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内科医が豊臣秀長に転生したので、酒を断って長生きします ~俺が死ぬと豊臣家が滅ぶ~

作者: 島村 巡
掲載日:2026/10/25

 一五八九年 早春  大和 郡山城



 酒を断って九十日目の宴は、ほとんど拷問だった。


「殿、こちらは吉野の新酒にございます。今年は出来がよいと、蔵元が自ら担いでまいりました」


「殿、こちらは奈良の僧坊酒。寺の者が、ぜひ殿にと」


「殿、こちらは」


 家臣たちが、次から次へと徳利を持ってくる。広間には、杉の香りと酒の匂いが満ちていた。正月の祝いを兼ねた宴だ。大和、紀伊、和泉の三国から集まった家臣や寺社の者たちが、大納言様に一献を、と列をなしている。


 俺の前の盃には、白湯が入っていた。


「すまぬ。俺は、白湯でよい」


 そう言うたびに、相手の顔が曇る。大和大納言、豊臣秀長が酒を断ったという噂は、もう三国じゅうに広まっていた。病か、願掛けか、それとも女か。家臣たちは陰で賭けまでしているらしい。


 隣で、大柄な男が肩を震わせていた。


「笑うな、高虎」


「笑ってなどおりませぬ」


 藤堂高虎は、真顔で盃を干した。日に焼けた顔に、刀傷がいくつも走っている。いくつもの主君を渡り歩いた末に、俺に仕えた男だ。いずれ築城の名手として天下に名を知られる。今は、主君の苦境を肴に酒を飲んでいる。


「殿が白湯をお飲みになるたび、寺の者たちの顔が引きつるのが、なんとも」


「やはり笑っているではないか」


「笑ってはおりませぬ。楽しんでおるだけでござる」


 俺はため息をついて、白湯をすすった。


 そこへ、墨染めの衣の老僧が、両手で大きな徳利を捧げ持って進み出てきた。奈良の大寺の、名のある学僧だ。大和の寺社は、秀長が来る前から、この国のもう一人の主のような顔をしてきた。その寺が、わざわざ自分の寺で造った酒を持ってきたのだ。断れば、角が立つ。


「大納言様。当山の酒は、薬師如来に供える御神酒も同然。一口なりとも召し上がれば、病も退散いたしましょう」


 広間が、少し静かになった。皆、俺がどうするかを見ている。


 俺は老僧から徳利を両手で受け取り、深く頭を下げた。


「ありがたく頂戴いたします。この酒は、郡山の薬蔵に納め、傷を洗う薬として使わせていただきたい。薬師如来の御神酒なら、それがいちばんの使い道でございましょう」


 老僧は目をしばたたかせた。それから、なるほど、と膝を打った。


「さすがは大納言様。仏の酒を、人の命のために」


「一口飲めば病が退散するなら、傷口にかければ、なおよく効きましょう」


 広間に、どっと笑いが起きた。老僧も、まんざらでもない顔で笑っていた。


 隣で高虎が、小声でつぶやいた。


「酒を断っても、口の巧さは変わりませぬな」


「褒めているのか」


「呆れておりまする」


 ◇


 三月前、俺はこの体で目を覚ました。


 その前の俺は、橘恭介という名の内科医だった。当直明けの外来で、三十八時間ぶっ通しで働いたあと、立ち上がった拍子に倒れた。患者には散々、休めと言ってきたくせに、自分のことは後回しにした報いだ。


 目を開けたら、豊臣秀長になっていた。


 枕元には、品のいい女が座っていた。秀長の妻だ。三日も熱にうなされていた夫が目を開けると、その人はほっと息をつき、それから、何も言わずに白湯を差し出してくれた。


 知らないはずの記憶が、白湯の温かさと一緒に流れ込んできた。尾張中村の泥田。足軽になった兄の背中。俺もいつか城を持つぞ、小一郎。そう笑った兄の顔。


 関白・豊臣秀吉の弟。小一郎と呼ばれて兄の背中を追い、気がつけば百万石を預かる大納言。この時代のことは、子どもの頃から本で読み漁ってきた。だから、この先に何が起きるかも知っている。


