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一場春夢  作者: 君鳥
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水晶の亀裂

 ひんやりとした冷たい空気が、シェンリンの身を包む。シェンリンが今いる場所は、スイシュー国の地下室、「霊晶空れいしょうくう」と呼ばれている場所だった。左右には水に浮かぶたくさんの蓮が咲き誇り、長い橋の先には、結界を保つのに必要な大きな一つの水晶が、丁寧に飾られていた。水晶の後ろでは、滝がわずかな音を立てて流れていて、なんとも神聖な空気を醸し出している。

「……陛下、私がこんなところに来ていいのでしょうか」

「いいのよ、モーユエン。貴方は特別。私はしばらくの間世継ぎを生むこともないだろうし、いざという時はこの国を貴方に任せたいしね」

 シェンリンのその言葉を聞いて、モーユエンは嬉しいような、悲しいような、なんとも言えない表情になる。今、スイシュー国の正式な王族は、シェンリンしかいない。この地下へと続く道は、シェンリンたち王族が代々秘密裏に伝えられてきたもので、生きている者の中でそれを知っていたのは、シェンリンただ一人だけだった。もし、何らかの事情でシェンリンが命を落とせば、誰一人としてこの水晶に辿り着くことなく、たちまちひび割れていき、結界が壊れ、スイシュー国は大変なことになるだろう。そう思ったシェンリンは、修行を積んである程度の霊力を使えるモーユエンを、この霊晶空へと連れてきたのだ。

「…今日も、水晶は大丈夫そうね」

 傷ひとつない水晶は、心なしかわずかな光を放っているように見える。シェンリンはその様子を見て、ほっと息をついた。シェンリンは毎日、水晶の様子を見て、結界が壊れていないか、自分の精神に異常はないかの確認をしている。地上に戻ろうと引き返すため、体の向きを変えると、すぐ後ろにいたモーユエンと体がぶつかり、段差もあってかふらりと後ろに倒れそうになる。

「陛下…っ!」

 そんなシェンリンの手首を掴み、モーユエンは素早く彼女の背中に手を伸ばしてシェンリンを支えた。必然的に、二人の距離が縮まり、鼻と鼻がくっつきそうになる。シェンリンは心臓が早鐘を打つのを感じた。顔を真っ赤にしたシェンリンを見て、モーユエンは驚いたように息を呑み、目を丸く見開く。

「…陛下、ここは段差があるので、…お気をつけてください」

「っ、あぁ、そうね。気をつけてなくちゃ、ね…」

 恥ずかしさからか、お互いにぱっと離れ、背中を向けて上がった体温を整える。シェンリンは火照った顔をぱたぱたと手で仰ぎながら、ちらりとモーユエンに目をやった。ここからでは顔は見えないものの、彼の耳はほんのりと赤く染まっているように見えた。

「……陛下、そろそろ上へ上がりましょう。ここは少し、肌寒いですし」

「そうね。今日はまだ、やらなくてはいけない事が残っているし」

 モーユエンはそう言って、シェンリンがまた倒れないように、目を逸らしながら彼女に手を差し出す。シェンリンは目を細めながら、伸ばされた手の上に自分の手を重ねた。二人の間に流れた沈黙は、少し心地よいものだった。

橋の中央までくると、突然、シェンリンの背後から、ピシ、っと嫌な音が聞こえた。シェンリンはまさかと思いながら振り向く。

すると、先ほどまでは傷ひとつなく輝いていた水晶に、一つの小さな亀裂がついていた。


 *


 シェンリンとモーユエンは、それぞれ飛剣をして結界の際をぐるりと周り、異常がないかの確認をする。水晶にヒビができたということは、結界に穴が空いたということだ。直すためには、実際に結界の穴の部分へ行き、修復する必要がある。シェンリンの額に、嫌な汗が一筋伝った。結界に穴が空いたということは、そこから奇界に住む妖魔奇怪が結界内に入ってきた可能性もある。万が一のために、結界の周りには霊力を使える護衛を置いているものの、妖魔奇怪と戦うとなれば、安心できるわけではない。しばらくすると、遠くの方に、大勢の人々が結界から離れていく様子が見えた。

「モーユエン、あそこに行ってみましょう」

 シェンリンの言葉にモーユエンはこくりと頷き、人々が離れていく結界の方へと向かった。


 *


 剣から降り、地上へ飛び降りて、二人は急いで結界の方へと走って向かう。必死で逃げ惑う人々をなんとか交わしながら結界のすぐ近くの通りに辿り着くと、シェンリンは驚くものを目にした。

