重すぎる愛と軽い純潔
婚約破棄――。
原因は相手の浮気。しかも相手は、親友だった。
「ごめんね、エミリア。あなたじゃ物足りなかったみたい」
親友のカミラ・ハインはそう言って、私の婚約者のカイル・グレイの腕に自分の腕を絡めた。
「そもそも僕たちの婚約は家格が合ってると親が決めたものだし……僕は真実の愛に目覚めたんだ」
軽すぎる二人が並ぶと、まるで最初からそういう運命だったかのように似合っていて、私は笑うしかなかった。おかげで、一日で私は未来が真っ暗になった。
十六歳の頃から「将来はカイル様と」と言われ続け、疑うことなく積み重ねてきた時間が、たった数分の会話で崩れ去った。
悲しみよりも先に、呆れが胸を占めた。
(――ああ、二人にとって私は簡単に捨てられるものなのね)
◇
従姉妹から誘われた仮面舞踏会に参加したのは、完全な自棄だった。
顔を隠せる仮面、誰も自分を知らない会場。お酒は甘く、音楽は優しい。
「一曲、いかがですか?」
名も知らぬ男の低い声が耳元で囁いた瞬間、なぜだろう、その声にどこか聞き覚えがあるような気がした。懐かしいような、それでいて初めて聞くような、不思議な感覚。気づけば私は、差し出された手を取っていた。
彼は驚くほど自然に私をエスコートし、会話の端々に、育ちの良さと不器用さが同居していた。踊りながら、彼は何度も「足は痛くないですか」「疲れていないですか」と尋ねてきて、そのたびに私は、こんなに気遣う人が世の中にいるのかと、ぼんやり思った。
「今日は、どうしてここへ?」
私が尋ねると、彼は少し考えるように間を置いてから答えた。
「柄にもなく、逃げてきたんです。……婚約の話が、また流れたところでね」
自嘲するような、それでいてどこか寂しげな笑い方だった。私はその横顔に、なぜか目が離せなくなった。
「あなたと結婚できる女性は幸せね。こんなふうに大切にしてもらえるなんて……少し羨ましい」
一瞬、強く手を握られた気がした。
「実は、私も似たようなものです。仮面で素顔を隠して、誰でもない自分でいたかったんです」
「……なら、ちょうどいい。今夜だけは、僕も君も、誰でもない。ただのマスカレード(見せかけ)だ」
その言葉に、胸の奥が小さく跳ねた。
お酒のせいだけではなかった。彼の低い声、触れる手の熱、私を気遣う言葉のひとつひとつに、確かに私は酔っていた。
「誰かに恋をするなら、あなたがいいわ!」
仮面越しでも分かるほど、彼は目を見開いた。その手が、もう一度だけ、私の手を強く握り返した。
そこから先のことは、はっきりと覚えているわけではない。けれど、少なくとも「嫌だ」と思った記憶は、どこにもなかった。むしろ、仮面の下の彼をもっと知りたいと、そう思っていた気がする。
◇
気がつけば朝で、隣には見知らぬ鍛え上げた背中があった。
「──っ!」
叫びそうになった声を飲み込み、私は震える手で服をかき集め、逃げるように部屋を飛び出した。慌てすぎたせいで、履いていた下着を一枚、置き忘れたことにすら気づかなかった。
(どうしよう……)
不思議と嫌な気分ではなかった。
そんな自分に戸惑いながら、私は屋敷への道を急いだ。
◇
数日後――。
「お嬢様、お、お庭に……軍用犬を連れた方が!それも、王国騎士団の紋章をつけた方です!」
侍女の悲鳴じみた報告に、私は朝食のスプーンを取り落とした。
窓の外には、スパイクカラーを付けた大きな軍用犬と、それを従えた一人の男。
腰まで届く漆黒のコート、鋭い眼光。整いすぎた顔立ちに反して、纏う空気はどこまでも堅苦しい。軍用犬――ガルムと呼ばれるその犬は、屋敷の門の前でぴたりと足を止め、嬉しそうに尻尾を振っている。
「ここか……」
「間違いありません、隊長!」
低い声が、静かな確信とともに響いた。屋敷中が一瞬で騒然となった。
「な、何事です!?」
飛び出してきた父は、騎士団の制服を見るなり青ざめた。軍用犬までいる。
「まさか、娘が国家反逆罪でも!?」
「そ、それとも誘拐!?」
両親が本気で顔を見合わせ、震える声で叫んだ。
「娘はおります!」
「逃げてはおりません!」
母まで半泣きで頭を下げる。
両親の勢いに、私は状況が飲み込めないまま玄関先に顔を出した。
その瞬間、騎士は真っ直ぐに私を見た。
「やっと、見つけた」
その一言に、私の血の気が引いた。
(……あの声は!?)
