1 マリア
ザクセンハウゼン強制収容所の処刑場で倒れてから、マリー・ロセターは昼もなく夜もなく一週間もの間眠り続けていた。
目を覚ます気配もなく少女はただベッドの上で眠り続ける。
一昼夜眠り続けていたことが発覚した後、シェレンベルクの独断で異常な状態であると判断され、ただちにベルリンの総合病院へと移送された。
国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将の暗殺事件。そしてその葬儀から二週間が経過していた。
六月二一日の午前十時を回ろうかという頃。
病室へ続く廊下にひとりの壮年の男がゆっくりと歩を進めた。
年若い情報部の「友人」が「囲って」いるという少女の存在はすでに男の耳に届いている。
親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーも半ばは「捜査」という名目でシェレンベルクの行動を静観している。
おそらくナチス党の高官たちの追求も、ヒムラーがのらりくらりとかわしているのだろう。彼は自分の身内の人間に対してひどく甘い傾向がある。
再定住計画では非情な決断すら下すというのに、だ。
「これはカナリス提督」
驚いたようなシェレンベルクの声に、壮年の男――ヴィルヘルム・カナリスは視線を向ける。
ナチス親衛隊、その情報部の幹部でありながらシェレンベルクは親衛隊情報部の人間特有の高圧的な態度などからは無縁で、常に正しく情報将校としての冷静さを失わない。
「久しぶりだ、中佐」
「提督もお元気そうでなによりです」
ニコリと笑ったシェレンベルクはカナリスに対して陸軍式の敬礼をもって敬意を示してみせる。こういった機転の早さはシェレンベルクのシェレンベルクたる所以だ。
「それで、今日はどうなさったんです?」
「それはわたしの台詞だ。六局の局長が朝っぱらからこんなところで油を売っている暇があるのかね?」
「提督でしたらご存じでしょうが、局長という立場は案外自由がきく身ですので」
「なるほど」
カナリスに対して臆することもない親衛隊情報部の将校に、本題を切り出そうと国防軍情報部の長官が口を開きかけたその時だ。
シェレンベルクの背後の廊下の先にある病室からドサリと音が響いた。
その部屋こそ、カナリスの目的地でもある。
「失礼します、提督」
軽く頭を下げて踵を返したシェレンベルクはカナリスに背中を向ける。
早足で廊下を駆け抜けて、病室に至る扉を開くとベッドから落ちた金髪の少女が自力で立とうとして足を踏ん張っている。しかし、一週間も眠り続けていたマリーは足の筋力がすっかり落ちているのか、自力で立ち上がることすらままならない。
「マリー……」
シェレンベルクが歩み寄ろうとしたその視界の脇を、高く靴音を鳴らしてカナリスがすり抜ける。
大股に少女に歩み寄ったのはカナリスの本能だ。
そうしなければならないと彼は思った。
カナリスが少女を抱き起こしている横にシェレンベルクが膝をつき「カナリス提督」と口を開きかける。
そのとき金髪のやせ細った少女は、唐突にカナリスの首に腕を絡めて抱きついた。
「……あなたを、待っていたのよ」
金色の髪の少女の体を抱きとめたカナリスはそのまま固まっている。
「……カナリス」
――わたしは、あなたを待っていた。
軽すぎる体は頼りないほどやせていて、カナリスがかつて知っていた知己の「彼」ではない。
それでも、カナリス”には”わかった。
「……ハイドリヒ」
呆然と。
薄い病衣から覗く手足は折れそうなほどやせ衰えて、それはかつてのハイドリヒなど全く連想させはしないというのに。
シェレンベルクに可能性の話しを持ちかけられるまでもなく、カナリスは五十歳を越える年齢にして「魂」で感じたひとつの結論を導き出した。
