つよがり
希美の終電車が発車する時刻になった。でも僕たちは席を立たず、依然として高校時代の話とか、お互いの就職先の話とかをしていた。その間、終電について僕は一言も言及しなかった。もちろんそれは希美と少しでも長く一緒にいたかったからだし、そのために、なるべく彼女を酔わせようと、焼酎やバーボンソーダみたいな強めの酒を勧めていた。
希美は僕が勧める酒を拒まなかった。赤く上気した頬が、彼女の酩酊度がかなり高いことを示している。決して饒舌ではない希美が次々と言葉を紡いでくれることが、僕にとっては本当に嬉しかった。
「話をぶり返すけど、俺たちさっき別れたんだよね」
「ね。四時間くらい前じゃないかな? やっぱ、きっかり一年間だったね」
僕と希美はつい先ほど、乾杯をしてから別れた。理由は至極単純だ。来週、大学の卒業式が終わったら、僕は故郷に戻って高等学校の教員になり、彼女は幼稚園の栄養士として東京に残るからである。僕も希美も、遠距離恋愛は嫌だった。僕は、電話やメールで、表情のない希美との付き合いを長く続けていたら、いつか相手の本当の顔が思い出せなくなりそうで怖かった。
「会うのに交通費が五千円以上かかる人とは付き合いたくないもん」と希美は言ってホッケの塩焼きをつつき、僕は「頼むから社会に出たら知らないオヤジとかをじろじろ見つめるなよ」と笑ってカルアミルクを飲み干した。
希美は誰彼構わず人を見つめる癖があり、そのせいでたびたび男を勘違いさせていた。今も、僕は見つめられている。それを知っていながら、僕は視線を外し続けていた。彼女の目に、僕がどう映っているのかを考えると、恥ずかしい気がしたからだった。
「一年か、倦怠期にも差し掛からなかったな」
視界の隅で、希美がグラスを傾けているのが見えた。
「そうだね。お互い大学忙しくてろくに会えなかったしね」
僕は希美の目を見た。彼女は僕を見つめていた。今日初めて視線が交わる。店内は薄暗かったが、僕には希美の輪郭がはっきりと見えた。頭が痛い、と希美が言う。僕は少しだけ罪悪感を覚えたが、今夜だけなんだからまあいいやと確信犯を貫き通すことにした。
「ところで終電なくなっちゃったんだけど」
希美がいきなり切り出した。彼女と一緒にいたいから、こうして終電を乗り過ごす時刻になるまで何も言わなかったのだが、何だか余りにも計画的すぎる気がして、
僕は少し逡巡した。けれども、やはり僕は僕に抗うことが出来なかった。
「じゃあ、初めてウチ来る?」
彼女はう~んと唸ってみせた。一年付き合っていて、お互いの家に行ったことはない。彼女は目を閉じている。瞼の裏ではどんな映像が浮かんでいるのだろう。
「別れたけど、終電なくなっちゃったから行ってあげる」
希美はそう言って微笑んだ。
午前一時過ぎの新宿は午後七時の新宿と比べると、少しだけ行き交う人の数が減っていた。それ以外は大差ない。相変わらず客引きは路上で頑張っているし、宝石というよりはビー玉をぶちまけたような光を放つネオンも未だに健在である。希美はどうやらそこそこ酔っぱらっているようで、千鳥足の二歩ほど手前だなと僕は判断した。
「別れたけど、手とか繋いでみる?」僕は言った。英語で何やら話している白人男性をじっと見つめながら、希美は沈黙し続けた。聞こえていないのか、はたまた拒絶されているのか分からず、僕は向ける相手のいない不格好な苦笑いを浮かべた。
「ほんとに帰っちゃうの?」
軽くしていた現実が、急にずしりと実際の質量を帯びて心にのしかかった。右手に絡んできた希美の手はとても冷たくて、ほろ酔いだった僕の手の温度と混ざり合い、感覚的に限りなくゼロへ近付いていく。それが、気持ちよかった。「あったかい。このまま寝ちゃいそう」希美が呟く。ぴかぴか輝くスパンコールを身に纏った、髭の濃いオカマの人を見つめながら。
