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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
II ワルキューレ
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2 死の天使

 窓辺の椅子に座らされているマリーは、親衛隊員たちの体格がより強いコントラストとなって病的なほど華奢に見えた。壁に背中を預けてハインリヒ・ミュラーは親衛隊員と少女が言葉を交わしているのを見守っている。

「……名前はマリア・ハイドリヒで間違いないな」

 問いかけられて、マリーは困惑したように目の前の男を見つめてから小首を傾げると、壁を背にして立っているミュラーに助けを求めるように視線をやった。

「視線をそらすな」

 きつい口調で言われて、少女はミュラーを見やった瞳を戻すと肩を落とす。

 視線を落としてテーブルを見つめた彼女に、尋問にあたる武装親衛隊の情報官は思いきり机に手のひらをたたきつけた。

「……顔を上げろ」

 その音にびくりと肩を揺らした彼女は怯えたように顔を上げると青い瞳を揺らした。

 マリア・ハイドリヒ――。

 その名前が自分の名前だと、彼女はヴィルヘルム・カナリスから聞かされていた。別に話をはぐらかそうとしているわけではなく、記憶が曖昧なマリーには男の言葉の全てを理解することができないのだ。

 ラインハルト・ハイドリヒの遠縁の娘で、幼少の頃に一度死にかけた。病院で死んだものと思われていたが、実はベルリンで生存していたことが発覚しそんな彼女の後ろ盾となっているのが、ラインハルト・ハイドリヒが生存していたときに交友関係を結んでいたヴィルヘルム・カナリスである。

 それが国家保安本部第六局から提出された調査書類だった。

 もっとも、提出したのは第六局だが実際に調査を行ったのはゲシュタポの第四局と国内諜報の第三局である。

 その調査報告書についてはハインリヒ・ミュラーもよく知るところだ。

 目を通して処理したのは彼なのだから。

「はい……」

 おずおずと顔を上げた彼女は、自分を疑う武装親衛隊の情報将校を見つめて細く息を吐き出した。

「貴様は六月九日のラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将閣下の棺に潜んでいたそうだが、大将閣下の遺体をどこに隠した」

 きつい口調で問いかけられてマリーは首をすくめる。

 そんな質問にミュラーは眉をひそめた。

 そういえばそんな事件もあった。

 もっとも、その事件は国家保安本部の上層部でヒムラーの権限によって握りつぶされていたからもうとっくに解決したものと思っていた。もちろん、彼もその件については独自に調査をしたものの、結局彼女がハイドリヒ家に連なる人間だ、ということの事実以外はなにひとつ出てこなかったのだ。

 ついでに言うならば、疑惑は晴れていないからミュラーが時折監視していると言っても過言ではない。

「……それは」

 マリーの声が掠れる。

 運が悪ければ犯罪者として強制収容所行きだ。

 ミュラーが無言のまま尋問の様子を窺っていると、それほど広くはない室内にもうひとりの男が入ってきた。

 室内に長身の男たちが何人も控えていては、部屋が狭く感じられるほどだ。

 突撃隊シュトゥルアプタイルングの幕僚長ヴィクトール・ルッツェだ。

 意外な人物が入室してきて、ミュラーはわずかに片目をすがめた。

ヒトラー万歳(ハイル・ヒトラー)

 手を挙げて敬礼をしたミュラーに、ルッツェも敬礼を返す。

「どんな様子だ」

 長いナイフの夜事件の際、前突撃隊幕僚長エルンスト・レームの後を引き継いで、幕僚長に任命された。

「彼女にどんな嫌疑がかけられているんです? 四局と三局の合同の捜査ではフロイラインがどこかの国のスパイだという証拠など出てきませんでしたが」

 問いかけるミュラーに、ルッツェは興味深そうに椅子に座らされているマリーを見つめてから顎をしゃくった。

「東部の、戦況が逼迫しているだろう? 情報をリークしている奴がいるのではないかという疑いが出てきてな。それで、降って湧いた小娘に白羽の矢が立ったというわけだ。武装親衛隊の一部の連中が作戦がうまくいっていないことの隠れ蓑に使っている、といったところだろう」

 ルッツェの小さな声に、ミュラーは口の中で軽くうなると尋問をする武装親衛隊の将校を見やった。

 彼女はベルリンから出たこともなければ、その家に電話やラジオといった類のものすらない。加えて、マリーはまだ脚力が回復しておらず家の周りしか歩ける程度の力しかないのだ。

