海陵王と楊伯雄(上)
暴虐な帝王として知られる海陵王。彼がどのような人物だったのか、知られざる一面を『金史』より読み解いていこうと思います。
今回は『金史』巻百五 列伝四十三の楊伯雄伝をそのまま訳したものです。
楊伯雄は皇統二年(1142)に進士となった。海陵王が中京留守のとき、楊丘行はその幕僚であった。楊伯雄が親の世話をするために帰郷する際挨拶に行くと、海陵王は一目見てその器量を認めた。
しばらく経って韓州軍事判官となった。あるとき盗賊二人が商人を装い、州の政庁まで来て「宿の主人に騙された」と訴え出た。実際には楊伯雄から金をゆすり取ろうと考えていた。楊伯雄はこれが詐欺だと見破り、捕えて尋問し、一味の者十数人を捕えたので、郡中の者が驚き敬服した。
その後、応奉翰林文字に昇進した。
このころ海陵王は執政の地位に在り、旧知の楊伯雄をたびたび屋敷に招いた。楊伯雄は「行きます。」と返答したが、実際には行かなかった。
後日、海陵王が不審に思い尋ねると、楊伯雄は「君子たるもの人からの礼は受けるべきですが、権力者に取り入るようなことはしたくありません。」と言った。これより益々海陵王から厚遇されるようになった。
海陵王が帝位を簒奪して数か月後、楊伯雄は右補闕に昇進し、その後、修起居注に改められた。
海陵王は政治に関する意見を強く求め、講論するたびに夜にまで至った。
あるとき海陵王が「人君が天下を治めるに、何を重視すべきか。」と尋ねると、楊伯雄は「静なることを重視すべきです。」と答えた。海陵王は納得してそれ以上何も言わなかった。
翌日、海陵王が尋ねた。
「私は諸部や猛安を各地に移して駐屯させ国境を守らせている。昨夜の答えだと、これは静ではないことになるか。」
楊伯雄が答えた。
「兵を移して各地に駐屯させるのは、南北を相互連携させるためで、国家長久の策です。静とは民の暮らしを掻き乱さないことを言います。」
乙夜(10時頃)になって、海陵王が鬼神について尋ねると、楊伯雄は進み出て言った。
「漢の文帝は賈生を召して、夜半まで向かい合って話をしてましたが、民の事を尋ねずに鬼神の事ばかり尋ねて、後世大いに不評でした。陛下は臣を愚か者と見なさず、天下の大計を尋ねられました。臣はこれまで鬼神の事を学んだことはありません。」
海陵王は言った。
「そうであっても答えてほしい。永い間疑問で夜も寝付けない。」
楊伯雄は仕方なく言った。
「臣の家に一巻の書があり、人は死後も魂は生きると記されています。そこに記されている設問で『冥界の官人は何を以って罪を赦すのか』とあり、答えは『汝は暦を一冊用意し、日中の行いを夜中に記せ。書くべきでないことは行ってはならぬ』とのことでした。」
海陵王は居住まいを正した。
ある夏の日、海陵王が瑞雲楼に登って納涼し、楊伯雄に詩を詠むよう命じた。楊伯雄の作った詩の最後にはこうあった。
「六月にはこれほどの蒸し暑さが来るとは思わなかった。寒気も同様あらゆることは予測できない。」
海陵王は喜びながらこの詩を側近に見せると言った。
「楊伯雄は何かを言うとき朕を戒めることを忘れない。人臣とはこうあるべきだ。」
二度昇進して兵部員外郎となり、父の喪に服して、復帰すると翰林待制兼修起居注となった。直学士に昇進し、更に昇進して右諌議大夫兼著作郎となり、修起居注はもとのままとされた。