片足のレトリバー
住んでいる地域の雰囲気を「地域柄」と言う。
私がかつて住んでいた地域はどんよりして、いつも曇り空のような雰囲気があった。空は快晴なのに、黒い雨水が垂れた壁が街の湿度を空へと逃さない。
片足のゴールデンレトリバーに、墓に居座るシュナウザー。親が自殺してイジメを受ける同級生に、不良に「イジメないで」と手紙を書いた知的障害者。こちらを覗く大きなヒキガエルに、爆発したナメクジ。
団地の1室には黒蠅の群。
藪からはヘビと変質者。
ため池では毎夜、異音が。
私が住んでいた地域では、こんなことがよくあった。他の地域に引っ越してから、それが普通ではないと知った。
今回は、そんな街にいた「片足のレトリバー」についての話だ。
ある家にお邪魔したとき、植物まみれの中庭から、一匹のゴールデンレトリバーが出てきた。
少しよたよたと歩いている。
まぶたの垂れ具合から見るに、かなりの高齢犬のようだ。
私はレトリバーに近づいた。
レトリバーは近づく私を恨めしそうに見上げ、不意に「…ワンッ」と1回だけ鳴いた。
高齢のためなのか。
それとも、何か悲しいのか。
張りのない声で鳴いたあと、レトリバーは真っ直ぐに私の顔を見つめてきた。垂れ下がった尻尾は毛並みが悪く、お世辞にも、綺麗な手入れをされているとは思えなかった。
そんなレトリバーとは対照的に、レトリバーを囲む植物たちは、手入れが行き届いているように見えた。
青々とした葉は、中庭に差し込む光を反射し、並大抵のことでは折れないような、力強い生命力を中庭で誇示していた。
一方、葉に光を遮られ、影にいるレトリバーは相変わらず、こちらを見上げていた。
座ることも、鳴くこともなく。
ただ、そこに立っていた。
こちらを見つめるレトリバー。その顔を見つめている私。ふと、視界の端に映る奇妙な光景に心がパニックを起こした。
そのレトリバーには足が3本しかないのだ。垂れ下がった尻尾が足のように見え、長い間気付かなかった。
前足は2本ある。後ろ足は1本だけ。正面から見て、右の後ろ足が根本から無くなっていた。だからこの犬は、よたよたと歩いていたのだ。
背後から、家主と両親の話し声が聞こえる。
「ここら辺は住みやすいですか?」と質問をする両親。「ええ、小学校が近くにありますし、静かでいいですよ」と家主は答えた。
当時、両親は引っ越しを計画していた。家で怪奇現象が続いていたからだ。
家主は続けて、「(家が)坂にも面しているので、日光がよく当たって日当たりがいいですよ」と言った。
確かに、中庭には光が差し込んでいた。だが、その家に入ったときから、暗い雰囲気の家だと私は感じていた。
玄関には、緑と錆が混じった格子があり、そこには壊れたビニール傘が4本掛けられていた。傘に雨水が溜まっているのか、下に向けられた先端部分には、オレンジ色の水が溜まっていた。
家の中の廊下は、かなりベタついていて、歩くたびに「ベタッ」と、床から足が離れる音が何度も響いていた。
廊下に面した木製の襖には、緑色のビニール紐が三つ編みの状態で掛けられていて、……正直に言えば気味が悪かった。
極めつけは、この片足のレトリバーだ。植物が生命力を誇示しているような、鬱蒼とした中庭で、光を奪われた影の中にじっと立っている。人間に恨みがあるのか、それとも何かの警告なのか。私をずっと見つめている。
そんなことを考えていると、いきなり両親が「帰るぞ!」と私の尻を足で小突き、足早に玄関へ向かった。
家主と両親が話している間、片足のレトリバーは1度も動かずに私をずっと見ていた。
何か伝えたいことがあったのだろうか。
◇
結局、その家には住まなかった。当時、母が言っていたが「場所も悪いし、きんもん(?)が近い」そうだ。
こうして振り返ってみると、母の言っていた「きんもん」ってなんなんだろうね。聞き間違えたのかな?
もし、これを読んでいる読者の中に、「きんもん」という言葉を知っている人がいたら教えてください。




