第3話
聖桜学園に転入して1週間が過ぎ、初めての休日が訪れた。
リズはアパートのワンルームで、簡素なベッドに座っていた。
銀色の髪は朝の光に輝き、整った顔立ちは相変わらず人形のよう。
彼女の手には、上官から渡された「普通の女の子生活マニュアル」が握られている。
ページは付箋だらけで、彼女の几帳面な字で「笑顔:口角3センチ上げ」「友達:親密な接触を伴う関係」といったメモが書き込まれている。
時計は午前9時を指す。リズは机の上のメモ帳を開き、1週間の学園生活を戦闘報告の形式で整理し始めていた。
「任務:普通の女の子として生活。進捗:70%。課題:感情の理解、笑顔の最適化」
彼女の論理回路は、戦場での効率性を求め続けていたが、学園生活は予測不能な出来事の連続だった。
ハルカの笑顔、ミオの鋭い視線、クラスメイトの笑い声――それらは、戦場の銃声や爆発音とは異なる、名前のないざわめきを彼女の胸に残していた。
突然、部屋のインターホンが鳴った。リズは即座に立ち上がり、ドアの覗き穴を確認する。戦場での習慣が抜けず、彼女は一瞬「敵襲か?」と身構えた。だが、モニターに映ったのは見慣れた顔――上官だった。
「上官確認。脅威レベル:ゼロ。接触許可」
リズはドアを開け、敬礼の姿勢を取る。
「リズ、報告準備完了。指示を待機」
ドアの向こうに立っていたのは、いつもと異なる姿の上官だった。戦場での黒いコートや軍服ではなく、ジーンズに白いTシャツ、革ジャンを羽織ったラフな格好。
肩まで伸びた黒髪はポニーテールにまとめられ、普段の鋭い雰囲気は少し柔らかくなっている。
彼女の手に握られたヘルメットが、バイクでの来訪を物語っていた。
「リズ、敬礼なんていいから。休日なんだからさ、リラックスしろよ」
上官――因幡リョウーーは、軽く笑い、部屋に上がり込む。リズは一瞬、首を傾げる。
「リラックス……戦術的意義不明。マニュアルに記載なし」
「はは、相変わらずだな、お前」
上官は部屋を見回し、殺風景な内装に苦笑する。机の上には教科書と戦闘用ナイフが整然と並び、壁にはマニュアルが貼られたまま。彼女はベッドにドサリと座り、鞄から数冊の本を取り出す。
「さて、リズ。1週間の学園生活、どうだった? 正直に報告しろ。任務の進捗、課題、全部な」
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リズはメモ帳を手に、背筋を伸ばして報告を始める。彼女の声は無感情だが、言葉は正確で淀みない。
「任務初日、聖桜学園に潜入。担任:山田美咲、友好度高。クラスメイト30名、敵意なし。接触対象1:ハルカ、接触対象2:ミオ。進捗:笑顔試行3回、成功率20%。課題:感情の理解、社交的行動の最適化」
上官は膝に肘をつき、興味深そうに聞く。
「ハルカとミオ? ほう、早速ターゲットを見つけたわけだ。どんな子たちだ?」
リズはメモをめくり、データを読み上げる。
「ハルカ:明るい、笑顔頻度高、スキンシップ多。戦術的脅威:ゼロ。ミオ:警戒心強、敵意微弱、ハルカへの依存度高。関係性:分析困難」
上官はニヤリと笑う。
「依存度高、ね。リズ、お前、百合の気配を察知してるんじゃないか?」
「百合?」
リズは首を傾げ、データベースを検索する。
「植物のユリを指すか? 戦術的意義不明」
「ははっ、違うよ! まぁ、そのうちわかるさ。で、具体的なエピソードは?」
リズは初日の自己紹介を思い出す。教務員室での「お菓子作り」発言、クラスでの「戦闘用レーション」回答。
ハルカの爆笑と、ミオの不機嫌な視線。彼女は淡々と報告する。
「自己紹介時、趣味として『お菓子作り』を宣言。データ不足のため、クッキーの質問に回答不能。クラス反応:笑い80%、好奇心15%、その他5%。ハルカの接触頻度:異常値。胸部にざわめき発生、原因不明」
上官は目を細め、興味深そうに頷く。
「ざわめき、ね。リズ、それ、感情の芽生えだよ。故障じゃない。で、他には?」
リズは授業中の出来事を続ける。
国語の朗読で「ロボットみたい」と笑われたこと、数学で戦術計算を応用して教師を驚かせたこと。
昼休みにハルカが弁当を分けようとしたが、リズがレーションしか持っていなかったこと。
「ハルカの弁当:視覚的魅力高、味覚データなし。ミオの反応:敵意10%上昇。戦術的誤算:食文化の理解不足」
上官は笑いを抑えきれず、膝を叩く。
「レーション! お前、ほんと最高だな! 女子高生が弁当の時間にレーションかよ! ハルカの反応はどうだった?」
「ハルカ:『面白い』と評価。笑顔頻度増加。接触:手を握る行動。体温37度、敵意なし。胸部ざわめき:強度上昇」
リズの報告に、上官は「ふむふむ」と頷き、メモを取るような仕草をする。
「いいね、リズ。ハルカって子、かなり影響力ありそうだな。ミオの敵意はどうだ?」
「ミオ:ハルカへの接近を警戒。視線鋭角化、敵対行動は未実行。分析:ハルカへの独占欲の可能性」