 一五九一年の正月、豊臣秀長は病で死ぬ。


 その翌月、千利休が切腹させられる。同じ年、兄のたった一人の子が幼くして死ぬ。翌年、兄は朝鮮へ兵を出す。兄の甥は一族もろとも殺され、兄が死んで二年後には関ヶ原。豊臣家は、坂を転がるように滅んでいく。


 そして歴史の本は口をそろえて言う。秀長が生きていれば、と。


 兄に面と向かって否と言えたのは、天下で秀長ひとりだった。その歯止めが外れた瞬間から、豊臣家は壊れはじめる。


 要するに、俺が長生きすれば、いろいろ片づくのだ。


 そう結論を出した日から、俺は自分の体を診た。脈、舌、目、腹。そして脛を親指で押すと、跡がなかなか消えなかった。むくみだ。原因は分からない。心臓かもしれないし、腎臓かもしれない。血を採ることも、胸の写真を撮ることもできない。だから、できることからやるしかなかった。


 俺は家中に、長生きの法度を出した。


 ひとつ、殿の膳の塩は半分とする。

 ひとつ、殿に酒を勧めてはならぬ。

 ひとつ、殿は夜明けに城内を歩く。


 自分で書いておいてなんだが、ひどい法度だった。


 家臣たちは困惑した。だが、妻だけは、何も聞かずに従ってくれた。それどころか、夕餉に酒の徳利を忍ばせようとした小姓を、廊下でぴしゃりと叱りつけていた。


「殿が長生きなさると仰せなのです。それを邪魔する者は、わたくしが許しませぬ」


 あとでそれを聞いて、礼を言うと、妻は少し笑った。


「殿が倒れられたとき、わたくしは三日、生きた心地がいたしませんでした。二度と、あのような思いはごめんでございます」


 ◇


 料理番の老人は、塩を半分にした汁を出すたびに泣いた。


「四十年、この包丁一本でお仕えしてまいりました。それが、このような味の抜けた汁を殿にお出しする日が来ようとは」


「味は抜けておらぬ。出汁を濃くすればよいのだ。昆布と、干した椎茸を使え。塩が少なくとも、旨みがあれば物足りなくはない」


「こんぶと、しいたけで、ございますか」


 老人は半信半疑で台所へ戻っていった。三日後、出汁の利いた汁が出てきた。塩は確かに半分だった。それでも十分に旨かった。老人は俺が汁を飲み干すのを見届けると、また泣いた。今度は、うれし泣きだった。


 城の医師は、もっと渋い顔をした。白い髭の老人で、秀長が郡山に入る前から、この地で医を営んできたという。


「殿。御身は大納言にあらせられます。夜明けに庭を歩き回られては、お体が冷えまする。お歳を召されたら、なるべく動かず、滋養のあるものを召し上がり、養生なさるのが上策と、古来より」


「動かずに食べてばかりいたから、足がむくんだのだ」


 俺は老人の前で、脛を押して見せた。浅い跡が、ゆっくりと消えていく。


「見よ。歩くようになってから、この跡が消えるのが早くなった。人の体は、使わねば錆びる。刀と同じだ」


 老人はしばらく黙って俺の脛を見ていたが、やがて、うーむ、と唸った。翌朝、夜明けの行列の最後尾に、白い髭の老人の姿があった。


 夜明けの歩行は、もっと大ごとになった。


 最初の朝、俺がひとりで本丸の庭を歩いていると、宿直の侍が血相を変えて駆けてきた。殿が夜明けに庭を徘徊しておられる。物の怪に憑かれたのではないか。次の朝には、十人の侍が槍を持ってついてきた。その次の朝には、二十人になった。


