9 エルピス
飢餓と苦痛、病気と死。
そして暴力と陵辱とに、強制収容所は支配されている。
かつて、ギリシアの神々はパンドラに決して開けてはならないと言って箱を与えられた。その箱にはありとあらゆる災厄が詰め込まれており、好奇心に負けて開いた箱からそれらは飛び出した。
驚いたパンドラは咄嗟に箱の蓋を閉めてしまうが、箱の底にとりのこされた希望だけは、箱の外には出ていかなかったという。
ありとあらゆる災厄に支配されている強制収容所という世界。
その世界に果たして希望など存在しているのだろうか?
暗い、果てしのない絶望の底で、人は光を再び取り戻すことができるのだろうか?
強制収容所では、人々は老若男女、貴賤の別はなく等しく人としての尊厳も、人権も、なにもかもを剥奪される。彼らが生き残るために必要なものは、ただ、生に対する貪欲な執着と、それを支える体力だけだった。
……人の命を踏みにじってでも生き残る覚悟を持たない者が生きていくことなどできはしない。
外の世界はどうなっているのだろう。
青年はじっと考え込みながら眉をひそめた。
明日のこの時間、自分は生きているのだろうか。明日は生きているかも知れない。それでも、明後日は? 明明後日は?
――……その次は? またその次の朝を自分は迎えられるのだろうか?
自分が、自分として。
自分自身のままで、明日の太陽を臨めるのだろうか……?
ぼんやりと考えるヤーコフ・ジュガシヴィリは唐突に、懐中電灯の眩しい明かりに照らされて、狭苦しいベッドから体を起こした。
親衛隊の制服を着た看守がドイツ語でなにか怒鳴るようにヒステリックに叫んでいる。いや、ヒステリックに叫んでいたわけではないのかもしれないが、ドイツ語のわからないジュガシヴィリには叫んでいるように聞こえた。
親衛隊員の隣に立っている特別囚人の男は、ポーランド人の通訳で看守の顔色を窺うように眼差しを上げながら余りうまくはないロシア語でジュガシヴィリに告げる。
「ついてこい、と言っている」
そこは連合国軍の政府高官などの親族などが収容される区画であり、同じバラックに住む一部の者はジュガシヴィリがソビエト連邦のヨシフ・スターリンの息子であるということを知っていた。
自分の命運ももはやこれまでかと思い詰めた彼が、肩を落としたままでサーチライトに照らされるバラックとバラックの間を看守と共に歩く。
父親のヨシフ・スターリンに見放された息子。
影でそう囁かれていることも彼は知っていた。
そうしてシャワー室で冷たい水のシャワーを浴び新しい囚人服を着せられ、それまでのバラックに比べればいくぶんかましな独房に放り込まれる。
明日には殺されるのだろうか?
結局、父親にとって自分は鬱陶しいだけの存在だったのではないか。そんな絶望感だけが意識を支配して、ジュガシヴィリは深い暗闇の底へとたたき落とされる。
もしかしたら、祖国はドイツに負けたのかも知れない。そう考えれば納得もいく話しだ。ソビエト連邦が負けたから、スターリンの息子である自分を取り引きの材料として生かしておく必要などない。
だから殺される。
一般兵ならばともかくとして、ヤーコフ・ジュガシヴィリは間違いなくスターリンの息子なのだ。不安材料がある限り、ドイツは彼を生かしておくつもりなどないだろう。
暗い独房の中で顔を覆った彼は押し殺した嗚咽をこぼした。
ヨシフ・スターリンにとって、自分はいらない子供だったのだ、と。
*
ヤーコフ・ジュガシヴィリが独房に放り込まれて一週間もした頃、ザクセンハウゼン強制収容所に数人の親衛隊将校が訪れた。
その強制収容所の所長を務めるハンス・ローリッツ親衛隊上級大佐は、訪れた将校の集団に訝しげな眼差しを向けてから黙り込む。
余分な追及は自分の身に危険を及ぼすことを知っていたから、彼は思ったことを安易に口にすることはない。
けれども、訪れた親衛隊将校たちの中に見知った顔がある。
国家保安本部所属、マリア・ハイドリヒ親衛隊少佐。
マリアという名前からして男性ではなかろうということはわかっていたが、それにしても不可解だ。
本来、ナチス親衛隊では女性の登用をしていない。
親衛隊補助婦隊というものは存在しているが、あくまで親衛隊外部の組織である。
日傘をさした少女は、親衛隊高級指導者と共に公用のベンツから降り立った。彼女と以前顔を合わせたときは、親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーと、国家保安本部所属のヴァルター・シェレンベルクと一緒だったが、今回は違う。
彼女と共にザクセンハウゼン強制収容所を訪れたのは、親衛隊中将ヴェルナー・ベスト、そして親衛隊少将リヒャルト・グリュックスだ。さらに彼ら高官たちの護衛の下士官などかなりの大人数だが、その中で少女は顔色ひとつ変えずにいる。
「暑くはないかね?」
静かに問いかけたベストに少女はほほえむと、左右にかぶりを振ってから「いいえ」と答えた。
