8 権力
指揮官がどんなに品行方正であることを望んだとしても、人は現在の状況に慣れ、良かれと定められたはずの規律から逸脱していく。そうして、腐敗という病気はそこから進行していくのだ。
「ネーベ局長はどう思う?」
これを、とハインリヒ・ミュラーから差しだされたファイルにアルトゥール・ネーベはそれを受け取ると指先でめくりながら思案するような表情になった。
刑事警察局長アルトゥール・ネーベと国家秘密警察局長ハインリヒ・ミュラーの両親衛隊中将は国家保安本部の新長官となったエルンスト・カルテンブルンナー親衛隊大将の持ち込んだファイルを前にして頭をつきあわせていた。
その内容――問題は実に深刻だが、それまでの各機関と国家保安本部との関係を考えると、どうにもいらぬ詮索と誤解を招きそうな気がしないでもない。もっともだからと言ってミュラーにしてもネーベにしても、その誤解らしきものを率先して解こうとはしてもいなければ、思いもしない。
それらの緊張を緩和することは、実際の所、国家保安本部に所属する人間たちにとってはあまり差し迫った必要性がある問題ではない。
組織外の人間が、自分たちのことをどう思っていたとしても、それらは気に留めるべきことではなかった。
「……ふむ」
応じるように相づちを打ってから、タイプされた文書に目を落としながら黙り込んだ。
「各々は所詮些事にしかすぎんだろうが、これらを全体として考えれば我が国の経済活動そのものに大きな影響を及ぼす事態となるだろうな」
言葉選ぶようにして冷静に告げたネーベは「しかし」と言葉を紡ぎながら、小さくかぶりを振る。
「……ミュラー局長もわかっていることだろうが、わたしはゲシュタポではない」
社会的に見れば、刑事警察と国家秘密警察の差異はとても小さなものであったとしても、ネーベにとっても、そしてミュラーにとってみても両者の間には大きな違いが存在していた。
「確かに」
ネーベの言葉を受けて、応じたミュラーは視線を床におろしてから考え込むと腕を組み直して低くうなる。
あくまでもクリポはクリポであって、ゲシュタポはゲシュタポだ。
しばらく文面を追っていたネーベはややしてから視線を上げて、右手にしたファイルを軽く振るとフンと鼻を鳴らしてから顎に手をあてた。
「しかし、これは事が事だ。問題がこれほどの規模となればゲシュタポだけでは対処しきれまい」
「そう、そこなのだ」
的を射たネーベの台詞にミュラーが即答で切り返す。
「”問題”は、”ドイツ全土”の収容所に及んでいる。我がゲシュタポは現在一部は東部にも行動部隊としても展開している以上、この”問題”に裂ける人員は極めて少ない」
ドイツ国内、あるいはドイツの占領地区に監視の目を張り巡らせるための警察部隊は、組織外の人間が思うよりも実のところずっと少ないと言ってもいいだろう。
国内、国外の諜報部隊として活躍する情報将校たちは、さらに警察部隊と比較すれば数千人程度しか存在していない。そうした警察部隊と諜報部隊だけで国家保安本部は内外の敵と相対しているのである。
とてもではないが、ゲシュタポだけでは圧倒的に人員が不足している。時には刑事警察局が彼らの捜査の肩代わりをしなければ、警察組織としての国家保安本部は破綻すると思われる。
「親衛隊内部の腐敗は、刑事事件ではなかろう」
そう告げたアルトゥール・ネーベは「けれども」と続けてからファイルの縁を軽くたたく。
「けれども、クルト・ダリューゲの秩序警察が出しゃばるのも気に入らんな」
クルト・ダリューゲ親衛隊上級大将。
現在のところ、ナチス親衛隊に所属する親衛隊指導者で「上級大将」の地位を賜るのは、秩序警察長官クルト・ダリューゲ、第一SS装甲師団「アドルフ・ヒトラー親衛隊」の師団長ヨーゼフ・ディートリッヒ、親衛隊名誉指導者でもあるフランツ・クサーヴァー・シュヴァルツだけである。
この親衛隊上級大将という地位は、ナチス親衛隊の最高階級として位置づけられていた。
ネーベの声色はダリューゲに対する確かな嫌悪感を含んでいて、ハインリヒ・ミュラーは無言のまま頷いただけだった。