彼は懐から、丁寧に布で包んだ物をゆっくりと取り出した。まるで宝石でも扱うかのような、恭しい手つきで。布が開かれる。
現れたのは――あの時、忘れた私のシルクの下着だった。
屋敷が、シーンと静まり返る。父は固まり、母は娘を二度見し、私は顔から火が出そうだった。
「こちらを、お返しに参りました」
彼は真剣な顔でそう言うと、続けてこう告げた。
「もちろん、その前に責任を取らせていただきます」
「……は?」
「一夜を共にした以上、私はあなた以外と結婚するつもりはありません」
父がゆっくりと私を振り返る。
「……エミリア」
「ち、違うの、お父様!本当に違うの!」
「違いません」
騎士が即座に否定した。
「私は最初から、結婚するつもりです」
私は頭を抱えた。
(何この人?!)
だが同時に、あの夜の声の主の言葉に、なぜか安堵にも似た気持ちが胸をよぎったことを、私はまだ誰にも言えずにいた。
婚約を破棄され、親友も失ったばかりで、もう誰も自分を選んでくれないのではないかと怯えていた矢先に、こんなにも真っ直ぐ「結婚するつもりです」と言い切る人間がいるとは思わなかった。
(重すぎる!おかしい!)
けれど――どこかで、救われたような気もしていた。
「お返事は、いつまでいただけますか」
レオンハルトが静かに問う。
父も母も、答えを促すように私を見た。
逃げ場のない状況に、私は小さく息を吐いた。
「……少し、考えさせてください」
「もちろんです。何年でもお待ちします」
(何年!?)
「ひ……一晩で決めます」
思わず即答してしまった自分に、私は内心で頭を抱えた。まるで、答えはもう決まっているとでも言うように。
◇
婚約破棄されたばかりという世間体、そして「一夜を共にした責任」。二つの事情が重なり、私――エミリア・ローゼンは、彼、レオンハルト・ヴァイスと婚約することになった。
後日、正式な顔合わせの席で、レオンハルトの両親――ヴァイス伯爵夫妻に会った。
夫妻は開口一番、涙ぐみながら私の手を取った。
「まさか、本当に……ようやく、うちの息子が結婚できる日が来るなんて……!」
「エミリアさん、どうか末永く、この子を見捨てないでやってくださいませ……!」
あまりの勢いに、私は苦笑いするしかなかった。
「あの、そんなに……大変なのですか?」
思わず尋ねると、ヴァイス伯爵は遠い目をしてため息をついた。
「大変どころではありません。十六歳から、見合いという見合いを全て自分で断ってきた男です。理由を聞けば『相手が僕を好きになる保証がない』と言う。……ようやく、その呪いが解けたようで安心しました」
「呪いって……」
隣に座るレオンハルトは、涼しい顔で紅茶を飲んでいる。
「事実を言ったまでです」
「そういうところだぞ、レオンハルト」
父親に肩を叩かれても、彼は微動だにしなかった。
部屋の隅では、軍用犬のガルムが私の足元にぴたりと寄り添い、まるで「ご主人様をよろしく」と言うように尻尾を振っていた。
「ガルムも、随分あなたに懐いていますね」
「この犬は、僕以外にはほとんど懐かない。……君が特別だということは、ガルムが一番よく分かっている」
得意げにそう言うレオンハルトに、伯爵夫妻は顔を見合わせて苦笑していた。息子の「重さ」を誰よりも理解している両親の姿に、これから始まる結婚生活の予感を、私は少しだけ味わった。
待っていたのは、予想以上に甘すぎる日常だった。
朝は必ず「おはよう」と額にキス。
屋敷内を歩くだけで、当然のように手を繋がれる。
階段は「危ない」の一言でお姫様抱っこ。
馬車に乗れば、気づけば膝の上に座らされている。
夜会では一曲踊るたびに「次も予約している」と離してもらえない。
(元婚約者にもこんなに大切にされたことがない)
騎士団では鬼教官と恐れられているらしいのに、私の前だけでは表情がまるきり違うのだと部下たちが呆れ気味に教えてくれた。
他の男性と少し会話しただけで、「何か困ったことはありませんでしたか」と即座に割って入ってくる。