額にはうっすらと汗が滲んでいて、制服のポケットからハンカチを取り出したベストがマリーの額を拭ってやれば、彼女は礼を告げてからすたすたと歩きだしたグリュックスについて足を踏み出した。
「グリュックス少将、もう少し歩調を緩めてもらえないものだろうか?」
男の歩調に足の余り良くない少女がついていくことができないことをベストは知っている。ベストやヨストと共に歩くときですら、少女に気を遣ってやらなければ彼女はつまづいて転ぶことが多々あるのだ。
「……あぁ、これは失礼した」
案の定、グリュックスの早い歩みについていけないマリーは転びかけながら男の背中についていくものだから、溜め息をついたベストが少女の体を片手で軽く支えてやって右手にしている日傘を取りあげた。
「急がなくていい、自分のペースで歩きなさい」
「はい、ありがとうございます」
砂地で転んだら大変な事になる。
特にこの日のマリーは裾の長いワンピースを身につけていた。うっかり急いだために裾を踏んだらお話にならない。
社交界のパーティーで貴婦人をエスコートするように片腕を差し伸べたベストに、つかまるようにして自分の腕を絡めた少女は、ほっと息をついてから自分のペースで歩きだした。
「もう少し体力をつけたまえ、マリー」
ベストに連れられた少女は、グリュックスに咎められてもけろりとした表情で年上の男を見上げてからまばたきをするとややしてから「はい」と笑う。
良き妻であり、良き母になるためには、健康なドイツ女性でなければならない。不健康で生き残る力のない者は、生きていく資格はない。
そうした措置により、多くの「不健康な」者たちが、医師や看護婦の手によって抹殺されたことをリヒャルト・グリュックスは知っている。数年早ければ、彼女はそんな子供のひとりに入っていただろう。
それにしても、とグリュックスは思考の片隅で考える。
彼女の年齢を考えれば、当然のように虚弱体質の少女など抹殺の対象となっていたはずだ。だというのに、彼女は生き残っている。
ハイドリヒという姓から考えると、かつての国家保安本部長官の親族と考えていいのだろうか? しかし、ハイドリヒという名前自体それほど珍しいものでもない。赤の他人であるという考え方もできるが、それにしたところで、どこからどう見ても虚弱体質の少女が生き残れる理由がわからない。
痩せた少女と、彼女を支えるヴェルナー・ベストを訝しい思いで見つめながら、グリュックスは背後から響いた声に振り返った。
「ヒトラー万歳、閣下」
ザクセンハウゼン強制収容所長、ハンス・ローリッツ親衛隊上級大佐である。
「ハイル・ヒトラー」
応じたグリュックスに、ローリッツは視線をわずかに伏せると声を潜めた。明るい真昼の太陽の下を歩くヴェルナー・ベストとマリア・ハイドリヒを遠目に眺めやる。
「彼女は、いつのまに親衛隊士官になったのです? 閣下」
「知らん」
ローリッツの言葉に、にべもなく応えたグリュックスは品の良い顔立ちをした法律家の親衛隊中将と、屈託のない微笑をたたえている華やかな青い瞳の少女を見つめて、顎に片手を当てると背後に立つ部下に視線をくれた。
「わたしは人事担当ではないからな」
「……そうでありますが」
言葉を濁したハンス・ローリッツは困惑した様子で、管理棟の入り口までたどり着いたふたりに向かって歩きだすグリュックスを追いかけるように言葉を放った。
「親衛隊員に子供が……、しかも”女の子”が登用されるなど前代未聞です」
「そうかもしれん。だが、今後もないとは言えんだろう」
”女の子”が登用されるかどうかはともかく。
戦況が逼迫すれば、”子供”が登用されることも大いにあり得る話しだ。
東部に展開するソビエト連邦主導のパルチザンの女性部隊のように。
「しかし、閣下」
「我々よりも上で決まったことだ、わたしたちが抗議したところでどうにもならんだろう」
よほどのことがあってヒムラーが考えを変えるということは考えられるが、少なくとも「マリア・ハイドリヒ」の親衛隊員としての登用については親衛隊長官が承認していないはずがない。
つまるところ”そういうこと”なのである。
「そんなことよりも、ローリッツ。奴の用意はできているんだろうな?」
ナチス親衛隊員としての女性の登用。
それについて未だに続きそうなローリッツの話題を遮って、グリュックスは指を鳴らすとベストが手にしている日傘を受け取ってから、部下の下士官に手渡すとふたりを導くようにゆっくりと管理棟の廊下を歩きだした。
「仮にも女性に会わせるんだからな」
「……ご命令通り準備はできておりますが」
口ごもったローリッツは、ゆっくりと歩くベストの鋭い眼差しを受けて凍り付いてしまった。
SDの徽章は伊達ではない。
ローリッツらの髑髏の徽章が飾りではないように。
国家保安本部に所属する情報将校たちは、強制収容所を管理する髑髏部隊の隊員たちとはまた異なる意味で誰よりも恐ろしい相手だった。
「そういえば、ゲシュタポのミュラー局長から聞いた話だが、海軍総司令官閣下に会ったとか?」
ベストが告げるとマリーはにこやかに彼を見上げてから、桜色の唇に人差し指を押し当てる。
