10 狩人
旧ポーランド南部オシフィエンチムに位置する強制収容所がある。
その収容所は、現在、アウシュビッツⅠと呼ばれる基幹収容所と、その北西に三キロメートルほど離れた小村ブジェジンカに位置するアウシュビッツⅡ=ビルケナウで構成される。
さらにこのアウシュビッツ基幹収容所、及びビルケナウ収容所に付属する形で親衛隊経済管理本部のオズヴァルト・ポール大将の指示のもと、収容者の労働力を軍需産業に当てるための大規模な労働キャンプがモノビツェ村に併設された。
この第三の強制労働施設はモノビツェ村の名前をとって、アウシュビッツⅢ=モノビッツと呼ばれ、I.G・ファルベンやクルップ社、ジーメンス社、アウトウニオン社などの製造プラント、及び多くの生産施設が建設され、その数は約四十ヶ所にも及ぶ。
これらの大規模な強制収容所を束ねるのはルドルフ・ヘェス親衛隊中佐である。
紙巻き煙草をくわえたままヨーゼフ・マイジンガーは禿げ頭を手のひらで撫でてから黙り込んだまま考える。
デリケートな問題は、正直なところ若いアルフレート・ナウヨックスでは手に余るだろう。
国外諜報局特別保安諜報部は国家保安本部の部署のひとつでありながら、実態はハインリヒ・ヒムラーが直接指揮を執る別働隊といった位置づけに近い。部長を務めるマリア・ハイドリヒ親衛隊少佐の権力は、ハインリヒ・ヒムラー親衛隊全国指導者の強大な権限をバックにして守られている。
長い足をデスクにあげて組み合わせてマイジンガーは部屋の壁を睨み付けている。
――面倒なことを押しつけてくれたものだ。
マイジンガーは溜め息をついてからデスクの上に放り出されたままのファイルを一瞥すると肩をすくめる。
彼はかつてポーランドでワルシャワの殺人鬼などと呼ばれたが、それは命令だったから殺しただけのことだ。
警察官が「人を殺せ」と言われれば殺すのかと尋ねられれば、それが決して人道的ではないこともマイジンガーにはわかっている。しかし、戦争をしている時代にあって人命だの人道だのという言葉がせいぜい世迷い言程度の意味しかないことを彼は知っていた。
「政府要人共の身辺調査と、親衛隊内部の横領の裏付けか」
政府要人の身辺調査はともかくとして、親衛隊内部――特に強制収容所の看守たち――の横領の裏付けなどするまでもないだろう。
フンと鼻を鳴らしてから手にしていた書類をデスクの上に投げ出して、マイジンガーは深い溜め息をついた。
日本に左遷されてからというもの、ベルリンに呼び戻されるための手段を模索し、日本の特別高等警察などと連絡を取り合いながらナチス党の党員であったリヒャルト・ゾルゲの捜査に当たっていたが、なかなかどうして、とマイジンガーは思った。
ユーラシア大陸の向こう、東の果てにある同盟国である大日本帝国の特別高等警察もなかなか手練ればかりだ。
もっとも、ユダヤ人政策に寛容であったことについては余り賛同できるものではなかったが。
そうこうしているうちにベルリンから辞令が命じられた。
着任してみれば、どうにもマイジンガーにしてみればいまひとつ面白くない。
部長は彼よりもずっと年若い少女で階級は親衛隊少佐。その補佐を務めるのはふたりの親衛隊高級指導者であり、片やはパリの民生本部長を務めたヴェルナー・ベスト親衛隊中将、そうしてもう片やは国家保安本部国外諜報局長を務めたハインツ・ヨスト親衛隊少将だ。
どちらにしてもいろいろな意味でマイジンガーとしては面白くない状況だった。
その上、部長である上司に対してやたらと大きな顔をしているのは、肉体労働担当の親衛隊少尉であるアルフレート・ナウヨックスという若造だ。
ばさりと音を立てた書類に、マイジンガーの執務室に放り込まれていた赤毛のシェパードが耳を動かすと姿勢を正した。
「……マリーも午後には帰ってくるだろう、ロート」
多くの者が感じていることだが、マリーのことを「ハイドリヒ少佐」などと呼ぶのは余りにも馬鹿馬鹿しく感じてならない。
だから彼も程なくして、華奢で痩せすぎた少女のことをマリーという愛称で呼ぶようになった。そして、彼女もまたマイジンガーやベストらに愛称で呼ばれることを特別な嫌悪感を感じているようでもないようで、「マリー」と呼ばれるとニコニコと笑顔で応じていた。