「なぜ、ついてくる」


「殿のお供にございます」


 先頭の侍が、槍を立てたまま胸を張った。何から守るつもりなのかは、本人にも分かっていないようだった。


「ただ歩いているだけだ」


「では、我らもただ歩いております」


 今では、夜明けの郡山城を、主君と家臣三十人ほどがぞろぞろと歩くのが習いになっている。城下の者は、大納言様の朝の行列と呼んでいるらしい。足腰が丈夫になったと喜ぶ年寄りの家臣もいれば、早起きがつらいと嘆く若い者もいる。


 そして先日、俺は蔵の大秤で自分の重さを量った。米俵を片方の皿に積み、もう片方に俺が乗る。


 米俵、およそ一俵と三分。


「・・・殿、それは」


 高虎が、何とも言えない顔で秤の目盛りを見ていた。


「言うな」


「米一俵と三分の大納言、と城下で噂になりましょうな」


「だから、言うな」


 ひと月後、同じ秤に乗った。一俵と二分になっていた。家臣たちが、なぜか拍手した。


 ついでに、高虎も秤に乗せた。


「それがしは、結構でござる」


「いいから乗れ」


 六尺を超える大男が秤に乗ると、米俵がいくつも要った。一俵と六分。俺より重い。


 俺は高虎の右足の親指の付け根に目をやった。赤く腫れている。歩き方も、ときどきかばうようだった。


「高虎。その親指、夜中に急に痛むことはないか。風が当たっても痛いほどに」


 高虎の顔色が変わった。


「・・・なぜ、それを」


「酒と、脂の多い肉と、干した魚の食べすぎだ。放っておけば、何度でもぶり返すぞ」


 その日から、夜明けの行列の先頭は、俺と高虎になった。笑っていた男が、今は誰よりも真剣に歩いている。


 ◇


 宴がようやくお開きになったのは、夜も更けてからだった。


 俺は自室で、ひとり脛を押した。跡は、三月前より浅く、早く消えるようになっている。息切れも減った。脈の乱れもない。


 だが、油断はできない。秀長が死ぬのは、二年後だ。病がどこに潜んでいるかも分からない。


 それに、本当の敵は、俺の体ではなかった。


 障子の外で、高虎の声がした。


「殿。京より、関白殿下のお使いにございます」


 嫌な予感がした。兄からの使いは、たいてい、ろくでもない知らせを運んでくる。


 差し出された書状を開くと、兄らしい大きな字が躍っていた。


 小一郎、すぐ上洛せよ。めでたいことがある。茶々が身ごもった。祝いの宴を開くゆえ、おぬしが来ねば始まらぬ。大いに飲もうぞ。


 俺は書状を持ったまま、天井を仰いだ。


 兄の子が生まれる。史実の鶴松だ。三年足らずで死んでしまう子。それは、また後で考えるとして。


 問題は、最後の一行だった。


「・・・高虎。兄者の宴で、酒を断れると思うか」


 高虎は、しばらく黙っていた。それから、気の毒そうに首を振った。


「天下で、関白殿下の盃を断った者はおりませぬ」


「知っている」


 高虎は、わざとらしく咳払いをした。


「断った者が、その後どうなったかも、ご存知でしょう」


「知っている」


 俺と高虎は、行灯の明かりの下で、真剣な顔で額を寄せた。天下の大納言とその重臣が、深夜に知恵を絞って考えたのは、兄の盃をどうかわすか、だった。


 ◇


 策は、三つ立てた。


 一つ目。盃には、最初から白湯を入れておく。色の似た、濃いめの番茶でもいい。遠目には分からない。


 二つ目。それでも兄に見破られたら、大和の寺に願を掛けたことにする。兄の子が無事に生まれるまで、酒を断つと誓ったのだと。兄は、自分の子のための願掛けなら、怒るどころか喜ぶはずだ。