タクシーに揺られていると、僕は十数分前から何も喋っていない自分に気付いた。別れという名の積み木の山はとても重量があり、ひょっとすると僕はその重みに耐えられないかもしれなかった。だからまずは絶対に暗い表情は見せず、次になるべく希美の顔は見ないようにして話を進めていた。
そうして積み木のピースをひとつひとつ抜いていく作業を、僕は今夜希美に会った直後から開始した。酔いが回ってくるうちに、その作戦は功を奏し、ありがちな涙の別れという、僕が最も忌み嫌う結末は避けられそうに思えた。でも、そうした僕のつまらない意地も作戦も、希美の一言は綺麗さっぱり片付けてしまった。
僕はどうしても、彼女を見つめることが出来なくなった。
窓ガラスの外を夜の街が滑っていく。アルコールのせいでぼんやりとした僕の目では、通り過ぎていく色たちは全部交じり合って混沌としているように見える。反対側に座っている希美も、この途切れのない世界を見つめているのだろうか。何を言えばいいのか分からなかった。
十五分ほどで車は僕の最寄り駅に到着し、深夜料金三割増の運賃を運転手に支払うと、僕と希美はタクシーを降りた。もうすぐ秋の夜なのに、空気は湿っていて暑さを感じた。
無言で道路を歩く。大通りから少し住宅地へ入ると、そこは透明な防音加工がされているのではないかと思うくらい静かだった。僕と希美はお互いの足音だけで語り合い、繋がれた手と手は外気以外に感じる唯一の温度だった。
希美とは高校のときから知り合いだった。クラスに可愛い子がいると聞いた。それを知るまで、僕は確かに彼女を知らなかった。ただし、知ってしまったら、あとは早かった。
僕はずっと以前から希美を好きだったような気持ちで、何とか彼女と距離を縮めようと色々した。とはいえ、本人にしてみれば僕はただのクラスメイトであり、特別な存在ではない。ごく自然にメールアドレスを聞こうにも、どう切り出せばいいのか全然分からなかった。「そういえば、アドレス知らないよね」という白々しい聞き方をしたとき、彼女は笑っていた。情けなくて、どきどきした。
毎日メールのやりとりをしては、その都度希美の反応に一喜一憂していた。それが幸せだった。まだその頃は、希美という女の子は僕にとって一番知りたい他人に過ぎなかったから、テストでいい点数を取る方法よりも、僕が彼女とごく自然に会話をする方法を知りたかった。毎日メールを送られる希美の立場には、立てなかった。嬉しすぎて。
僕の大学と彼女の大学は、ずいぶんと離れてしまうことになった。毎日教室で顔を合わせていた日々は去り、僕たちはメールもしなくなった。顔さえ見なければ、彼女は僕の思い出の中でじっとしていた。まずかったのは、その思い出を、僕が度々見つめずにはいられなかったことだ。彼女は確かにじっとしていたが、僕はそうじゃなかった。
一年が過ぎ、二年が過ぎ、そしてついに三年が過ぎた。その間、僕は何人かの女性と付き合ったが、結局、僕が勝手に心の中に居座らせている希美を消し去ることは出来なかった。最初の子の髪をかきあげる仕草に希美を重ね、また別の子が微笑むときには希美との違いを見た。病気のような想いを抱く自分を自覚するたびに絶望し、同時に、付き合ってきた女性に対する申し訳なさの念が驟雨のごとく僕に降り注いだ。
どうして僕はこんなに希美のことを忘れられないんだろう。
何度もそう考え、考えた時間はすべからく無益に過ぎ去った。答えなど出なかった。そもそも、〝好き〟とは一体どんな気持ちなのか分からなくなった。
傍にいたいと願うこと?
キスをしたいと思うこと?
全てに触れたいという欲望?
