14 戦闘準備
――現状においては、各地の強制収容所における”執行部”に国家保安本部の目的としているところを決して感知されてはならない。よってこの案件に対する各部署の秘密の徹底を通達するものである。
「敵を欺くにはまず味方から、とは言いますが」
ブルーノ・シュトレッケンバッハは自分の顎を手のひらで撫でるようにしながら、国家保安本部長官の執務室で訝しげに眉をひそめた。
「わかっているだろうが、親衛隊全国指導者……。我らが”ハイニー”は」
カルテンブルンナーはわざとらしく侮蔑するように言ってから、ことさらに冷たい光をその瞳に閃かせてみせる。
「どうせ他の連中の強い意見に流されて横槍をいれてくるだろうからな。事の子細は伏せておいたほうが賢明だろう」
ヒムラーの日和見主義のおかげで、過去に何度となくありとあらゆる計画を頓挫させられたのだ。だからこそ、現在国家保安本部が進めている「計画の詳細」は伏せておいたほうが組織のためだ。
「そうでしょうが、しかしですな……」
「”最終的解決”、か?」
あるいは「再定住」。あるいは「適切な処置」。
表現の方法はいくらでもある。カルテンブルンナーやシュトレッケンバッハを含めて、国家保安本部に属する官僚たちは公の立場では「殺害」や「処刑」と言った言葉でそれらを表現しない。
カルテンブルンナーも国家保安本部の長官として、”然るべき処置”にまつわる計画を推進しているが、それも所詮はドイツ第三帝国の役人としての立場に他ならない。
「ゲッベルス、ヒムラー、ゲーリング……。奴らが何をたくらんでいるのかは”知らん”が、どのみちこんな計画はそれほど遠くない未来に破綻する。そんなことは一連の計画に関係している人間のほとんどがわかっているはずだ」
投げ捨てるように一気に言い放ったカルテンブルンナーは数秒の沈黙を間に挟んでから再び口を開いた。
「一一〇〇万だ。こんな途方もない人数をまともに処置できるなどと思っているのは、一部の頭のめでたい愚か者だけだろう。どちらにしたところで、いずれ限界に達するだろう。問題となるのはその大きな障害によって、計画の推進に困難が予想される場合、どうするか、だ」
淡々としたその言葉をシュトレッケンバッハは黙ったままで聞いていた。
ブルーノ・シュトレッケンバッハもかつては対ポーランド戦において行動部隊を指揮した立場である。
彼は任務と割り切って多くの人間――ほとんどが無辜の人々であった――の処刑のために首を縦に振ったこと。
――命令だから殺した。
それは、命令を受諾する人間にとって最大の免罪符だ。
カルテンブルンナーの言葉を聞きながら、シュトレッケンバッハはポーランドの人々のことを回顧した。
「……そしてその問題が持ち上がった時に、”奴ら”の存在は大きな障害であり、ドイツにとって確かな”汚点”であって致命傷になるだろう」
力任せの政策はいずれ限界が来る。
伸びきったゴムはやがて唐突に切れてしまうように、ありとあらゆる意味で緊張には限界がやってくるだろう。
思慮深いカルテンブルンナーの指摘にシュトレッケンバッハはかすかに片目を細めた。
つまるところ、現状の計画が破綻した場合に備えて、第二、第三の方法を用意しておく必要性がある、と国家保安本部長官は告げているのである。
「奴らはそのときの障害になるだろう。ならば我々が全権を投じて汚点は排除するべきだ」
冷たいカルテンブルンナーの声にシュトレッケンバッハは小さく頷いた。
「承知しました」
年の初めにヴァンゼー湖畔のとある屋敷で行われた「朝食付きの会合」によって試算された数字――その数一一〇〇万人にものぼる。
それだけの規模の大量殺戮が果たして可能なのか、と問いかけられればカルテンブルンナーの答えは「否」である。
「希望的観測のもとに提出されたデータの信頼性など取るに足りん」
おそらく、とカルテンブルンナーは分析した。
ヴァンゼー湖畔の別荘での会議を主催したラインハルト・ハイドリヒも、それほどの大人数の処理ができるなど心の底から信じていたとは思えない。
彼は。ラインハルト・ハイドリヒは極めて現実的な思考回路を持つ男だ。
