコンラート・モルゲンも知っていた。

 まるでその場でモルゲンを煙に巻こうとでもしているかのようなシュタインマイヤーに、切れ者の判事は追及の手を緩めると歩きだしながら言葉を続ける。

「こんなところで奴を張り込んでいても仕方ない。パンツィンガー中佐には張り込みの捜査員の選抜についてはわたしから直接頼んでおこう。一度プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに戻ろう」

 張り込みを「やっても無意味である」と言い切ったモルゲンに対して、少なからず困惑を滲ませたシュタインマイヤだったが、結局、モルゲンはモルゲンで思惑があるのだろうということで割り切った。

 こうしてコンラート・モルゲンとラルス・シュタインマイヤーがプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに戻ってみれば、どうやら、彼らの話題の主であるマリーは首席補佐官のヴェルナー・ベストと共にザクセンハウゼン強制収容所に向かったらしかった。

 ヴェルナー・ベストが親衛隊高級指導者という事もあって、それなりに厳重な警備体制の敷かれた移動になっていたらしいが、傍目にはベストとマリーの様子はどこかのレストランに夕食にでも行くような雰囲気であったらしい。

「……暢気なものだな」

 あっけにとられたようにつぶやいた、モルゲンと彼に同行するラルス・シュタインマイヤーはその足で六局のヘルベルト・メールホルン親衛隊大上級大佐の執務室へと向かうと、書類が山積みにされた執務机に座っている部屋の主は優秀な刑事警察局の幹部候補と、ゲシュタポに籍を置きながらやはり優秀な刑事警察を笑顔で出迎えた。

「やぁ、よく来てくれた」

「……お忙しいところ、申し訳ありません。メールホルン博士」

 微笑を浮かべたモルゲンに、メールホルンが穏やかな眼差しでそっと笑うとそれほど広くはない執務室に据えられたソファを薦める。

「いや、こちらこそ。名高いモルゲン博士が捜査にご助力いただけるとは思っていませんでしたので」

「わたしの力など、メールホルン博士おひとり分にも及びませんでしょう」

 一見しただけでは和やかにも感じられるふたりの会話を聞いているシュタインマイヤーは内心で感嘆を隠せない。

 メールホルンは優秀な検事出身であり、モルゲンはベスト同様に裁判官出身である。メールホルンは一度左遷されたものの優秀であることに疑いはなく、ラルス・シュタインマイヤーなどからしてみれば生きる世界が違うと言っても良いだろう。

 そんな場所にたかが刑事警察でしかない自分が席を共にしているのだと思うと、頭がくらくらしてくるというものだ。

「それで、先日お願いしていた件はどのように?」

「一応念のため、中央記録所の記録も全てあたりました。なにぶん記録の量が多かったため、少々時間をとってしまいましたが、明日明後日中にはなんとかご希望のデータを揃えられそうです」

 言いながらファイルを無造作にモルゲンに手渡したメールホルンは、なにか気がかりなことでもあるのがわずかに眉間を寄せる。

「しかし、INFⅢは外務大臣の牙城でしょう? うまくいきますかな?」

「こちらには先日手中にした調査局(FA)による”記録の一切”がありますので、それをうまく利用することができれば、”彼女”を襲っただろう容疑者を検挙することは可能でしょう」

「……外務大臣が、それを拒絶されたときはどうするつもりだ?」

 メールホルンの追及に、モルゲンは唇の端をつり上げた。

「そのときは、我々の奥の手がある」

 昨年の末に制定された”夜と霧の法令”。

 ゲシュタポにはそれを問答無用で行使できる権力があるのだ。

 「奥の手」と言いながら、シュタインマイヤーを見やったモルゲンに、ゲシュタポの捜査官である青年は居心地の悪さに手のひらで首の後ろを撫でた。

「本官にそれを行使せよ、と?」

「収集した情報では、奴はどう見ても敵性分子だ。外務省情報局に所属するという地位を利用して、敵国に情報を流していることは間違いない。もちろん、敵のスパイ網はそれだけではなかろうが。どのみち、国家保安本部長官は”彼女”に怪我を負わせた犯人の早急な逮捕を望んでいる。ならば彼を擁護するだろ外務大臣閣下をたたきのめすための材料も用意しなければならんのだ」

 政府中枢は血で血を洗う権力争いが展開される。

 ヒムラー、ゲーリング、ゲッベルス、そしてリッベントロップ。誰もが、少しでも相手より優位に立とうとして、互いの足元をすくおうとしているのだ。

「……夜と霧の法令、ですか」

 気乗りがしない、とでも言いたげなシュタインマイヤーの表情にメールホルンは小さく頷いた。

「君にもわかっているだろうが、彼女は国家保安本部のアキレス腱だ。彼女の存在が漏れるのは時間の問題だろうが、それでもそのための時間を稼がなければならない。万が一、彼女が敵の手に落ちれば、我らドイツの治安維持組織は崩壊する」

 諜報局の部長級の人間が拉致されるような事態となるということはそういうことだ。メールホルンも、短い時間だが特別保安諜報部の部長であるマリア・ハイドリヒ親衛隊少佐の特異な才能を看破していた。

 彼女は国内外の多くの問題を知りすぎている。

 そしてそんな人間が敵の手に落ちたときはどうなるだろう。

「彼女は、我々が思うよりもずっと弱い。そんな少女を敵の手中にさせてはならんのだ」

 行く行くは自らの身の安全のためにも、国家保安本部は権力を強化し、不安要素は消していかなければならないのだから。

 大人の男の手にかかれば首をねじ切ることなど簡単だろう。

 かよわくいたいけな少女……――。

 その存在が、国家保安本部を”震撼させ”る。

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