か細い手足の少女を両腕に抱いたままでカナリスはただ目の前に突き出された現実に愕然とせざるを得ない。もしかしたら、彼が「彼女」を「ハイドリヒ」だと思ったのは、ハイドリヒと凌ぎを削ってきたカナリスだったからこそなのかもしれない。
姿形は全く違う。
彼が死んだと聞かされたとき、カナリスは涙すらも流したというのに、どこをどうすればこういった形で「彼」が帰ってくることになるのだろう。
「カナリス……」
同じ色の瞳と、同じ色の髪。
同じものはたったそれだけだ。
もう一度、国防軍情報部の部長の名前を呼んだマリーは、かくりと白い喉をのけぞらせるようにして再び意識を失った。一連の成り行きをかける言葉すらなく見つめていたシェレンベルクは、男の腕の中で意識を飛ばしたマリーに気がつくと、気遣うようにカナリスに声をかける。
「提督……」
茫然自失としていたカナリスは、シェレンベルクの声に我に返ったようで、腕の中の華奢な体が意識を飛ばしていることに気がつくと、立ち上がりながら少女の肢体を抱え直す。
病衣の裾からのぞいた足は病的に細くて、それがどれほど長く彼女が病床にあったのかを伝えていた。
おそらく次に目が醒めたところでまともに歩けないだろう。
そっとベッドに戻すと、カナリスは彼女の頬に手のひらで触れた。まるで確かめるような仕草に、シェレンベルクはそっと目を細めてから首を傾げる。確かに、シェレンベルクやヒムラーにはじめて出逢った時も”そう”だった。
彼女は初対面の男たちの名前を呼んだ。
そして、今また。今度は国防軍情報部のヴィルヘルム・カナリスに対して「待っていた」と告げたこと。
――しかし、待っていたとは、なにを?
ハンス・ローリッツにも彼女は反応した。
それらのことを鑑みて、シェレンベルクは考える。
もしかしたら本当にラインハルト・ハイドリヒの生まれ変わりなのだというのだろうか。それにしても、そんな非科学的なことがあってもいいものか。
どこぞのオカルティスト辺りが大喜びしそうだ、と考えながらシェレンベルクは少女に触れているカナリスの様子を見守った。
そしてまた、そんなカナリスの反応も普通ではなかったのだ。
「まさか提督は、彼女がハイドリヒ大将閣下だ、と?」
「……――」
シェレンベルクの言葉に、カナリスは眉をひそめたままで沈黙している。
「提督?」
少女の頬をまるで慈しむように触れている彼の横顔はなにを考えているのだろう。情報部員の表情の変化を額面通りに受け取ってもバカをみるだけだとシェレンベルクは知っていたし、彼自身もそうだった。
情報部の人間たちは、意識的にその本音を隠して生きている。
中でもハイドリヒは特にその傾向が強かった。
生き様の全てが演技なのではないかと思えてしまうほど、国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒの表情から、言葉に至る全てから本音が隠されていたのだ。
「なにがあったのかは知らん。例の葬儀の際、ハイドリヒの亡骸が行方不明にはなったとは聞いた。そしてその棺の中に子供がいたことも」
そう言ってから言葉を切ったカナリスは、少女の頬を触れていた指先を離してから立ち上がる。
そうして制服を直しながら、シェレンベルクを振り返った。
「わたしがこの子の後見人になろう、この子は、ドイツのために必要な子だ」
彼女がハイドリヒであるならば、決して殺されてはならないし、ないがしろにされてはならない。いずれ、それほど遠くない未来、彼女の足が自力で道を切り開けるようになるまで、その道を優秀な人間が補佐してやらなければならない。
「……提督、それでは?」
「シェレンベルク中佐、わかっているだろうが、滅多な発言は慎みたまえ。いずれ彼女の存在を認めざるを得ん状況になるだろう。その時まで、君らが支えなければならんのだ」
暗に、カナリスは彼女がハイドリヒだと告げるその言葉に、シェレンベルクは目線だけで頷いた。
自分の予感は間違っていなかったのだ、と彼は思考を巡らせる。
