1 禍つ星
男はその夜、大きな星が消え去るのを視た。いや、天の星が消えることなど現実的にあり得るわけがない。だから、現実として大きな星が消えたわけではないということを、彼は頭では正確に理解していたし、把握していた。
自分自身のことさえも。
けれども、その「大きな星」は確かに「消え」た。
「……あぁ」
深く、低く、嘆くように息を吐き出した彼は大きな手のひらで顔を覆ってからきつく目を閉じる。
天の星が墜ちた。
それはまるで彼の夢見たドイツ第三帝国の行く末を暗示しているかのようではないか。
大きな星が落ちたことを悟った総統代理ルドルフ・ヘスは遠く故郷を離れたイギリスの地で悲嘆に暮れる。
けれども……。
けれども彼の希望の光は決して消えたわけではなかった。
自ら光を放つわけではない小さな星の存在が、暗闇の彼方に瞬きはじめたのをやがてヘスは知る事になる。
自己主張することもない暗い星は目をこらさなければ見ることができないほど――もしくは目をこらしても見えないほど――控えめだ。それでも尚、ヘスは小さな暗い星が大きな星の消失と共に引き寄せられたことを知る。
遠く離れたグレートブリテン島でヘスは知った。
――ドイツのために舞い降りた禍つ星だ。
独房のベッドに仰向けになったまま、ルドルフ・ヘス――ヒトラーの代理とまで呼ばれたその男は夜の暗闇の中で天井を凝視した。
やがて疲れた様子で目を閉じた彼は、唇をつぶやくように動かした。ぶつぶつと独房の中に男の声が響く。
自分がイギリスを思いとどまらせることができなかったから、ドイツを不幸に陥れる結果となってしまった。それは深い自責の念だ。
「きっと、総統はわたしが務めを果たすことができなかったから、失望されているだろう。きっと、我がドイツ国民たちは、わたしのことを裏切り者だと言うだろう……」
そしてその矛先が向けられる方向もヘスにはわかりきっていた。
「……きっと、わたしがドイツ政府の権威を失墜させる原因のひとつを作ったのだろう」
けれども、と彼は思う。
「だけれども、わたしは、総統に仕えることができたことを不幸だなどとは思っていない。だけれども、わたしはわたし自身の決心を恥であるなどとは思っていない」
全てはドイツのためだったのだから。
アドルフ・ヒトラーの政策に助力をするために単身でイギリスへと渡ったことを後悔などしていない。心残りがあるとすれば、ドイツ国民たちのことだ。結局、イギリス政府はドイツがソビエト連邦に戦争を仕掛けるなどと本気で取り合わなかった。
ヨシフ・スターリンのソビエト連邦が仮にドイツに勝ったとすれば、イギリスにとっても大きな打撃になるはずだ。それがヘスにはわかっていたからヒトラーに相談もなくイギリスとの交渉の席についたというのに。
「イギリス人とは、愚か者だ……」
先見の目がないとはこういうことだ。
ルドルフ・ヘスは、イギリス首相チャーチルとの会談を望んだというのに、結局それはかなわなかった。
「いや、騙されているのだ」
とつとつと独白を続ける独房内は、どこか異様な空気にすら包まれていた。
様々な思いが去来する胸の内を言葉にはしないままで目を閉じる。
アドルフ・ヒトラーの代理人と呼ばれたかつての権力者は眠りの深淵に引きずり込まれそうになりながら、自分に必死に言い聞かせるように眠けに落ちかかる瞼を上げた。
眠ってはいけない。
眠ってはならない。
眠ってしまえば、自分はいつか巨大な陰謀に巻き込まれるかも知れない。そのときに、自分ははたしてなにを口走るのかわからなくて、それがヘスをさらに不安にさせた。
「我が総統……」
そうして最後には睡魔の力には抗いきれず、眠りの彼方へと引きずり込まれていった。
*
――君のような少女に武装親衛隊の地位を与えることは甚だ危険だ。それがどんな目的であれ。なによりも君は先日暴漢に襲われた時でさえ、抵抗のひとつもできなかったではないか。そんな少女に武装親衛隊の地位など与えられると思っているのかね?