「ひどい嫌疑ですな。同じドイツ国民の、か弱い女性に対して」

 自分の職務を棚に上げて武装親衛隊のやり口を評価したハインリヒ・ミュラーは、小首を傾げると目の前の机で展開されるふたりのやりとりを聞いている。

「全くだ」

「しかし、今回の作戦では武装親衛隊は配備されないのでは?」

「……貴官も知っているだろうが、理由なぞなんでもかまわんのだよ」

 問題は、スパイがいるかいないかでもない。

 ルッツェの言葉にミュラーは小首を傾げた。

 つまり、要約するとこうだ。

「要するに、くだんの疑惑は国防軍と親衛隊の対立の溝からでたものだ、とでも?」

「そうなるだろうな」

 顎に手をあてたままで考え込んだミュラーは眉をひそめてから、低くうなる。

 容疑はなんでも良いのだ。

 疑わしき者は罰せよ、とは良く言ったものでおそらくマリーにスパイの疑惑をかけて処罰することこそが目的なのだろう。

 そうすることで、彼女がソビエト連邦のスパイであったとして現状から目くらましをすることができる。もっとも彼女を処罰――あるいは処刑――したところで、戦況が好転するかと言えばそれは別問題だ。ミュラーが考えていることが真実であるならば、すでに限界に達している戦況はすぐに悪い方向へと転がっていくだろう。

「閣下は彼女を処刑すれば済む事だとお考えですか?」

 問いかけるゲシュタポの長官に、ルッツェは答えない。

「彼女がどうやって奴らの疑惑をしのぐか興味深いな」

 告げた言葉は全く別のことだった。

 尋問を少女でしかない彼女がどうやって切り抜けるか。

「……――」

 ちなみに、彼女がラインハルト・ハイドリヒの棺に入っていたとは言うものの、事の子細は実のところ親衛隊全国指導者のヒムラーしか知らないことなのだ。ヒムラーが驚いてシェレンベルクを召喚したらしいというところまでは聞いたが、実際的な話しとしてその現場を目にしたのはヒムラーだけだ。

「やれやれ、問題が山積みだな」

 ルッツェにしろ、ミュラーにしろ任務とあれば私情を切り捨てることが可能だ。そうでなければ突撃隊にしろ国家秘密警察にしろそれらを束ねることなど不可能である。

 突撃隊幕僚長ヴィクトール・ルッツェ突撃隊大将に、ミュラーは無意識に頷いた。

 願わくは、と彼は思う。

 年若いドイツ人の少女が収容所送りになるところなど見たくはない。

「わたしは……」

 マリーが口を開いた。

「わたしは、ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将閣下の遺体を隠したりなどしていません」

「嘘をつけ!」

 怒鳴りつけられて、マリーは小さな悲鳴を上げると耳を塞いだ。

 しかし、青年は大きな手でその手首を掴むと耳から離させる。

「本当です……!」

「隠していないなら、どうやって棺に侵入した!」

「気がついたら棺の中にいたんです、本当です。わたしを疑われるなら、埋葬された棺を開けてみたらいかがですか!」

 そう。

 それこそが、国家保安本部内でもなし崩し的に保留にされてきた事態だ。

 少女の言葉にルッツェとミュラーが顔を見合わせる。

「わたしはなにも知りません、ベルリンから出たこともないんです……っ」

 スカートの裾を掴んで目の前の士官に言いつのる彼女は、大きな青い瞳に薄い涙の膜をたたえている。

 もっとも親衛隊大将の墓を暴くことを、一介の士官が決められるようなことではなかったから、辟易したように彼は一度壁際に立つ二人の上官たちを見つめた。

「我々は君の上官ではない、然るべき手続きをとって亡きラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将の墓を開く許可をとったらどうだね?」

