春の涙
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春が嫌いだった。
出会いと別れの季節だなんて人は言うけれど、僕は別れの季節だと思う。
クラス替えや卒業などの小さな別れから、あの事件のような永遠の別れまで。
だから僕は、新しく芽吹く若草よりも、溶けてゆく雪を惜しむ。けれど、そんな僕を嘲笑うかのように、春の陽光は雪を跡形もなく連れ去ってしまう。
新しく得るものなんか何もいらない。ただ、持っているものを失いたくないだけだった。自分の隣にいた人を、春に奪われたくないだけだった。
ああ、でも――。
――彼女と初めて会ったのも、春だったんだっけ……。
◇1
2063年 春
「こんにちは、主人。これからどうぞよろしくお願いします」
開口一番、病室に入ってきた、僕と同じくらいの背格好の少女は、そう言ってぺこりと頭を下げた。マスター? 一体何の話だ?
と、彼女を連れて来た医者が微笑んだ。
「ははは、良く出来ているだろう? 人間そっくりだ。同じ機械だって騙されるだろうよ」
「……?」
ますます話がわからなくなった僕は眉根を寄せる。
「彼女はロボットなんだよ」
「え……」
ロボット? まさか。
ロボットというと、人型をした鉄の塊のような、無骨なイメージがあるが、彼女はそういうものとはかけ離れていた。荒れたところのないごく普通の肌やショートカットの髪。外見に機械だと感じさせる部分は一つもなく、どこにでもいるような少女に見える。
僕にじろじろと見られた彼女は不思議そうに小首を傾げた。そんな細かい仕草だって人間らしく、とてもロボットには思えない。
「彼女の名前はイヅル。HRS-N18HO94835号だ。……君の両親が遺したものだよ」
エイチアール……なんだって? 製造番号らしい複雑な記号の羅列を聞かされても、よくわからない。それより……。
両親、か。
僕は無意識に自分の手元にあった、真っ白い布団をギュッと掴んだ。
僕には、記憶がない。
何かの事故、あるいは事件があったらしい、それは覚えている。でも、それがどんな出来事だったか思い出せない。その事件で、僕の両親は死んでしまったらしい。親不孝な事に、僕は両親のことすら忘れていた。だけど、誰か……。誰かが泣いていた気がする。
イヅルはひょい、と僕の顔を覗き込んだ。
「どうしました? 大丈夫ですか?」
「あ、ああ……大丈夫」
自分でも気づかないうちに、しかめ面をしていたらしい。『誰か』の事を考えると、いつもそうなる。あれは一体誰なんだろう……。
「僕は、一葉。烏丸一葉だ。よろしく、イヅル」
「よろしくお願いします」
イヅルは自然な、柔らかい笑みを浮べた。
「……」
僕は、事故の後病院で目覚めてから、笑った覚えがない。何だか、イヅルは僕よりずっと人間らしく見えた。
◇2
――泣いてる。誰かが泣いてる――。
でも、僕はどうやってなぐさめたらいいのかわからない。なんと声をかけていいのかわからない……。
「……は。一葉。朝ですよ、一葉」
「ん……」
「大分うなされてたみたいです。何か悪い夢でも見ましたか?」
僕は大丈夫だ、とイヅルに答えた。いつまでもマスターという呼び名じゃ堅苦しいから、今は呼び捨てで良いと言ってある。敬語はくせらしく、普通の口調に戻せなかったのでそのままだ。そういえば、彼女は夢を見るのだろうか。
「遅刻しちゃいますよ。朝ごはんは用意してあるので」
イヅルは、僕が退院してから、家事などの身の回りの世話をしてくれている。両親が莫大な遺産を遺してくれたようなので、生活になんら支障はない。イヅルは僕の家族であり、友人だった。
