12 不協和音
”彼”は強欲だった。
”彼”はただ、権力という”それ”に欲情していた。
だけれども、そんな”彼”が狙っていたものは政府の転覆などではない。そして、彼はドイツという国の頂点に立つことを望んでいたわけではない。
彼にとって、国家という「形」には意味など余りなかったのだから。
「……シェレンベルク、君に聞きたいんだが」
オーレンドルフは相変わらずプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセのバルコニーに出て考え込んでいる国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルクに問いかけた。
「なんでしょう? 中将?」
この若年の権力者は、自分が年齢が若いというのに国家の中の重要な位置にいるということを理解していながら、それらを必要以上に振りかざすようなことを好まない。それは彼の計算高く思慮深い思惑によるものなのだろうか。
そんなことをオットー・オーレンドルフは考える。
シェレンベルクと比べると、とオーレンドルフは思う。
彼と比べると自分のなんと世渡りのへたなことだろう。
党高官の不正、あるいは国家社会主義のあり方、市井の人々に負担を強いるような体制が気に入らずに、オーレンドルフは恐れることもなく体制に対して友人の学識者たちと共に戦いを挑んだ。そのために彼は獄中につながれたこともあった。
それでも、戦わなければならないとオーレンドルフは自らに責務を課した。
国家保安本部という警察組織の中で、部局長の地位にある人間が戦わなければいったい誰がその強大な政府の権力に立ち向かえるのだろう。
そんなオーレンドルフは数々の政府高官に対する高圧的な態度のおかげですっかりヒムラーの覚えが悪い。反して、同じように諜報部のトップを務めるシェレンベルクは、そんなナチス親衛隊全国指導者から「ベンジャミン」と呼ばれるほど信頼を受けている。
またくもってシェレンベルクの要領の良さには頭が下がる。
なんでしょう? と言いながら振り返ったシェレンベルクが形式通りのナチスの敬礼をしたのを見届けてから、オーレンドルフは言葉を続けた。
「ハイドリヒは、本当に国家の頂点に上り詰めることなど望んでいたのだと思うか?」
年齢の近い同性の同僚に、オーレンドルフが問いかけるとシェレンベルクはわずかに首を傾げてから晴れ渡った空をじっと見上げてから片目を細める。
「前長官が、ですか?」
言葉使いは抜け目がない。
けれども、かつてゲシュタポにあってスパイとしても活躍していたシェレンベルクが計算をしていないわけがなかった。
「……そうですね、”そんなこと”は考えていなかったと思いますよ」
そう言ってから、一度シェレンベルクは言葉を切った。
「ラインハルト・ハイドリヒは、恐ろしく抜け目がなく強欲でしたが、それでも彼は国家の転覆など狙っていなかったでしょう。彼自身が国家の頂点に立つことなど望んでいなかったかもしれません。彼にとってみれば、国家元首の座など飾りにすぎない。おそらく彼が望んでいたのは、そのナンバーツー、あるいはスリーの場所でしょう」
「やはり君もそう思うか」
「えぇ、国家元首というのは総統を見ればわかる通り思いのほか自由の利かない立場ですから。法秩序に対して不道徳だったハイドリヒが、そんなものを望んでいたとは思えません」
すでに死んだ男に対して気を遣ったところで意味などない。
だからオーレンドルフもシェレンベルクもぞんざいだ。
――法秩序に対して不道徳なのは貴様も同じだろう。
内心でオットー・オーレンドルフは自分よりも年若い青年に毒づいてから、廊下に人の気配を感じて振り返った。
SDにオーレンドルフ、シェレンベルクらとほぼ同時期に名前を連ねるようになった世界観研究局長フランツ・アルフレート・ジックス親衛隊上級大佐である。