雨の日には、傘を持たせるだけでは飽き足らず、自ら馬車を呼び寄せて玄関先まで運んでくる。
手紙を書けば、返事が来るまでの間、彼は落ち着きなく執務室を歩き回っているらしい。
私が少し咳をしただけで、街中の医師という医師が呼び集められたこともあった。
◇
レオンハルトが式典に出席すると聞いて、剣穂用の飾りの材料を買いに出かけようとした。
「買い物に行ってくるわ」
侍女と護衛を連れて出かけようと準備をしていると、玄関には十人も護衛が立っていた。
私と侍女の後を付いてくる護衛たち。
「私の護衛ですか?!」
「ヴァイス隊長の指令です!」
手芸用品店に似合わぬ男たちが溢れかえる。
店主は苦笑いしていた。
「レオンハルト!護衛が十人だったんですけど。」
「やはり、護衛が十五人は必要でしたか……」
(増えてる!)
「手芸用品店よ。」
「手芸用品店にも危険はありますから」
「確かに、店は営業の危機だったわ」
「……」
「……」
これが日常になっていた。
「重い!」
「近い!」
「恥ずかしいから人前ではやめて!」
全力で抗議する私に、彼はいつも心底不思議そうな顔をする。
「婚約者なのだから、当然だ」
その一方で、部下からは、
「隊長、戦場では冷徹なのに、婚約者の前では別人ですね……」
と呆れられ、
「また始まった」
と生暖かく見守られている。
ある夜、あまりに過保護な態度が続くので、私は少し意地悪く尋ねてみた。
「レオンハルトは、何でもできるし、何も怖くないんでしょう?」
すると彼は、珍しく言葉に詰まり、視線を逸らした。
「……怖いものなら、ある」
「へえ?」
「君が、いつか僕に飽きることだ」
思いがけない答えに、私は言葉を失った。
「戦場では、恐怖など感じたことがない。だが君に関しては、いつも余裕がない。他の男と話しているのを見るだけで、心臓が凍る。……格好悪いだろう」
いつも堂々としている彼が、初めて見せた頼りない横顔。
「隊長として部下の前に立つ時、僕は誰よりも冷静でいられる。だが君の前では、その自信がまるごと消えてしまう。……格好悪い姿を見せて、幻滅させてしまうんじゃないかと、それも怖い」
そう言って、彼は珍しく視線を落とした。私は思わず、その手をそっと握った。
「幻滅なんてしないわ。むしろ……少し安心したわ」
「安心?」
「あなたは、完璧すぎる人だと思っていたから。レオンハルトにも、そういう顔があるんだって知れて、良かった」
彼は驚いたように私を見て、それから小さく笑った。
「君にだけは、格好悪くてもいいのかもしれないな」
その瞬間、私は理解した。彼の「重さ」は、自信からくるものではなく、失うことへの恐れの裏返しだったのだと。
(重い。近い。でも――どこか、居心地が悪くない。)
元婚約者は、私がどんな一日を過ごしたかを尋ねたことなど一度もなかった。レオンハルトは、私が瞬きをする回数まで気にしているような視線を向けてくる。その違いに気づくたび、自分でも驚くほど、胸の奥が温かくなった。
カイル・グレイとの婚約していた日々が嘘だったかのように、レオンハルトとの時間で満たされていく。
◇
ある日、街で偶然、元婚約者カイル・グレイと元親友カミラ・ハインに出くわした。
気まずい空気の中、カミラが驚いた顔でレオンハルトを見た。
「えっ……エミリア、この人と婚約してるの!?」
レオンハルトがカミラを見て、わずかに眉を寄せる。
「……君は」
元婚約者カイル・グレイも顔色を変えた。
「知り合いなのか?」
そこで、思いもよらない事実が明らかになった。
カミラは、かつてレオンハルトの婚約者だったのだ。しかも破談の理由は、世間で噂されていた「愛が重すぎたから」ではなく――カミラの浮気だった。
レオンハルトはその事実を一度も公表せず、ただ「価値観が合わなかった」とだけ周囲に語っていたのだという。
だから世間には、「また重い男が振られた」 という噂だけが独り歩きしていた。
「……あなた、私を庇っていたつもり?」
カミラが震える声で聞くと、レオンハルトは淡々と答えた。