「新学期から長期入院してたんですから、授業についていくの大変なんじゃないですか?」
「その辺は全然心配いらないよ。僕は記憶力だけはいいんだ。大抵のことは一回読んだり聞いたりしたらすぐ覚えられる」
記憶力がとりえなのに、記憶喪失とは皮肉な話だ。イヅルは、感心したようにため息をついた。
僕はテーブルに着くと、朝ごはんの味噌汁を口に運んだ。
「……」
「な、なにか変なところありました?」
えーと、何から指摘したらいいんだろう。突っ込みどころがありすぎて困る。
「まず味噌の溶かし方。味噌はお玉にとって、少しずつ溶かすんだ」
「あっ、そうでした!」
イヅルは、僕とは対照的に記憶力がかなり悪い。彼女の説明書によれば、より人間に近づけようとしたために付けられた学習機能だそうだ。ようするに、自分で反復しなければ忘れてしまうのだ。だが、彼女のあまりに人間に近いゆえの、困った機能は他にもある。
「二つ目。これが一番重要だ。いいか……納豆は味噌汁の具じゃないっ!」
「……!」
イヅルはまるで雷に撃たれたような顔をした。
これが彼女の困った機能、その2。そう、イヅルには『こころ』がプログラミングされているのだ。
その『こころ』がどの程度人間に近いものなのかはわからないが、そのおかげで彼女には好き嫌いや、喜怒哀楽、ものを美味しいと感じたりもする。
ただ……。イヅルの好みがかなり特殊なことが悩みのタネだ。
味噌汁に納豆ぐらいならまだいい。ヨーグルトに醤油はやめてほしい。切実に。
これなら自分で作った方がまだまともな物が食べられるかもな……。
「うーん、きっと美味しいと思ったんですけど……。次からは気をつけます」
しゅん、と落ち込んだあと、イヅルはにっこりと笑った。
「ありがとう、一葉」
僕は嚼み砕かれた納豆を、味噌汁と一緒にごくりと飲み下した。うん、極めて微妙な味だ。
確かに自分で作った方が美味しいかもしれない。けど……。
けれど、悪くはない。
こうしてイヅルに教えることで、自分の居場所を、再認識することが出来るから。
こういう日常も、悪くは、ない。
◇3
「……ココアには、マヨネーズより生クリームの方が合うと思うんだが、どうか」「えー、マヨネーズも酸味がついて美味しいと思うんですけど……ダメですか?」
「却下」
イヅルはしぶしぶと、マヨネーズ入りのココアを下げて、台所へ入れなおしに行く。
料理については、大分直したはずなんだが、未だにどんな創作料理が飛び出してくるかわからない。イヅルの味覚と好みのプログラミングをなんとか直せないだろうか。そう思って、何度か説明書と設計図を読んだが、僕はそういう作業に向いていないらしく、ちんぷんかんぷんだった。
「ココア出来ましたよー。……あれっ」
「どうした?」
「鳥がいます」
イヅルはテーブルにココアを置くと、窓から外を覗き込んだ。少し遅れて、僕も窓に近寄る。なるほど、確かに鳥だ。手のひらサイズの、小さな体。頭部は黄色で、胸から腹、腰までは黄緑色をしている。
「セキセイインコだよ。でも、なんだか様子がおかしいな……」
「もしかして、怪我をしているんじゃないでしょうか」
イヅルはぱっと身を翻すと、玄関から外へ出て、インコの方へと駆け寄っていった。
おそるおそるといった様子で、イヅルの白い指がインコに触れる。インコは抵抗する様子はまったくなく、あっさりと彼女の手の中におさまった。
「やっぱり。怪我をしてます」
庭から、窓の側にいる僕へ向かってそう言うと、イヅルはインコと一緒に戻ってきた。
「何をするんだ?」
「何って……治療するんですよ?」
僕の質問に、イヅルは不思議そうに首を傾げる。
――あれ。
『何をするの?』訊いているのは、僕?