そのどれもが当てはまるような気がするし、どれかひとつだけでもないような気もする。考えはまとまらなかった。そして、そうした精神世界の悩みというものは、大学の単位取得や就職活動の影に隠れて、僕の優先順位を次第に落としていった。忘れようと努めても叶わなかったのに、忘れようと意識しないうちに、希美の横顔は遠ざかっていった。
「静かなとこだねぇ」
僕の家まであと三十メートルほどの、電柱の下まで来たとき希美がぽつりと呟いた。今度はどこにも見つめる人間はいない。新宿の中心街からそう離れていないせいか、夜空は水に浸した海苔のような、奇妙な黒色をしていた。
「どこかで、ちゃんとしなきゃいけないんだよね」
希美が言う。以前もらったメールに、同じ言葉が綴られていた。
「そうだよね」彼女の言葉は同意を求めているのではないと僕は判断した。だから真っ直ぐ僕のアパートの方向を向いて、黙っていた。
汚いわぁ。と彼女は開口一番に言った。僕の部屋は五畳ほどしかない。だがハシゴの上にロフトが三畳あるので、一人暮らしをするには充分だった。しかし、彼女から見たら犬小屋並みの広さ、ということだったのだろう。冷蔵庫やレンジ、テレビなどを置いているので、更に狭く見えてしまうのは仕方ない。冬はコタツに早変わりするテーブルの上には、大学のシラバスや教材研究のための資料などが山積している。とりあえず、綺麗な部屋じゃないな、と思った。
「人、あんま来ないから……」僕は言い訳した。
「まあ、男の人の一人暮らしなんてこんなもんか」
カーペットの上に希美が座る。僕は彼女の鞄を受け取って、ドアに付いているフックに引っかけた。この部屋には大学一年生のときから住んでいて、女性を入れたことも何度かあった。その全ての機会において、僕は秘密の日記を見つめられているような緊張状態に陥り、彼女たちの視線が部屋の空間をさまようたびに、心拍数が跳ね上がる思いだった。
何故だろう。今日はそれがない。しきりに「汚い、汚い」とぼやきながらあちこちを大きな目で見回している希美。僕はそんな彼女をぼんやりと眺めていた。高校時代の僕たちの関係から考えると、彼女が今僕の部屋にいることはありえなかった。教室で友達と楽しそうにお喋りをしていた希美や、他のクラスの男子生徒に告白されたという噂が流れ、困惑した顔をしていた希美。僕にとって彼女は、凄く近くに置いてあるテレビの中で喋ったり笑ったりしているような女性だった。
「いらないタオルとかある?」
「は?」
「掃除する」
僕は言われるがまま、希美にタオルを手渡した。彼女はそれを濡らすと、おもむろにテレビの傍にしゃがみ込んだ。「ちょっと……」僕は慌てた。希美は僕に背を向けたまま、あ、そうか。と呟いて立ち上がり、振り向いた。
「着替えないと服汚れちゃう。何か貸して」
あいにく女物の服は持っていないので、僕は部屋着にしている黒のハーフパンツと赤のTシャツをたたんであった服の中から引っ張り出した。希美は服を受け取ると玄関に行く。ドアが閉まると、僕は部屋に一人となった。
大学三年も終わりを迎えようとしていた三月、僕と希美の距離は急速に縮まった。突然僕に送られてきたメールには、久し振り、とだけ書かれていた。高校卒業以来希美とメールをしていなかった僕は、まるで初めて携帯電話を買ったときのように緊張しながら文字を打ち込んだ。
僕と希美は飲みに行く約束をしたのだが、当日になって、高校のときと変わらない無垢な彼女の眼を見るまで、とても信じられなかった。実際に酒を飲んでいる最中でさえ、メール以外では余り親しくしたことがない希美の声は、テレビの中から響いてくるような距離感があった。
少しだけ酔ってきたのか、ぱたぱたと掌で顔を扇いでいた希美が、好きなのかもしれない、と不意に呟いた。それまでテレビから聞こえていたモノラル音声が、突然耳元でステレオに切り替わった気がした。
希美の独白が始まった。