結界には、地面から近い位置に、想像していたよりも大きな穴が開き、そこからは人ならざる形をした大小様々な赤黒い化け物が、湧いて出てきているのだ。地べたには、血を流して倒れている体がいくつもあり、護衛の者たちは剣を使ってなんとか戦っているものの、状況は劣勢だった。

「モーユエン! 私は結界を直すから、貴方は戦いの加勢を!」

「分かりましたっ!」

 シェンリンはそう言い、襲ってくる妖魔たちを手から出した剣で軽々と斬りながら結界へと走った。

シェンリンが手から出す剣は、皆からは「煌蓮こうれん」と呼ばれている。煌蓮は常に滑らかな金属特有の輝きを宿しており、彼女が剣を振れば、どこからともなく現れた蓮の花びらが舞う。そして切られた者曰く、煌蓮に切られた瞬間、金属特有の冷たさが全身に走るらしい。

シェンリンは穴のあいた場所のすぐ下につくと、手に込める霊能力を緩めた。すると、煌蓮はたちまち銀の光に代わり、シェンリンの手に吸い込まれていくように消えていった。そしてすぐにシェンリンは左手を掲げて、右手で印を結び、霊能力を込めて結界の修復に取り掛かった。

結界の修復には、大量の霊能力と体力を使い、かかる負担はとても大きい。穴が半分ほど塞がれたところで、シェンリンは思わず片膝をついた。その時、その場にいた妖魔のうち、一二を争うほどの大きな化け物が、雄叫びをあげながらシェンリンに襲いかかった! シェンリンは結界を塞ぐことに全集中をしているため、それに気づくわけもない。化け物とシェンリンの距離が数丈になった時だった。突然、その化け物の丸太ほどの太さの腕が、関節の部分でたたき斬られる。

「陛下に触るな!」

 化け物の腕を斬ったのは、見た者全てを殺しそうな、血走った目をしたモーユエンだった。

「このくそったれが! 戦いに関与していない者にまで手を出そうとするな!! ましてや陛下を襲おうなど、お前にはそんな資格もないだろうがッ!」

 そう言いながら、モーユエンはその化け物に飛びかかり、剣で素早く肉の塊へと切り裂いた。モーユエンは庇うようにシェンリンの後ろに立ち、数滴の鮮血がモーユエンの頬に飛び散る。おかげで、シェンリンの着ていた、綺麗な模様のついた水色がかった真っ白な服は、汚れることはなかった。モーユエンはちらりとシェンリンの横顔をみた後、再び顔を引き締めて戦いへと参戦する。

 少しして、シェンリンはようやく穴を完全に塞ぐことができた。安心してほっ、と息を漏らし、額にうっすらと浮かぶ汗を拭った。

「陛下、終わりましたか?」

 妖魔たちを倒し終わったらしいモーユエンが、剣を鞘にしまいながら澄まし顔でそう尋ねた。近くにいる兵たちは、疲れたかのように膝に手をつき、ぜぇぜぇと息を整えている。

「えぇ、終わったわ。…あら、モーユエン。頬に血がついてるじゃないの」

 シェンリンはそう言ってモーユエンの頬に手を添え、服の袖で軽く血を拭った。そして、ちらりとモーユエンの肩越しに、通りに横たわる、妖魔人間それぞれのたくさんの死体を見る。人間の死体はどれも損傷が激しく血が飛び散り、少なくとも体の一部を失っているように見えた。そして、シェンリンはモーユエンの横を通り、近くにある妖魔の死体へと近づき、その場にかがむ。普通に生きていると、妖魔と出会うことは無い。じっくりと観察していると、シェンリンはあることに気づいた。妖魔の死体の表面から、黒い塵のようなものが出て、空へと向かって飛んでいるのだ。

「……これは…」

「どこかの書物で見たことがあります。妖魔奇怪の体のほとんどは、憤怒や悲哀からなる怨念の具現化として構成されているため、死ねば塵と化して消えるだとか」

 不思議に思って妖魔の死体を眺めていたシェンリンに、モーユエンが少しそばに寄りそう言った。

「そうなのね…」

 シェンリンは小さくそう呟いた。シェンリンが妖魔を見たのは、これで二度目だった。

あれは……そう、まだシェンリンが九歳の時の、とても肌寒い、冬の日の出来事だった。

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