11 モノノケ
ハインリヒ・ヒムラーは国家保安本部から届けられた報告書に向かったままで、渋面を浮かべると神経質に机の面をたたいた。
「……全く、わたしが付け入る隙などないではないか。そうは思わんかね?」
親衛隊全国指導者個人幕僚本部長官カール・ヴォルフ親衛隊大将は、ヒムラーの手元を見やってからわずかに片方の眉尻を引き上げる。数秒沈黙してからヴォルフは小さく踵を鳴らした。
「国家保安本部は、警察ですから。こうした分析を最も得意としているでしょう。閣下」
ヴォルフはヒムラーが親衛隊の規律を乱すことを嫌うことを知っている。しかし、彼の言いたいところはわからないでもないが、いかんせん、国家保安本部からの報告書はヒムラーしか見ていないのだから、ヴォルフがあれこれと憶測で口をだすわけにもいかなかった。
苛立つ様子で両腕を組み合わせたヒムラーはしばらく考え込むような表情をしてから低くうなると、革張りの椅子の背に体を預けてから自分の前に立つヴォルフを見つめる。
「わたしは、規律を乱す者は好きではない」
「承知しております」
常にヒムラーの最も近くにいるカール・ヴォルフは、このところ彼のごくわずかな変化を感じ取っていた。ラインハルト・ハイドリヒが死んだ後、ひどく動揺して落ち着きを欠いていたように感じられたが、今はそうではない。
何と言うべきか、自信を取り戻したとでも言うべきだろうか。
落ち着いた眼差しで、精神的な余裕がある。
「しかし、どうされるおつもりです? 現在、強制収容所は経済管理本部の管轄下にあり、親衛隊全国指導者個人幕僚本部が口を差し挟むべき事ではございません」
「……全くだな」
ひどく不愉快そうなヒムラーの声に、ヴォルフは視線をさまよわせた。
「だから、彼らに任せようではないか」
「……警察共にですか?」
「そうだ」
国家保安本部――彼らは、その長官のもとどんな魔物相手にでも戦っていけるだけの警察組織である。少なくとも、ハインリヒ・ヒムラーはそう自負していた。
彼らはドイツ随一の警察部隊。
――彼に任せようではないか。
まるで独り言のようにヒムラーはつぶやいた。
「は……?」
そんなヒムラーの言葉が聞き取れずに、カール・ヴォルフが問い返すと若い親衛隊長官はゆるくかぶりを振ってからヴォルフを見つめ直す。
「ヴォルフ大将が気に掛けるようなことではない。全ては、国家保安本部長官に任せれば良いのだ。それよりも、ヴォルフ大将。早急にポール大将に連絡をとって、全国の強制収容所における囚人の死亡率についての報告書を上げるようにと伝えてくれたまえ」
「……了解いたしました」
表情を感じさせることもなく応じたカール・ヴォルフは敬礼をすると親衛隊全国指導者の前を退室した。
部屋の外へと出たヴォルフは片手の平で軽く顎を撫でてから考え込む。
ヒムラーは確かに「彼に任せよう」と言った。それは聞き間違いではない。しかし「彼」とは誰のことだろう。
ヴォルフはそんなことを考えた。
ハインリヒ・ヒムラーのもとに届いた書類が国家保安本部からのものだったことを考えると、それは長官のエルンスト・カルテンブルンナー親衛隊大将の手によるものだったのだろうか。
ヒムラーの言う「彼」とは、カール・ヴォルフにはそれくらいしか考えられなかった。そしてヒムラーの発言を聞く限り、書類の内容は強制収容所の経営に関する事柄であるのだろう。
現在のところヴォルフのところまでは表だった問題は届いていないが、少し考えを巡らせれば強制収容所に関する問題のひとつやふたつなど容易に想像がついた。
どちらにしたところで経済管理本部のオズヴァルト・ポールが渋面を浮かべるだろうことは想像に難くなかったから、ヒムラーから受けた命令を伝えるヴォルフにしてみれば、若干おもしろみに欠けた。
「やれやれ」
わざとらしくつぶやいたカール・ヴォルフはそうしてから、上官の退室を待っていた副官の青年にファイルを渡してから息を吐き出した。
ヒムラーが安定していることは良いことだ。
なにせ、国家権力の中で彼は政府高官であるというのにあっちへふらふら、こっちへふらふらと他者の意見に流されやすい。権力を持たない人間であればそれでも良いが、国家の中心により近い人間が優柔不断では困るのだ。ヒムラーが強い意志を持っていなければ、その権力にすり寄る者が彼を操ろうとするだろう。