そして現状として彼女が国家保安本部の長官として任命されるという可能性は果てしなく低い。ならば必要なことをしなければならない。
「承知しました」
「彼のやり方の全てに賛成できたわけではないが、少なくとも、ナチス親衛隊という組織にとって、ハイドリヒは必要不可欠だ。それは中佐もよく理解しているだろう」
カナリスの言葉にシェレンベルクは思考を巡らせる。
情報部員でありながら、どこかまっすぐなものすらも感じさせる尊敬できる先輩に、青年将校は片目を細めた。
そして余り多くを語ることをせずに、病室を出て行ったカナリスは一度だけ肩越しにベッドで眠る少女を振り返った。唇を動かした彼はなにかを言いたかったのかもしれない。廊下に出た彼は、扉の外にシェレンベルクの気配が続かないことを感じて、肩から力を抜くと軽く首を回した。
「……――”マリア”の存在が、吉と出るか、それとも凶と出るか」
彼女から感じたものは、かつてラインハルト・ハイドリヒと対峙した時に感じたそれと同じ。そして、彼女はカナリスに告げたのだ。
――わたしは、あなたを待っていた。
言葉の意味などわからない。けれども、確かに彼女はハイドリヒなのだとカナリスは感じ取った。
つい一ヶ月ほど前まで生きていたハイドリヒから感じていたものは、どこまでも浅はかな冷徹で、それはいずれ彼自身をも傷つけるのではないかとすらカナリスは感じていた。けれども先ほど彼の腕の中で崩れるように倒れ込んだか弱い少女から感じたものは、年齢以上の、まるで天から地上を見下ろしているようなどこか達観した眼差しだった。
長い年月の流れの末に達した場所にいる、とでも言えばいいのだろうか。
それは人間であれば誰もが手に入れたいと望む境地でもある。
類い希に強靱な精神力を持つハイドリヒをもってして、自ら達し得なかった高み。そしてそこに到達した「魂」を死に至る彼が呼び寄せたのであれば、それはドイツのためにほかならない。
コツリと靴音をたてたカナリスは、ぞっとするほどまっすぐな少女の瞳を思い出して肩を震わせる。
彼女の中にいる「ハイドリヒ」が覚醒すれば、地上は地獄と化すだろう。
それでも彼は、ドイツのために魂を覚醒させたのだ。そしてその魂が少女であるというのにはまた別の理由があるのだろう。
そこまで考えてから、カナリスは軽くかぶりを振った。
問題は、「魂」が「彼ら――狂犬」たちを御しえるかということだった。
「マリア……」
君はドイツのためにマリアとして生まれたのか。
カナリスはぽつりとつぶやいて、目を伏せた。
*
「自分で歩けるわ」
差し伸べられた男の手を押しのけながらマリーは言った。
マリア・ハイドリヒ――愛称をマリー。
ラインハルト・ハイドリヒの遠縁の娘。それがカナリスによって与えられた新しい身分である。
「しかし、フロイライン」
マリーはベッドの手すりを掴みながら足をおろした。
退院にあたって車いすを用意されたのだが、当の少女自身がそれを拒んだ。そのため杖を用意されたのだが、結局ひとりで歩くことが可能かどうか疑問視されたため、車いすはそのまま病室の外の廊下へ置かれたままだ。
親衛隊の青年の腕に支えられながら、彼女はゆっくりと立ち上がったが、筋肉が落ちきってしまっている足では体を支えきれずに崩れ落ちる。
それでも、かろうじて男に支えられてマリーはゆっくりと歩き、なんとか病院の前に停車されたベンツまでたどり着いた。
「シェレンベルクは?」
問いかけるマリーに青年は制帽の下からじっと彼女の青い瞳を覗き込む。
「局長はプラハに行かれておりますので」
「……プラハ」
そう。
固い男の声に、マリーは呟いた。
座り心地の良い後部座席に深く腰掛けた少女は隣に座る護衛の青年の体にもたれるように寄りかかった。
「あなたは、六局の?」
しばらくしてから問いかけた彼女は羽根のように軽い体で、青年はその頼りなさにぞっとする。
彼女は本当に生者なのだろうか?