相手は先ほどイヅルがそうしたように、不思議そうにちょっと首を傾げた。
『何って……治療するんだよ?』
たった今イヅルが言った台詞とほとんど同じだが、イヅルじゃない。僕と会話しているのは、一体誰? 僕は確かに誰かと話しているはずなのに、どうしても相手の顔が見えない。
ちくしょう、誰なんだ? 思い出そうとすればするほど、僕は相手から遠ざかる。頭が痛い。視界が、ふらつく……。
「一葉!」
イヅルの声で、僕は現実に引き戻される。
「うわっ!」
僕は勢い良く床に倒れこむ。衝撃でテーブルの上のマグカップが、がちゃんと音を立てた。
「大丈夫ですか!? いきなり倒れて……貧血ですか?」
「平気だよ。ちょっと部屋で休んでくる」
イヅルにはそう答えたものの、ものすごく気分が悪かった。まだ体がふらふらするし、頭が割れそうに痛い。あれは一体誰だったんだ? 失われた僕の記憶の中に、その答えはあるんだろうか。
◇4
――遠い満月、彼方の夜空。
すぐそばにあるように見えるのに、手を伸ばして初めて、私はそこへ届かない事を思い知る。
遠い太陽、彼方の夕空。
すぐ隣にあるように見えるのに、走ってみて初めて、私はそこへ追いつけないことを思い知る――。
朝起きると、かすかなメロディが部屋に流れ込んできた。イヅルが歌っているらしい。何だか、懐かしい旋律だ。
「――『千切れそうなほど手を伸ばしているのに、倒れそうなほど足を動かしているのに、距離は一向に縮まらない』」
「あれっ、この歌、知ってるんですか?」
イヅルがこっちを振り向いた。
「さあ?」
「でも、歌ってるじゃないですか」
それは条件反射のようなものだった。自然と歌の続きが口をついて出てきたのだ。「この歌は、誰の作品なんだ?」
イヅルは首を振る。
「作曲者不明です。たまたま私の記憶に入っていました。とは言っても、さっきの部分だけなんですけどね。歌詞はちょっと暗いけれど、いい曲ですよね」
「――うん」
僕は確かにこの歌を知っている。
事件の前――僕が記憶を失くす前――の記憶だろうか。その歌は、耳に心地良かった。
「そういえば、一葉。あの子、大分よくなったんですよ」
あの子とは、前にイヅルが拾ってきたあの小鳥だ。
「ほら」
数日前に買ってきたばかりの鳥かごを見ると、インコがエサを食べていた。確かに、庭で見つけた頃のぐったりしていた様子と比べると、格段に元気になっている。
そのままじっとインコを見ていると、彼はその小さなくちばしを軽く開いた。
「『トオイマンゲツ、カナタノヨゾラ』――」
イヅルが歓声をあげる。
「一葉、一葉! 今の聞きました? 喋りましたよ!」
「インコだからな。人の言葉を覚えるんだよ」
それを聞いたイヅルは子供のように目を輝かせる。
次にイヅルは、インコを見ながら、僕の方を指差した。
「この方は一葉です。ヒトハ、ヒ、ト、ハ」
インコは首を傾げながら、イヅルの言葉を復唱した。
「『ヒ、ト、ハ』」
『あなたの名前は一葉。――だからヒトハなんて、安直だけどね』
僕はまた誰かと話している。けれど、やはり相手の顔は見えない。
『覚えた? ヒ、ト、ハ』
「――よ、一葉」
「え?」 顔の見えない相手のことを考えていて、聞いていなかった。
「名前をつけましょうよ、って言ったんですよ。ずっと名無しのままじゃ可哀想ですもんね。どんな名前がいいですか?」
「そうだな……イヅルが考えていいよ」
「いいんですか!?」
訊きかえすイヅルの顔は、嬉しそうだ。自分で名前を考えたい、と思い切り顔に書いてある。
「うん、好きな名前をつけるといい」
「ありがとうございます! どんな名前にしましょう。明日までたっぷり考えておきますね」
イヅルは、うきうきと片づけをしながら、またあの曲を歌いだした。時折、インコの声が混ざる。一部分しか知らないというイヅルのメロディは、ある場所まで来たら、また元に戻る。一人と一羽から明るい調子で紡がれる、暗い歌詞のリピート。ミスマッチであるはずのその光景は、何故かこの場に良く似合っていた。綺麗にハーモニーを奏でているわけじゃないけれど、一緒に歌っている彼らは楽しそうだった。
*
しん。次の日、目覚めると、無音の世界が広がっていた。
イヅルが来てから、こんなに静かだったことはない。一体、どうしたんだ?