そうした意味では、かつてヒムラーに強大な影響力を及ぼしていたラインハルト・ハイドリヒは、他のナチス親衛隊の高官たちと比べるとその力は頭一つ飛び抜けていた。
そして、だからこそハイドリヒは「ヒムラーの頭脳」とまで呼ばれたのである。
*
国家保安本部があやしげな動向を見せている。
それがドイツ国内でのもっぱらの見解だった。もっとも、国家保安本部が独自に動いているのは今にはじまったことではない。時には政府高官たちですらも計り知れない部分で彼らは独自の動きをしていることがままあった。
そして、そんな国家保安本部も、初代長官であるラインハルト・ハイドリヒが死んだことによって、恐るべき機関ではなくなるのではないかと期待されもしたのだが、新長官にエルンスト・カルテンブルンナーが就任してからというもの、警察権力と諜報部隊を併せ持つ国家保安本部はその力を存分に発揮しはじめるようになっていた。
ラインハルト・ハイドリヒとクルト・ダリューゲによって頭を押さえつけられるような形になっていたエルンスト・カルテンブルンナーは、ハイドリヒの死によって図らずも、彼が欲してやまなかった権力の座につくことになる。
しかし、そんなカルテンブルンナーの様子が今までの彼とは異なっているのではないか。そう多くの者たちを感じさせることになる。
まず第一に、執務室から煙が立ち上っていることと、職務中に酒に溺れるようなことがなくなった。このためか、いつもどこかドロンとした光を放っていたカルテンブルンナーの眼差しは鋭さを取り戻し、警察機関のトップとして辣腕を振るうようになった。
さらに、彼の指揮下にあるゲシュタポとクリポが警察機構として息を吹き返し、国内諜報分野で多くの政府高官たちに恐れられたオーレンドルフもまた力を取り戻していた。
「……三局で扱うような問題でもない」
そう言ったオットー・オーレンドルフに、国家秘密警察局の局長であるハインリヒ・ミュラーが苦笑する。
確かに、各地に点在する強制収容所の横領問題は、政治的な諸問題を扱っているオーレンドルフの国内諜報局の触れるところではない。しかし、問題はドイツ、及び占領地全土に及んでいるため、とてもではないが国家秘密警察のみで対処しきれるところではなかった。
そんなことはオーレンドルフも言われずとも理解している。
――こんな問題は三局が扱うことではない。
そう言いながらも目の前に山積みにされた書類の束に几帳面に目を通しながら、鋭い眼差しをネーベとミュラーに向けた若い諜報局長は、長い息を吐き出してから頬杖をついた。
「こうした書類上の分析については、七局の局員のほうが得意ではないのですか?」
「まったくもってそのとおりだが、七局は現在別件の仕事をシュトレッケンバッハ中将に持ち込まれてそちらでてんやわんやらしいからな」
応じたミュラーに肩をすくめてみせたオーレンドルフは、箱詰めにされた書類をうんざりと横目に眺めてから天井を見上げるとしばらく何事か考え込んだ。
もちろん、書類の分析など局長自らやらなくても良いのだが、七局にしろ、三局にしろ別の仕事を抱え込んでいる。四局と五局はこれからの捜査の準備のため書類の分析などにかかずらっていられるわけもなく、結果として三局にお鉢が回ってきたという所だった。
「七局のジックス少将と二局のジーゲルト大佐もこちらに応援を回してくれるそうだ」
「承知しました、ミュラー中将」
あまりおしゃべりが好きではないミュラーの言葉を受けて、つぶやいたオーレンドルフは「内線をお借りします」と言ってから国家秘密警察局長の執務机の上にある内線電話の受話器を上げた。
各強制収容所、さらに親衛隊経済管理本部から送られた膨大な書類の束は現在のところ、ゲシュタポの資料庫に一時的に保管されている。それらの分析にこれからかからなければならないわけだが、分析の適正などの面から考えて、三局を中心に行うことになった。
その応援として駆り出されたのが、フランツ・ジックス少将の七局と、ルドルフ・ジーゲルト大佐の二局だった。
シェレンベルクの六局は現在、ドイツが多方面との戦争状態にあるためすでに許容の限界を超えていることもあり、今回の国家保安本部による強制収容所の大規模な摘発には関係しないことになっている。
「オーレンドルフ中将は、メールホルン上級大佐を知っているな?」