 三つ目。それも駄目なら。


「それも駄目なら、いかがなされます」


「そのときは、腹をくくって一杯だけ飲む」


 高虎が、初めて声を立てて笑った。


「長生きのための策が、ずいぶん心もとのうござるな」


「笑うな。俺は大まじめだ」


 俺も、少し笑っていた。前の世では、病院と家の往復だけで毎日が過ぎた。誰かとこんなふうに、くだらないことで頭を寄せ合った記憶はほとんどない。


 この時代に来て、三月。思っていたよりずっと、この城の暮らしを気に入りはじめている自分がいた。


 出立の朝、妻が竹筒を差し出した。


「白湯でございます。京の水は、殿のお腹に合わぬかもしれませぬゆえ」


 竹筒は、まだ温かかった。


「関白殿下のお盃は、わたくしにはどうにもできませぬ。ですから、せめてこれを」


 俺は竹筒を懐に入れ、妻に頭を下げた。妻は驚いた顔をした。秀長は、妻に頭を下げるような男ではなかったらしい。



 一五八九年 春  京 聚楽第



 聚楽第の大広間は、金と朱で塗り込められていた。


 兄の権勢を見せつけるために建てられた城だ。天井には極彩色の絵が描かれ、襖には金箔が貼られている。その真ん中に、小柄な男が座っていた。


 猿に似ていると言われた顔は、皺が深くなっている。だが、目だけは昔と少しも変わらない。人懐こく、抜け目なく、そしてときどき、ぞっとするほど冷たく光る。


 天下人、豊臣秀吉。俺の兄だ。


「小一郎、よう来た」


 兄は上座から飛び下りるようにして、俺の前に来た。両手で俺の肩を叩き、腕を叩き、腹を叩いた。


「なんじゃ、痩せたではないか。腹が引っ込んでおる。病か」


「いえ、歩いております。朝ごとに」


「歩く。大納言が、歩く」


 兄は目を丸くし、それから大声で笑った。


「おぬしは昔から変わり者じゃったが、ますます磨きがかかったのう」


 その笑い声を聞きながら、俺は兄の顔を見ていた。内科医の癖で、つい、見てしまう。


 顔が赤い。酒のせいだけではない。こめかみの血の管が浮いている。笑いながら、ときどき指で額を押さえる仕草をした。


「兄者。頭が痛みますか」


「うん。近ごろ、ときどきな。茶々が身ごもってから、うれしゅうて眠れぬ。そのせいじゃろう」


 兄は気にした様子もなく、席に戻った。


 俺は、胸の奥に小さな棘が刺さったような気がした。


 ◇


 宴は、策のとおりにはいかなかった。


 一つ目の策は、始まって半刻で破れた。


 いや、正確には、破れかけたところを、ひとりの老人に救われた。


 宴の途中、茶頭の千利休が、大名たちに茶を点てて回っていた。黒い羽織の、痩せた老人だ。俺の前に来たとき、利休は盃の中の色にちらりと目を落とし、それから何事もなかったように言った。


