10 不審を向ける眼差し
スイス連邦の首都。ベルン市の執務室でアレン・ダレスは腕を組んだまま、革張りの椅子の背にそっくりかえったまま考え込んでいた。
イギリスの秘密情報部からもたらされた情報の一部は――どこまで彼らが真相を語っているかはともかくとして――ダレスにとって充分に検討に値した。
現在、アメリカ合衆国戦略情報局では、欧州各国の情報機関と連携してドイツ、及びイタリアなどを含めた敵国の情勢を覗っている。
イギリスの秘密情報部、そしてイギリスに亡命政府をおく亡命フランス政府のフランス情報部。さらに本国の事情から、その内容としては壊滅寸前に追い込まれつつある赤軍情報部など。
ダレスらが介入している組織は数多い。
そんな同盟国の情報員たちから、同様に重大な報告がもたらされた。
本来それは非常に断片的なもので、ひとつひとつでは大した意味など持たないものだ。だが、考古学者が微細なかけらとかけらを慎重につなぎ合わせて遺跡を復元するように、それらの断片的な情報を組み直すとひとつの真実が目の前に姿を現すのである。
曰く、ドイツの大物スパイがスイス入りしていた。
つまるところそういうことである。
「ドイツの大物スパイ……?」
大物と言われるほどだから、その姿は外国に知られるような人間ではないだろうと思われるが、はたして本当に「大物スパイ」とやらがスイス入りしていたとして、その目的が気にかかるところだった。
ただでさえスイス国内には各国の情報員やスパイたちが跋扈している。中には二重スパイもいるだろう。それらの全てを把握することなど、正直なところを言えばいかな戦略情報局のアレン・ダレスにも不可能なことなのだ。
加えて大物スパイと言われるほどの人物であれば、相当に頭は切れるだろうし用心深いだろうと想像できる。そう簡単に尻尾を捕まえることなど考えないほうがいい。
目的は多数考えられる。
現在、ドイツ側は多方面に対して戦端を開いており、軍事的な意味でもまた情報組織的な意味でも快進撃を続けている。その快進撃の裏には、ダレスら情報員たちが想像もしなかったような事態が巻き起こりつつあった。そのひとつが彼の祖国であるアメリカ本国で起こった人種問題に対する暴動と世論の高まり、そして天然痘の発症など。それらははたして本当に偶発的に起こったことなのだろうか?
もしくは、誰か引き金を引いた者がいるのだとしたら。
それはいったい誰なのか。
なによりも”偶然”に巻き起こったことなのであるとしたら、それはあまりにも不自然すぎる。
対日戦争の戦端をアメリカが引いたのは、アメリカ国内、国外における情報員たちの暗躍があり、国内世論をうまく誘導できたからに他ならない。政府首脳部を含め、情報操作の達人たちの暗躍がなければ、国内世論の圧倒的大多数を日和見から開戦へと急速に高めることなど不可能なのだ。
アレン・ダレスはそんな、情報操作と情報管理のプロフェッショナルと言えるだろう。だから、彼にはこの三ヶ月ほどという短期間で発生した数多くの憂慮に対し、強い不審を抱いたのである。
「不愉快だ……」
ドイツの諜報員などに好きにさせているということが。
本来、情報操作とはそんな簡単に結果が出る類のものではないし、根本的にその結果が派手に宣伝されるようなものではだめなのだ。結果的に、状況を分析して後になってから「してやられた」と相手に思われるようなものなのだから。
同時期にこれほど多くの事象の変化――もちろんその要素は各国が最初から抱え込んでいた国内の憂慮であったとは言え――が発生したと言うことは、諜報部員であるアレン・ダレスにとってみれば充分に不審の目を向けるに値する。
そんなダレスの元に、ひとりのフランス人が訪れたのはその日の午後のことだ。
夕暮れも深くなりはじめた時刻、三十代半ばを過ぎたばかりの優男と言った風体の金髪の男は優しい垂れ目が印象的なハンサムだ。
「どうも、ミスター」
気軽な様子で軽く会釈をした男の青い瞳に、剣のこめられた光が閃いたのをダレスは見逃さなかった。
流暢な英語を話す彼はタバコに火をつけてから用意された椅子に浅く腰掛けると、ダレスの厳しい眼差しに対して肩をすくめて両手をわざとらしく広げると、腰の後ろに差し込んでいた無骨な拳銃を目の前のテーブルに置く。
「世間は物騒ですからね、どこにドイツのスパイがいるかわかりませんから。護身用です」
聞いてもいないことをべらべらとしゃべるその男の様子に、アレン・ダレスは不機嫌そうな目つきで眺めてからフンと鼻を鳴らした。
「フランスの諜報員だそうだな」
「今はマキの一員としてナチ狩りに勤しんでいますがね」
静かに、けれども物騒な台詞を口にした青年は、深くタバコの煙を肺まで吸い込んでから小首を傾げると厳しい眼差しのままのアレン・ダレスを上から下までじろじろと眺めていた。
「興味深い噂があります」
お聞きになりますか?
