3 世界の色彩
公用のメルセデスの中で目を醒ましたマリーは自分の横に座って肩を貸している体勢のアルフレート・ナウヨックス親衛隊少尉にゆるゆると視線を上げた。
「本当に寝ないでください、少佐殿」
「朝からあっち行ったりこっち行ったりで疲れちゃったのよ」
ナウヨックスは最近のマリーに対して大きな不安を感じていた。
八月の半ばに暴漢にあってから、活動量に対して彼女の体力が追いついていないような気がしてならない。
「食事はちゃんととれているんでしょうね?」
「ちゃんと食べているわ」
心配性ね。
マリーはナウヨックスに寄りかかったままでそう告げる。
「……小官は、あなたを見ているとよくわからなくなります」
少し無礼な言動をしたからと言って、軍隊式の流儀にも、親衛隊員としての礼儀にも疎いマリーは神経質に叱責したりすることがないということを、このしばらくの経験で実感した。それ故に、年長者としてアルフレート・ナウヨックスの言動も少々教師じみたものになる。
本来、荒くれ者として名を馳せた彼は少女の面倒を見ることなど慣れてもいないし、時折どう対応して良いものかわからなくなる。少し乱暴に扱ったら余分な怪我を負わせてしまうことになりそうで怖いというところもあった。
「そう?」
マリーは自分の頬に人差し指を当てて考え込むと、ナウヨックスの膝に手のひらをついてから体を起こした。
「どうして、わたしのことをわかろうとするの?」
「自分の上官だからです」
「……ふーん」
意味がわからない、とでも言いたそうなマリーは両腕を上げて伸びをすると、手首を車の天井に当ててしまってびっくりした様子で頭上を見上げる。
「あなたは、怖くないのですか?」
「なにが怖いの?」
彼女の行動をずっと見てきた。
親衛隊の高官たちばかりではない。彼女は、国防軍の高官にも。また政府要人たち相手にすら躊躇もしなければ、気後れすることもない。
この反応だ。
それこそがナウヨックスの混乱の元凶だった。
まだマリーと引き合わされたばかりの頃と比べて、かなり性格が変わったような気がする。もちろん、観察していたわけではないから「気がするだけ」だ。そして性格の変化と同時に、彼女の情緒が随分安定してきているように思われた。
こんなに短期間で性格が変わると言うことがあるのだろうか。
「あなたはいつも、自分よりもずっと上の人間たちを相手と対峙している。その上、二度も襲われているというのに身の危険を感じないんですか?」
「別に……?」
ナウヨックスが何を心配して、何を訝しく感じているのかマリーにはさっぱり理解できない。
「我々があなたのことを必ず守れるという保障はないんですよ?」
「わかっているわ」
「わかっていません」
「……そんなことないと思うけど」
ナウヨックスの言いたいことが理解できないマリーは視線だけを頭上に上げて考え込んでから、やっぱりわからないとでも言いたげに左右にかぶりを振った。
考え込んでいるマリーはややしてから結局答えが出なかったらしく、車のドアを開けてから吹き込んでくる生温い風にあくびをひとつしてみせた。口元を手で覆う仕草が可愛らしい。
反対側のドアから車外へと出たナウヨックスは、背後で腕を組み合わせると両足を肩の広さに開いた姿勢でまっすぐ前を見据えると、視線で少女を見下ろした。
「まだ諦めてないんですか?」
「グリュックス少将のこと?」
「はい」
青年の言葉にマリーは両脚を行儀悪く揺らしてから、そうね、と言った。
「きっとカルテンブルンナー博士が、ポール大将と話しをした後だと思うからものすごく警戒されているのね」
「……はぁ」
彼女はいつもそうだ。
国家保安本部の長官に就任したエルンスト・カルテンブルンナーを「博士」と呼ぶ。なんでも彼女が国家保安本部のSDとして名前を連ねる前からのつきあいらしく、マリーにそう呼び掛けられてもカルテンブルンナーは嫌な顔ひとつしない。
カルテンブルンナーとポールが会談をしたということがわかっているのに、マリーは自分とはまるで関係がないとでも言うような顔のままで夏の日差しの下でほほえんでいる。
「わかっていてもグリュックス少将閣下に会いに来たんですか」
「だってわたしとは関係ないもの」
自分とは関係ない。
そう言い切った彼女は、静かに停車する車の音に顔を上げた。
「ユットナー大将」
助手席から出てきた長身の親衛隊高級指導者に、マリーは口元をほころばせると相手の名前を呼び掛ける。
「どうだね?」
「ダメでした」
屈託もなくハンス・ユットナーに応じたマリーは、後部座席に腰を下ろしたままで自分に歩み寄ってくる男を見つめ返す。
「そうだろうな」
国家保安本部の親衛隊少佐と親衛隊少尉では、いくら武装親衛隊のユットナーが紹介状を書いたところで規律を重んじる高級指導者たちは目もくれないだろうと思われた。
そのうえマリーの所属する国家保安本部と、グリュックスの経済管理本部は犬猿の仲と言っても良い。
「ユットナー大将はどうしたんですか?」
ユットナーが少女を気遣ったのはナウヨックスの目から見ても明らかなのだが、気遣われたマリーのほうはというとそんなこと関心がないとでも言うかのような見事な自然体だ。
「たぶん門前払いされているだろうと思ったからね、様子を見に来たんだが」
必要なかったかね?