「大納言様の盃には、手前が先ほどお注ぎした番茶がまだ残っておりますな。冷めたでしょう。新しく淹れ直しましょう」


 利休は誰にも気づかれないよう、俺の盃を新しい茶と取り替えた。去り際、俺にだけ聞こえる声で、ひと言だけ残した。


「酒を断たれたお方の茶は、手前が責任を持ちましょう」


 この人は、俺が死んだ翌月に、兄に腹を切らされる。その人に、俺は今、助けられた。


 だが、利休の機転も長くはもたなかった。半刻ほどして、上機嫌の兄が、わざわざ俺の盃を取り上げて、匂いを嗅いだのだ。


「小一郎、これは茶ではないか」


 広間が静まり返った。並んだ大名たちが、息を殺している。


 俺は二つ目の策を出した。


「兄者のお子が、無事にお生まれになるまで、酒を断つと願を掛けました。大和の寺の、霊験あらたかな薬師如来に」


 兄は、しばらく俺を見ていた。


 それから、顔をくしゃくしゃにした。


「・・・わしの子のために、か」


「はい」


「おぬしという男は」


 兄は、俺の盃に、自分の手で茶を注いだ。それから、広間じゅうに聞こえる声で言った。


「皆の者、聞いたか。わしの弟は、わしの子のために酒を断ったぞ。これこそ、まことの兄弟よ」


 大名たちが、一斉にどよめいた。誰かが手を打ち、それが広間じゅうに広がった。


 俺は頭を下げながら、背中に冷や汗をかいていた。今度は、子が生まれるまで、絶対に酒を飲めなくなった。いや、それはそれで好都合なのだが。


 宴の端で、高虎が杯を口に当てたまま、肩を震わせているのが見えた。


 ◇


 事件が起きたのは、その翌々日の朝だった。


 聚楽第の南の門に、落書が貼り出された。


 何が書かれていたのか、俺は見ていない。見た者たちは、皆、口をつぐんだ。ただ、兄を嘲る文句だったことだけは確かだった。天下人を、子どもの戯れ歌のように笑いものにする言葉が、門の真ん前に堂々と貼られていたのだ。


 知らせを受けた兄の顔を、俺は一生忘れないだろう。


 さっきまで笑っていた男の顔から、一瞬で色が消えた。そして次の瞬間、真っ赤に染まった。


「門番どもは、何をしておった」


 低い声だった。怒鳴り声よりも、ずっと恐ろしかった。


「夜番は、十七人おりました」


 奉行の一人が、震える声で答えた。


「十七人。十七人もおって、誰ひとり気づかなんだと申すか」


 兄は立ち上がった。


「十七人とも、鼻を削げ。翌日には耳を削げ。三日目に、逆さに磔にせよ。書いた者が見つかるまで、町の者も片端から引っ立てよ。かばう者があれば、一族もろとも斬れ」


 広間が凍りついた。


 俺は、その言葉を知っていた。


 知っていたのに、忘れていた。この年の春、聚楽第の落書に怒った兄は、門番十七人を惨たらしく殺し、そのあと町の者たちまで六十人以上を処刑する。年表の、片隅の一行だ。俺の死や、朝鮮への出兵のような大きな出来事に比べれば、本の中でもほんの数行で済まされる話。


 だが、目の前で、それが今まさに起ころうとしている。


 死ぬのは、十七人の門番と、何も知らない町の者たちだ。


 足が動かなかった。


 今ここで兄に逆らえば、どうなるか。弟であっても、天下人の怒りを買えば、遠ざけられる。遠ざけられれば、兄のそばで歯止めになることはできなくなる。利休も、鶴松も、朝鮮も。この先の年表を変える力そのものを、ここで失うかもしれない。


 十七人を見捨てて、もっと多くの命を救う力を守るか。


 そう考えた自分に、ぞっとした。


 救急外来で、そんな計算をしたことは一度もなかった。目の前に運ばれてきた患者を、後で来るかもしれない誰かのために見捨てる医者はいない。目の前のひとりを救えない者に、その先の何万人が救えるはずがない。


 ◇


「兄者」


 俺は立ち上がった。大名たちの視線が、一斉に俺に集まった。


「なんじゃ、小一郎。止めるつもりか」


 兄の目が、俺を射抜いた。いつもの人懐こさは、どこにもなかった。逆らう者は、弟であっても許さない。そういう目だった。


 正面から止めれば、兄は意地になる。この人は、そういう人だ。


 だから、俺は医者として口を開いた。


「兄者。まず、座ってくだされ」


「なに」


「顔が、真っ赤でございます。こめかみの血の管が、指で触れられるほど浮いております。先日から、頭が痛むとおっしゃっていましたな」


 兄の顔に、戸惑いが走った。


「それが、どうした」


「このまま怒り続ければ、頭の中の血の管が切れます。切れれば、倒れる。倒れれば、口がきけなくなるか、手足が動かなくなるか、そのまま目を覚まさぬこともある。茶々殿のお子の顔を、見ずに終わるかもしれませぬ」