彼は自由フランスのフランス情報部の諜報員で、かつてドイツがポーランドに侵攻した頃から欧州各国を暗躍していた。
まさに顔のない男とも言える。
「もったいぶるんだな」
アメリカの戦略情報局欧州支部長相手に怖じ気づくこともしない彼のコードネームはジャネット。本名は誰も知らないのではないかとすら言われていた。
憮然としたダレスに、にやにやと笑ったジャネットはタバコを灰皿に押しつけてから長い足をくみ上げて目の前で渋面を浮かべている年上のアメリカ人を凝視した。
「おもしろい話しはいくつかです。まず、ミスターが興味をもっていらっしゃるのではないかと思われるドイツ野郎の大物スパイのことですが、どうやらIRAと接触したようです」
「……IRAだと?」
「えぇ、IRAとは言っても、現在中立を宣言しているアイルランドの連中ではありません」
ジャネットの言葉にダレスは眉をひそめると舌打ちした。
「そうだろうな」
彼に言われなくてもわかっている。
なによりも、アイルランドとイギリスの確執は深い。
アイルランド独立戦争後に、イギリスとアイルランド両国に間で結ばれた英愛条約によって一応の収束を見たものの、現在、イギリスはドイツとの戦争によって着々とその国力を削がれつつある。
いかにイギリスが国王ジョージ六世と、首相ウィンストン・チャーチルの元で結束しようとも、戦争とは精神論だけで勝てるものではない。
「……アイルランドとドイツが手を結んだら、厄介だぞ」
「そう、それです」
しかし今のところそれはないだろう。
そうダレスは踏んでいる。
イギリスに対して剣を振りかざすにしても、アイルランドという国はすでに国力の大半を独立戦争と第一次欧州大戦で消耗しきっていた。いくら、イギリス本土が消耗しつつあるとは言え、アイルランド一国だけではイギリスに立ち向かうことなどできはしないだろう。
しかし、今後もイギリスがそのままの国力を維持できるかと尋ねられれば、それに対してはダレスも考え込まざるをえない。
ただでさえ多くの不確定要素が動き出しているのだ。
このままドイツとイタリアの同盟が中東地域を手中にすることになれば、植民地各国からの物資がイギリスまで届けられるのは困難となるだろう。そうなればイギリスの手を離れつつある植民地各国から独立の気運が高まることは想像に難くない。ドイツ側はこれを当然のように利用するだろうし、滞った物資は各枢軸同盟諸国を通してドイツなどに流れていくことになる。こうなれば、植民地の交通を遮断されたイギリスにコントロールできなくなる要素も大きい。
「アメリカに、今の中東に展開する連合国を支援する余裕などないぞ」
「もしくはそれが狙いだったのかもしれません」
ダレスの言葉に相づちを打ったジャネットに、彼は低くうなり声を上げた。
ドイツ側の狙い。
それは本当に連合国を混乱に陥れることが目的だったのか……?
汎発流行が巻き起こった中東地域に、アメリカ合衆国は現在大規模な医師団を派遣している。
それでも多数の死者は避けられず、この半年が山場であろうとされていた。
「先の欧州大戦の再来か……」
世界規模の戦争中に伝染病が発生すればどういう結果になるか。それは一九一八年に発生したスペイン風邪を見ればわかるだろう。
しかも、その毒性はスペイン風邪のそれを容易に上回る。
恐るべき感染症。
幸いなことは、天然痘そのものが熱帯地方の病気であったことだ。それに加えて、発生初期の混乱のおかげもあって発生源での封じ込めにほぼ成功していた。
このため、北アフリカや中東地域で発生した天然痘はほぼ現地で制圧することが可能であったのだが、問題はもうひとつ発生していた。
八月の半ば、アメリカ合衆国の首都――ワシントンでも天然痘の発生が確認された。
これは北アフリカ地方からの伝染かとも思われたが、当時設立されたばかりの国立マラリア感染対策センターによる調査によって、外部からアメリカ国内に直接持ち込まれたものであることが確認された。
つまるところ、北アフリカとワシントンで発生した天然痘は、異なる宿主によって持ち込まれたということが、その後の調査によって確認された。
また北アフリカで異常な汎発流行に発展したのもその気候帯によるものが大きいのではないかと推測された。
アメリカ政府中央を狙ったテロ。
事実、このワシントンに持ち込まれた天然痘によって多くの人間の命が奪われており、アメリカ国内には厳戒態勢が敷かれることとなった。
空港から空港へ。
転々と発生する天然痘の追跡の結果、発生源が特定された。
