出戻り王子が幸せになるまで
「――セフィラ、俺と離婚してほしい」
「え?」
デュラル王国、後宮。
広間でマフラーを編んでいたセフィラは、呆気に取られた。デュラル国王エグバートから思いもしないことを言われ、手に持っていた棒針を絨毯に落とす。
――どういうことだ。どうして、離婚。
様々な自分の行動が頭の中に駆け巡る。素直になれなくて意地を張ってしまうところとか、こんなにも好きなのに塩対応になってしまうところとか。
そして、最近――エグバートに、昔から愛人ながら本命がいると知って怒った結果、初めて口論になってしまったこと。
その気まずさと申し訳なさから、お詫びとして手編みのマフラーを編んでいたのだけれど……まさか、離婚を切り出すほど、自分に対してうんざりしていたなんて。
「君にはほとほと呆れた。たかがお飾り王婿の分際で、俺の恋愛に口出しするなよ。子供も孕まないくせに」
「……っ」
気に病んでいたことを言われ、セフィラの胸にずきりと痛みが走る。
そうだ。後宮入りしてもう一年経つのに、一向に子を授かる気配がない。宮女からもそのことで陰口を叩かれ、毎日が苦痛な日々だった。
それでも、エグバートのことを好きだったから耐えてきたのに。
セフィラは、きゅっと唇を噛み締め、俯いた。
「申し訳、ございません…っ……」
「ふん。もういい。君はもう用済みだ。国に帰ってくれ」
「……」
「それではな。さようなら、――俺の『愛人』殿」
エグバートは冷ややかに言い放ち、肩を怒らせて宮殿を出て行った。
静寂の中、セフィラはゆっくりと体を折り曲げ、棒針を拾う。エグバートの瞳の色と同じ、青いマフラーをぎゅっと抱きしめた。
「…っ、……」
目から涙が滑り落ちる。ぽろぽろと零れた水滴が、絨毯に吸い込まれていく。
初恋が終わってしまった。あの人となら、幸せになれると思っていたのに……。
セフィラは声を押し殺して泣き、ただその場に一人でいるしかなかった。
「セフィラ様、母国にお帰りになるのですって」
「あら、そうなの」
ひそひそと聞こえる、宮女の陰口。
セフィラは居心地悪く思いながら、廊下をしずしずと歩く。
――空気が重い。
――呼吸するのが苦しい。
胸に圧迫感を覚える。けれど、表向きは平静を装う。
負けるわけにはいかない。ルーシニア王国の顏として、毅然としていなければ。そうでなければ、ルーシニア王国が侮られてしまう。
せめて、最後まで『気高い王婿』として振る舞わなくては。
「……これまで世話になった。ありがとう」
「いえ。こちらこそ、ありがとうございました。お帰りは、お気を付けて」
挨拶をした女官が淡々と返す。宮殿を出て行くセフィラを、頭を下げて見送った。
ようやく後宮から解放されたセフィラは、深く息を吐いた。門まで向かう途中、一年以上過ごした宮殿を振り返る。
あまりいい思い出はないところだけれども。それでも、エグバートと過ごした時間は……不幸なものではなかった。
「……」
セフィラは、再び前を向いて歩き出す。決してもう振り返らない。
――さようなら、初恋の人。
ルーシニア王国に帰って早々、父王と謁見した。
「エグバート陛下を怒らせたそうだな。お前はどうしてそう、昔から忍耐力がないんだ」
「……申し訳ございません」
厳しく叱責する父王の前で、セフィラはただ頭を下げることしかできない。周りの誰も助けてはくれず、兄王子でさえ庇ってくれず……黙って耐え忍ぶしかなかった。
昔からこうだ。一生懸命、第二王子として精進しているのに、誰も認めてくれない。セフィラはそんなにも出来損ないの王族なのだろうか。
説教は長々と続いたが、父王は最後に衝撃的な言葉で話を引き結んだ。
「お前はもう野に下れ。バツイチのオメガなど、政略結婚の道具として価値がない」
「……分かり、ました。すぐに後宮を出て行きます」
言いたいことが何もないわけじゃない。けれど、今はもう……ただ疲れ果てていた。理不尽なことにあらがう気力もない。
国王の命令におとなしく従い、セフィラは謁見の間を後にした。
「セフィラ……大丈夫だったか」
廊下を歩いていると、追いかけてきたのは兄王子だ。気遣わしげな表情を浮かべている。父王との間に入ってくれないといっても、いつも心配して声はかけてくれるのだ。
「平気ですよ。……いつものことですから」
セフィラが力無く笑うと、兄王子は沈痛な面持ちをした。ぐっと拳を握る。
「……いつも、何もできずにすまない。だからせめて、これから生活費の援助をさせてくれないか」
「え?」
「セフィラのことが心配なんだ。いきなり、平民に混じって暮らすのは難しいだろうし……それに、これまでの償いをさせてほしい」
「兄上……」
そんなにも自分を責めているのか。兄王子は何も悪くないのに。
兄王子といえど、自由に使えるお金は多くない。セフィラのために使わせるのは忍びなく、また責任を感じさせていることが申し訳なかった。
「大丈夫ですよ、兄上。俺は自分一人でやっていけます」
正直にいうと、仕事の当てはない。けれど、幸いにも貯蓄はあるので、今すぐ生活に困ることはないはずだ。
そう伝えても、兄王子は引き下がらなかった。結局、兄王子に押し切られる形で、しばらく仕送りをもらうことになった。
心苦しいけれど、ありがたい。すぐに王都の街の集合住宅で暮らし始め、どうにか路頭に迷わずに済み、そして――思わぬ再会をした。
「あれ……セフィラ、か?」
「フレンシス……久しぶりだな」