 広間が、別の意味で凍りついた。天下人に向かって、死ぬかもしれぬと言った者は、おそらくこの国で俺が初めてだろう。


 兄は、しばらく俺を睨みつけていた。


 俺は目をそらさなかった。そらしたら、負ける。兄にではない。この先の年表にだ。


 やがて兄は、どさりと腰を下ろした。


「・・・脈を、診よ」


 大名たちの間に、かすかなざわめきが走った。天下人が、人前で弟に脈を取らせる。それだけで、ありえない光景だった。


 俺は兄の前に膝をつき、手首に指を当てた。速い。強い。ときどき、打つ間合いが乱れる。怒りで心の臓が暴れているのだ。ただの興奮か、それとも、前から何かあるのか。今は、分からない。


「息を、ゆっくり吐いてくだされ。吸うより、長く。もう一度」


 兄は、言われるままに息を吐いた。天下人が、弟の前で、子どものように肩で息をしている。大名たちは、目を伏せていた。見てはならないものを見ている顔だった。


 十度、息を吐かせた。脈が、少しだけ落ち着いた。


「兄者。落書を書いた者は、罰すればよい。それは兄者の当然の権でございます」


 兄の目が、わずかに動いた。


「されど、門番を十七人殺し、町の者まで引っ立てれば、京じゅうの者が兄者を恐れます。恐れた者は、口では従っても、腹の中で同じ落書を書く。兄者を笑う者が、十七人から十七万人に増えるだけにございます」


「・・・」


「それに、兄者のお子は、この夏の初めには生まれまする」


 俺は、兄の手首を握ったまま、声を落とした。


「お子が生まれる年を、河原の磔で始めとうはございませぬ。後の世の者に、豊臣の跡取りは血の海の中で生まれたと言わせたくはない。それがしは、兄者の子に、めでたい年に生まれたと言うてやりたいのです」


 兄の手が、俺の手の中で、かすかに震えた。


 長い沈黙が続いた。


 広間の誰もが、兄の次の一言を待っていた。俺の首が飛ぶか、十七人の首が飛ぶか。どちらかだと、皆が思っていた。


 やがて、兄は大きく息を吐いた。俺が教えたとおりの、長い息だった。


「・・・門番どもは、牢に入れておけ。罰は、書いた者が見つかってから決める。町の者は、引っ立てるな」


 奉行が、ははっと平伏した。


 兄は俺の手を振りほどき、そっぽを向いた。


「おぬしの顔に免じてじゃ。おぬしの顔にな。勘違いするでないぞ」


「承知しております」


「それと、小一郎」


 兄は、まだこちらを見ようとしなかった。何か言いにくいことを言うとき、兄は昔から、わざと別の方を向く。


「明日からわしも、歩く」


 俺は、思わず兄の顔を見た。兄は耳まで赤くして、まだそっぽを向いていた。今度の赤さは、怒りのせいではなさそうだった。


「頭の血の管が切れるなど、冗談ではない。わしは、子の顔を見るまで死なぬぞ。いや、子が大きゅうなるまで死なぬ。おぬしが教えよ。朝の歩き方とやらを」


 ◇


 その夜、兄は俺ひとりを奥の間に呼んだ。


 灯りを一つだけともした小さな部屋だった。天下人の部屋とは思えないほど、何もない。兄は脇息にもたれ、天井を見ていた。


「小一郎。あの落書にはな」


 兄は、ぽつりと言った。


「わしが百姓の出じゃと、書いてあった。猿が人の真似をしておる、とな」


 俺は黙って聞いていた。


「若い頃から、ずっと言われてきたことじゃ。慣れておる。慣れておるつもりじゃった。じゃが、子が生まれるとなると、のう。わしの子まで、猿の子と笑われるのかと思うたら、頭に血がのぼってしもうた」