 ルッツェは肩をすくめる。

 軍隊にあって上下関係は絶対だ。

 自分の管轄内にいない下級将校に命令することなどできはしないし、彼らに恩を売ってやる義務もない。

 ミュラーはすでにその気もないのか、無言のままマリーを見つめるだけだ。

 こうして、押し問答の末、ベルリンの墓を暴くことになったのだが、そこには大勢の軍幹部、親衛隊幹部、そして国家首脳部の幹部たちが勢揃いした。

 ラインハルト・ハイドリヒの墓を暴くということはそういうことだ。

 ヒムラーの横に据えられた車いすに座るマリア・ハイドリヒは、膝の上にかけられた膝掛けの上に手をついてじっと墓の上に盛られた土を掘り返す様子を見つめている。

 時折ヒムラーがちらちらと視線を少女に向けており、彼らの後ろで多忙なはずのゲッベルスが興味深そうに視線を投げかけていた。

 そんな異様な光景に、同席したシェレンベルクは視線を辺りに放って考え込んだ。

 かつて、彼女は遺体がどこにあるのか知っている、と言っていた。それは方便だったのか、そうではないのか彼にはわからない。

 遺体の捜索を進めていたものの結局、進展はないというのが現状だ。

 やがて掘り起こされた棺に、誰もが息を飲んだ。

 棺の蓋を固定する長い釘を抜いてそっと取り払われる。

 はたしてそこには、ラインハルト・ハイドリヒの冷徹なデスマスクがあった……。腐敗しかけたその亡骸に、息を飲んだようにそれを見つめた車いすに座ったままのマリーの体がくずおれる。

 女性には刺激が強いだろう。

 もっとも、その亡骸に一番驚いた様子であったのはハインリヒ・ヒムラーだ。

 キツネに化かされたように食い入るようにハイドリヒの亡骸を見つめている彼は、表情を隠すように制帽を右手で直す。

 そうしてハイドリヒの棺は丁重に埋め戻された。

「……大丈夫か?」

 シェレンベルクが歩み寄って問いかけると青白い表情のまま顔を上げると、マリーが頷いた。

 ハイドリヒの遺体が”発見された”わけだから、それはそれでいいことなのだが。

「世間は不可解なことばかりですね、閣下」

「……そうだな」

 ハイドリヒの遺体は最初からそこにあったのだろう。

 ヒムラーは勝手に納得すると、ゲッベルスを振り返った。

「これで問題はひとつ解決ですな」

 ゲッベルスが口を開く。

 シェレンベルクの腕によって車いすの背中に深くもたれた少女を見やってから、ゲッベルスはなにかを考えるような素振りを見せた。

「これ以上、ただの少女にかかずらっても仕方ない。フロイライン、大人をからかうような悪戯はほどほどにするように」

 しばらく沈黙していたヒムラーが結局口にした言葉はそんなものだ。

 彼の中では勝手にハイドリヒの棺に入り込んだマリーの悪戯、ということで決着がついたらしい。一方、シェレンベルクは多くの可能性を捨てきったわけではない。

 要するに、彼らは愚かなのだ。

 自分たちに都合の良い結果しか見えていない。

 だから状況を見誤る。

 少女の車いすを押しながら、シェレンベルクは無言のままで前方を見つめると唇をひき結んだ。



  *

 六月二八日――。

 ドイツを中心としたその同盟国による対ソビエト戦の一端が開かれることとなった。

 作戦秘匿名――青作戦ウンターネーメン・ブラウ

 国防軍陸空を中心として編成されたこの大攻勢のための部隊は、コーカサス地方の油田地帯の確保とスターリングラード、及びヴォルガ川の制圧とカスピ海沿岸の都市の攻略を目的としていた。しかし、今やドイツ軍の補給路は延びきっており、昨年の開戦時のような勢いはもはやない。

 そんな「青作戦」が始まった頃、連合国に不穏な噂が流れはじめた。

 噂、というものは厄介なもので悪い噂ほど人の口に戸は立てられないもので、驚くべき早さで拡散していく。

 ドイツが……。

「ドイツがソ連に秘密工作員を送り込んだらしい」

 同時に異様な情報が飛び交いはじめたのだ。その流れはじめた情報が、連合国、及びドイツ占領地、さらに同盟国を文字通り震撼させることになる。

 ――チェコで殺されたラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将は影武者である、と。

 少し考えれば稚拙以外の何物でもないというのに、その情報に各国首脳部は耳を疑った。ドイツでは確かにハイドリヒの葬儀が行われていたし、チェコスロバキア亡命政府の送り込んだ暗殺部隊もその任務を成功させている。

 さらに、ハイドリヒの暗殺に対して、ドイツ政府はチェコスロバキアに対して報復攻撃を行ったのではなかったのか。

 ドイツ軍による夏季大攻勢と共に間もなくはじめられた情報戦はまるでじわじわと侵食していく遅効性の毒にも似ていた。

「我が軍首脳部にドイツのスパイが紛れ込んでいる、だと?」

 内務人民委員部(NKVD)の人民委員を務めるラブレンチー・ベリヤは部下からの報告を受けて目を細めた。

「下らん」

 書類をめくりながらばっさりと一刀両断してからベリヤはフンと鼻を鳴らす。

 ドイツとの戦争がはじまっている今、書記長を務めるヨシフ・スターリンにそんな報告をいれたところで詮無きことだ。そもそも、誰がドイツのスパイなのかわからない現状で、軍の指揮官たちを片っ端から始末するわけにも行かない。