街学校で、幼馴染であるフレンシスと鉢合わせたのだ。高等部を卒業後、教師の道に進んでいたフレンシスは今、母校で働いているらしかった。
「こっちに帰ってきていたんだな。元気にしていたか」
「うん……まぁ」
曖昧に笑う。まさか、離縁されて出戻ったとは言えなかった。挙げ句に父王から後宮を追い出されたなんて。
愛想笑いに気付いたのだろうか。フレンシスは心配そうな顔をした。
「何かあったのか?」
「別に。なんでもないよ」
「本当に?」
「……」
沈黙すると、フレンシスは訝しむ。
「やっぱり、何かあっただろ。話してみろよ。聞くから」
「だから、別に……」
「噓つけ。強がるところ、昔から変わらないな」
そっとため息をつきながら言われ、セフィラは少しむっとする。
「強がってなんかない」
この程度のこと、平気だ。理不尽に耐えるのには、もう慣れっこだ。
フレンシスに頼らなくても、俺は――。
「セフィラのことが心配なんだよ。お願いだから、話してほしい」
「……どうしてそんなに俺に構うんだよ」
昔からそう。何かあるたびに、しつこく声をかけてきて。
ずっと不思議だった。どうして、そうも他人に対して親切にできるんだろうと。
「好きだからだよ」
「え?」
「セフィラのことが、昔からずっと好きだった。だから、セフィラの力になりたいんだ」
セフィラは、息を呑んだ。それは思いもよらない告白だった。
王族として見識を広めるために街学校へ通っていた子供時代。フレンシスとはずっと同じクラスだったけれど、全く気付かなかった。だって、フレンシスとは友人だったから。
「……分かった。少し長くなるけど、いい?」
素直に折れると、フレンシスはぱっと顔を明るくした。もちろん、と頷く。
「実は――」
これまでの事情を話した。包み隠さず。
最後まで話し終えると、フレンシスは呆然としていた。気付けなくてごめん、と泣きそうな顔で謝られた。
「あの時、もっときちんと伝えていたらよかった。あの男、ろくな奴じゃないって。そうしていたら、ここまで酷い目には……本当にごめん」
沈黙が流れる。なんと返したらいいか、分からなかった。告白にも驚いたけれど、エグバートの本性を見抜いていたなんて。
「……フレンシスのせいじゃない。俺もあの時、もっと耳を貸せばよかった。ごめん、あの時は冷たいことを言って」
――俺のことなんて放っておけよ。
咄嗟に突き放す態度をとってしまった。心配してくれていたのに、拒絶してしまった。
だから、これは自業自得だ。
「話を聞いてくれてありがとう。その……気持ちだけ受け取っておくよ。さっきの告白」
エグバートのことはもう忘れるつもりだけれど。まだ新しい恋をする気分にはなれない。いつまでも、フレンシスの好意に甘えるわけにはいかない。
だから。
「そろそろ帰る。これからも頑張れよ、教師の仕事」
「待て、セフィラ」
後ろから呼び止められた。振り向くと、真剣な顔をしたフレンシスがいた。
「俺と再婚してくれないか」
「?」
突然、どうしたんだろう。
不思議に思って見つめ返すと、フレンシスはどことなく緊張した面持ちで続けた。
「セフィラのことを守りたい。俺が養うから結婚しよう」
「でも、それだとフレンシスが……」
「俺はセフィラが傍にいてくれたら、それで十分だから。だから、守らせてほしい。こんな状況になっているのは、俺にも責任がある」
「……もう少し、考える時間が欲しい」
ここでいきなりは決められない。大切なことだし、それに……怖い。たとえ、フレンシスと再婚して幸せになれたとしても、その先でまた裏切られてしまわないか。
フレンシスは……そういう人間ではないと思ってはいるけれど。
「分かった。じゃあ、答えが決まったら知らせてほしい」
「うん。それじゃあ、また」
一旦別れ、セフィラはその場を後にする。
一歩進んで、フレンシスを振り返る。手を振ってくれていたので振り返し、また前を向いて歩き出す。
『セフィラのことが、昔からずっと好きだった』
さっきから、胸のどきどきが止まらない。
ときめいてしまった。出戻ったばかりなのに。なんて薄情な男なんだろう。
「再婚……してもいいのかな、俺」
小さく呟きながら、セフィラは集合住宅に戻った。
それから数日間、悩んだ。フレンシスと再婚してもいいのかどうか。
フレンシスのことは好きだし、人として信頼している。けれど、寂しいからという理由で振り回してしまっていいのだろうか。
「でも……」
セフィラは、寝台の上で膝を抱え、クッションを抱き締める。
このまま、独りで生きていくのは嫌だ。好きな人と結婚して幸せな家庭を築く、という夢を諦めたくない。
――求婚を受け入れよう。
そうだ。フレンシスとだったら、きっと幸せな家庭を築けるはず。
「え? 本当に結婚してくれるのか……?」
「うん」
一週間後、セフィラは再び街学校を訪れていた。フレンシスに自分の気持ちを伝えたところであり、フレンシスは驚きつつも嬉しそうな顔をしている。
なんだか……可愛い。
それは、エグバートと一緒にいる時には感じたことのない気持ちだった。エグバートはいつも素っ気なく、そして完全無欠な男性に見えていたから。
けれど、それは幻想だったのかもしれない。エグバートもまた、一人の人間だったのだろう。今はもう責める気持ちはない。
これからは、フレンシスと一緒に歩いていく。夫夫として支え合い、寄り添い合って生きていくのだ。
「これからよろしく、――フレンシス」