上官は笑顔を深め、からかうように言う。
「リズ、お前、恋の三角関係に巻き込まれてるぞ。面白いことになってきたな!」
「恋?」
リズはまた首を傾げる。
マニュアルに「恋:親密な感情、戦術的リスク高」とあるが、詳細は不明。彼女はメモに書き加える。
「恋の定義:調査優先度高。ハルカ、ミオの関係性:継続観察」
リズは放課後の出来事も報告する。
ハルカに誘われて一緒に下校したこと、ミオが不機嫌に去ったこと。ハルカがアイドルの話をした際、リズが「戦術的意義なし」と答えたら「リズちゃん、ほんと真面目!」と笑われたこと。
「ハルカの笑顔:視覚的インパクト強。胸部ざわめき:継続発生。故障の可能性:低。感情的影響:調査継続」
上官は満足そうに頷き、背もたれに寄りかかる。
「よし、リズ。順調だ。感情のざわめきってのは、お前が人間らしくなってる証拠だ。戦争じゃ感じられなかったもんだろ?」
リズは一瞬、目を伏せる。
戦争の記憶――血と硝煙、仲間が倒れる音――がフラッシュバックする。
彼女はそれを抑え、淡々と答える。
「戦争:効率と生存が優先。ざわめき:戦術的意義なし。だが、ハルカの笑顔は……データベースに類似例なし」
上官の目が一瞬、優しくなる。彼女はリズの肩を軽く叩き、言う。
「リズ、お前はもう戦場にいない。ハルカやミオと過ごす時間、それが『普通』の始まりだ。焦らなくていい。少しずつ学べ」
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上官は鞄から取り出した3冊の本を机に置く。表紙はカラフルで、女子高生たちが笑い合うイラストが描かれている。
タイトルは『桜色の青春日記』『放課後の秘密基地』『星空のラブレター』。
「これ、女子高生の日常を描いた小説だ。やたらと『普通の女の子』の解像度が高いって評判の作品群だよ。恋愛、友情、ケンカ、部活――お前が知らない世界が詰まってる。後学のために読んどけ」
リズは本を手に取り、表紙をじっと見つめる。
「小説:フィクション形式のデータ。戦術的応用性:不明。読了の目的は?」
上官は笑いながら立ち上がる。
「目的? お前の心を動かすことさ。ハルカの笑顔でざわめいたみたいに、この本も何か感じさせてくれるはずだ。まぁ、戦術的意義は自分で探せよ」
リズは本の裏表紙を読み、「恋愛:ドキドキする展開!」という宣伝文句に眉をひそめる。
「ドキドキ……心拍数上昇を指すか? 戦闘時以外での意義不明」
「ははっ、リズ、読めばわかるって! とにかく、楽しめよ。楽しむってのも、普通の女の子の大事な任務だからな」
上官はウィンクし、ヘルメットを手に持つ。リズはウィンクを「戦術的信号」と誤解し、メモに書き込む。
「上官のウィンク:意図不明。調査継続」
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上官は部屋を出る前に、リズを振り返る。
「リズ、1週間でずいぶん変わったな。ハルカやミオと過ごす時間、ちゃんと大事にしろよ。次の報告、楽しみにしてるからな」
彼女はそう言い残し、颯爽とドアを閉める。リズは窓に駆け寄り、外を見る。
駐車場に停められた黒いバイクに上官が跨り、ヘルメットを被る。
エンジンの轟音が響き、彼女は夕陽の中を走り去った。リズはバイクの後ろ姿を見送り、内心で記録する。
「上官退出。移動速度:推定60km/h。戦術的意義:不明。感情的影響:微弱な安堵」
リズは机に戻り、小説を手に取る。『桜色の青春日記』の表紙には、制服姿の少女たちが手を繋いで笑っている。彼女はハルカの笑顔を思い出し、胸のざわめきを感じる。
「小説読了:任務として登録。目標:普通の女の子の理解。」
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リズはベッドに座り、小説の1ページ目をめくる。物語は、女子高生が友達とケーキを焼くシーンから始まる。
リズは「ケーキ:お菓子の一種。ハルカのクッキーと同等か?」と呟き、メモに書き込む。
彼女は読み進めるが、恋愛や友情の描写に戸惑う。
「登場人物の行動:非論理的。抱擁、笑顔、涙……戦術的意義なし。だが、胸部ざわめき:微増」
彼女は本を閉じ、窓の外を見る。夜の街は静かで、遠くの街灯が揺れている。
戦争の記憶が一瞬よぎる――血の匂い、仲間の叫び声――が、ハルカの笑顔や上官の言葉がそれを薄れさせる。リズは無意識に唇を動かし、ぎこちない笑顔を試みる。
「笑顔試行4:結果未確認。明日、鏡で検証。ハルカとの接触:継続予定」
部屋は静寂に包まれる。
リズの胸のざわめきは、ほんの少し、温かさを帯びていた。彼女は小説を手に再び開き、任務として読み始める。
聖桜学園での新たな戦場――普通の女の子の世界――が、彼女をゆっくりと変えつつあった。
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