彼はウルリヒ・マッテゾン。国家保安本部第六局に所属する情報将校のひとりで、言うならばシェレンベルクの部下のひとりである。
長い睫毛を伏せた彼女がなにを考えているのか、マッテゾンにはわからない。
局長であるシェレンベルクからは詳しい説明はなかったが、要人として扱うようにとの命令を受けている。名前がかつての彼らの上司である今は亡きラインハルト・ハイドリヒと同じ姓を持っているのが気にかかるところではあった。
十代半ばの、かつての国家保安本部長官と同じ姓を持つ少女。彼女が要人、とは。
いったい何者だろう。
「……フロイライン」
「戦況は……」
ぽつりと彼女がつぶやいた。
「は?」
青年に寄りかかる華奢な少女は、確かに小さく「戦況は」とつぶやいた。聞き間違いなどではない。
「なんでもないわ」
ナチス親衛隊。
そして国家保安本部に名前を連ねる親衛隊将校たちは決して軍人ではない。それ故に、現在行われている戦線の流れを変えることなど不可能だ。どれほど戦況を憂えていたとしても。
東部での戦線の拡大に伴って、軍の補給の問題は逼迫する一方で、一度目の冬を越し、二度目の夏が訪れた。
夏のうちになにかしらの手を打たなければおそらく昨年の冬よりもひどい状況に陥るだろう。そんなことは国家保安本部に在籍する多くの情報将校たちにもわかりきっていた。そしてその状況をひっくり返すために彼らも東奔西走しているのだ。
しかし、情報将校や警察関係者たちにとっては、問題は専門外にもはなはだしくこれといって打つ手がないというのが正しい現実と言える。
現在、国家保安本部の長官は親衛隊全国指導者であるハインリヒ・ヒムラーが兼任している。一説には、ハイドリヒの死に乗じて、彼の勢力を国家保安本部内から一掃しようし、ヒムラー派の人間に組み替えようとしているのではないか、とも囁かれている。
ハイドリヒが健在であった頃、ヒムラーは彼を自分の部下でありながら、同時にハイドリヒの権力の拡大を恐れてもいた。そこに都合良くハイドリヒが暗殺された。
ハイドリヒが暗殺されてからというもの、国家保安本部内の勢力はめまぐるしく塗り替えられていくようだった。
上層部の勢力争いなど下っ端には関係のないことだが、それによって戦場、あるいは軍の足を引っ張ることになり戦争に負けるような事態になることは問題だ。
戦争を始めたのならば、必ず勝たなければならないのである。
とはいえ、現状をひとりやふたりの情報将校らが気を揉んだとしても物事は一歩として前進しない。
そんな状況もあったが、マリーはシェレンベルクとカナリスのはからいによってベルリン郊外に小さな家をあてがわれ、そこで暮らすことになった。もっとも、一週間もたたないうちに多くの情報将校たちが集うサロンの様相を呈していくようになるのだったが。
理由はいくつかある。
最も大きな理由としては、国防軍情報部の部長ヴィルヘルム・カナリスと、国家保安本部第国外諜報局長であるヴァルター・シェレンベルクの両名が後ろ盾になるような少女に、その部下たちが強い興味を抱いたというのが大きなところだ。そして彼女を訪れた情報将校や、警察関係者たちは彼らに対して臆することもなくにこやかに言葉を交わすマリーの計り知れない魅力に惹きつけられた。
多忙を押してシェレンベルクやカナリスがマリーを訪ねると、なぜかウィーンにいるはずのカルテンブルンナーが少女のリハビリにつきあいながら談笑していたり、刑事警察局長であるネーベがいる。
こういった具合で時には、国防軍情報部の士官と親衛隊情報部の士官が玄関口ですれ違う、といった始末だった。
こうしてマリーは情報将校や、警察関係者の中に確実に自分の地位を築いていった。
その見事な人脈構築は、それこそかつてのハイドリヒを思わせる。