「庇ったわけじゃない。ただ、興味がなかっただけだ」
私も、元婚約者に裏切られた側。つまり私たちは「裏切られた者同士」だった。
その真実を知った瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
(レオンハルト、あなたも……私と同じだったのね)
彼の孤独を、初めて理解した気がした。
「行こうか」
レオンハルトは何事もなかったかのように私の荷物を持ち、歩き出そうとする。だが、それを鋭い声が引き止めた。
「待ちなさいよ!」
カミラだった。悔しさに顔を歪め、震える声で叫ぶ。
「どうしてよ……!私と婚約していた頃は、そんな顔、一度もしなかったじゃない!」
レオンハルトは足を止め、少し考えるように首を傾げてから、穏やかに振り返った。
「そうだったかな?」
「そうだったわ!」
「君が言うのなら、そうだったんだろう」
悪びれる様子もなく、彼は申し訳なさそうに微笑んだ。
「僕、人を嫌いになることはほとんどないんだ」
その言葉に、カミラの表情がわずかに緩む。だが、次の一言が容赦なく突き刺さった。
「その代わり、自分を愛してくれない人には全く興味がない」
往来が静まり返る。
「だから、君のことあまり覚えていないんだ」
「……っ!」
隣にいたカイルが、気まずそうに視線を泳がせた。
「おい、カミラ……お前、この人と婚約してたのか。それも黙って……」
「それは……」
(真実の愛だとか言ってたのは何だったんだろう?)
カイルの声には、既に苛立ちが滲んでいた。実のところ、二人の関係は、出会った頃の熱がすっかり冷めきっていた。カミラの見栄っ張りな浪費癖と、カイルの優柔不断さが重なり、婚約者を裏切ってまで手に入れた恋は、早くも綻び始めていたのだ。
「まさか、二股だったんじゃないだろうな!」
「そんなわけ……!」
「調べればすぐ分かる。……もう、いい!」
「待って、カイル!」
カミラが追いかけようとするが、カイルは振り返らなかった。
「悪いが、僕はもう、家格が合うだけの相手で十分だ。少なくとも、裏切らない相手の方がいい」
かつて自分がエミリアに向けた言葉が、そのまま自分に返ってくるとは思わなかったのだろう。
カミラは何も言えず、その場に立ち尽くすしかなかった。
カイルは吐き捨てるようにそう言うと、カミラを置いて足早に去っていった。
残されたカミラは、呆然と立ち尽くすしかなかった。
レオンハルトは、いつものように自然な仕草で私の指先を絡め直した。
「エミリアと出会えて良かった」
真っ直ぐな視線が、私だけを見つめる。
「あの夜、僕を選んでくれた。そして、今も僕の隣にいてくれる。だから君は特別なんだ」
その言葉に、心が温かくなった。
(特別なのは私も一緒だわ)
かつて、元婚約者にも、親友にも裏切られた私は、自信もなくなり不安を抱えていた。
けれど、レオンハルトと出会えた。
愛した相手しか見ない。
愛してくれない相手は、振り返ることさえしない。
その重すぎるほど真っ直ぐな愛情は、誰よりも安心できる居場所だった。
(こんなに安心できる人は……きっと、この人しかいない)
私は照れ隠しに小さく笑いながら、彼の手を握り返した。
「さあ、帰ろう」
「そうしましょう」
二人の背中を見送ることしかできないカミラは、唇を噛み締めたまま、その場に立ち尽くしていた。
かつて自分が奪った「幸せ」よりも、遥かに大きなものを、二人は当たり前のように分かち合っている。
その事実が、何よりも彼女を打ちのめしていた。
◇
後日、社交界には新たな噂が広まった。
「かつて親友を裏切ってまで奪った婚約者に、今度は自分が呆れられて捨てられた令嬢がいる」
誰もが陰で囁き、扇の裏で笑っていた。
さらに、追い打ちをかけるように、ハイン伯爵家にも影響が及んだ。
カミラの浮気が公になったことで、以前から進んでいた縁談がいくつも立ち消えとなり、父親であるハイン伯爵は「娘の教育がなっていない」と社交界で肩身の狭い思いをすることになった。