マイジンガーが言った言葉を理解しているのかいないのか、再び絨毯の上に寝そべったロートはパタパタと耳を動かしてから目を閉じてしまった。
強制収容所の管理官である親衛隊員たちが、警察部隊の目を盗んで金品を横領するだろうなどということは容易に想像できた。
監視の目がないとなれば規律に対する感覚も緩くなる。そうなれば、犯罪を行おうとする者は躊躇しないだろう。
もしくはこれらの事態について親衛隊全国指導者に報告すべきなのだろうが、これについては補佐官のどちらかか部長であるマリーに指示を仰がなければならないだろう。
だが、首席補佐官に指示を仰ぐにしてもいかんせん、マイジンガーとベストの感情的な関係が余り良好ではない。それはマイジンガー自身もわかっていることだった。
仕方ない。
そう口の中でつぶやいてヨーゼフ・マイジンガーは軋んだ椅子の音をたてると、机の上に上げていた足をおろして立ち上がると灰皿に煙草を押しつけてもみ消した。
仕事は仕事であったし、感情的な話しをしにいくわけでもない。
まったくもってマリーの資質は特殊すぎる。
手書きでまとめられた資料を手にすると、ぞんざいにファイルに挟み込んでから部屋を出た。
「マイジンガーか、どうした?」
マリーの執務室を訪れたマイジンガーは、いつもの如く室内で仕事に勤しんでいる知識人の補佐官ふたりを不遜に流し見てから、形式通りの敬礼をした。
正直、マイジンガーにしてみればナチス党の政治思想などどうでも良いものでしかない。おそらく、国家保安本部に所属する多くの警察官がそうであるように、たまたまアドルフ・ヒトラー率いるナチス党のドイツという国に従っているだけだ。
誰も彼も政治的思想を持っていると考えるなら大きな間違いである。
政治的思想も、彼らの行う民族思想もマイジンガーには興味がない。
彼自身が出世コースに戻れれば良いだけのことであったし、そのために自分と関わりのない誰かが死のうが生きようが知った事ではない。
「マリーから依頼されていた件で報告です、中将」
「”なに”に対する?」
特別保安諜報部は、多くの案件を抱え込んでいる。
少数精鋭と言えば聞こえは良いが、単に人手が足りないだけだ。
「……強制収容所について」
「なるほど」
元裁判官の冷静な親衛隊員は、表情も変えずにそれだけ応じるとファイルをめくる。
「数字的なものを考えれば、強制収容所で行われるユダヤ人”共”の財産の押収はドイツにとって大きな利益をもたらしているものと考えますが、収容所に移送される人数を考えますと、親衛隊経済管理本部から報告されている数字は曖昧なものだと申し上げます」
「確かに、貧乏人も多いが、それにしたところで収支報告がずさんではあるな」
膨大な人数の管理と、膨大な金品の管理。
それらは容易に横領の余地を与えることができるだろう。
「……所詮は荒くれ者共の大将か」
書類に一通り目を通したヴェルナー・ベストは、侮蔑するようにつぶやいてから椅子の肘掛けに腕をおろした。
「それで、大佐の報告が事実であろうと仮定して、親衛隊内部の腐敗は深刻だ。それは強制収容所に限ったことではない」
「そうであります」
「だが、強制収容所内で横領が行われているとすれば、それは我がドイツの経済活動に深刻な被害をもたらすだろうな」
ただでさえ、軍需産業で国内は逼迫している。
万が一、親衛隊員たちの横領が世間の明るみに出れば、国内のナチス親衛隊に対する不満と猜疑心が一気に膨れあがるだろうと考えられる。
そういった事態は避けるべきだった。
「わかった、この件は長官に報告する」
ハイル・ヒトラーと敬礼をして退室しようとしたマイジンガーを、ベストが呼び止めた。
「大佐」
「なんでしょう?」
「……大佐はマリーのことをどう思う?」
「素直で笑顔がかわいい子ですね、中将」
ベストに背中を向けたまま肩をすくめたマイジンガーはそうして、踵を鳴らすとそれほど広くはない執務室を出て行った。
ドイツ国内外にある収容所は数知れない。