話しを聞くところ、彼らはマリーと当たり障りのない世間話しかしていないようだ。性的な関係でもなく、男たちは無垢な少女の存在に癒されたのかもしれない。他の女たちのように高価な装飾品に興味を示すわけでもない。
ベルリンの郊外の小さな家は、言わば情報将校たちのささやかな社交の場と化していた。
その主人はまだ十六歳の少女。
国防軍情報部、そして親衛隊情報部の士官たちが個人的に出入りするマリーの小さな家に、その日は勤務を終えたハインリヒ・ミュラーが訪れていた。
寡黙なこの男は、「ゲシュタポ・ミュラー」ともあだ名される。
家の中には贅沢品などなにひとつないのはいつものことだ。
彼が少女を訪ねるのは二度目。
粗末な木製のテーブルと椅子。ささやかながらテーブルクロスがかけられて、椅子には日中時間をもてあましたマリーが自ら作ったクッションが置かれている。
ジャガイモと少しのベーコンとタマネギの入ったスープと、ミュラーの持ち込んだパンだけがその夜の食事だ。
慣れない家事をしているせいか、指先には小さな傷が沢山着いている。
マリーが平皿にスープをよそって運んでくると、パンの袋をテーブルの真ん中に置いたミュラーが鼻の上に皺を寄せながら口を開いた。
「……今日の夕飯を、それだけですませるつもりだったわけじゃあるまいな」
自然と詰問するような口調になるミュラーに、マリーは花のように笑う。
「だって、ミュラー局長。わたし働いている訳じゃありませんもの。あまりおなかがすきませんし」
椅子の背中を掴んでどっかりと腰を下ろしているミュラーの前にスープをおいて、自分のスープを運ぶと彼に向かい合って椅子に腰掛けて、パンを袋から掴みだしたミュラーは、スープにパンをひたした。そんなミュラーに差し入れの礼を述べながらパンを手にする少女を上目遣いに見つめた。
「食費くらい俺が出してやる」
「とんでもない」
ミュラーのぞんざいな言葉にマリーは目をまん丸にした。
個人的にカナリスとシェレンベルクのふたりから、生活費をだしてもらってかろうじて生活をしている彼女の生活は質素極まりない。
「シェレンベルクとカナリスにはたくさん迷惑をかけているのに、これ以上たくさんの人に迷惑をかけられません」
そんなマリーの言葉に、ミュラーが鼻白む。
彼女が呼び捨てにするのは、国家保安本部国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルクと、国防軍情報部長官ヴィルヘルム・カナリスだけだ。
確かに社交的なシェレンベルクと自分を比較すれば少なからず取っつきづらいのかもしれない。
ミュラーはそんなことを頭の片隅で考える。
なにより彼が統括しているのは泣く子も黙る国家秘密警察だ。
どこか機嫌悪そうにむっつりと黙り込んだミュラーに動揺することもなく、マリーはミュラーの持ち込んだパンをちぎると口の中に運んだ。
寡黙なミュラーと食事を共にしているというのに、少女からは息苦しいものも感じることはないようで、ふたりの間に横たわる沈黙に動じている様子も見られなかった。
肝の据わった娘は、スプーンでスープをすくっているミュラーをじっと見つめて青い瞳をまたたかせた。そんな彼女の視線に気がついてハインリヒ・ミュラーが首を傾げた。
「……うん?」
「おいしいですか?」
問いかけられて、ミュラーは「あぁ」と口の中でひとりごちた。
「うまいぞ、前の時はひどかったが」
お世辞にも料理上手とは言えない彼女の手料理を食べるのは、これて二度目のことだった。
「……ごめんなさい」
以前、味見もせずにミュラーにスープを振る舞って、寡黙な彼は味に対して苦言のひとつ言わずに食べきった。その後、自分も食事にしようとしてスープを口にしたマリーは我ながら仰天したといういきさつがあった。
「うまいと言っているんだから、謝ることはないだろう」