年齢もふたりと近しく、シェレンベルクよりも一歳年長であるだけだ。
彼もまた、ヒムラーの信頼が厚い男だった。もっとも、オーレンドルフにしてみればヒムラーの信頼が厚いからと言ってそれがそのまま人間としての評価につながるものではない。
「こんなところで巨頭会談ですかな、オーレンドルフ中将、シェレンベルク上級大佐」
「そんなに堅苦しいものじゃない。ただの雑談だ」
言いながら顔の前で手を振ったオーレンドルフは鼻から息を抜いてからバルコニーに寄りかかるとそのままの姿勢でジックスを見つめた。
「ジックス上級大佐は、”彼女”に対して異論があるようだな」
「……当たり前です」
ふとからかうような口調になったオーレンドルフに対して、ジックスは憮然とした表情になった。
この好戦的な法学博士は、先の東部戦線について行動部隊で大規模なパルチザン掃討の勲功を上げた。ネーベの配下の特別行動隊の指揮を二ヶ月ほどしかとっていなかったジックスとは大違いだ。
オットー・オーレンドルフ。
彼の強靱な精神力に、ジックスは正直なところ脱帽するしかない。
「君や”我々”がどう思ったとしても、ヒムラー長官の命令である以上、その決定を覆すことなどできんよ」
そう言って軽やかに笑うオーレンドルフの横顔を凝視しながらシェレンベルクはそっと片目を細めた。
「……それに、わたしは」
言いかけてオーレンドルフが口をつぐむ。
「いや、なんでもない。それよりも、例のKLに関する人選は進んでいるのか?」
「……――、えぇ、何名かその筋の専門家をこちらもピックアップしております」
「そうか」
なにか言い足そうな表情をたたえたジックスだったが、階級が上でもあるオーレンドルフに対して結局なにかしらの追及をすることもせずに口にした言葉は業務上の内容だ。
「しかし、実働部隊となる警察共のほうがてんやわんやでしょうな」
ジックスの言葉にオーレンドルフは肩をすくめた。
「SDもてんやわんやだ」
「確かに」
ジックスとオーレンドルフのやりとりを黙って聞いていたシェレンベルクはやがて、ふたりを見つめながら口を開いた。
「そういえば、強制収容所の横領問題がそろそろ黙認できぬと長官が息巻いておりましたね」
そうやって他の親衛隊本部の弱みを突くことによって政治的に相手を弱体化させることができる。
ナチス親衛隊とは、弱肉強食だ。
常にその内部は権力争いで渦巻いている。
「しかし、国家保安本部と強制収容所の確執は髑髏部隊がアイケ将軍の手にあった頃からのもので非常に根が深い。いらぬ問題を巻き起こすようなことにならなければ良いのですが」
溜め息混じりに苦笑したシェレンベルクに、オーレンドルフとジックスは顔を見合わせてから肩をすくめた。
各強制収容所には国家保安本部の長官がハイドリヒだった頃に張り巡らせた警察網がある。その警察班は、囚人のみならず看守たちからも恐れられる存在だったこと。
「近くメールホルン上級大佐が国家保安本部にお戻りになるという噂も聞いています。我々の業務もそれで少しは楽になると良いのですがね」
続けたシェレンベルクの言葉は彼らの本音だ。
国家保安本部はドイツ第三帝国に張り巡らされた巨大な蜘蛛の巣のようなものだ。しかし、国家保安本部に名前を連ねる警察やSDたちは全土をあわせてもほんの五万名ほどしかいない。
対して、ドイツ第三帝国の人口は七千万人ほど。
占領地域の人間も含めれば軽く一億を超えるだろう。そんな人間たちを国家保安本部だけで統制することなど不可能に近い。
おかげで国家保安本部の、特に高官たちは多忙を極めている。
東部戦線から帰ったオットー・オーレンドルフは一時期ひどく精彩を欠いていた。彼は決して根っから残虐な性の持ち主というわけではない。
――命令だから殺した。
ただそれだけだ。