「ユットナー大将はなにもかもお見通しなんですね」
クスクスと笑った彼女は、差しだされたユットナーの手に自分の手を重ねるとスカートを揺らして立ち上がった。
「君が言ったんだろう、ヤーコフ・ジュガシヴィリと話しをしたいと」
組織同士の対立も、個人の確執も。
マリーにとってはどうでも良い。
ただ自分のやりたいことをやっているだけ。
だから多くの人が彼女の行動に対して好奇心を抱いた。
「言いましたけど、ユットナー大将は関心ないかと」
「どうせ門前払いされていると思ったからな」
帰りはわたしが送ってやるから貴官らは帰ってかまわん、とユットナーはナウヨックスに命じて少女を自分の車へと招くと早々に発進させると、あっという間に経済管理本部D局のオフィス方面へと向かって車は消えていった。
*
こうして少女を伴ったハンス・ユットナーの来訪に、驚いたのはリヒャルト・グリュックスで仰天したまま素早く立ち上がると親衛隊作戦本部長官に対して「ハイル・ヒトラー」と片手を上げた。
「これは、ユットナー大将閣下」
「わたしの紹介状があったはずだが、門前払いをしてくれたそうだな?」
「……――」
彼の言葉にグリュックスは言葉を探すように視線をさまよわせてから、ユットナーの隣に立っている少女を眺めやった。
「だったらなんだというのですかな?」
ユットナーの手紙を持ってきたのは国家保安本部の情報将校だった。
本来、国家保安本部の情報将校であればエルンスト・カルテンブルンナー親衛隊大将からの通達があって然るべきだ。だというのにあまつさえ自身の上官の頭を通り越して、武装親衛隊のユットナーからの紹介状を持参してきたとは非常識にも程がある。
門前払いを受けて当然だった。
「カルテンブルンナー博士はわたしがなにをしていても怒らないわ」
若干ずれた返事をグリュックスに返したマリーに、ふたりの高級指導者の視線が釘付けにされた。
「ユットナー大将閣下、こちらは?」
「”彼女”が、わたしの紹介状を持たせたマリア・ハイドリヒ親衛隊少佐だが、聞いていないのかね?」
執務机の上に放り出されたユットナーの手紙を振り返ったグリュックスが一瞬絶句した。ヤセギスの頼りない少女は、まるで貴婦人のようにユットナーに手を引かれてそこにいる。
「ユットナー大将閣下、手紙ではザクセンハウゼンにいるヤーコフ・ジュガシヴィリとの面会を希望されているとあったが……」
長い沈黙の後にやっと声を絞り出すようにして言ったグリュックスは、かろうじて表情を取り繕うとふたりに対してソファを薦めた。
「スターリンの息子と彼女を引き合わせてどうなるというのです」
「さて、それはわたしの知るところではないが。ハイドリヒ少佐が希望したことだからな」
ザクセンハウゼン強制収容所に収監されている赤軍中尉。
スターリンの息子。
「閣下は、国家保安本部の動きを警戒されているんですか?」
ユットナーの隣に腰を下ろした彼女は、底知れない青い瞳でじっとリヒャルト・グリュックスを見つめると、形の良い唇を開いてそう告げる。
グリュックスはかつての強制収容所総監であるテオドール・アイケの幕僚長を務めていた男だ。要するに、グリュックスにとっても国家保安本部はそれなりに確執が深い相手と言えた。
アイケとハイドリヒ。あるいは強制収容所と国家保安本部の諍いを誰よりも知っている。
「……質問するが、君が国家保安本部に名前を連ねるようになったのはいつからだね?」
「この二ヶ月くらいだと思いますけど……」
うーん、とマリーは考え込みながら素直に応じたマリーに、年長者でもあるグリュックスは侮蔑するように鼻を鳴らす。そんな強制収容所総監に対して、ハンス・ユットナーは片方の眉毛をつり上げた。