冷徹なほど現実を割り切って、そうして冷酷に計算している。
ハイドリヒはそういった男だった。
「ところで、我らが長官についてはどうとでもなるとして、万が一国家元帥閣下が我々の計画について口を滑らせるようなことはありえませんか?」
ヘルマン・ゲーリング。
その男の危険性をシュトレッケンバッハが示唆すると、カルテンブルンナーは自分の椅子に反っくり返るようにして腰を下ろしたままでわずかな時間、視線を泳がせてから改めて目の前の人事局長を見やる。
「それについては心配はいらん。国家元帥閣下は、先の赤いオーケストラ絡みの失態もある。我々がそれを盾に取れば、国家元帥閣下は首を縦に振らざるをえんだろう」
ゲーリングの調査局を介して、東部戦線における重要な軍事機密が漏洩していたということ。それが公にされればゲーリングに待っているのは確実な身の破滅だけだろう。
「まぁ、そんなことはどうでもいい。三局に依頼している書類の分析のほうについては、すでに仕事にかかっていると見ていいのだろうな?」
カルテンブルンナーが手配しなければならないことは他にも山ほどある。
部局長クラスの人間の間ではすでに強制収容所に摘発のメスをいれるということは知れ渡っていることだが、それが準備段階で捜査員たちに知られるのはややこしい事態を招く。人の口に戸は建てられぬというから、準備段階で情報を知るのは一部の高官たちに限られているほうが得策というものだった。
「そのようです。他にも、七局に依頼している捜査のほうは今のところめぼしい情報はなしとのことです」
「そうか。まぁ、それはそれでないにこしたことはないが、仮に彼女の存在がごく一部にでも公になればそれはそれで面倒臭いことになるだろうからな」
シュトレッケンバッハの返事にカルテンブルンナーは肩から力を抜くと腹の前で指を組み合わせてから首を傾げた。
「そういえば、長官。国家元帥閣下への手紙をマリーに書かせたそうですが、本当に長官の指示ではないので?」
訝しげなシュトレッケンバッハに、カルテンブルンナーがちらと視線を上げる。
「当たり前だ。わたしだってマリーに余分な危険が及ぶような事態を望んでいるわけではない」
「……危険、ですか」
政治的な意味で言ったのか、それとも単に敵に対してと言う意味だったのか。カルテンブルンナーの言葉の真意を測りかねてシュトレッケンバッハは黙り込んだ。
国家保安本部、その国家秘密警察と刑事警察を中心に捜査のための準備が進められ、三局が書類の分析に入っていること。
その大きな動きは各ナチス親衛隊本部の首脳部が知らないわけはないだろう。
中でも国家保安本部と親衛隊経済管理本部は現在熾烈な主導権争いを繰り広げていた。カルテンブルンナーも「経済活動に支障を来す」などともっともらしいことをゲーリングに告げたわけだが、実際の所としては主として「最終的解決」を中心となって推し進めている機関こそ国家保安本部だ。
相手を陥れるためなら、どんな方便でも使ってみせる。それこそがゲシュタポを擁する国家保安本部の恐ろしいところとも言えた。
彼らに、法秩序など無意味に等しい。
「どちらにしたところで、力任せな現在の計画はそれほど遠くない未来に破綻する。それまでに再定住を完了させることができれば問題はなかろうが、わたしの予測するところそうもいかんだろう。もちろんこれは一個人としての推測にしかすぎんわけだが。だが、仮にその可能性があると考えれば、なにかしらの別の手段を考えておかなければならんだろう」
現在のところいくつかの強制収容所で、労働不可能と選別された者はチクロンBによって略式処刑を行われている。主に、老人や病人、そうして子供だった。もっとも、これらは国家保安本部に提出された書類をざっと流し見ただけではあるが、その中にはそれらの選別の規則に則っていないものもあるだろう。
「そういえば、マリーが興味深いことを言っていたらしいな」
基本的にマリーは特別保安諜報部での仕事がそれほど切羽詰まっていないときは、ゲシュタポやクリポのオフィス、あるいはオーレンドルフやアイヒマンの執務室で”遊んで”いることが多い。