そうマリーに言葉を切り出した親衛隊作戦本部長官のハンス・ユットナー大将に、表面上は聞き分けよく「はぁい」と返事をしてから小さく首をすくめた。
「でもユットナー大将?」
マリーは続けながら青い瞳をまたたかせて武装親衛隊の高級指導者を見つめる。
「なにかね?」
「わたしがほしいのは別に武装親衛隊の地位なんかじゃありません」
別に、と言い捨てたマリーにわずかに眉をひそめたユットナーは向かいのソファに腰を下ろす少女を見つめるようにして身を乗り出した。
「しかし、君の言っている事は”そういうこと”ではないかね?」
問いかけた彼にマリーは可愛らしく小首を傾げてから天井を見上げるように数秒ほど考え込む素振りを見せる。
「……そうなんですか?」
「そうは思わんかね?」
「よくわかりません」
逡巡した後にユットナーにそう告げた彼女は、困ったような顔で微笑する。
「わたしはヤーコフ・ジュガシヴィリに会いたいだけです」
「マリー、君はその男が何者なのか知っていて、会いたいと言っているのだね?」
「……ダメですか?」
軍人の高級指導者に対して屈託のない笑顔で問いかける彼女にユットナーは腕を組んでから「うぅむ」とうなり声を上げた。
ヤーコフ・ジュガシヴィリ。
その名前を知っている。
知らないわけがない。
一九四一年七月十六日にドイツ軍の捕虜となったヨシフ・スターリンの実の息子だ。宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルスはヤーコフをどうにかして利用できないものかと企んでいるらしいが、その父親のスターリンはそんな息子に対してにべもない様子でこれといった反応を見せていない。
現在、彼はザクセンハウゼン強制収容所に収監されている。
ちなみにハンス・ユットナーの耳にも国家保安本部で計画が進められているらしいという強制収容所の監査の噂は届いていた。
てっきりマリーの来訪はそれに絡んだものかとも思ったがそうではなかった。
「ヤーコフ・ジュガシヴィリか……」
しばらく考え込んだユットナーはソファから立ち上がると、デスクの引き出しから一冊のファイルを取り出した。
武装親衛隊を統括する彼にとって、強制収容所の問題は門外漢も甚だしいのだが、強制収容所に関する限りは武装親衛隊の管轄下と言っても良いだろう。
親指を舐めてから紙をめくるユットナーは、書類に視線を走らせてから「あぁ、これだ」と頷いた。
秘書を呼んで書類の複製を依頼すると、マリーに片目をつむって見せた。
「強制収容所に直接わたしから働きかけることはできんが、親衛隊経済管理本部のリヒャルト・グリュックス少将が強制収容所総監で、我が武装親衛隊の髑髏師団アイケ大将の幕僚長をやっていた男だ。彼ならなにか手を打ってくれるだろう。紹介状を書いてやるから時間があったら行ってみるといい」
書類の複製が上がってくる間に、グリュックス宛の手紙を綴るユットナーをマリーは行儀悪く隣に立ったままで、興味深そうに見つめている。
「ユットナー大将……?」
ペンを走らせるユットナーにマリーが呼び掛けた。
「強制収容所に収容されてる人に会うのって大変なんですね」
まるで思いも寄らなかったとでも言いたげな彼女の言葉にユットナーは、ペンを止めると自分の隣で彼の指先を見下ろしている少女を見つめた。
「管轄が違うからな」
そう告げたユットナーに、少女は「そうですね」とだけ応じてから、彼の執務机に頬杖をつくと彼の書き物にも関心なさそうに膝を折ったままで机の上を眺めていた。
本来、彼女のこうした態度は咎められるべきなのだが、ハンス・ユットナーも半ば以上、彼女の無礼な態度についてはあきらめがあって言葉使いだけでもそれなりに敬意を払っているということで良しとした。
同世代の少年たちならばともかくとして、両親もいない十代の少女ならばこんなものだろう。そう彼は結論づけるのだった。
そんなことよりも。
ハンス・ユットナーの意識は、マリーが口にした名前のほうに向けられている。
――ヤーコフ・ジュガシヴィリという名前の男はグルジア系ロシア人で、一九〇七年に生まれた。捕虜のひとりから「スターリンの息子が捕虜になっている」という情報を得たのが一九四一年の夏も過ぎた頃だった。
息子の姓がスターリンではなく、ジュガシヴィリであるということは、スターリンの名前もジュガシヴィリであるということになるのだろうか?