その男は、死んだラインハルト・ハイドリヒ同様に権力欲に取り憑かれた、けれどもハイドリヒよりもずっと愚かな二流の政治屋だ。
自らの分をわきまえていない。
幸か不幸かクルト・ダリューゲはハイドリヒ亡き後、二代目のベーメン・メーレン――ボヘミア・モラビア――保護領の副総督におさまった。ダリューゲにしてみればうまいこといったというところかもしれない。
ハイドリヒが死んだことによって得をした者は数多い。
「……ダリューゲ上級大将、か」
ミュラーはダリューゲの顔を思い浮かべてから視線を天井に上げた。ベーメン・メーレン保護領と言えば、ハイドリヒを対象にしたテロリズムによって、ドイツ第三帝国総統アドルフ・ヒトラーの勅命によって、徹底的な地下組織の掃討作戦が行われ、この一連の捜査という名目の弾圧によっていくつかの町が地図から消える事態となった。
「ベーメン・メーレンの”一件”だが、あの粛正を決定、決行したのはフランク親衛隊中将ではなかったか?」
ふと思い出したように告げたネーベは、該当地区の警察指導者であるフランクを知らないわけではない。
親衛隊内部の出世レースは熾烈さを増しており、ベーメン・メーレン保護領の親衛隊及び警察指導者であるカール・ヘルマン・フランク親衛隊中将もそのただ中にある。一説には、ハイドリヒ亡き後の副総督の地位を狙っていたとも言われている。
「しかし、彼の決定を是としたのは総統閣下だろう」
応じたミュラーの言葉に、ネーベはファイルを横にある机に置くと息を詰めるように考え込んでしまった。
ドイツ国内、そしてドイツに占領地域では多くの無辜の民たちが弾圧に晒されている。なによりもそれらの権限を握っているのはネーベや、ミュラー自身であって、とても清廉潔白であるとは言い難い。
「フランクの、決定をこれみよがしに否定することはできん」
ミュラーはつぶやくように告げるとネーベも頷きを返す。
社会は奇麗事だけでまわっているわけではないのだから。なによりも戦時中であればなおさらだ。
口で言うほど単純な問題ではない。
「しかし、宣伝省とフランクのやり方は問題があると思うが」
おそらく、ナチス党高官であるラインハルト・ハイドリヒに対するテロリズムを行った犯人グループに対する牽制を狙ったものであろうと考えられるが、少々宣伝がすぎるというものだ。
英米を含む連合国側は、ドイツ第三帝国を批難するための格好の材料を得たとばかりに飛びつくだろう。相手の弱みを握り、それを自国のプロパガンダに利用するという手はよくある話しだった。
「敵に、うまい口実を作るだけだろう。そうは思わんか? ネーベ局長」
ミュラーの率いる国家秘密警察も同じことをやっている。しかし、それはさも誇らしげに喧伝するようなものではない、とミュラーは思っていた。
多数の人間の人権を奪い、その命を摘み取っているということが知られれば、国外の人間だけではなく、国内の人間もそれらの行為に対して拒絶感を持つだろう。事実、若い学生たちや、政府高官や国防軍の将校らを中心にして、国内にあってすら多くの不穏分子が蠢いている。
「……――フランク中将がやっただろうことはさておくとして、いずれにしろ、親衛隊内部の腐敗は大きな問題だ」
なにか言いたげな顔をしたネーベはミュラーを見たが、結局口にしたことは別のことだった。
立場も思想も違う以上は、議論したところで始まらない。
カール・ヘルマン・フランクがやったことが残忍で非道であると言うのであれば、ゲシュタポ、クリポが行っている「強制摘発」も、やっていることは大差がない。
結局、奇麗事を並べたところで同じ穴の狢だろう。
ミュラーやネーベにとっての当面の問題は、ベーメン・メーレン保護領のテロリズムが活発化することではない。もちろん、それらが気にならないわけではないが、それらを管轄しているのはダリューゲとフランクだ。
彼らが暴走して勝手に自滅するのは彼ら自身の責任である。