 それこそ、一九三九年のフィンランド戦の二の舞になるだけだ。

 連合国側の情報によるとドイツからのスパイが入り込んでいることは確かであるようだが、広大な独ソ戦戦がひっくり返るような数でもないだろう。

 そのスパイに対する捜査は現在、内務人民委員部が総力を挙げて行っている。

 そんなベリヤの元に事態の急展開を報せる報告が入ったのは七月の初めのことだ。

 クリメント・ヴォロシーロフが暗殺される。

 その暗殺に関わったとされるのが、こともあろうか内務人民委員部(NKVD)と赤軍の情報将校だったということがスターリンを激怒させた。

 さらに言うならば、どうやらこの一件にアメリカ合衆国の諜報部員が関係していたらしい、ということも加わり事態は一変する。

 非常に猜疑心の強いスターリンだ。その独裁者を激怒させると言うことがどういうことなのか、彼の側近たちはよく知っていた。問題は暗殺に関与した情報官らがドイツの占領地へと逃げ込んでしまったことだ。それがスターリンの怒りに拍車をかけた。

 ヨシフ・スターリンの命令によって彼らの一族、関わりを持っていた者の全てが国家反逆罪によって逮捕された。男は銃殺、女子供はシベリアの強制収容所に送られた。連帯責任によって殺害された情報将校の中には優秀な者も多く含まれていた。

 この暗殺事件の結果、スターリンは怒りと猜疑心に取り憑かれ、結果として一九三七年以来の大粛正の引き金を引くことになったのである。

 ちなみにソ連国内にドイツ国家保安本部が秘密工作員を多数送り込んでいたことは本当で、これらは偶然が重なり大きな相乗効果を引き起こした。

「コーカサスに展開するアインザッツグルッペンから連絡が入った」

 第六局のオフィスを訪れた第四局のハインリヒ・ミュラーにシェレンベルクがかすかに眉をつり上げた。

「コーカサスの占領地帯に侵入していたスパイを逮捕したそうだ」

「そうですか」

 ミュラーが言いながら書類をシェレンベルクの鼻先に突き出すと、苦笑しながら受け取った。鳩目された写真に青年の瞳孔が収縮した。

「ソ連の、クリメント・ヴォロシーロフの暗殺事件に関与しているらしいふたりですね」

「そのようだ」

 淡々と言葉を綴るシェレンベルクは表情を変えることもせずにミュラーを見上げた。

「見覚えがある」

「えぇ」

 ミュラーに相づちを打ったシェレンベルクは多くは語らない。

「しかし、花の家ハウス・デア・ブルーメンでは誰も表だって”そういった話し”はしていませんし、多くの情報将校や警察が出入りしている以上、各々情報の漏洩は避けているはずです」

「全くだ」

 情報将校や警察関係者らが出入りする「花の家ハウス・デア・ブルーメン」と呼ばれるそこは、マリーの自宅であり、シェレンベルクとカナリスが出資している。そして、そこに出入りする多くの士官たちが一般庶民の少女相手に情報を漏らすわけがない。個人的に親しくすることと、情報将校として秘密を守ることは別の話だ。

 シェレンベルクやミュラーもそうだ。彼女相手に戦況の話しや、仕事、政治の話しなどしたりはしない。

 会話と言えば他愛のないことばかりで、寡黙なミュラーに至っては彼女の家を訪ねたからと言って率先して彼から話しを切り出すわけでもない。

 マリーの家を訪ねる者の全てがそうとは限らないが、国防軍情報部(アプヴェーア)親衛隊情報部(SD)など管轄の異なる情報官が多く出入りしている以上、職務に忠実な彼らが一介の少女に込み入った話をするとは考えにくい。

 つまりそういうことだ。

 そしてその中に連合軍のスパイも紛れ込んでいるということになるのだろう。しかし、外見上は変哲のない少女であるし、マリー自ら政治の話しを切り出すこともないから、スパイが彼女に張り付くだけ時間の無駄なのだ。

 まだどこか不安定な面もある彼女に、政治的な話しをしたところで通じない、と言えば正しいかも知れない。

 純潔の少女性。

 その透明に感じるほどの魅力に、荒みきった情報将校たちは心を癒された。

 おそらくそうして近づいた男たち――他国のスパイたちについても同じで、ミイラ取りがミイラになった。付け入る目的で近づいて、彼女のまっすぐな魅力にそのまま心を捕らわれる。