殺す、ということが何を示すのかもわかっていて、オーレンドルフはハイドリヒのその命令に従った。
ネーベも同じだ。
国家保安本部の高官たちが、時にはことさらに非人道的で残忍であると他部署からはとられることも多いがそんなことがあるわけがない。
彼らも”同じ”人間なのだから。
「いずれにしろ、強制収容所に大がかりな摘発のメスをいれるのだとしても、先方からそれなりの反発を受けるのは覚悟しておいたほうが良さそうではあるな」
「そうでしょうね。もっとも、ポール大将閣下が先のアイケ大将閣下のようにうまく立ち回れるとは限りませんが」
オーレンドルフに応じてシェレンベルクが頷けば、ジックスも無言のままで考え込む。互いに年齢が近く、国家保安本部に籍を置くようになったのもほぼ同時期という偶発的な共通点も相まって話しやすい、という部分が確かにある。
それでも彼らは同じようにひとつの部署を任されており、互いに過酷な出世レースの渦中にいる。
「うまく立ち回る、か」
シェレンベルクの言葉になにやら苦笑したオーレンドルフはそうしてから、踵を返すとふたりの同僚に片手をあげた。
「オーレンドルフ中将」
立ち去ろうとするオーレンドルフをジックスが呼び止める。
「うん?」
「こちらを」
フランツ・ジックスが小脇に抱えていた薄いファイルを差しだすと、「あぁ」と言いながらオーレンドルフはそれを受け取って内容を一瞥する。
「二局の連中の名前もあるな」
「えぇ、二局のジーゲルト大佐もてんやわんやの大忙しのようでしたからね」
国家保安本部総務局は保安情報部が本格的に動き出すようになってから、その編成と法務などの後方支援を行っており、常に多忙な部署のひとつである。要するにそんな多忙なジーゲルトの依頼を受けてジックスが二局から人選をしたという次第だ。
SDたちの行動を影から支える功労者で、総務局の存在があってこそオーレンドルフやシェレンベルクはSDの活動に集中できるというところもあるだろう。言わば縁の下の力持ち、だ。
「なんだって強制収容所の摘発のための”資料整理”なんぞに二局から人手を割かなければならないんだ」
そんなジーゲルトの不平不満が聞こえてきそうだ。
「では、わたしはこれで失礼する」
そう言ってオーレンドルフはふたりの同僚の前から立ち去った。
彼ら――シェレンベルクとジックスは、ナチス親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーのお気に入りのSDたちだ。
オットー・オーレンドルフとは違い国家保安本部の悪しき習慣――法秩序に対して不道徳な面を併せ持っている。もっともこれについては、かつての国家保安本部の中枢として、あるいはハイドリヒのブレーキ役として名前を連ねていたヴェルナー・ベストもそうした面を持っている。
本来のベストや、その他の学識者たちが確かにラインハルト・ハイドリヒに同調していたかはともかくとして、あらゆる意味で国家保安本部に名前を連ねる者たちはそうした不道徳な面を持っていると言っていいだろう。
もちろん、オーレンドルフ自身も。
自分が見てきたものに対して批難の声を上げるでもなく、声を上げていなければ同じ事だ。
「……この国は」
いつからか腐ってしまった。
腐敗を続ける政府高官を批難することも、国家元首に訴えることもできない。そしてその国の警察はそれらの腐敗を摘発することができはしないのだ。
苦々しい思いでオーレンドルフは廊下の先を睨み付けていると、丁度、角を曲がってきたひとりの女性秘書と目があった。
紆余曲折があってシェレンベルクの国外諜報局特別保安諜報部に名前を連ねる事になったソフィア・ショルだ。オーレンドルフの調べたところによると、ミュンヘン大学における学生たちの抵抗活動のリーダー的な存在でもあった。