「余り欲がすぎると、欲に飲み込まれる事態となることを肝に銘じるべきだろうな」
それは誰も同じように当てはまる。
誰に告げるでもなくネーベが言うとミュラーはソファに座り込みながら、刑事警察局長を見上げた。
「我らが新長官殿は、強制収容所で横行する親衛隊員の金品の横領を処罰すべきだと言うが、確か今の強制収容所はポール親衛隊大将の管轄だったな。あの経済管理本部長官殿が、ゲシュタポが収容所の看守たちを大規模に摘発することに対して首を縦に振るだろうか?」
「……大規模な摘発は、奴らに逃げ口を作ることになるのではないか? ミュラー局長」
「なに、全員を摘発するまでもないだろう。ユダヤ人共と同じだ、相応の恐怖を与えてやればいい。それだけで、一部の日和見主義者はおとなしくなる」
ぞんざいな、そして乱暴なミュラーの提案に、ネーベは考え込みながらソファに腰を下ろした。
確かに一部の者は、恐怖が拡大するだけでおとなしくなるだろう。
親衛隊員で横領に手を染めている者の全てを摘発するようなことになれば、強制収容所の経営が成り立たなくなるだろう。
そもそも、根本的に多くの人員を割いているわけではない。
絶対的な恐怖に基づく忠誠を強要すれば良いだけのことだ。
ミュラーの冷徹な指摘にネーベは無言のままで頷いた。
「しかし、カルテンブルンナー大将は国内の特権階級のユダヤ人を計画の対象とすることを提案しているそうだが、これが認可されればいろいろと面倒なことになるだろうな」
「……ポール大将がお冠になることだけは想像できるな」
――国家保安本部は”移送”するだけしておいて、残りの作業は全て経済管理本部ということか!
これが、髑髏部隊のテオドール・アイケであれば、プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに殴り込んでくるところだろう。
「アイケ大将でなくて良かったものだ」
渇いた笑い声を漏らしたミュラーに、ネーベは小さく肩をすくめて開かれた窓の外に広がる夕方の空を見やった。
今頃マリーとシェレンベルクはライプツィヒのホテルにでも宿泊したころだろうか。
いくら六局のヴァルター・シェレンベルクが女たらしのプレイボーイだからと言って、骨折している彼女に手を出すようなことはありえないだろうから、その辺りは心配などしていない。
彼も立派な社会的責任のある成人男性なのだ。
「とりあえず、今夜は自宅で眠るわけではないから、マリーもゆっくり眠れるだろう」
話題を切り替えたミュラーに、ネーベは興味深そうな眼差しを向けてから小首を傾げた。
「なにやら眠りを妨げるような心配事でもあるのかね?」
家の天井を鼠がかけずり回っているとか。
そう言ったネーベにミュラーは今度こそ無言のままで左右に頭を振ると意味ありげに苦笑しただけだった。
――彼も、とアルトゥール・ネーベは思う。
ゲシュタポ・ミュラーと恐れられたこの警察官僚も、この数ヶ月で随分丸くなったものだが、ミュラー自身は自覚しているのだろうか?
正直なところを言えば、ミュラーと会話を交わしていて、「会話になっている」ということ自体が驚くべきことなのだ。
多くの者が感じていたことだが、ハインリヒ・ミュラーという男と言葉を交わしていると――生来、人と話をすることが余り得意ではないらしい彼はどうにも相手が誰であれ――訊問をされているような風体になる。
要するにミュラーと話していると会話が成立しないのであった。
ネーベはそんなことを思って穏やかな表情を浮かべているミュラーを凝視した。
「マリーの無邪気さは、ある意味才能だな」
感心したネーベが独白するようにつぶやくと、ミュラーは「かもしれん」と応じて声を上げて笑うのだ。
時折、なにを考えているのかわからなくこともあるが、子供の笑顔を見ていて嫌な気分になるような大人はいないだろう。もっとも、自分が襲撃された直後にすら笑顔でいるということには、時折、薄気味の悪さを感じないわけではないが、それでも彼女のそんな様子を見ることはごくまれなことだった。