高校を卒業してから一人暮らしを始めた彼女は、それまで頻繁にメールをくれていた僕からの音信が途絶えて違和感を覚えたという。僕が希美に好意を抱いているのを本人も気付いていていたのだが、僕は決して自分の気持ちを打ち明けることはしなかったので、曖昧な関係を続けていたのだそうだ。
大学二年になったとき、共通の友人から僕に彼女が出来たことを知らされた希美は、言いようのない虚脱感に襲われたそうである。何をしようとしても手に付かず、自分でもどうしてしまったのか分からなくなった。その状態で更に一年間を過ごしたのだが、とうとう我慢が出来なくなってメールした……とのことである。
何のことはない。僕も希美も、〝好き〟とはどういうことなのか分からなくなったのだ。ただその答えを求めて、僕たちは悶えていたのだろうか。
「一年、一緒にいようか――だっけ?」
僕は着替えを終えて、部屋に戻ってきた希美に尋ねた。Tシャツもハーフパンツも僕のサイズなので、彼女が着るとやけに大きく見える。
「そうそう。変だよね、あんな始まりかた」希美は笑って、テレビラックを拭き始
めた。僕の目には綺麗に見えていたのだが、相当ホコリが溜まっていたようで、雑巾代わりのタオルはひと拭きで灰色になってしまった。
「……考えはまとまりましたか?」
僕は尋ねた。背を向けてラックのCDやDVDを整理している希美は、う~んと唸った。
『何だかよく分からなくて。考えても考えてもまとまんない。お互いまだよく分かり合ってないから、帰っても多分大丈夫だと思ってたけど、やっぱり帰っちゃうのは寂しいし。でも、それは私が甘えてるだけなのかもしれないし。ひとりになるのが寂しいだけなのかもしれないし……。好きってどういうことなのか、ほんとにわかんなくなっちゃったみたい。最近そればっかり考えてて、いつも以上にぼーっとしちゃうの。だから、どこかでちゃんとしなくちゃいけないとは思ってるんだけどね』というメールを、僕は先日希美から受け取った。
本当に好きな相手と離れたくないのなら、一生をかけて添い遂げたいと思っているのなら、就職先や距離の問題などどうにでもなる、と僕は考えている。けれども僕は四年前に両親と交わした、大学卒業後は実家に戻り、長男として家を継ぐ、という約束を選択した。希美は、故郷に戻らず東京で栄養士として就職先を見つけた。僕は希美に対する想いの正体を見失ってしまい、彼女と別れる決意を、そこでした。
「……〝好き〟って何だろうね」
希美の返事が来る前に、僕は自問自答するように言った。希美は無言だった。あらかたテレビの回りを掃除し終えた彼女は、今度はテーブルの上の本類を整理し始める。僕はそんな様子を、ただ見つめていた。携帯電話の時計は午前二時三十分を表示している。彼女がこんな時間まで起きているなんて、ほとんど奇跡に近いと感じた。
一夜限りのメイドさんは、テーブルの上が終わったら、次はレンジ周辺。そこが終わったら、今度は空き瓶を紙袋に詰め込んで玄関に置き、水道で皿洗いを始めた。
「ごめんね、なんか家政婦みたいなことさせちゃって」僕は希美の後ろ姿を見ながら言った。
「ホント気にしないで。私の趣味みたいなもんだから」
「最後の最後でウチの掃除させてちゃ、ダメだよな――」
「気にしないでって」語気が、強い気がした。
水道の蛇口から流れ出る水の音のせいで、真偽のほどは分からない。でもそのとき、僕は希美がいつもの透き通った声の中に、少しだけ濁りを紛れ込ませて言ったように聞こえた。
希美が水道の蛇口を閉めると、部屋の中にまた静寂がたちこめた。洗った皿を拭き、それを食器棚に入れ終えると、彼女は更に仕事はないものかときょろきょろし始めたので、僕は慌てて言った。
「ありがとう。もう大丈夫だよ。十分綺麗になった」
「うん」
それでも、希美は僕を見ようとしない。落ち着いて座ろうとしない。僕は何だか面白くなくて、わざと明るい口調で話しかけた。
「こんな時間まで起きてたことあんまないでしょ。もう寝ようか?」
「寝たら終わっちゃう」