かつてエミリアの婚約者を奪い、「私の方が幸せにできる」と胸を張っていたカミラの姿は、もうどこにもなかった。
◇
数年後――。
「お母さーん!」
庭で遊んでいた子どもたちが、一斉に私へ飛びついてくる。
「お母さん、だっこして!」
「ぼくは絵本読んで!」
「順番ね、順番」
笑いながら子どもたちを抱きしめる。
そんな穏やかな時間を少し離れた場所から見つめる男が一人。
私の夫、レオンハルト・ヴァイス。騎士団長となった今も、寸分の狂いもない姿勢で立っている。
足元には、すっかり老いたガルムが、それでも変わらず彼に寄り添っていた。
右手には、一つの銀の懐中時計。カチリ、と蓋が開く。秒針を確認すると、彼は静かにそれを閉じた。
「――時間だぞ」
その一言で、子どもたちが一斉に肩を落とす。
「えぇー!」
「まだ遊びたい!」
「あと五分!」
しかし、彼は首を横に振った。
「今日のお母さんとの時間は、ここまでだ」
「そんなぁ……」
「約束は約束だ!」
彼は私の前まで歩いてくると、ごく自然な動作で手を取った。
「では、エミリアは預かる」
「預かるって、お父さん!」
「お母さんは物じゃないよ!」
子どもたちの抗議にも、彼は真顔のまま答える。
「違う、お父さんの妻だ!」
「僕たちのお母さんだよ!」
子どもたちが一斉に叫び、私は思わず吹き出した。
「もう、あなたったら……」
「今日の夫婦の時間は二時間だ」
「きっちり測ってるの?」
「もちろん」
再び懐中時計を開き、彼は真剣な顔で頷いた。
「子どもとの時間は六時間。夫婦の時間は二時間。睡眠は七時間。残りは仕事だ」
「全部管理してるの!?」
「当然だ」
少しも悪びれる様子はない。
「君との時間を削る予定は、生涯一度もない」
そう言って私の手の甲へ口づけを落とす。
子どもたちは呆れたように顔を見合わせた。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「なに?」
「お父さん、お母さんのこと好きすぎない?」
兄は大きくため息をついた。
「今さら?」
家族全員が、声を揃えて笑い出した。
夕暮れ時、子どもたちが寝静まった後の静かな居間で、レオンハルトはいつものように懐中時計を開いた。
「子どもたちと話していたら、十五分超過した」
「それは良いことじゃない?」
「だから、明日の夫婦の時間を十五分延長する」
「延長?」
「不足した分を補填するだけだ。予定は守らねばならない」
真剣な顔で手帳を取り出し、何やら書き込む。
「明日の夫婦の時間を十五分多めにしておこう」
「増えるの!?」
私は思わず吹き出した。
「本当に真面目ね」
「君との時間だけは、一秒たりとも減らしたくない」
「今日の夫婦の時間は、あと三十分しかない……」
「ふふ。じゃあ、時計を見るのをやめて私を見て欲しいわ」
私が笑いながら彼から懐中時計を取り上げ、サイドテーブルの上に置いた。
彼は真顔のまま、けれど少しだけ照れたように目を伏せた。私もつられるように目を閉じ、そっと口づけを返した。
「……あの夜、君は『誰かに恋をするなら、あなたがいい』と言った。あの瞬間から、君との時間は何よりも大事なんだ。」
不器用な言葉に、胸が温かくなる。
重くて、近くて、誰よりも真っ直ぐな愛。
それを窮屈だと疑った日々が、今では信じられないほど愛おしい。
婚約破棄されたあの日、私は人生が終わったと思った。
けれど本当に終わったのは、不幸な恋だった。
あの日、私が拾ったのは、少し重すぎるけれど――世界で一番幸せな愛だった。
懐中時計の針は進んでいく。
けれど、彼が私を愛する時間だけは、あの日から少しも変わらなかった。
王道の異世界恋愛を書いてみたくなり、「愛が重い騎士」をテーマに執筆しました。 少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。
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