「参謀本部のシュタウフェンベルク少佐とお話しをしていたときに、カイテル元帥とレーダー元帥にお会いしたんです」
わかりやすい説明に、ベストは「なるほど」と頷けば、グリュックスはそんなふたりの会話を興味深そうに聞き入っている。なにを考えているのかわからない笑顔。なによりも不可思議に感じるのは彼女の物言いだった。
グリュックスに呼び掛けるときもそうだ。
初めは彼に対して「閣下」と呼び掛けていたが、すぐにハンス・ユットナーやヴェルナー・ベストにそうであるように「グリュックス少将」と呼ぶようになった。彼としては咎めたいところもあるが、いかんせんハンス・ユットナーやヴェルナー・ベストらの、グリュックスよりも階級が上であるはずの者たちが「閣下」とつけられていないことをなんら問題としていないというのに、彼が抗議できるわけもない。
一応、国家保安本部長官のカルテンブルンナーに直接抗議をしたものの、彼からの回答はと言えば「彼女は世間の常識に少々疎いからそれでいいのだ」とよくわけのわからない返答をされてしまった。
要するに、マリー直属の上官が彼女の言葉使いを容認している以上、グリュックスがそれ以上の文句を言うわけにもいかない。それでどこかおもしろくないものもあって、リヒャルト・グリュックスが、カルテンブルンナーに対して「ではわたしも、彼女をマリーと呼んでもいいのか」と言った趣旨の台詞を突きつければ、国家保安本部長官は電話越しに苦笑したのだ。
「彼女がそれでいやな顔をしなければ、そう呼んでもいいのではないかね?」
結果、程なくしてグリュックスは少女に対して「マリー」と呼ぶようになり、グリュックスのどこか居丈高な態度に対して、法学博士のベストは言葉にこそしないものの、なにか言いたそうな表情をしただけだった。
マリーは、そう。
いつも正体不明の笑顔のままだ。
カイテル元帥と、レーダー元帥。
彼らのことですら彼女はそう呼ぶのだ。
「マリー、もう少し目上の人間に対して礼儀を払うべきではないのかね?」
つけつけと思ったことを口にしたグリュックスに、少女の首席補佐官を務めるヴェルナー・ベストが口を開きかけたそのときだ。
少女がベストの腕につかまったままでにっこりと笑う。
まるで、太陽のかけらのように。
「”どうして”ですか?」
彼女の他意のないその声色に、ベストがはっとしたように顔を上げる。そうしてグリュックスを凝視して、彼は再び少女を見下ろした。
どうしてか、と尋ねられればベストはわからない。
ただ本能で危険だと思った。
「……マリーっ」
やめなさい、そう言いかけたベストの言葉は間に合わなかった。
「……――目上って、”なんですか”?」
悪意もなければ害意もない声が響く。
彼女のそれは、誰かを傷つけようなどとは思って放たれたものではない。
「”グリュックス少将”……?」
思わずそのままベストが少女の顔を自分の胸の中に抱き込んで、リヒャルト・グリュックスの視界からマリーの眼差しを引きはがした。
なぜかはわからない。
そうしなければ危険だと思っただけだ。
強くベストの胸に顔を押しつけるように抱きしめられて、マリーはぱちりと目を瞬いてから顔を上げる。首席補佐官の突然の行動に驚いたようだ。
「ベスト博士……――?」
少女の声の調子が元に戻ってベストは数秒の後にほっと胸をなで下ろす。
「……いや、なんでもない」
彼女の声は。
彼女の眼差しは、例えるならば全てを飲み込む津波に似ている。
良くも悪くも、人という人を飲み込んで、小さな船など簡単に転覆させる力を持っているのだ。
「なんでもない、マリー」
こうした言動をするとき、彼女は決して頭で考えているわけではない。そして頭で考えているわけではないからこそ危険極まりないということを、ベストは知っている。
彼女をたったひとりで暴走させてはならない。
「マリー、君は余分なことに頭を使う必要はない。”複雑なこと”は、わたしに任せておきなさい。いいね?」
言い含めるようにベストに告げられて、マリーはなにを言われているのかわからない様子だったが、彼の言葉を聞き終わってからにっこりと笑った。
「はい、わかりました」
ヴェルナー・ベストは優秀である故に、彼女の刃物のような危険性を垣間見ていた。おそらく特別保安諜報部に所属する高級指導者の全員が感じている事だ。
大きな溜め息をついたベストはそうしてグリュックスに向き直った。
「グリュックス少将、貴官は余分な詮索をしなくても良い。自分の身が大事なら、我々を敵に回すべきではないと言うことだけを申し上げる」
ベストの言葉は切れ味の鋭い刃物のように、リヒャルト・グリュックスに切り込んだ。
警察組織である国家保安本部を敵に回すと言うことがどれほど危険なことであるのか、親衛隊に属する人間が知らないわけがないのだと言うことを、切れ者の法学博士は突きつける。
牽制するような彼の言葉が、実のところグリュックスを救っていたのだということを、まだ強制収容所総監を務める男は知らなかった。




