16 お名前
――こんなに焦ってパニックになった朝は、初めてかもしれない。
三日月は冷静になろうと、深呼吸を一回。ドキドキが止まらない心臓に手を当てると「もぉー!!」と心の中で叫ぶ。
が、本音では。
(今さら聞く勇気がないって思っていて。きっかけが欲しかったのです)
機会を作ってくれた二人には、ちょっぴり感謝している自分がいた。
(ホント、今でも信じられない)
彼とは何度も昼休みを過ごしているにも関わらず、こんなに大切なことを聞かずに一ヶ月以上もいたのだ。
今思えばとても失礼な話だなと恥ずかしい気持ちと、何も言わずいつも時を過ごしてくれた彼に対しての感謝、プラス! 只今絶賛猛省中! な、三日月である。
(でも今こうして、メル・ティルがチャンスを作ってくれたから)
「ぁ、えっと……ぅ」
結局、クヨクヨと考えて「言えない、聞けない!」と、いつまでも悩んでいる自分を本当にダメだな、と思う。
(この状況で……どう切り出せばいいの?!)
しばらくの間、彼と三日月はまるで時間が止まったかのように、向き合い立つ。その沈黙をサラリと風のように飛ばしてくれたのは、やはり彼の方であった。
「では、改めて」
いつもと変わらない綺麗な黒髪に、深海のような蒼色の瞳。
しかし、いつもとは違う表情と見惚れるようにしなやかな振る舞い。
彼はゆっくりと、優しい口調で話し始める。
「私の名は【アスカリエス=星守空】です」
丁寧な自己紹介を受けた三日月は、慌てて自身もご挨拶の姿勢を取り、答えた。
「も、申し遅れました。私は【セレネフォス=三日月】と申します。“つき”、とお呼びください。あの、あと、えーと。ずっと自分の名前をお伝えせずにいたこと、大変失礼いたしました」
挨拶を終え、最後に「どうかお許しください」と三日月は頭を下げる。
一般の民間人とはいえ、王国との関わりのある厳しい両親の元で育った三日月は、一応ひと通りのマナーを指導されている。しかしながら慣れない状況の緊張には勝てず、少しぎこちない感じでの挨拶になってしまった。
それを聞いた彼はその言葉に驚いたように一瞬目を丸くし「そんなことはない、どうか気にしないでほしい」と笑み、応えた。
「僕の方こそ申し訳なかった。そうか……三日月――とても素敵な名だ」
ふわりといつもの優しく柔らかな表情に戻った彼を見て、なぜか三日月はホッと安堵する。
「素敵ですか? えへへ、ありがとうございます。セルク様」
「――“ほし”、でいい」
「えっ?」
「君にそう呼んでもらえると、嬉しい」
どきっ。
(なんだろう。鼓動が)
「えぇっと……ほ、星、さま?」
頑張って呼んだ、彼の名。
緊張でカタコトな彼女の様子に吹き出すように、ふふっとセルクは笑う。それを見た三日月は少しだけ恥ずかしそうに、また困った顔でいると、彼はいつもの優しい口調で話を続ける。
「そんなに固くならなくてもいいよ。礼儀や形式的なのはもちろん大事だけど、僕にはいつも通りでいてほしい、ありのままが良いよ。ねっ? ――月」
きゅんっ!
(つ、月って呼んでくれた! しかもわたしとは違ってとてもスムーズに……)
その言葉を聞き、名前も呼んでもらえた彼女はやっと、緊張が解れる。それから一気に肩の力が抜け、気づけば笑ってしまっていた。
「えへへ。そうですね、ありがとうございます」
「いや、こちらこそ。よろしく」
ちょっと深めのお辞儀でお礼を言った三日月は、セルクの心遣いや優しさに心から感謝していた。 そして、やっと。その場には穏やかな空気が流れ始めている。
すると、可愛い声と可愛いお顔が二つ。ぴょこん! 二人の間に現れた。
「「ねぇーねぇー」」
終わったー? と、言わんばかりのメルルとティル。待ちくたびれちゃったよぉ~という表情で、セルクと三日月の顔をキョロキョロ交互に見ている。
「あぁ、ありがとうメルティ。君たちのおかげで無事に終わったよ」
「そうにゃ?!」「わぁ~い!!」
彼にお礼を言われとても喜ぶ双子ちゃんを見た三日月は少しだけ頬を桃色に染めながらも、感謝の気持ちでいっぱいだ。
「ホントに、ありがとう。メル、ティル……」
「「どういたましてなのだぁ!」」
(どう、いたまして……って。相変わらず、独特ですねぇ)
「うっふふ」
(わたし一人だったら、いつまでも聞けないままでいたかもしれないなぁ)
ほぇ~と安心というのも束の間。メル・ティルは彼女の脇腹をつんつんする。
「ふにゃッ、くすぐった……」
「「つっきぃー遅刻するにょ~??」」
ハッ!!
「ご、ごめーん! もうお弁当出来るよ、出来るから~」
大変だーと、いつも以上に急いでパタパタしていると、セルクの綺麗な声がスッと三日月の耳に触れる。
「月、そんなに急がなくても、まだ大丈夫だよ」
「星様……はい、ありがとうございます」
問題ないよ、とニコッ。
その優しい笑顔で、慌てていた彼女の心身は落ち着く。
それから、十分後。
「お待たせしましたぁ。行こっか」
「「みんなで仲良くいっくのらぁーんランラン♪」」
セルクと一緒に学校へ登校するのがよほど嬉しかったのか、いつも以上に大はしゃぎなメルルとティル。
部屋の戸締りをした三日月は、先を行く三人を見つめ、心の中で呟く。
(仮に、お名前を聞けていたとしても、こんなに風に良い雰囲気では終わらなかったかもしれない)
と、彼女は改めて双子ちゃんへ感謝の気持ちになりつつふと、そこで小さな疑問が生まれる。
「あ……そういえば」
なぜメルルとティルがセルクと『友達』だったのだろうか、と。
とても親しそうにする三人。
しかも二人のことをセルクは――“メルティ”と呼ぶ。
幼い頃から双子ちゃんと過ごしてきたはずの三日月が、初めて聞いた呼び名。
(わたしの知らないところで、いつの間にか学園内で知り合っていたのかな)
三日月と生まれた時からずっと一緒な二人。
キラリの森では“メル・ティル”と呼ばれていた。
そのため、その呼び名は一度も聞いたことがないのだ。
「つっきぃーどしたのら?」
「つっきぃー早く早く~♪」
「あっ! ごめーん、今行くよぉ」
(まぁ、いっか)
「大丈夫かな? 月」
「んあ、ハイ。すみません」
いつもと違う、朝。
(うん、気にしない気にしない!)
彼女の人生の中で一番? 焦ったであろう慌ただしい朝は、こうして無事に過ぎてようとしていた。