その中でも最大級とも言える施設がアウシュビッツ強制収容所と言われる一群の施設群である。そのアウシュビッツ強制収容所に大規模な摘発のメスをいれるということは、警察組織にとって大きな意味があることだった。
「恐怖は、最大限の恐怖でなければ意味がない」
廊下を歩きながらぽつりと独白したヨーゼフ・マイジンガーは冷徹な光の閃く瞳をじっと見開いたままで進行方向を凝視した。
ライプツィヒの原子力研究所に向かったヴァルター・シェレンベルクと、マリーは一泊してから戻ってくると言うことだった。物理学者の研究室などマイジンガーにとっても退屈極まりないが、マリーも興味がありそうにはないから退屈この上ないだろう。
かつて彼がポーランドで行った作戦の数々。
それらを敵国の人間は無意味な民間人の虐殺だと言うだろうが、占領地を平定するためには必要な行為だった。
やったことに善悪など関係はない。
そこには良心も、悪意もありはしないのだから。
ただ殺人という行為だけが存在している。
殺される人間にしてみれば、怨恨から殺されたとしても、もしくは無差別に殺されたとしてもそんなことは関係がない。
殺される側にとっては、ただひたすらに同じ。
「人は、死ぬものだ」
いずれ、なんらかの形で。
他人も、そして自分自身も……。
午後になってから、シェレンベルクとマリーがライプツィヒから戻ってきた。
昨日と比べるとマリーの顔色は随分良いように見える。国家保安本部長官の執務室へ帰ってきたその足で報告をしてから、自分の執務室へと戻ってきた。
「ゆっくりできたようだな、マリー」
「やることがなさ過ぎて退屈よ? ベスト中将」
「そうかね? わたしは興味深い研究所だと思うが」
知的な話題についてはどこまでも関心を持つヴェルナー・ベストはマリーに応じながらコップに入った水を手渡すと自分のデスクへと戻る。そうして午前中にマイジンガーが持ってきたファイルを手に取るとひらひらと軽く振って見せた。
「兵器の開発なんて退屈よ」
確かに開発にまつわる研究の経過は退屈なものだ。
結果だけを知りたいと思う者が多いだろうが、それには大概の場合長い時間を伴うことが多かった。
「それは君にそういった知識が欠けているからだろう、マリー」
聞く者が聞けば耳に痛くなるようなベストの言葉だが、言われた当人はというと悪びれもせずに屈託もなく笑っていた。確かに、ヨーゼフ・マイジンガーが言う通り、可愛らしい笑顔であることには間違いない。
「君がマイジンガー大佐に依頼していたファイルが上がってきたが、見るかね?」
「はい、ありがとうございます」
ベストに差しだされたファイルを受け取ったマリーは、少女らしい軽やかな足取りで自分の執務机につくとファイルに視線を落とした。
いつものことだがマリーは物怖じするということを知らない。
自分がやろうとしていることが、親衛隊内部にどれだけの混乱を招くだろうことをわかっているのかいないのか、どこまでも天真爛漫な態度でいる。
そして、彼女が選択し、行使した権力が招いたものは親衛隊内部の混乱だけではない。
マリーの選択によって多くの人間が処刑され、あるいは強制収容所に収容された。そして強制収容所に収容されるということは、緩やかな、けれども確実な死がその先に待っているということを意味している。
それを、国家保安本部に所属するマリーが知らないわけがない。
「マリー、君はまるで……」
言いかけてベストは口をつぐんだ。
彼女はまるで自分が選んだ選択によって人が死ぬことを知っているというのに、その現実に相対して躊躇もしていなければ動揺もしない。
自分自身の命が狙われた時には泣き叫んでパニックを起こしたというのに。
そこにある温度差はなんだろう。
なにを考えているのかわからない表情のまま手書きの書類を読んでいるにこにこと笑顔をたたえた少女は、なにかを言いかけた首席補佐官のベストを見上げてから訝しげな眼差しで小首を傾げた。
――彼女はなにを知っているのだろう。
強制収容所には、飢餓と病気。そして死とがはびこっている。劣悪な環境に押し込められている人々にはいずれ確実な死が訪れる。
彼女はそれを”知っている”はずだ。