胸の鼓動を、何故か喉のすぐ下で感じた。今度は僕が希美を見ることが出来ない。彼女の声は、何気ない用事を頼まれて「うん、分かった」と普通に返事をするような抑揚のないものだった。それでも、いや、かえってそのせいで、僕の全身はざわついてしまった。終わりという判然としない概念が、希美の言葉によって僕の頭の中で具現化された感じがする。
「〝好き〟って……どういうことかわかんないけど、何することか、全然わかんないけど、寝たら終わっちゃう」
「でも、それは――」
「思い出とか、最後の最後まで、とか言われると……このあたりが痛いんだ」
希美はお腹の少し上を押さえていた。彼女はそれきり俯いてしまった。僕も、何かを伝えたいと頭の中では思っているのに、それを口に出すための語彙がなかった。気持ちだけが僕から滲み出て、沈黙の中に消えていく。やりきれない静けさに耐えられなくなった僕は、全然関係ないことを喋り出した。見たいホラー映画の話や、最近モヤシと豚肉の炒め物しか料理していない話など、取り留めのない話を三十分はした。
頷いたり笑ったり、希美は多様な反応を見せてくれた。けれども、彼女も本当に言いたいことが言えないで苦しんでいるように思えた。僕は希美の言う「終わり」については一切触れない。触れてしまったら、僕は〝好き〟の意味を理解してしまう。ようやく分かった。僕は〝好き〟であることの意味を知るのが怖かったのだ。
希美を抱き締めるのは簡単だったのかもしれない。自分の想いを言葉にしたくても出来ずに、悔しそうに歪んでいる唇を塞いでしまおうと思えば、それも容易だったのだろう。いつもみたいにさっさと服を脱がしてしまえばよかったんだ。でも、僕はそうしなかった。結局、僕はずるくて臆病な距離を埋めようとはせず、ただ恐れた。彼女と一緒にいられる時間が減っていくという現実を恐れた。「寝よう」と一言、僕は言った。希美はただ頷いた。僕は先にロフトへと上がり、下で寝るための枕と毛布を掴んで、すぐハシゴを降りる。希美は既に立ち上がっていた。俯いてはいなかった。
「上、ちょっと汚いけど下ほどじゃないから、使って」
僕は言った。
「うん。ありがと」
希美はハシゴに手をかけると、ゆっくりと上っていく。中段あたりで、少し止まった。それだけで、僕は息を止めてしまった。
「……朝、早めに出るね」
「分かった」
「泊めてくれてありがと」
希美がハシゴを上りきると、微かに僕の天井が軋んだ。彼女の体重を、そこに感じた。ロフトに電気が灯るのを確認すると、僕は一階の明かりを消した。オレンジ色の薄明かりが、部屋全体をおぼろに照らし出す。僕はカーペットに枕を直接置き、ごろりとその上に倒れた。背中の下が固かったけれど、別に構わなかった。
見上げると、希美が座っているであろう天井が見える。彼女がどんな表情なのか、何を思っているのか、それを知ることは出来ない。ほんの三メートルほどしか離れていないのに、僕にはそれが無限の彼方であるかのように感じた。天井がいつもとまるで違って見える。
見知らぬ天井の上で、希美が動いた気配がした。僕は反射的に目を閉じる。薄い瞼に闇が広がった。「〝好き〟って気持ち、きちんと分かってたらもう少し続いたのかな、私たち」僕は答えなかった。答えることが出来なかった。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
希美が電気のスイッチを切ったようだ。先ほどよりも数段暗い、真の闇が瞼の裏に塗布された。僕と希美との距離は、無限を超えて計測不能になった。
何も聞こえない部屋。彼女の寝息すら、周囲の静寂に耳栓をされて、僕には届かなかった。僕は〝好き〟について考えた。
傍にいたいと願うことであり、キスをしたいと思うことであり、全てに触れたいと思うことであり、そのどれかひとつでもないもの。どうしても消すことの出来ない希美との思い出や、僕の中で笑う彼女の横顔。握った手の心地よさ。声を聞くたびに味わう安堵の気持ち。もしそれが失われたら、失ったら、失うことになったら……。
