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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
X 天の車
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7 高みに在る者

 現状の限られている予算では、とヘルマン・ゲーリングは執務室で考え込むとうなるような声を上げる。

 一朝一夕で兵器が完成するわけではない。

 ありとあらゆる意味で。

 自分の名誉と、見栄のために多くの者を犠牲にしすぎた。それを彼は改めて自覚する。

 ――どこかで、歯車が狂った。

 自制がきかず、自分を見失ってしまった。けれども、今さらそれを後悔したところで彼が失ってしまったものは戻ってこない。

 そうしてゲーリングは執務机の片隅に置かれた写真立ての中で柔らかくほほえんでいる女性を見つめてから深く長い溜め息をついた。

「……カリン、あなたはこんなわたしを笑うだろうか?」

 それとも軽蔑するだろうか。

 まだナチス党の黎明期。党の活動に邁進する彼を優しいほほえみを浮かべて支えた美しい妻のことを思いながら、彼はやがて目を閉じる。

 贅沢に溺れ、自分を律することもせず、楽をすることに慣れてしまっていた。そんなゲーリングの前に現れたのは、まるで青いガラス玉のような瞳を持つ少女。

 冷たくもなければ優しくもない、ただ、それは見る人間によってそれぞれに異なる色を映し出すように。

 まるで、鏡のような。

 彼女はナチス親衛隊――ヒムラーの私設警察部隊の隊長だということだった。けれども、とゲーリングは思った。青い瞳の金髪の少女は、そんなにかわいらしい存在ではないはずだ。

「あれは、化け物だ……」

 あれはヘルマン・ゲーリングが生涯の中で一度たりとも出逢ったことのない化け物。人とは誰であれ、ある一定の傾きが存在している。しかし、彼女は”そう”ではなかった。若いが故にまっすぐなわけではなく。若いがゆえに思慮が足りないわけでもない。

 ただひたすらに、鏡のような湖面に波紋を描き出す音叉のように。

 おそらくハインリヒ・ヒムラーは自分がどれだけ危険なものを手の内にしているのか自覚もしていないだろう。ゲーリングも彼女に出逢ったばかりの頃は気がついていなかったのだ。もちろん薬物依存による判断力の低下も原因にあったろう。けれどもそれだけではどうにも説明のつけられないことが多かった。

 ヒムラーは愚かな男だ。

 だから彼は気がつけない。

 「彼女ら」の策謀によってゲーリングの誇る調査局(FA)は、彼の手の内から離れてしまったため、今では「彼女ら」の動きを探ることも出来はしない。それにしても多くのエリートとも言える情報将校らが彼女と接触を持っているにも関わらず、その無力な少女はまるで女王のように人々の中心に君臨する。

 非力であるが故に危険な存在だ。

 彼女は、何者だろう……?

 失礼します、という声が響いて彼の執務室へと副官の士官が入ってきた。手にはファイルの束を持っている。

 形式通りの敬礼に、律動的な動作でゲーリングに書類を差しだした青年は無駄口を一切たたかない。

「……海軍の航空支援、か」

 差しだされたのはドイツ国防軍海軍からの、空軍に対する航空支援要請に関する書類だ。対英戦が開始された頃から再三にわたって要請を受け続けてきたが、海軍及び陸軍による作戦に対する横槍をゲーリングは嫌悪していた。

 空軍は陸軍のおまけではないし、決してその支援のためだけに創設されたわけではない。空軍は空軍だけで作戦活動が可能なのだと知らしめたかった。

 書類を凝視したまま独白したゲーリングはデスクに肘をつくと、じっと目を細めてから首を傾げる。

 重爆撃機の急降下性能を諦めた事による予算が浮いたことと、アフリカ、ソビエト連邦におけるドイツ軍の優勢によって現在、空軍にもいくばくかの余裕があった。

「フランスの第三航艦を差し向けるか……」

 確かに現在の戦況を見る限り、カール・デーニッツの潜水艦隊は大きな成果を上げつつあった。何よりも、今恩を売っておけば三度(みたび)計画されるだろう対イギリス戦でなんらかの見返りを期待できるかも知れない。

 重爆撃機の急降下性能をゲーリングは諦めたが、代わりに彼は連合諸国同様の戦略爆撃に目を向けた。元々、航続距離については不可能だったわけではない。戦闘機総監のエアハルト・ミルヒの主導によって急ピッチで戦略爆撃機の開発と製造が進められていた。



  *

 この頃、ベルリン郊外にある国防軍総司令部総長のヴィルヘルム・カイテル元帥は、陸軍総司令部参謀総長のフランツ・ハルダー上級大将を迎えて困惑しきった表情のままで黙り込んでいる。