「イヅル?」
呼びかけてみても、誰もいない空間に僕の声が寂しく響くだけで、彼女の声は返ってこなかった。どこに行ったんだろう? インコの名前を考える、って昨日はあんなに楽しそうにしてたのに。そうだ、インコは? 僕は鳥かごを見た。
昨日までいたはずのインコは、そこにいなかった。
*
イヅルは、庭にいた。うずくまって、手のひらに乗せたインコを眺めている。
「一葉」
「……どうした?」
彼女はゆっくりと僕のほうを振り向く。
「インコが、起きません。いくら呼んでも、動かないんです」イヅルは、何も見ていないかのような虚ろな目で、僕を見る。「昨日は、あんなに元気だったのに」
「……」
「冷たいんです。硬いんです」
眠ったような姿で、イヅルの手のひらに横たわる小鳥。けれど、彼の時がもう動かないことは、僕の目から見ても明らかだった。
「――イヅル、それは」
「どうして? 昨日まではあんなに元気だったのに!」
イヅルは顔をゆがめる。
僕は、うつむく彼女に何も言ってやることが出来なかった。 何を言ったところで、気休めにしかならないだろう。所詮、僕程度の存在に彼女の哀しみを共有することは出来ないのだ。
彼女の涙を止めることは――。
――?
違う。イヅルは泣いてなどいない。じゃあ、今僕は誰に思いを寄せていたんだ?
そう。予想に反して、イヅルは泣かなかった。苦しそうに顔をゆがめてはいるけれど、その瞼から透明な粒がこぼれ落ちることはなかった。
「泣かないんだな」
「……私のプログラムに涙は組み込まれていないのです」
そうだった。
HRS-N18HO94835号の説明書と設計図。何度も読んだはずじゃないか。
それなのに、どうして僕はイヅルが泣くと思ったのだろう。
「お墓を、作ってあげよう」
「お墓? 埋めてしまうんですか? 何故? 動かなくなっても、私側にいたいです」
「別れるために埋めるんじゃないさ。また会うための準備をするための場所が必要なんだよ」
イヅルは黙っていたが、やがてゆっくりと首を縦に振った。
*
庭の隅の土が、少し盛り上がっていた。側には、真っ白な花で作った花輪が置いてある。
小さなインコを埋めた、小さな墓。
「……何て名前をつけようとしてたんだ?」
「『満月』です。頭が月みたいに黄色かったから」イヅルはうなだれた。
「でも、あの歌の通りでした。近くにいるように見えたのに、触ってみて初めて、そこにいないことに気づくんです。体はそこにあるのに、満月はもういないんです」
――遠い満月、彼方の夜空。
すぐそばにあるように見えるのに、手を伸ばして初めて、私はそこへ届かない事を思い知る――。
確かに、あの歌はそんな歌詞だ。でも。でも、歌には続きがある。
「『けれど、私は知っている。触れることが叶わなくとも、彼らは近くにいることを。追いつくことが出来なくとも、彼らは隣にいることを』」
そのフレーズを呟くように口ずさむと、イヅルがぱっと顔を上げた。
「それは?」
「あの歌の続きだよ」
「続きが……あったんですね。当たり前ですけど――」
歌詞の続き。ただそれだけだけれど、それは、イヅルと満月の続きのようにも聞こえる。
「そうですね。触ることが出来なくても、満月は隣にいてくれるんですよね……」
イヅルは微笑った。その目はまだ寂しそうだったけれど、悲しさは見当たらなかった。もしかしたら、僕の目に見えないように、イヅルは悲しさを隠しているのかもしれない。