ほとんど恐怖に近い感情だな、と気づいたとほぼ同時か、その少し前に、僕は眠りに堕ちていた。とびきり悲しい夢でも見られたらよかったのに、真の闇が払われることは、朝までなかった。
七時過ぎだった。四時間ほどしか寝ていないのに、起きた瞬間にはもう眠くなかった。僕は冷蔵庫から麦茶を出して飲んだ。冷たすぎて、余り美味しくない。カーテンを開くと、見事な晴れ空だった。少しは曇れよ、と心の中でぼやくと、その場に座り込んだ。鼻をすする音がロフトから聞こえた。希美も起きたのだろうか。声をかけることは出来なかった。頭の中が、突然空っぽになってしまった。
上でごそごそ物音が聞こえ出しても、僕はおはようとは言えずにいた。下に希美の服がないから、恐らく着替えているのだろう。黙って窓の外を眺めていた。物干し竿と隣の家の塀しか見えない。こうしていることに、意味などなかった。首を回して、希美が綺麗にしてくれた部屋を見渡す。どこをつぶさに見つめるでもなく、ただぼんやりと、確かに数時間前、希美の色に染め上げられた部屋全体を視線でなぞった。感情が働かない。嬉しくも、悲しくもなかった。
ハシゴの段を踏みしめる音がして、僕は思わずそちらを見た。ハシゴの最上段に足をかけて、希美は座っていた。
「おはよ」希美が言った。髪はとかされているのか、艶やかな光沢を放っている。やはり着替えたらしく、昨夜家に来る前の服装をしていた。
「おはよ。眠れた?」
「うん、超寝た」
「静かだからね、このへん」
僕の目は長い時間、彼女を見てはいなかった。「終わり」が、近づいていた。
時計を見る。八時を回っていた。随分長いこと呆けていたんだなと、少しだけ驚いた。それからしばらくの間、僕と希美は動けなかった。ひょっとすると動きたくなかったのかもしれないけれど、本当のことはどちらにも分からなかったのだと思う。
「これ以上いるとだめだな」
希美が言い、ハシゴを降りてきた。同時に「終わり」も。僕は立ち上がり、彼女を迎えた。
「帰りたくなくなっちゃう」
そう言って、僕から鞄を受け取ると、希美はにっこりと笑った。素直じゃない。僕も君も、素直じゃない。
「駅まで送るよ」
「だめ」
もっと帰りたくなくなるじゃん、と希美は呟いた。
「道、ちゃんと覚えてるから」
「そっか」
「着替え貸してくれてありがと」
希美は僕に、きちんとたたまれたハーフパンツとTシャツを手渡した。玄関まで見送るのは、僕の勝手だろうと思ったので、希美が靴を履いている姿を後ろで見ていた。亀裂から水が染み出るように、僕の感情が活動を再開した。それでも、僕は希美に何も言えなかった。口は開くのだが、すぐ閉じてしまう。胸が苦しい。言葉を探すことが、これほど苦痛に思えたことはない。大声で意味不明な言葉を喚き散らしたほうが何倍もましだった。
靴を履いて立ち上がった希美が振り向くと思ったが、彼女は僕に背を向けたまま玄関のドアを開いた。太陽の光が待ってましたとばかりになだれ込んでくる。昨夜とは変わって、乾いた空気だった。ノブに手をかけたまま、希美は止まった。不自然なくらい長い時間、そのままでいた。
「ドラマみたいにはさ」やっと、希美が喋った。「……いかないね」
搾り出すような声だった。僕は彼女の言葉をそのまま飲み込み、何の解釈もしなかった。しようと思わなかった。希美はまたね、と言ってドアを閉めた。さよならと言われたら、僕の涙は流れてくれるはずだった。
ついさっきまで希美が身につけていたハーフパンツとTシャツは、まだ仄かに温かかった。僅かに彼女の付けていた香水の匂いも残っているようだ。
部屋に戻ると、僕はもう一度ぼんやり、部屋全体を見た。そして、心の中の希美を探してみた。まだ、彼女は笑っていた。相変わらず無邪気な目で、僕を見つめていた。
君が自分好みに整理整頓していった部屋。そのうち元通りになる。この服の温度だって、すぐになくなってしまうだろう。
それくらい簡単だったら、よかったのにな。
《終》