ゲッベルスが吠える宣伝やプロパガンダには興味はないが、それにしたところで「なぜ」という思いにすら捕らわれた。
「マリー、君はどうしてスターリンは息子について反応を見せないのだと思うかね?」
口をついて出た言葉を、一瞬後にユットナーは後悔した。
国家保安本部に所属しているとは言え、少女に問いただすような問題ではないと思ったからだ。
「そんなことわたしにはわかりません」
想像した通りの言葉が返ってきて、その言葉にユットナーはほっとした。これで大人びた返答でも返ってきたらどうしようかと、正直なところ思ったというところもあったからだった。
当初、ユットナーに対して「閣下」などと呼んでいたが、そのうち彼と話すことにも慣れてきたのか「閣下」ではなく「ユットナー大将」という呼び掛けに落ち着いて今に至る。彼にしてみれば一応、彼女なりの敬意を払われていると言うことはわかっていたから、そんな「世間知らず」な少女を咎める気分にもなれない。もっとも、時にひどく大人びたことを言うこともあるが、それは国家保安本部に膨大な情報があったからだろう。
ユットナーはそんなことを考える。
「ユットナー大将は、わたしに”そんなこと”がわかると思うんですか?」
悪気のかけらもなく率直にそう質問を返してきたマリーにユットナーはかすかに唇の端だけで笑った。
彼女は率直だ。
ナチス親衛隊という権威にも。
国家首脳陣の権力にも。
そしてドイツ国防軍の威信すらも恐れはしない。
ただまっすぐに自分の目でものごとを見つめ、自分の頭で考えている。
ゲッベルスを筆頭とした政府主導の熱狂的な嵐のような煽動にすら意識を捕らわれる事のない、そんな特異な資質を彼女は持っていた。
自分の目で見て、自分の頭で考える。
そんなことがたった十五、六の少女に可能なのか……!
「君にならば、わたしとは異なる視点から物事を考えられるのではないかと思っただけだ」
ハンス・ユットナーが彼女の存在を認めたのはまさにそういう理由からだった。
「……そんな難しいこと言われても」
他人の頭の中を覘けるわけじゃありませんし。
困ったように考え込んだマリーは、そうしてからユットナーのデスクに背中を預けると絨毯の敷かれた床に座り込んだ。「うーん」とうなり声を上げてから抱え込んだ膝に頭を埋めて思い悩んでいる。
「いや、わからないならいいんだ」
困ってしまった少女の頭上からユットナーが言って、長い腕を伸ばすと少女の金色の頭を撫でてやった。
「スターリンの頭の中なんてわかりませんけど、その息子が盲目的に父親に従っているなら、愚かな話しだとは思います」
「……――愚かだと思っていても会いに行きたいんだね?」
「ダメですか?」
まるで押し問答のようなやりとりだったが、ユットナーはそれが不愉快だとは思わなかった。むしろ不快であるというよりも心地よい。
武装親衛隊の高級指導者として親衛隊大将にまで上り詰めたユットナーに対して、恐れも、怯えもいだかない者がいるということは希有なことである。
けれども、彼女のそれは決して不躾なわけでもなければ、無礼なわけでもない。彼の部下たちから見れば「無礼」に見えたかもしれないが、彼女と何度か言葉を交わしていたハンス・ユットナーには彼女の行動が無礼なものだとは思っていない。
「スターリンの頭の中、か」
ペンを置いたユットナーは口元に手のひらを当てると考え込んで睫毛を伏せた。
確かに、ユットナーが問題のヤーコフ・ジュガシヴィリを訊問したわけではなかったから、詳細は知らないがヤーコフは父親を擁護するような態度をとり続けているらしい。
子供が両親に対して特別な感情を持っていることは別段不思議なことではない。だからヤーコフ・ジュガシヴィリが、ヨシフ・スターリンを擁護する態度を取ることはごく一般的なことと言えただろう。特にヤーコフ・ジュガシヴィリの父親が一国の権力者であるとなれば、その忠誠心も並大抵のものではないだろう。
「自分は、かのスターリンの息子である、と。そういったプライドか?」
ユットナーの言葉にマリーは相変わらずの笑顔のままで小首を傾げた。
「ユットナー大将は難しいことばかりわたしに聞くから、わたしはうまく答えられません」
度重なるユットナーの問いかけに、マリーがとうとうふて腐れた。
わからないことは答えられないし、誰かの頭の中を想像してみろと言われてもマリーにはそんなことは不可能だ。
年若さによる経験不足による想像力の欠如もあったのかもしれない。
「それはすまない」
言ってから、ふて腐れたまま立てた膝に頭を埋めてしまった少女の頭を大きな手のひらで撫でてから、ユットナーは眉尻を下げてほほえんだ。
「では、質問を変えよう」
「……はい」
声の調子を和らげたユットナーにマリーは青い瞳を上げる。
「君がスターリンなら、どうする?」
「”息子”のことを言っているなら、切り捨てます」
ぞんざいに、冷徹に言い放ったマリーにユットナーは「なるほど」と頷いた。
「自分にとって邪魔なものなら、いりません」
いらないもの。
切り捨てるべきもの。
告げたマリーにユットナーは机に肘をついたままでその言葉を聞きながら考え込んだ。