インドの深く奥地の村を、過去に壊滅させた伝染病があったこと。さらに、この村にとどまり続けて天然痘の治療のために尽力した医師一家がいたこと。
一家の十人のうち、七人がこの天然痘の流行によって死亡し、その天然痘の治療のために資金援助をしたのがドイツだったことなどが上げられた。
「天然痘は恐るべき病です」
ジャネットの言葉にダレスは無言のまま頷いた。
「奴らのやっていることは畜生以下だ……」
罵るようにつぶやいたダレスは沈鬱な瞳のまま、大きな手のひらで顔を覆うと溜め息をついた。
どうすることもできない。
自分は医師でもなんでもないのだ。
医師や看護師。そうした医療関係者たちの戦いを見守ることしかできはしない。
「……イギリスの、モントゴメリー将軍は天然痘は陰性だそうです」
「そうか」
「ところで、それはそちらにお任せするとして、そのIRAのメンバーですが、どうやらイギリス軍秘密情報部にも潜伏しているようです」
予想の範疇であるジャネットの言葉に、ダレスは長い溜め息をついてから意識を切り替える。
「だろうな、北アイルランド出身や、アイルランドにつながりを持つイギリス人など山ほどいるだろう」
その中の何人かがIRAのメンバーであったとしても驚くほどのことではない。
「わたしもイギリスのほうの伝手を通じて情報を探っていますが、なかなか奴らは狡猾で尻尾がつかめません」
「力を失ったところを、内部から一撃を加えることによってアイルランドにとって有利な事態になるのであれば、迷いなく引き金を引くだろうな」
その件については、こちらでも調査を進めるつもりです。
そう告げたジャネットはそこで言葉を切ってから、首を傾げると「もうひとつ」と言いながら顔の前で人差し指を立てた。
「これは不確定の噂になりますので、真偽は不明ですが、ベルリンに潜伏している仲間からの断片的な情報です」
ベルリンに潜伏している、というジャネットの言葉がアレン・ダレスの興味を引いた。
「ミスターも先日ベルリンで大捕物が行われたことはご存じかと思いますが、どうもあの”金髪の獣”がトップを務めていたナチの国家保安本部に妙な動きがあります」
金髪の野獣――イギリスに置かれたチェコスロバキア亡命政府の手によって暗殺されたラインハルト・ハイドリヒ。長身のその男はドイツ内外に恐怖の代名詞として恐れられていた。
「ドイツも情報員として女を雇っていますが、どうも情報将校として女性が配置されたようだ、ということです」
「……――」
「こちらがその疑いのある写真です」
そう言って差しだした白黒の写真に映るのは、数人の親衛隊士官に囲まれた細い肩と小さな頭だ。後ろ姿ということもあって顔の判別はつかないが、長い色素の薄い髪が印象的だ。
「隣にいるのは、パリで民生本部長官をつとめていたヴェルナー・ベスト親衛隊中将です。七月にベルリンに呼び戻されて国家保安本部に再び採用されました。他の親衛隊員はベストの護衛かと思われますが、詳細は不明です」
ベンツに乗り込もうとしているのか、まるで女性の特定を恐れるように警戒し、厳重に周りを取り囲んでいるのはなんとも不自然だ。
「彼女の正体を探るために、自宅と思われる家に踏み込んだのですが、その時点では引っ越しをした後だったということです」
「……なるほど」
「おそらくそちらの諜報員も調査はしていらっしゃるかと思いますが、この女性が最近骨折したらしいという噂も聞いています」
最近……――。
そう言われてダレスは苦虫を噛みつぶしたような顔になる。
八月の半ばを過ぎてから、ドイツ国内にいる諜報員たちと連絡をとることがままならなくなっている。
ただでさえ、ドイツの国内外に張り巡らせていた盗聴網が壊滅状態にされたばかりだ。ありとあらゆる情報がドイツ側からのアクションによって遮断されつつあるということが、アレン・ダレスを焦らせる。
このままでは情報の圧倒的な不足に晒されて、アメリカは思うように動けなくなってしまうだろう。
「その情報は信じていいのだろうな?」
「それはミスターの考えひとつです。もしかしたら、わたしもスパイかもしれませんよ?」
飄々として笑ったジャネットはそうして新しいタバコに火をつけると、組んでいた足をほどいてから立ち上がった。
「少なくとも、わたしはドイツに勝ってもらいたくないのでね。祖国をナチ共がうろうろしていると思うと吐き気がします」
イギリスも気に入らないが。
付け足すようにつぶやいたジャネットはそうしてダレスの前に、顔の造作など全く写っていない女性の後ろ姿の写真を取り残したまま彼の前から姿を消した。
――なにか新しい情報が入ればそのうちまたお持ちします。
そう言い残して。