 よほどの理性と自制心が働かない限り、蜘蛛の糸に捕らわれるよう彼女に魅入られるだろう。もっとも、今後も今までと同じようにマリーが危険に巻き込まれないとは限らないのだ。

 情報将校らと個人的なつきあいを続けていけばいくほど、彼女が危険に巻き込まれる可能性は高くなる。

 しかし、とシェレンベルクは思う。

 謎が多いのはマリーだ。

 計算しているのか、計算していないのか。

 彼女が「ハイドリヒ」であるならば、恐るべき素質を持っていると言うことになる。

 不安定な為人(ひととなり)を見せる彼女から、時間を重ねるにつれて感じるようになったのは混濁した泥水がやがて静まり清水となるような透明性。

 まるで子供が自我を確立していく課程を高速で見せられているような気分になった。

「シェレンベルク中佐?」

「いえ、なんでもありません。ミュラー中将はどのように思われますか?」

「……彼女のことか?」

「はい」

 尋ねられてミュラーはいかつい眼差しを細めて見せた。

「そうだな、あの”欲求不満”のカルテンブルンナーを手なずけたのは大したものだ」

 常にダリューゲやアイヒマン、ハイドリヒなどから虐げられ続けたエルンスト・カルテンブルンナーは優秀な人間であるという自負があるものの、その能力を発揮できずにいた。弁護士出身の頭の回転の速い男だが、国家保安本部(RSHA)幹部たちからしてみればそれ以上の評価はない。

 頭がきれるが凡人、

 それがシェレンベルクとミュラーの見立てだ。

 そういった人物であるカルテンブルンナーは一九三八年からオーストリアのウィーンに赴任していたが、たびたびベルリンのマリーを訪れていることをふたりは知っていた。

 おそらく、三九歳になるカルテンブルンナーからしてみれば、かわいい娘でも相手にしている気分にでもなるのだろう。

「そうですね、そうかもしれません」

 マリーの家に集う士官たち。

 下士官から、将官までもが隔たりなく彼女を訪れる。

 ごく短い間に情報将校や警察関係者たちを惹きつけ、そのまっすぐで透明な魅力で虜にするマリーは、華やかに、そして可憐にその頂点へと君臨していくのだろう。

 シェレンベルク自身が必要だと思ったことだが、それにしても見事な手腕だ。

 おそらく無意識のうちに彼女は人脈を構築している。

 かつて恐怖という二文字で国家保安本部を牛耳ったラインハルト・ハイドリヒとは違う方法で。

 どちらにしろ、そんな狂犬たちを手なずける人間が必要ならばその方法は何でも良い。事実、シェレンベルクの目には情報部の状況は好ましい方向に転がっているように感じられた。これで、かつての「ラインハルト・ハイドリヒ」の冷酷さが現れなければ、の話しであるが。

「しかしなぜ彼らは祖国へ弓を引いたのだろう?」

 ミュラーのもっともな言葉にシェレンベルクはかすかに笑った。

「さて?」

 彼らは「花の家の主人(マリー)のドイツ」のために祖国への忠誠を捨てたのだろうか?

「答えは彼らの中にしかありません、閣下」

 純潔の天使に、人が絶え間ない憧憬を向けるように。

 彼らはまた天使のような少女に焦がれたのかも知れない。

 シェレンベルクは言いながら穏やかにほほえむとかぶりを振った。




 ――来るべき、地上の地獄を予感する。




 ソビエト連邦のアメリカ合衆国へ対する猜疑心はますます強くなり、彼らの溝は深まっていくことはドイツ第三帝国にとっては幸運なことだった。さらに国防軍情報部と親衛隊情報部の仕掛けた情報戦はやがてソビエト連邦を混乱と狂気と破滅の底へとたたき落としていくことになる。

 シェレンベルクはミュラーの持ち込んだ書類を眺めながら、そっと目を細めてから窓の外に視線をやった。

 (ブラウ)作戦が始まる前。ヴァルター・シェレンベルクは前国家保安本部長官の捜査に関係した件で親衛隊大佐スタンダルテンフューラーに昇進した。

 階級だけが上がっただけで、職責上の地位にはそれほど代わり映えはしない。本人にとってみれば、昇進するというのは、自分の意見が周囲に対して通りやすくなった程度の認識しかないためあまり重要性を感じはしないのだが。

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