前回の失敗を思い出して肩を落としたマリーにミュラーはやれやれと自分の肩を軽くたたく。
不思議な娘。
それが彼の印象だった。
情報部の将校たち、そして警察関係者たちの誰もが彼女に心を許す。そんな特別な素質を彼女は持っている。
シェレンベルクとカナリス。
このふたりを後ろ盾に持つ、というのが当初ミュラーに「臭い」と感じるものを思わせた。ハイドリヒの棺に潜り込んでいたと聞いたときには、さっさと強制収容所に送り込むべきだとも思ったが、今さらのように「強制収容所にこんな普通のドイツ人の子供を送り込まなくて良かった」と思うようになった。
現状、マリーが他国のスパイであるという可能性は限りなく低い。
本当にスパイであるならば、もっとたたいて埃が出ても良いはずだ。おそらく彼女に接触する情報将校、あるいは警察関係者のほとんどは同様の疑惑を抱いてそれぞれが独自の「調査」をしてから接触したに違いない。
生活の中で、リハビリを行っているマリーはようやく自宅とその周りを歩く程度には回復したが、まだ長時間歩くのは不可能だ。
それほどまでに足の筋肉が弱ってしまっていた。
そして、それほどまでに衰えてしまったマリーの元を多くの士官たちが訪れた。
ミュラーがスープを食べ終わり、最後のパンを口に放り込んだ頃、家の外が不意に騒がしさを増した。
車のエンジンの音と足音、そして男たちのざわめく声。
その音にミュラーが床を蹴るようにして立ち上がった。
時刻は夜の七時。
普通であれば、女性の家を訪ねる時間ではない。
相手がまともな人間であれば、の話しだが。だからミュラーはすぐに合点がいった。彼が扉に歩み寄ろうとすると同時に扉が激しくたたかれる。
「何事だ」
言いながら扉を開いた男――ゲシュタポ・ミュラーに親衛隊の青年が硬直した。
「武装親衛隊の要請により、フロイライン・ハイドリヒの尋問のため召喚命令です。親衛隊中将閣下」
「武装親衛隊だと?」
告げられた言葉にミュラーが瞠目した。
マリーの自宅には多くの親衛隊員や、国防軍情報部の情報将校らが出入りしている。
もちろん至極個人的に、だ。
個人の自宅に多くの人間が出入りすることにナチス党首脳部に苦言をつきつけられるならばともかくとして、武装親衛隊などマリーと関わりがあるはずもない。
彼女と関わりを持つのはほとんどが情報将校と警察関係者なのだ。
だというのに、どうして彼女が武装親衛隊の要請で尋問されなければならないのだろう。
「……承知した」
逡巡は一瞬だった。
ハインリヒ・ミュラーは応じて室内になだれ込んでくる親衛隊隊員たちを冷静に観察する。荒くれた男たちが足の悪い少女を追い立てるように連れだしていく。
「暴力はやめたまえ。ただの尋問で足が弱っている女性に対して、こんな手荒な真似をするということを国防軍情報部のカナリス提督はご存じなのかね?」
わざとらしくカナリスの名前を出したミュラーの言葉に、親衛隊の士官が固まった。ミュラーも親衛隊の中では親衛隊中将だが、国防軍情報部のカナリスも大将の地位にある。
大股で歩く親衛隊員の歩幅についていけず、崩れるように倒れ込んだ少女を抱き留めてミュラーはちらりと視線を戸外のベンツへと向けた。
フィールドグレーの制服。
おそらく武装親衛隊の将校だろう。
口の中で舌打ちしたミュラーは、肩をつかまれて引きずるように歩かされるマリーの体を軽々と抱き上げる。
「わたしは国家保安本部国家秘密警察局、局長ハインリヒ・ミュラー、階級は親衛隊中将。マリア・ハイドリヒの尋問に同席させていただく」
少なくとも、彼の国家秘密警察局での調査で、マリーの身の上に対する怪しいところはなにもなかった。それを武装親衛隊がなにがしかの嫌疑をかけて尋問するというならば、同席する権利があった。
万が一なにかを見落としていたのであれば、それはミュラーの沽券にかかわる問題だったからだ。