けれど、イヅルが微笑ったことに、僕は何故か深い安心を覚えた。
◇4
永遠にこんな日常が続くと思っていた。
大きな幸せなんていらない。この毎日が続いてくれれば、僕はそれで良かった。
けれど、世の中に不変は有り得ない。
*
ポーン、と玄関のチャイムが鳴った。
「宅配便みたいです。行ってきますね」
ぱたぱたと軽い足音を立てて、イヅルが玄関へ荷物を取りに行く。宅配便なんて珍しいな。
「!」
ポーン、と玄関のチャイムが鳴る。
『宅配便みたい。行ってくるわね』ぱたぱたと軽い足音を立てて、誰かが玄関へ向かう。相変わらず顔は見えないけれど、初めて見る人だった。背の高さと声質からして、多分大人だろう。
『あ、それぐらいなら僕が……』
『いいのいいの。あなたは×××に勉強を教えてあげて』
わかりました、と僕はその場に止まる。
『!?』
時を置かずして、階下から轟音が響いた。
絶叫。悲鳴。轟音。絶叫。悲鳴。
その音が家の中に響く度に、繰り返される絶望のリフレイン。
ああ、誰かが――。『誰か』が泣いてる……――。
「行くな!」
僕は叫ぶ。
ぽたりと汗が床に落ちる。全速力で走った後のように、息が荒かった。
しかし、イヅルは既に、玄関へ向かって二階から階段を降りた後だった。
「イヅル!」
僕は勢い良く階段を駆け降りて、玄関へ飛び出す。
「うわあ!」
玄関にいた男――宅配便の配達員を装った強盗――は、僕の突然の乱入に驚いて、イヅルに向かって構えていた拳銃を、僕の方へ向ける。撃鉄は既に起こしてあった。
同じだ。あの時と同じ。
男が引き金を引く。
高速で飛んでくる弾丸。一連の動きがスローモーションの様に、やけにゆっくりと僕の頭に伝わってくる。けれど、避けることは出来ない。
「一葉!」
「な――」
轟音が鳴り響いた。
イヅルの体から、紅い飛沫が散る。それは、白かった彼女の服を染め、床にぼとりとこぼれ落ちる。
イヅルの体が、崩れ落ちた。
僕は叫んで、すぐさまイヅルに駆け寄った。
触れた手に絡み付く、紅い液体。鉄分のにおい。
これは、血?
そんな、イヅルはロボットの筈なのに――。
「!」
二発目が僕の腕を貫通した。
床に落ちた液体は、イヅルのものとは違う赤。色が違う。
ことん、と何かが落ちる軽い音がした。それはころころと転がってくる。何だこれは? 機械の部品?
それに――痛くない?
僕は、恐る恐る撃たれた箇所を覗き込む。
抉られた肉の下から見えるのは、骨ではなく、
紛れもない、機械。
「うわあああああ!」
何だ? 一体何が起こっているんだ?
そういえば、前にも、前にもこんな事が――。
◇5
「こんにちは、主人。これからどうぞよろしくお願いします」
僕は相手に向かって、ぺこりと頭を下げた。
「え? もしかして、この子が前に言ってた……」
僕を連れてきた旦那様はその問いに微笑みながら頷く。
「ああ、HRS-N18HO94835号だ。会心の出来だよ」
旦那様は、高明な科学者だ。研究室の付いた家はかなり大きい。そして、僕を作ってくれた人。
「えーとエイチアール……」
「HRS-N18HO94835号」
僕の主人となる人は、苦労して僕の製造番号を書きとめた。
「どうしようかな……エイチアールエス、エヌイチハチ、イッパチ、ヒトハチ……」
僕は首を傾げた。この人は何を考えているんだろう?