 それからしばらくしてカイテルは口を開いた。

「君たちの言いたいことはわからんわけではないのだ……」

 弱り切った眼差しのままカイテルは溜め息混じりに告げる。

 ――ヒトラーのイエスマン。

 そう揶揄される男。

「たまたまだ、カイテル」

 鋭く切り込むように指摘したハルダーにカイテルは困った様子でうろうろと視線を彷徨わせて、何度目かの溜め息をついた。

「アメリカの国内問題も、ソ連のクーデターも。そして北アフリカで起こった天然痘の汎発流行(はんぱつりゅうこう)も」

 そこで一拍あけてから、ハルダーは自分の目の前の椅子に座っている元帥を見つめた。

「全てがたまたまだということは、”君”もわかっているだろう」

 ナチス親衛隊の若造共は気に入らないが、とハルダーは思う。

 いくら彼らが後先を考えない軽率な行動を取ることが多いとは言え、さすがに自国軍が展開する地域に有毒性の強いウィルスをばらまくことなどしないだろう。そう考えるとヒムラーを筆頭とする親衛隊高官たちの言い分も納得はできるのだ。

 そしてたまたまそれら全てがドイツ側の状況を好転させる要素となった。とはいえ、状況は決して楽観的とは言えないだろう。

 北アフリカでは未だに天然痘の脅威は消えておらず、その大波に飲み込まれており、一部の政府高官がかろうじておっかなびっくりカイロ入りしてイギリス側と交渉を進めているという状況だ。

 また、東部は油田地帯のコーカサス地方を制圧したことによってアメリカ、ソ連の軍隊が撤退したことから中東地域が一気に親独体勢派になだれをうった。とはいえスターリンは未だに逮捕されてはおらず、現状としてはフルシチョフ率いるクーデター派によってスターリングラードは陥落寸前に追い込まれている。

 コンスタンチン・ロコソフスキーとドミトリー・パブロフの大軍団に助勢されたフリードリヒ・パウルス大将に指揮されたドイツ国防軍陸軍第六軍は、一気にヴァシリー・チュイコフのスターリングラード防衛軍に食らいついたのだ。

 そののど笛を噛みきるために、もはやパウルスの軍団の三倍以上に膨れあがった大部隊の約三分の二はチュイコフやジューコフのやりかたを知り尽くした精鋭だった。

 けれども。

 そのクーデター派と合流しながら、パウルスは極めて冷静に、そして慎重に彼らの動向を観察している。

 ロシア人など信用ならぬ。

 それがパウルスの見解だった。

 どちらにしたところで、フルシチョフが新政権を宣言し、この政府との講和、あるいは降伏を引き出さなければドイツの戦略目標は達成しない。

 アメリカの国内状況も同じだ。

 全てがたまたま同じタイミングで一度に起こったに過ぎないのだ。

「……君たちの言いたいことはわかっているのだ」

「わかっているならば、貴官にはやらなければならないことがあるだろう」

 激昂しかかるハルダーに、カイテルは額を指先で拭いながらじっと硬直したように考え込んで目を伏せる。

「しかし、彼らは軍隊すら我がものにしようと企んでいる……。我らは、彼らの私兵などではない」

 そのためには、自分が矢面に立たなければならぬとヴィルヘルム・カイテルは自分の立ち位置をしっかりと理解していた。それはハルダーにもわかっていた。それでも尚、カイテルには多くの権力に立ち向かってもらわなければ困るのだ。

 時にはヒトラーにすらも断固たる態度でいなければならない。

「わたしはすでに総統との関係は悪化している。だから、君にしかできないのだ。カイテル」

 フランツ・ハルダーは、自分自身と総統アドルフ・ヒトラーの信頼関係が冷え切っていることを自覚している。おそらく、近く陸軍総司令部参謀総長の席も更迭されるだろう。しかしハルダーにも誇りがあった。

 戦争の真っ最中である以上、今はまだ更迭などされてなるものかと強い意志を固めている。

「だが、……わたしは」

 おべっか使い、とも揶揄される男は優柔不断な眼差しをハルダーに向けて何度となく嘆息した。

「カイテル、君は本当におべっか使いで終わって良いのか?」

 強く問いかけるハルダーに、答えを出せないままで執務机の椅子から立ち上がる。そうして視線と同じようにぐるぐると部屋の中を歩き回ってから弱気な笑顔をたたえてから、左右にかぶりを振った。

「もう少し考えさせてくれないか」

「時間はないのだぞ」

「……わかっている、ハルダー」

 おべっか使いのカイテル。

 意地の悪い者はカイテルがヒトラー政権におべっかをつかったから今の地位にいるのだと言う者もいる。

 事実そうなのかもしれない。

 少なくとも、自分よりも優秀な将軍は何人もいる。

 それでも、弱気な自分を認めたくなかった。軍人として強い人間であるという誇りもあった。

「カイテル、わたしは君の軍人としての誇りを信じている」

 軍人として……。

 ハルダーはカイテルに告げると陸軍式の敬礼をしてその執務室を去っていった。ひとり執務室に取り残される形になったカイテルは部屋の中央に置かれたソファに深く腰をおろしてから目を閉じる。

 どうすればいいのだと考えてみても答えなどでない。

 昨年の末、モスクワ攻略に失敗した時のアドルフ・ヒトラーの怒りは凄まじかった。イギリスとの戦争が継続中であると言うことは、事実上二正面戦争に陥るということになるというのにそれを取り合わなかったヒトラーの責任もあるではないか。