「……興味深いこと、ですか?」
「そうだ」
ゲシュタポやクリポ、そしてゲシュタポの官僚として名前を連ねるアドルフ・アイヒマン。オーレンドルフは国内の情報収集が専門であるからともかくとして、その他の部署はユダヤ人捜査に対する強大な権限を有している。
「ミュラー中将からの報告だが、マリーがアウシュビッツの”カナダ”の囚人共をもっと短期間で新入りと入れ替えたほうが良いという節のことを言っていたそうだ」
「……カナダ、ですか」
もちろんそれは北アメリカ大陸にある、アメリカ合衆国の北に位置するカナダのことではない。
旧ポーランドのオシフィエンチムに設置されるアウシュビッツ強制収容所には囚人たちから没収した品々の集積所がある。その場所は、カナダと名付けられた施設だった。そしてそこに働くのは女性囚人たちで、髪を伸ばすことも可能なら、また栄養状態も非常に良かった。
「カナダの女性囚人たちは、栄養状態がとても良いようです。この体格ならば他の労働にも耐えられるでしょう? どうしてカナダの女たちをそのまま任務に就かせているのです? 然るべき時期に入れ替え、労働力として期待するのが普通なのではないですか?」
アイヒマンの執務室でなにかを見たらしいマリーは、ハインリヒ・ミュラーにそう告げたという。
「それについては確かにもっともだとわたしも思った」
もっとも定期的に入れ替えはされているのだろう。
特別労務隊員たちと同じだ。
「だが、あくまで強制収容所の問題は国家保安本部で論じるべきことではない」
犯罪的行為は別として。
「そうでしょうな」
強制収容所は現在のところオズヴァルト・ポール親衛隊大将の経済管理本部D局として組み込まれ、その指揮は現武装親衛隊髑髏師団の指揮を務めるテオドール・アイケの腹心とも呼べるリヒャルト・グリュックが執っている。
「ですが、長官」
シュトレッケンバッハの口調がどこか重々しいものを伴った。
「マリーは好奇心旺盛ですよ」
「……――」
マリーは好奇心旺盛だ。
最近では武装親衛隊の作戦本部長官であるハンス・ユットナーとも懇意にしているらしいという噂は、当のユットナー自身から聞いていた。
「まぁ、なにか困ったことをやらかせばユットナー大将から連絡が入るだろう」
「そうだといいのですが」
さすがに強制収容所について興味を持ったからと言って、その内部を捜査、及び摘発するためには武装親衛隊の地位が必要だった。そして武装親衛隊の地位を警察組織の人間が拝領するのはそれほど簡単なことではない。
逆は簡単なことではあるが、国家保安本部の高級指導者たちについては一般親衛隊の地位と同時に持っているのはせいぜい警察将校の地位くらいだった。
困ったことをやらかせばユットナーから連絡が入るだろう、とカルテンブルンナーが言ったもののその表情はそれほど心楽しいものではなさそうだ。
シュトレッケンバッハはその理由を思い至って首を傾けた。
「もしかして、嫉妬ですかな?」
ハンス・ユットナーと仲良くしているから。
言外にそう告げたシュトレッケンバッハにカルテンブルンナーは応じずに軽く片手を振ると椅子をくるりと回して窓に体を向けた。
「余計な詮索はしなくていい」
不機嫌そうなカルテンブルンナーにシュトレッケンバッハは危うく吹き出しかけたが、なんとか笑いをこらえると踵を打ち鳴らして国家保安本部長官の執務室を辞退した。
なにせプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに務める高官たちの中で、マリーを我が子のようにかわいがっているのはほかでもないカルテンブルンナーと、ゲシュタポ・ミュラーだ。
その大事な愛娘が、武装親衛隊の無粋な輩のところへ出入りしているとなれば気が気でないというところが本音だろう。
「心配だの、嫉妬だのする必要などないと思うが……」
なにせ相手は堅物の親衛隊作戦本部長官なのだから。
万が一にも困った事態などにはならないだろう。
独白したシュトレッケンバッハは靴音を鳴らしながら肩越しにカルテンブルンナーの執務室の扉を振り返るのだった。