 兄は、自分の額に手を当てた。


「おぬしに脈を取られて、息を吐いておるうちに、ようやく分かった。わしは、怖かったのじゃ。天下を取っても、まだ笑われるのが」


「兄者」


「おぬしは、昔からそうじゃった。わしが頭に血をのぼらせると、いつも横から袖を引いて、まあまあ兄者、と言う。それで、わしは何度救われたか分からん」


 兄は、ようやく俺の方を見た。皺の深い顔に、泥田の畦で笑っていた少年の面影が重なった。


「小一郎。わしより先に、くたばるなよ」


 前の世で読んだ本にも、似たような話が書いてあった気がする。だが、本物の兄の声で聞くと、まるで違った。


「くたばりませぬ。そのために、毎朝歩いております」


 兄は吹き出し、それから、少しだけ目元を拭った。


 ◇


 十日後、落書を書いた者は見つからないまま、詮議は打ち切りになった。門番たちは、役を解かれて国元へ帰された。誰ひとり、鼻も耳も削がれなかった。河原に磔の柱が立つこともなかった。


 その知らせを聞いた夜、俺は宿所の一室で、ひとり帳面を開いた。


 誰にも見せていない帳面だ。この先に起きることを、思い出せるかぎり、前の世の字で書きつけてある。この時代の者には、読めない字だ。


 一五九一年、正月。秀長、病死。

 同年、二月。千利休、切腹。

 同年、八月。鶴松、病死。

 一五九二年。朝鮮出兵。

 一五九五年。秀保、急死。秀次事件。

 一五九八年。秀吉、死去。

 一六〇〇年。関ヶ原。


 俺は筆を取り、その一番上の余白に、一行を書き足した。


 一五八九年、春。聚楽第の落書。門番十七人、町人六十余人、処刑。


 そして、その一行に、まっすぐ線を引いた。


 年表を、初めて書き換えた。


 大きな出来事ではない。後の世の歴史の本でも、数行で片づけられてしまうような話だ。だが、八十人近い人間が、今夜も生きて飯を食っている。


 前の世では、目の前の患者ひとりを救うので精一杯だった。だが今の俺には、兄の袖をつかむ手がある。兄に否と言える口がある。脈を取る指がある。


 次の行に目を落とす。


 同年、八月。鶴松、病死。


 だが、その前に、帳面の一番上の行が待っている。俺自身の死だ。それを越えなければ、この先の誰ひとり救えない。


 俺は左の手首に、右手の指を当てた。脈は落ち着いている。乱れはない。脛を押す。跡は浅く、すぐに消えた。


 三月前より、確かによくなっている。だが、史実の秀長がなぜ死んだのか、本当のところは誰にも分からない。この体のどこかに、まだ見えない病が潜んでいるのかもしれない。それを見つける道具は、この時代にはない。あるのは、この指と、目と、毎日の記録だけだ。


 帳面の最後の頁には、毎朝の脈の数と、脛の跡が消えるまでの数が、三月分、びっしりと書き込んである。前の世で、患者に毎日つけさせていた記録と同じものだ。今度は、俺自身が患者だった。


 筆を置いたとき、障子の外で咳払いが聞こえた。


「殿。まだ起きておられますか」


「どうした、高虎」


「関白殿下より、お言付けでござる。明朝の歩きは、聚楽第の庭を三周。殿下もご一緒に、とのこと。それと、殿下の朝餉の汁を、殿のところと同じ塩加減にせよと、台所に命じられたそうで」


 俺は思わず吹き出した。


「京の料理番も、泣くだろうな」


「すでに泣いておるそうでござる」


 高虎は、少し間を置いてから、付け加えた。


「それから、殿。本日の歩みが、まだでござる。宴と詮議にかまけて、昼の分を怠けておられましたな」


 俺は帳面を閉じ、ため息をついて立ち上がった。


 夜の聚楽第の庭は、月明かりで白く光っていた。俺は高虎を供に、ゆっくりと歩きはじめた。


 長生きは、思っていたより、ずっと忙しい。

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