 けれども、彼にはそれを進言する勇気がなかった。

 ヒトラーは、自分に反対する人間を闇に葬るだけの権力を持っている。それがカイテルには恐ろしくて仕方がない。

 何度、何十度という溜め息の末に、カイテルは立ち上がると電話の受話器をあげた。

 ハルダーの要求はいくつかあった。

 まず第一に、ナチス親衛隊の主に一般親衛隊の戦場地域に対する関与の拒絶。第二にヒトラーの作戦行動に対する横槍の拒絶。さらに、空軍の勝手な行動の封じ込め、がそれだ。

 要するにハルダーは、カイテルに対してヒムラーとヒトラー、そしてゲーリングに対して戦争を仕掛けろとけしかけているのだ。

 さらに言うならば、「一般親衛隊の戦場地域に対する関与の拒絶」ということは、国家保安本部の関与を拒絶しろと言っていることに他ならない。

 国家保安本部。

 今はエルンスト・カルテンブルンナーが仕切るドイツ最高の警察治安維持組織だ。秘密警察としての側面が強く、さらに最近ではあの手この手を使って多くの情報を一手に掌握している。

 カルテンブルンナーの下に名前を連ねるのは、悪名高いブルーノ・シュトレッケンバッハ、ハインリヒ・ミュラー、アルトゥール・ネーベ、オットー・オーレンドルフ、ヴァルター・シェレンベルク、アルフレート・ジックスなど。そうそうたるメンツが名前を連ねていた。

 ハルダーはカイテルにそんな悪辣な男たちとひとりで対峙しろと言っているのだ。

 ヒムラーとヒトラー、ゲーリングの三人だけでも頭痛の種だというのに、これに加えて国家保安本部の悪人たちときては胃も痛くなると言うものだ。

 どうしたものかと思考を巡らせるカイテルが何度もダイヤルを回そうとしては受話器を置いて、といった行動を繰り返した。

 結局、目的の施設へ電話をかけることもできないまま、その日の業務を終えたカイテルは自宅に直行する気にもなれずに憔悴したままで運転手に車を走らせていると、ふと目に入った少女がいた。

 思わず車を止めさせる。

 ベンチに座ったまま膝を抱えて、その頭上には青青とした緑が広がっている。

 肩のところで無造作に縛られた紐で吊られたドレスのように長いクリーム色のワンピースはリゾート用なのか、胸の下で絞られており柔らかな布地で作られたスカートはそのひだが品の良さを演出していた。

 吊られた左腕は彼女が確かに骨折しているのだということを訴えていて、誰かを待っているのかとも思われた。

 なぜ、と尋ねられたらどう答えたらいいのかはわからない。

 なぜか彼女が答えを持っているような気がしたのだ。

「……お嬢さん(フロイライン)

 そう言いかけた唇が固まった。

「女の子がそんな格好をするもんじゃない」

 咎めるような若い声が響いて、痩せすぎた金髪の少女は声のした方向に笑顔を向けると手渡されたビンを受け取った。ジュースかなにかだろう。

「誰も見ていないわ」

「……そういう問題じゃない」

 眉をひそめた長身の男はそれから彼女がベンチから足をおろしたのを確認してその隣に腰掛ける。

「この間は、助けてやれなくて悪かったな」

「いえ、大丈夫です」

 暴漢に襲われ、骨折させられていながらなにをどうすれば「大丈夫」と言えるのか、青年にも理解できなければ、彼らの会話を聞くともなしに聞いていたカイテルにもわからないかい。

「その後の捜査状況はどうなっているのだね?」

「さぁ……?」

 参謀将校の少佐に問いかけられて少女は首を傾げてみせると花のような笑顔を浮かべて、無防備に男の肩に寄りかかる。

 顔色が悪いのは仕事が終わった時間で疲れているためだろうか。

「ミュラー局長が教えてくれないのでよく知りません」

 参謀将校はクラウス・フォン・シュタウフェンベルク少佐で、少女のほうはナチス親衛隊の国家保安本部の情報将校だろう。先日のヒムラーとの会議の際に顔を合わせたような気がする。

 怖くはないのか、と問いかけられて少女は長い金色の睫毛を瞬かせると考え込むように唇に人差し指を押し当てた。

「どうしてですか?」

 彼女の足元には一匹の犬が寝そべっていて、大柄の赤い犬は見るからに警察犬だった。穏やかな風にひらひらと揺れる長いワンピースが、少女の危ういアンバランスさを感じさせてヴィルヘルム・カイテルは目を奪われる。

 ベンチに座って若い参謀将校と話しをしているだけのそんな情景は、余りにも穏やかでカイテルの疲れ切った心に清水のようにしみこんだ。

 何もかもに疲れてしまった。

 そんなカイテルがいることに気がついたのだろう。

 少女が目を上げて彼の視界の中でにこりと笑った。

 次いで、シュタウフェンベルクが踵を鳴らして立ち上がる。カイテルに対して敬礼をする青年士官とは対照的な少女の親衛隊士官の姿。

「……あ、カイテル元帥閣下」

 軍隊の礼儀など知らない少女は、会議の席と変わらない無邪気さのままににこにこと笑ってカイテルに無事な方の右手を振った。

こんにちは(ハロー)!」 

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