「では、君は国家保安本部がどれだけ悪辣な手段を使って強制収容所を乗っ取ろうとしていたかは知らないわけだ」
「……そんなものわたしは知らないし、興味もないですけど。閣下は”そんなこと”にまだこだわってるんですか?」
マリーのそれはどこからどう見ても無礼な態度だが、それをユットナーは咎めようとはしなかった。
なぜなら、彼女の言っている事は男たちが目をそらし続けてきた権力闘争を象徴していたからだ。子供の瞳は限りなく素直に純粋で物事を純粋に映しているものだから、プロパガンダなどでごまかすことはできはしない。
「そんなことだと……!」
激昂しかけたグリュックスに、マリーは咄嗟に両方の耳を手のひらで塞ぐ。
「グリュックス少将、図星だからとそういきりたつな」
どこか冷静にユットナーがグリュックスに指摘すると、強制収容所総監はぎょっとしたように少女を凝視してから閉口した。
「無礼にも程があるとは思わんのか……っ!」
言葉が見つからずに絶句しているグリュックスがやっとそれだけ言うと、マリーは閉じていた目をそろそろと開いて烈火のごとく怒り狂っているグリュックスを見つめ返す。そんなマリーの両耳を覆っている手をそっと外してやって、ユットナーはかつてのテオドール・アイケの幕僚長を注意深く見つめた。
たかが少佐にすぎない情報将校。
しかも年齢はどこからどう見ても十代半ばときたものだ。
いくらユットナーの後ろ盾があるとは言え到底納得できる話しではない。
「わたしの行動をカルテンブルンナー博士は咎めたりはしませんし、ユットナー大将も信頼してくれています。別に、ヤーコフ・ジュガシヴィリを逃がしてやろうと思っているわけではありませんし、わたしが国家保安本部の人間だからとか、閣下が経済管理本部の人間だからとか、ハイドリヒ前長官とアイケ前強制収容所総監の関係がどうこうとか、考えすぎなんじゃないですか?」
マリーは相手の神経を逆なでするようなことを平然と告げるが、それはなにもグリュックス相手に限ったことではない。
ユットナーに対する時も”そう”だったのだ。
――くだらない確執に捕らわれることこそ、大きな組織という利益を損なうのだということ。
それを彼女は暗に指摘した。
グリュックスはだからこそマリーの言葉の底知れなさにぞっとする。
彼には彼女の意図が理解ができない。
「あなたと、わたしの間にはなにもない」
まっすぐな子供の眼差し。
彼女と相対した者が感じたように、まるで底なしの沼の底を見極めようとしているかのような。
捕らわれた……――。
そこにいるのは小さな少女だというのに。
確執も反目も、存在しない。
「だが、君は国家保安本部の人間で、わたしは経済管理本部の人間だ……」
苦し紛れのグリュックスの言葉に、そうしてマリーは花を咲かせるような、もしくは太陽のかけらのような笑顔をたたえた。
「……そう。”だから”?」
マリーが国家保安本部国外諜報局の人間で、グリュックスが強制収容所総監だ。
普通の頭で考えれば両組織の間にあるのは、奈落よりも深い確執ばかり。それを、無邪気な少女は無邪気であるがゆえにあっさりと飛び越えて右腕を差し伸べる。
その悪魔的な双眸に、グリュックスは文字通り飲み込まれた。
「確かに、君の言うことは正論だ」
自分と、少女の間にはなにもない。
真っ白な、なにもない関係しかふたりの間にはありはしない。
だからグリュックスは少女の差し伸べた手を無意識に握りかえす。
「わたしにとって、君の存在はまだゼロだ」