居心地悪そうに視線をそらしたソフィアに、オーレンドルフは大股に近づくとその肩を無造作に掴んだ。
「貴様はここに配属されてからなにかをしているわけではないだろう。無駄に視線をそらしては疑ってくれと言っているようなものだぞ。六局のSD共は存外頭が切れる。その辺りを念頭に置いて行動していろ」
高圧的な口調で命令するように言ったオーレンドルフに、ソフィアはぎょっとしたように胸元に抱え込んでいた書類を取り落とした。
オーレンドルフの告げた言葉の通り、後ろめたいことをしているわけではない。そんな素振りを見せたが最後、自分自身だけではなく、彼女の家族にも危害が及ぶことは目に見えている。
良くて強制収容所送り、悪ければ連帯責任で処刑という事態が待っているだろう。
「……も、申し訳ありません」
どもりがちになりながら取り落とした書類を拾うソフィアは、やはり腰を屈めるようにして書類を拾っているオーレンドルフを上目遣いに観察する。
「中将閣下……」
言い慣れない単語を口にしながら、拾った書類を無造作に突きつけるオーレンドルフにソフィアが問いかけた。
「なんだ?」
「……部長――ハイドリヒ親衛隊少佐殿は、何者なんですか?」
「わからん」
即答してじろじろとソフィアを見つめたオーレンドルフは、緊張しきって青ざめている彼女に首をすくめた。
「だが、ショル嬢、貴様も結果的にはハイドリヒ少佐に救われたことになったのだろう。父親も釈放されたわけだしな」
そう。
ヴェルナー・ベストと共に訪れたマリーの力によって、ゲシュタポの拘置所に拘禁されていた彼女の父親――ローベルト・ショルは解放された。
それがソフィアとハンスのふたりを国家保安本部に人質にするための口実だったとは言え。
だからこそ、マリーがなにを考えているのかソフィアにはわからない。
「……――わかりません」
「だろうな」
だが、とオーレンドルフは言いながら、軽くソフィアの肩をたたいた。
「貴様にとって、あの子がなんなのかはわからんが、俺にとって、彼女は希望だ」
自分が人間らしくあれるための。
時折オーレンドルフの脳裏にちらつくのは、東部戦線での惨状だった。彼自身が処刑の現場を見たのはたった二回ほどだが、それでもオーレンドルフは心に深い傷を負ったのだ。隊員として処刑にあたった彼の部下たちの心情を思うと胸が痛くならないわけがない。
なによりも法の番人であるはずの自分が、多くの人間たちの命を摘み取ったのだ。
「経過はどうあれ、救われた命だ。大事にすることだ」
遠回しにオーレンドルフがソフィアに告げる。
あのまま抵抗運動を続けていれば確実にゲシュタポの手に落ち、人民法廷へとかけられ処刑されていただろう。
そう示唆したオーレンドルフにソフィアは強い瞳を上げた。
「もしもわたしが国を思う戦いのために死んだとしても、正義は潰えません」
ソフィアのそんな言葉にオーレンドルフはほんのかすかに不愉快そうな表情を浮かべた。
「くだらん」
ばっさりと言い捨てる。
そうして続けた。
「”生きてこそ”の正義だ、勘違いをするな」
死んでしまってはどうにもならない。
けれども、とオーレンドルフは思う。
彼女や彼女の兄のような大学生たちは、多くが自分の使命に燃えて、そうして内在するなにかに突き動かされるようにして行動している。
それは、とオーレンドルフは思う。
――まるで、かつてナチス党に入党したばかりだった十八歳の自分を見ているようではないか、と。
生きてこその正義。
そう言ったオーレンドルフに、ソフィアは言葉を失った。
そんな彼女の頬を指先で触れたオーレンドルフは、静かに続けた。
「ここは国家保安本部だ。口を慎んだほうが身のためだ。フロイライン」
それだけ言い捨てるようにして、オーレンドルフは書類を抱えたままで立ち尽くしているソフィア・ショルを置き去りにしてブーツの踵を鳴らすようにして闊歩すると立ち去った。