「そうだ! ヒトハ。一葉にしよう。あなたの名前は一葉。HRS-N18HO94835号の18から取ってヒトハなんて、安直だけどね」
一葉。僕は名前をつけられた。
「覚えた? ヒ、ト、ハ」
「はい」
「私はイヅル。烏丸依弦。よろしくね、一葉」
――。
「『遠い満月、彼方の夜空』――」
「誰の歌ですか?」
僕がそう聞くと、依弦はいたずらっぽく微笑んだ。
「えへへ、私が作ったの」
「歌を作ることが出来るんですね」
僕は、人間に限りなく近く設計されているが、所詮はロボットだ。人間ではない。歌のような、オリジナルの物を一から作ることは、まだ難しかった。
――。
ある日、依弦が怪我をした小鳥を拾ってきた。
「何をするの?」
「何って……治療するんだよ?」
依弦は不思議そうに首を傾げた。
失敗した。僕は頭をかく。
僕がこの家に来てから大分経って、やっと敬語の癖が抜けて依弦と普通の口調で話せるようになったけれど、人間の気持ちを完璧に理解していないみたいだった。
僕はその後、その小鳥はセキセイインコという種類だということを知った。彼は、人の言葉を真似することが出来た。
――。
「どうしてインコを埋めてしまうの? 動かなくても別にいい。離れたくない」
「別れるために埋めるんじゃないよ。インコには、また会うために準備する場所が必要なんだよ」
僕は黙っていたけれど、やがて立ち上がって手で土を掘り始めた。
――。
ポーン、と玄関のチャイムが鳴った。
「宅配便みたい。行ってくるわね」
ぱたぱたと軽い足音を立てて、奥様は玄関に向かった。
「あ、それぐらいなら僕が……」
「いいのいいの。あなたは依弦に勉強を教えてあげて」
わかりました、と僕はその場にとどまった。
「!?」
突然、階下から轟音が鳴り響いた。
続いて、奥様の悲鳴。
驚いた僕と依弦は階段を駆け降りた。旦那様も研究室から出てくる。
「か、金を出せ!」
「!」
強盗。足元に奥様が倒れている。
「依弦! 一葉!」
旦那様が僕らの前に出る。
「いやああああああ!」
絶叫。悲鳴。轟音。絶叫。悲鳴。
玄関の警報装置がけたたましく鳴り出した。強盗は、身を翻して、逃げ出した。
僕らと、血の海を残して。
*
「……依弦」
あの日以来、依弦は死んだような目をしているか、さもなければ泣いていた。
何と声をかけたらいい?
何を言っても、気休めにもならないような気がする。
僕に、涙は組み込まれていない。それは、旦那様の設計ミスだった。中枢回路に近いため、下手に直すと僕を初期化してしまう畏れがあるから、そのままにしておいたのだ。
だから、僕はわからない。涙を流せない僕には、人間じゃない僕には、依弦の気持ちを完全に理解することが出来ない。
――その日、僕は願ってはならない祈りを胸にした。
人間に、なりたいと。
*
依弦は壊れてしまっていた。
「もう嫌だ……悲しい。哀しい。苦しい。痛い。でも、もう嫌だ。悲しみたくないのに止まらない。もう涙は見たくない」
依弦は、僕をじっと見た。
「あなたが羨ましい。涙のないあなたが……」そして、依弦もまた、願ってはならない祈りを口にした。
「ロボットに、なりたい」
その瞬間、依弦は消えた。依弦はその日からずっと眠り続けた。
僕の機能もまた、停止した。
◇5
それは、僕の『こころ』に芽生えた、ささやかなバグ――。
なんということだ。
僕は全てを思い出した。
あの日から、僕は人間だと思い込み、依弦はロボットのHRS-N18HO94835号だと思い込んでいたのだ。
「イヅル。依弦……!」
僕は動かない依弦を揺さぶる。
「ひ、とは……」
依弦はよろよろとその腕を持ち上げて、僕の首に回すと、僕を力無く抱き寄せた。
そうして。
腕から、力が抜ける。
「依弦?」
いくら呼び掛けても、依弦は動かない。
「依弦、依弦」
依弦が目を開くことは、なかった。
ただ、僕の叫び声だけが、その場に長く木霊した。
◇6
僕は、墓地に佇む一つの墓に、真っ白い花で作った花輪を置く。
あれから一年。季節は巡り巡って、また春が来た。
暖かい風が吹く度に、雪の溶けた野に咲き始めた草花を見る度に、依弦がいないという空虚感が増す。
やっぱり、春は別れの季節だった。
でも、依弦と別れたのが春なら、依弦と出会ったのもまた、春なのだ。
依弦は、もういない。けれど。「『けれど、私は知っている。触れることが叶わなくとも、彼らは近くにいることを。』」
きっと――彼女は僕の側にいるのだろう。
「一葉」
「!」
依弦に呼ばれた気がして、僕は後ろを振り向く。
幻の依弦は僕に笑いかけて、消えた。
ああ――。
やっと依弦が泣きやんだ。
ぽつ、と小さな粒が地面に吸い込まれる。
「あれ、おかしいな……。僕に涙は組み込まれていないはずなのに」
後から後から、それは溢れ出る。
暖かい春風が、僕の濡れた頬を撫ぜた。