ふとミュラーに言葉を向けられて、オットー・オーレンドルフは小首を傾げた。
ヘルベルト・メールホルン。
彼をオーレンドルフが知らないわけはない。まだ彼が国家保安本部に入ったばかりのころ、すでにヘルベルト・メールホルン博士は、ヴェルナー・ベスト博士らと並ぶ組織の中核的な知識人として名を馳せていた。
情報管理の達人で、現在の国家保安本部の基礎を作った人間とも言える。
「存じていますが、メールホルン博士がどうかなさったのですか?」
自然と礼儀正しい言葉使いになったオーレンドルフに、ミュラーが苦笑した。
「噂だが、カルテンブルンナー大将が、メールホルン上級大佐をプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに召喚したらしい」
「……ほう」
かすかに片目を細めたオーレンドルフは、上背の低い、少々不細工なメールホルンの顔を思い浮かべた。
オーレンドルフにとってメールホルンの目鼻立ちのことなどどうでも良い。
彼が関心を持つのは、ただひたすらメールホルンの非凡な頭脳だけだった。
「しかし、メールホルン博士は国家保安本部とは折り合いが悪いはずではありませんでしたか?」
かつてメールホルン博士はラインハルト・ハイドリヒに対して反旗を翻したために国家保安本部から終われた身である。
「亡き長官とは、な」
ミュラーの言葉にオーレンドルフは「ふむ」と相づちを打ってから、思慮深い眼差しに光をたたえたままで思考に沈んだ。
「そのメールホルン博士がどうなさったんです?」
「だから言ったろう、カルテンブルンナー大将がプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに召喚したらしいと」
「それはわかりましたが、現状とどのような関係が?」
ぶっきらぼうで不親切極まりないミュラーの台詞に、オーレンドルフが鋭く追及する。確かに情報管理の達人であるヘルベルト・メールホルンがこの場にいれば、三局の仕事も持っているオーレンドルフが苦労しなくてすむのだが、現状として、メールホルンがこの場にいるわけではない。
余分な希望など持たないほうがいっそましだ。
現実的に考えるオーレンドルフに、ミュラーがデスクについたままで右手の人差し指を顔の前に立てた。
「”その”メールホルン上級大佐が、今週中に就くそうだ」
優秀な知識人でありながら、過去に在籍した多くの博士たちはハイドリヒによって多く左遷された。メールホルンもその中のひとりである。
「しかし、博士がよく了承しましたね?」
「その辺りは我々よりももっとお偉い方々の間でなにかしらの話しがあったんだろう」
「なるほど」
ミュラーとの話しの合間合間に考え込みながら言葉を選ぶオーレンドルフは、ちらりと窓の外を流し見てから小さく息を吐き出すと笑って見せた。
「メールホルン博士がいらっしゃるとなれば鬼に金棒ですな。では、わたしは例の分析のチームを早急に編成しなければなりませんので、一旦失礼いたします。ミュラー中将」
かつりとブーツの踵を鳴らしたオーレンドルフは、年長者であるミュラーに敬礼をするとゲシュタポ局長の執務室を立ち去った。
プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセの長い廊下を歩くオーレンドルフは階段に向かおうとしてから、ふと思い直すと日当たりの良い西向きの廊下へと足を向ける。
最近ではすっかり定位置と化したマリーの居眠り場所だ。
無意識に足を忍ばせたオーレンドルフは、腕時計を見てから口元を緩める。就業時間は過ぎているから居眠りをしていても咎められる時間ではない。
静かに廊下を進むと、直射日光に当たるのを避けるようにして、少女がいつものように廊下に座り込んで居眠りをしている。手にしているのは、特別保安諜報部の書類だろうか。寝息すら聞こえてきそうなマリーの横顔に、オーレンドルフはほほえんでからバルコニーによりかかると晴れ渡る空を見つめて眠る少女を振り返った。
どこか不健康な白皙の肌と、長い金色の髪と睫毛。
その対比がひどく危うげなものに見える。しかし国内諜報局長の青年は、バルコニーに寄りかかったままでそんな頼りない少女の存在を確認して安堵した。
彼女を見ていると、自分がまだ”人間”であることを許されているような気がしたから。




